9 夜半にて。
微睡みから目覚めると、深夜になっています。
他の――いわゆるルームメイトたちからは静かな寝息が聞こえます。あ、夕飯食べ逃した……。
室内シャワーを浴びるのは気が憚れ、顔だけ洗うと貴重品の入ったポシェットを手にそっと部屋から抜け出ます。
……海風が髪を弄びました。
あてもなくフラフラ歩くと、屋外プールにたどり着きます。
めありぃ号の目玉の一つです。わたしは泳ぎませんが。
パンフレットだとライトアップされ美しい水面のはずですがこの時間には消灯されていました。さすがに人気もなく、気ままに歩けます。
空を仰げばたくさんの星が見えます。わたしには星座は分かりません。分からないことだらけです。ただ、人の殺し方しか知りません。
先生、先生。
わたしに生きる術を――この、光の当たった世界を不自然なく歩く術を教えてくれた人。
たしかに彼はクズで、非道で、人使いが荒くて、ケチで、外道で、人でなしだとしても、わたしを殺人マシーンから人間にしてくれた唯一のひとなのです。
だから彼を今、不幸の淵に立たせた者を許せません。復讐など大層なものではなく、ただ不幸にした償いを犯人に味あわせたいのです。
そのためには早く先生を見つけるか、犯人を見つけるか。
わたしは頭が良くありませんから推理なんてできませんけれど。
先生のような性格ならば天野さんと泉原さんを最大限活用しようとしたのかもしれません。だけど、あの二人はわたしには利用する以前に手に余るのです。戸惑っているとも言います。
縁を繋げ、と先生はよくお話していました。利害関係でもいいから自分に得となる人脈を作れと。きっとそういうことがわたしには向いていないのでしょう。
だから二人の好意を無碍にし続けてしまう。「普通」として生きるにはわたしはあまりにも欠けた人間です。
強い風が吹きわたしは俯いていた顔を上げます。遠くの方に明かりが見えました。街の灯か漁船かは分かりません。
明日の朝、この船は港に着きます。
その時に犯人は降りてしまうのでしょうか。
先生を殺したと思い込んだまま。それは幸いなのか、不幸なのか…。
どちらにしろ、わたしの気分は晴れないでしょう。
物思いに沈んでいると、ふと、波の音に混じり話し声がします。
…こんな時間に?
関わり合いになるのも嫌なので立ち去ろうとします。どうせろくな会話でもないでしょうから。
「……苺のなかに……」
わずかに拾った会話の断片に、わたしは足を止めます。
迷う時間はありませんでした。靴を脱ぎ、足音を消してそちらへと向かいます。
「――データが入っていたが、あの男が持っていったんだ」
「既に聞いている。回収は?」
「死体からは何も出なかった」
「役立たずめ。それに死体を燃やしたのは何故だ? あんな派手なことをする必要はあったか」
「何? あんたでもないのか?」
「ちっ…。他に狙ってる連中の仕業だな。どちらにしろ早くしないと奪われる」
「クソ…どうする」
「もう一度男の死体を漁ってみろ…それか一緒にいた女が持っている可能性もある」
わたしは。
……わたしは、息を整える。
この一時は探偵助手ではなく、暗殺者に戻ろう。
わたしがいることに微塵も気づかないまま、密談は終わる。
「頼むぞ」
ひとりが去った。僅かに灯りはあるとはいえ、薄暗くシルエットしか見れない。
中肉中背。特徴がなさすぎる。
残ったひとりは深々と息を吐いた。気が緩んで、油断をしている。
相手がひとりならやりようはいくらでもあるというものだ。
わたしは靴を履き直し、わざと音を立てながら姿を現わす。
相手は驚いたようだ。
その顔にわたしは見覚えがあるようにも思えたし、ないようにもおもえた。
ほとんど下を向いていたので、まともに人の顔を見ていない弊害だ。
昔からだ。どうせ殺した人間の顔など、減っていく仲間の顔など覚えても仕方がないと諦めたせいだ。身体にしみこんでしまったその諦観は未だわたしを縛り続ける。恐らくもう直ることはないだろう。
「お、おまえっ…! あの男の……」
相手はわたしが誰だか気づいたようだ。ああ良かった。説明の手間が省けた。
そうだ、畏怖しろ。
悲しみはいずれ癒えるが、恐怖は忘れない。
意識的に足に力を込め、ステップを踏むように距離を詰める。反応できていないところから、わたしの『同業者』ではなさそうだ。
胸ぐらを掴み床に叩きつける。
「ぐぇ」
息が抜けただろう。みぞおちを膝で、首を片手で押さえる。
だいぶ苦しいはず。
「女とは、こんな顔をしていたか?」
「あっ…が…」
「苺がどうとかいったな? それがあの男を狙った理由か。言え」
「で、データを苺に入れていた」
案外あっさり吐いたな。なにか手を残しているようだ。
「それを手に入れられたから、殺そうとしたと?」
「違う、気絶させようとしただけだ! でも当たりどころが悪くて死んで……」
先生が生きていると知っているから幾分冷静でいられるが、仮に先生が亡くなっていた場合、気絶させようとして殺害されたなど聞いたら我を忘れていたはずだ。
わたしは指先に力をこめる。こいつの死体が出たなら先生は安心してくれるだろうか。
「許してください! 殺す意図はなくて…」
「黙れ。耳障りだ」
殺せない。先生が良いと言わないと、殺すことはできない。ずっと前に交わした約束だ。
普通の人間のふりをしなければならない。普通の人間は人を殺さない。こんな事をしない。
くらくらと衝動が頭の中心を痺れさす。
溢れ出る殺意をどこに流せばいい?
「……」
わたしは身体を離した。
こいつはしばらく泳がせればいい。
わたしを邪魔に思うなら、仲間なりを連れてくるはず。聞く相手は多い方が情報は多くなる。
天野さんにこの情報を投げてもいいだろう。探偵らしいことをしている彼ならば。
殺したくて仕方ない気持ちを噛み殺し、わたしは相手を睨みつける。
この暗い中でも分かったのか、短い悲鳴が聞こえた。
わたしは背を向ける。さっき相手の身体をまさぐったが飛び道具は持っていなかった。もし近距離で襲撃してきても幸いプールがある。手軽に水責めができる。
伺うも、気配は動かないのでわたしは屋外をあとにした。
――ラウンジにつくと、わたしは手近なソファに身を沈める。
夜間の来訪者を想定しているのか、あたりは明るい。
ドリンクバーの稼働する音のみが空間に満ちていた。
わたしはゆっくりと呼吸する。高ぶっていた精神が鎮まる。
…さて、相手はどう動くでしょうか。
しばらく待ちましたが、追っ手は来ませんでした。それならそれでいいのです。
客室までつけられたら七面倒だからここで時間を潰していただけで。ルームメイトに迷惑かけられませんし。
いずれ知られるかもしませんが、その時までに対策を練ることはできるでしょう。
無人の空間でわたしは肩の力を抜きます。
今日はいろんな出来事と、人と話を多くしたのでもう疲れました。そう言えば夕飯も食べてませんし当然ですね…。
とっても疲れた夜、先生は夜食を食べていました。「疲れた時は食うんだよ」とかなんとか。
私もそれに倣いましょう。確かカップラーメンを扱っている自動販売機があったはずです。貴重品は肌身離さず持ち歩いているのでお金の心配はありません。
さて自動販売機はどこでしょうか。立ち上がろうとした時、誰かが入ってきました。
ぎくりとわたしは身を強張らせます。
「あら、こんな夜更けにどうなされたの?」
――井草さんでした。
朝のようなかっちりした服装ではなく、少しばかりラフな格好。
色のついたレンズではない眼鏡で、やはりマスクは着けています。
「…散歩を」
言い訳としては苦しいかと思いましたが、井草さんは「そう」と頷いただけでした。
「ねえ、何か飲まない? 喉乾いてしまったのよね」
…この人、フレンドリーですね。
別に親しみやすい人柄でもわたしは構いません。
ですが、わたしは『被害者の身内』で、井草さんは『殺人事件を口止めした人』です。
仲の良い態度を取り合う関係ではないと思うのですが…。それはそれ、なのでしょうか?
わたしは簡単に切り替えができません。もやもやとした気持ちを抱えながら腰を浮かせます。
「結構」
「そう言わずに」
にこやかな笑みにひそむ圧に思わず飲まれ、わたしは再びソファに沈みます。
ひ、ひえー。あんまりかかわりたくないタイプの人だ。一対一になるとことさらに思います。
こういう有無を言わさないタイプとか特に……。
「ココアはお好き?」
わたしは縦に首を振ります。甘いものなら大体いけるので。
紙コップをわたしの目前に起き、井草さんは横に座りました。
横に。
横に!?
ほっ、ほげぇーっ! 近い! 近すぎる! 先生助けて!!
対面じゃなくて、横!? なんで!?
「ここは船とはいえ、女の子が夜中に出歩くのは危ないわよ?」
「ええ」
居た堪れずココアを飲み干そうにもアッツアツなので唇をつけるだけでも苦労します。わたしは猫舌です。
「あの方は、お父様なの?」
えっ。自分から殺人事件につながるような話題を出していくんですかこの人。
とんだチャレンジャー精神ですよ。
「いや…」
二度三度、先生と親子偽装したこともありましたが。
依頼そのものより親子ごっこする方が疲れた覚えがあります。実の親との関わりが皆無なので、なおさら。
何かの時に先生に家族の有無を聞いたことがあります。いない、とのことでした。
特に子供という己の遺伝子を半分継いでる人間の存在に耐え切れないと呟いていたのを思い出します。先生に子供がいたらどんな人に育っているのだろう…。
あ、緊張のあまり余計なことまで考えていました。
「近しい関係だ」
「そうなのね。ご職業は?」
なんでそんなに死んだ人間のことをその身内に聞きたがるんですかね…。
明らかに好奇心が浮かんでいるので、興味本位なのでしょう。悪趣味です。すっごい不愉快。
「…探偵」
井草さんはなぜか目を丸くします。
「探偵! では、あなたは助手とかされているの? それともワトスン役?」
思った以上に食いついて来てちょっと引いてしまいます。
ちょっと夢見すぎでは?と思いつつ、わたしはゆるりと首を横に振りました。
「手伝い」
探偵助手を名乗るにはいろんなものが欠けていますし。
現に何も解決できてませんし。
お手伝いぐらいがちょうどいいと思います。
「それでも、いいわね。ロマンよ」
ロマンかなぁ。
ロマンではないですけど。
「探偵が事件を解決しているところに立ち会うのが夢なの」
わあ、それはそれは…。
ではまさに一人死んだこの状況、さぞかし楽しそうですね。わたしはまったく楽しくありませんでしたが。
実際目の当たりにしたらどんな顔をするのでしょう。報告しか聞いていないでしょ、あなた。
それに、今ししぶしぶと一緒に行動している天野さんは探偵というより…なんでしょうねあれは。なんなんだろう。ほんとに。
ともあれ人とこうしているのは限界です。胃がキリキリしています。
「もう行く」
ココアを頑張って飲み干し、立ち上がると女性は引き止めはせずなにかを差し出してきました。
苺の飴です。
「いろんな種類が入っているものを買うと必ず入ってるのよねえ。私も妹も食べないから、貰って?」
嫌です。
とはいえ、今後付き合いがあるかもしれないので心証を一時のテンションで悪くするわけにはいきません。
こちらの心証は最悪ですが。
食べずに捨てればいいのです。わたしは受け取りました。苺が苦手な人なのでしょうか。
「では、おやすみなさいお嬢さん」
「…おやすみなさい」
わたしはそそくさとその場を後にしました。
こんなに、こんなに疲れる夜は久しぶりです。
命の危機こそ感じてはいませんが……。
先生を見つけたら、いっぱい愚痴を言ってやります。プリンとかも買わせちゃいます。悪い子になるのです。
覚悟していてください、先生!