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すれちがいキャンディ・アップル(3)


 *



「キョコちゃんっ!」


 舌っ足らずで、でも切実な声が水面を打つようにぴしり、とあたしの意識の表層を叩いた。


 溺れていた思考を引き上げるように、あたしは顔を上げる。


「……ハル」


 いつの間にか周囲の人波は引いていて、あたしは薄暗い境内に足を踏み入れていた。そして目の前にはハルが立っている。薄桃色の浴衣に身を包んだその姿は華やかな蝶みたいだ。


 力なくあたしが呼びかけると、ハルはひらひらと歩み寄ってきた。


 けれど、いざハルを前にするとあたしは何も言えなくなってしまった。あたしの知っているハルはもうどこにもいないんだってことを突きつけられているみたいで、言うべき言葉が見つからない。


 所在なく落とした視線はうろうろと彷徨って、そしてハルの左手に握られたものを見つける。


 その瞬間、あたしは「あっ」と声を上げていた。ほぼ同じタイミングでハルもあたしの手元を指さして声を上げる。


 ハルの左手には、りんご飴が握られていた。艶々の甘い果実。昔からあたしが花火大会で必ず買っていたもの。


 そしてハルの指さす先――あたしの右手にはあんず飴。毎年あたしがりんご飴の魅力をいくら説いても頑として受け入れなかった、ハルの好物。


 あたしもハルも、ぽかんと口を開けたバカみたいな顔でお互いの手元を見つめた。その意味を噛みしめるように、じっと。


 やがて、堪えきれなくなったみたいに、どちらからともなく笑い出す。最初は口の中で、そして相手も笑っていることに気づいてからは声を上げて、笑う。


 二人とも、相手の好物を買っていたなんて。それも、お互い一人で花火大会にきてまで。そう思うとおかしくってしょうがなかった。あたしもハルも、ホント何やってるんだろう。


 ひとしきり笑った後、ハルは可愛らしく小首を傾げた。


「キョコちゃん、花火大会にはこないって言ってたのに。あと、浴衣も買ってない、って」


 あたしは過去の自分が咄嗟についた嘘にあたふたとする。


「あー、えーっと、そのぅ」


「? どうしたの?」


 笑ったことで口が緩んだのか、あたしはぽろりと零していた。


「嘘、なんだよね。あれ」


「え?」


 きょとんとするハル。けれど、一度堰を切ったあたしの口は止まらなかった。


「浴衣買ってないとか、お金かかるとか、全部嘘で、ホントはハルと一緒に行くのが気まずくて……それで、嘘ついてた。ハルが、変わっちゃったみたいで――中学に入ってから、可愛くなって、あたしの知ってるハルとは全然、別の子になっちゃったみたいで……だから、だからっ……あたし、ハルのこと避けるみたいにしてて……」


「キョコちゃん……」


 言ってしまった。あたしはハルがどんな顔をしているか怖くて見れなくて、俯いていた。


 きっと幻滅されてる。怒ってるかもしれない。嘘ついてたこと。バカみたいな理由で避けていたこと。全部ぜんぶ、責められても仕方ない。


「……キョコちゃんは、わたしのこと、嫌いになっちゃったの?」


 ぷつぷつと途切れがちの声が、あたしの耳朶を打った。視界の隅でハルのピンク色の唇がふるり、と震えるのが見える。


 あたしはすぐには言葉が出なくて、何度も首を横に振った。めちゃくちゃに髪を振り乱して、それでも必死に振り続けた。


 違う。違うんだよ、ハル。嫌いなんかじゃない。逆だ。好きで――大好きだったから、だから、あたしは――


「あたし、怖かったんだ……ハルが変わっていって、あたしはそんなハルに置いて行かれてるみたいで……」


 口に出してしまえば、なんて小さな醜い心だろう。


 置いて行かれたくない、なんて勝手なわがままだ。変わってほしくないだなんてただの押しつけだ。


 あたしは、いつからこんなひどい人間になってしまったんだろう。


 ねえ、ハル。あたしが嫌いなのはハルじゃないよ。あたしが嫌いなのは、大好きだったハルの変化を受け入れることができなかった、弱いあたし自身だ。


 ごめん、ハル。


「――ごめんね、キョコちゃん」


 ――まるで、あたしの心を映したかのように、ハルはそう言った。


 俯いていた顔を、恐る恐る持ち上げる。


 ハルは、笑っていた。背負っていたものを下ろしたように、力の抜けた顔で。


 どうして? なんでハルが謝るの? 悪いのはあたしなのに。


 口には出せなかったあたしの問いに答えるように、ハルは言う。


「キョコちゃんにはわたしが昔のわたしとは変わってしまったみたいに見えていたんだね……。どこへ行くにも、何をするにもキョコちゃんに手を引いてもらわないとダメだったわたしが、キョコちゃんから離れていくみたいに見えていたんだね」


 ごめんね、と形のいい小さな唇が再びそう動く。


「――な、なんで。なんでハルが謝るの……? ハルは悪くない。あたしが、あたしが勝手にそう思っていただけで……だから、謝るのはあたしの方で……」


 言いたいことも定まらないまま、あたしはそれでも言い返していた。こんなあたしにハルが謝る理由なんてないのに。


 けれどハルはゆるゆるとかぶりを振った。


「ううん、キョコちゃん。わたしが、不器用だったから――下手くそだったから、キョコちゃんに誤解させてしまったの。だから、謝らせて」


「……? 何、どういうこと、ハル?」


 不器用? 下手くそ? いったい、ハルは何を言っているの?


 全然頭が追いつかなくて立ち尽くすあたしに、ハルはそっと体を寄せてくる。小さくて、折れてしまいそうなほどに細い、その体。仄かに鼻先をくすぐる、汗と飴の甘い匂い。


 そして、空っぽだったあたしの左手を包み込む柔らかな熱。小さくて華奢で、それでも力強くあたしの手を握るハルの右手。


 一度はこの手が放したその温もりに、ふいに鼻の奥がつんとする。


 ね、キョコちゃん。そう、隣で囁くようなハルの声が、優しくあたしの心を撫でた。


「わたしが変わろうと思ったのはね、キョコちゃんに近づきたかったから、なんだよ」


 どこか歌うような、囁くようなその声はすっとあたしの心に沁み込むようで。


「キョコちゃんは、いつもわたしのことを引っ張ってくれたよね。ちんちくりんで、すぐ人見知りしちゃうようなわたしのこと、キョコちゃんだけは見捨てないで、ずっと一緒にいてくれた。でもね、それだけじゃダメなんだ、って思ってたんだよ。引っ張ってもらうだけじゃ――後ろからついていくだけじゃ、わたしはダメなんだって」


 自分を責めるみたいなハルの言葉にあたしは首を振った。


「……そんな、ダメなんかじゃ――」


「ううん、ダメなの。キョコちゃんは優しいから、ダメなわたしでも見捨てないでくれる。でも、わたしはそれじゃダメだったの……」


 あたしの反論を遮るように、ハルは何度も「ダメ」だと口にした。繋がれた手にぎゅっと力が込もる。


「ハル……」


 その姿はかつての頼りないハルの姿と重なって、あたしの胸を揺さぶった。


 そうだ、どれだけ外見が変わったってハルはハルなんだ。


 だから、やっぱりあたしが――


 そう思いかけたあたしを、けれどハルは真っ直ぐ見据えた。


 見たことがないくらいに、真摯な眼差し。


 それを見てあたしはまたわからなくなってしまう。あたしの知っているハルだと思ったら知らない顔を覗かせる、この女の子のことが。


 戸惑って揺れるあたしの目の奥を覗き込むように、ハルは言葉を継ぐ。その声は聞きなれたハルの声なのに、その芯にはあたしの知らない力強さがあって。


「キョコちゃん。わたしね、キョコちゃんの隣にいられるようになりたかったの。中学に入ってから、もっと素敵になっていくキョコちゃんを見て、今までのままじゃダメだって。引っ張ってもらって、後ろを歩くんじゃなくて、隣に、並ぶためには。だから、変わりたいと思ったんだ。キョコちゃんの隣に相応しくなれるように、って」


 言い終えて、ハルはまたきゅっと手に力を込めた。


 あたしは噛みしめるように、ハルの言葉を反芻する。


 後ろじゃなくてあたしの隣に、って、そんなこと、考えてたんだ。相応しい、なんて、あたし、そんな大層な人間じゃないよ。全然素敵なんかじゃない。だって、ハルがそんなふうに思ってること、全然気づいてあげられなかった。あたしの方が、よっぽどダメダメだ。


 ハルがあたしのために頑張っていたのに、あたしはハルが変わっちゃったなんていじけて、目を逸らして。ハルの気持ちも知らずに勝手に遠ざけて。ホント、最低だ。


 こんなあたしに、今でもハルの手を握っている資格があるのかな? あたしは、ハルの隣に相応しいのかな?


 胸の内に芽生えたそれは、瞬く間にあたしの心に大きな根を張ってきゅうきゅうと締め上げてくる。


 苦しくて、痛くて、小さく喘いだ。


 キョコちゃん、と甘ったるい声でハルが呼ぶ。すぐ近くにいるはずなのに、透明なガラスを隔てたみたいに遠くくぐもって聞こえた。視界は曇りガラスに覆われたようにぼんやり滲む。


 あ、と気づいた時にはもう遅かった。


 ぱたり、と生温い雫がほっぺたを伝って地面に落ちた。堰を切ったみたいにぱたり、ぱたぱた、と零れ落ちるそれは、乾いた地面に汚いシミを作る。


 なんで泣いてるんだろう。こんな、カッコ悪い。ハルにこんなところ、見られるなんて……。


 ハルと繋がっていた手を振りほどいて、あたしは手の平でごしごしと顔を拭った。


 ハルの前で泣いたことなんて、なかった。だってあたしはいつも泣きべそをかいてるハルに手を差し伸べなきゃいけなかったから。だから――


 ふいに、涙でべちょべちょに霞む視界に何かが突き出された。


 ぱちぱちと何度も瞬きして目を凝らすと、それは真っ赤なりんご飴で。


 顔を上げると、ハルは歯を痛めたみたいな顔をして笑っていた。全然、可愛くない。


「ふっ」


 思わず、歯の隙間から笑いが漏れた


「なんて顔してんの、ハル」


「えっ、変、だった……? キョコちゃんみたいに、カッコ良く笑ったつもり、だったんだけど……」


 予想外の答えにあたしは一瞬固まって、それからぶはっと吹き出してしまった。


 そっか。ハルにとってあたしは、そんなふうに見えていたのか。


 泣いているハルに手を差し伸べるカッコいい奴。

 そんなあたしに近づきたいって、そう思ってくれていたんだ。


 そう思うと、なんだか無性にくすぐったくって、あたしはそれを誤魔化すように笑った。


「今のっ、あたしのマネ? 虫歯を我慢してる人の顔にしか見えなかったよっ」


「ええっ、キョコちゃんひどいっ」


 ほっぺたを膨らませて不満そうなハルの手からりんご飴を受け取りながら、あたしは逆の手で持っていたあんず飴を差し出した。


「くれるの?」


「うん。ハル、好きでしょ?」


 少し照れくさい気持ちでそう言うと、ハルはゆっくりと笑顔になった。飴が柔らかく溶けるような、そんな笑顔。


「うんっ、大好き」


 そう言って、ハルはもう一度あたしの左手を握る。


 少し汗ばんで、温かい、小さな手。


 そして今度こそあたしもしっかりと握り返した。

 もう二度と、この手を離さないように。ぎゅうっと。


「行こっ、キョコちゃん。花火始まっちゃう」


 ハルは握った手をぐいぐいと引っ張っていく。それは昔のハルとは真逆なようで。


 でも、それでいいんだ。


 昔のハルはもういないかもしれない。

 これから先も、ハルはあたしの知らない顔を見せることがあるのかもしれない。


 でも、あたしがハルと一緒に過ごした思い出はきっと変わらない。


 ハルを好きな気持ちはなくならない。


 だからきっと、この気持ちがあれば大丈夫なんだ。

 見た目が変わっても、関係が変わっても、あたしたちは一緒にいられる。


 ねぇ、ハル。ハルの気持ちはどう? あたし、鈍いから言葉にしてくれないと不安だよ。だからねぇ、ハル。


「ハルは、あたしのこと好き?」


 こんなこと訊くのは女々しいかな。でも、知りたいんだ。

 振り返ったハルは一瞬驚いたように大きな瞳を瞬かせる。


 けれど、すぐにその双眸を緩めて、口許には悪戯っぽい微笑み。卑怯にも思えるくらい可愛いその表情に、あたしはくらりとする。


「……さっきの『大好き』は何に対してだと思ったの?」


 囁くようにそう言って、ハルは艶々のあんず飴に唇を添えた。


 瞬間、あたしのほっぺたは発熱する。うわぁ。うわぁあああ。


 そんなあたしを見て、ハルはくすり、と笑うとその小さな体を寄せてきた。


 肩と肩がくっつく。その距離は、ハルの手を引っ張って歩いていた頃には知らなかったもので。


 ううん、違う。あの頃もそんな瞬間はあったんだ。並んで花火を見上げた夜の底。その一瞬だけは、あたしたちは隣にいた。


 でも、これからは。


「ハル、ずっと隣にいてね」


 うん、と小さく頷くハルの声は夜空に響く花火の音で聞こえなかった。


 けれど、盗み見たハルの横顔。


 そのほっぺたはあたしの大好きなりんご飴と同じ色をしていた。







 ‟Green apple turn red‟


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