06
次の講義の場所へと移動している時のことだった。隣を歩く美智が、不意に足を止めたのだ。
「美智?」
不思議に思い、美智の方を振り返りながら名を呼ぶも、彼からの返事はなく、加えて、俺の方すら見ていない。なにかあったのだろうかと数歩戻って、美智の顔を覗き込む。
「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
「あいつ……」
「え?」
険しい顔で美智が見つめる方向に目を向ければ、友人と、肩を並べて歩くセイの姿があった。
「美智、知り合いだったのか?」
「知り合いも何も、あいつだよ、藤咲だ。しかも、一緒に居る眼鏡はあの、食堂の時のむかつくやつだ」
食堂の時の、が一瞬ピンと来なかったが、すぐに、美智がキレかかった時のことだと思い出した。興味のないことは記憶に残らない性質なため、思い出すのに時間がかかってしまったけれど、では、「藤咲」とは、一体誰の事だっただろうか。そういえば、セイの名字を聞いてはいなかったが、もしや「藤咲成」が彼のフルネームなのだろうか。
「なんかピンと来ない顔してるけど、もしかして忘れたの? 藤咲だよ藤咲。あの、人の彼女を寝取る、ろくでもない男のこと」
「……!」
頭の中で、美智の口から何度か聞かされていた「藤咲」と「セイ」が結びつこうとしている。しかしその事実を俺は、上手く飲み込むことができなかった。あのセイが、人の彼女を寝取った? 確かに、顔はちょっといないくらい整ってはいるけれど、そんな人間には思えなかった。けれど、たった数回会っただけの俺が、彼の何を知っているのだと尋ねられれば、話せることなど、ごくわずか。実はそうなのだと言われても、俺には否定も、肯定すらもできなかった。
「……あ、桃慈」
美智の方を向いたまま立ち尽くしていると、前方から声を掛けられる。顔を向ければ、わずかに目を見開き、こちらを見るセイの姿。まるで、初めて学内で会ったあの時のようだ、なんて。軽い現実逃避をしていると、俺を見とめたセイの隣を歩く眼鏡の男が、言葉を発した。
「桃慈ってまさか、あの加賀見桃慈? うっそ、セイ、知り合いだったの?」
「お前こそ、知り合いだったのか?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ、加賀見だよ、加賀見。あの、魔性の男!」
「魔性……あぁ……って、あの?」
「もしかしてセイ、まさかあいつに唆されたなんてこと、ないよね?」
信じられないとでも言うような目でこちらを見るセイに、俺はどんな顔をすればよいのか、わからなかった。噂は噂に過ぎないけれど、元となった事実はある。それに、俺はセイに、自分がゲイだと伝えていない。それはセイにとって、裏切りに値するのだろうか。
「ちょっと何言ってるの? それはこっちの台詞だよ。ねぇ桃慈、どうしてあいつがおまえのことを知ってるの? 俺、言ったよね? あいつには近づくなって」
「……知らなかったんだ。名前しか、聞かなかったし。でも、セイは別に悪、」
「悪くないって言える? 実際何人も被害に遭ってるんだよ? 外面がいいだけかもしれないじゃない。俺は、桃慈が騙されて傷つくところなんて見たくないよ」
「美智……」
「それなら丁度いいや。セイ、聞いたでしょ? セイのことを悪く言うようなオトモダチと、仲良くしてるようなやつなんかには、絶対近づかない方がいい。どんなでっかい猫被ってるか、わからないしね」
「どうして俺がお前の言うことを聞かなきゃいけな、」
「行こう、桃慈。早く行かないと講義に遅れちゃう。話はあとだ」
「ちょっと、おい、美智」
俺たちに話をさせたくなかったのか、講義までは充分時間があったはずなのに、美智は俺の手を引いて、早足でその場をあとにした。一度だけ振り向けば、酷く困惑した表情を浮かべるセイと、目が合った。そこで何か声をかけていれば、美智の手を振り払っていれば、何かが変わっていたのかもしれない。けれど、その時俺は、静かに悟ったのだ。きっともう、これでおしまいなのだと。