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「この前、マキの友達が彼氏と別れたって話したでしょ?」
席に付き、講義が始まるのを待っていると、そういえば、と、隣に座る幼馴染の美智が話しかけてきた。美智は、女のような名前だけれど百八十センチを超える高身長の立派な男だ。マキというのはこいつの彼女で、ちょっと天然ではあるが、彼女よりも俺との約束を優先してしまいがちな美智のことも、笑って許してくれる懐の広い女の子だ。俺自身、女性に対して苦手意識があるのだが、そんな俺でもマキちゃんは比較的、話しやすかった。
「そんな話してたか?」
「したじゃん! あの、すっごい顔はいいけど彼氏らしいことは何ひとつしてくれなくて、っていう話」
「あぁ……聞いたような、聞いてないような」
「まあいいよ、覚えてなくても。それでさ、その男が酷い男でね、今度は俺の友達の友達の彼女を寝取ったらしいんだよ」
「へぇ」
「はは、わかりやすく興味なさそうな顔してる。桃慈はそういうの、あんまり気にならないんだもんね」
「誰が誰とを好きだとか、付き合ってるとか、別れたとか、どうでもいいだろう。そんなの」
「まぁね。でも、これだけ悪い噂が流れてるんだし、そいつには気を付けた方がいいよ。きっとろくな男じゃないって。工学部らしいから、あんまり会うことはないと思うけど……確か、藤咲って名前だったかな」
「ふーん」
あげられた名前には、全くと言っていいほど心当たりはなかったけれど、恐らく、今までもこれからも、その藤咲とやらと会うことはないだろう。話によれば、顔はとびきりいいけれど、彼女を蔑ろにしたあげく、今度は人の彼女を寝取るような真似をする男だ。まるで、昼ドラの登場人物のようじゃないか。俺とは住む世界が違う。しかし、それを言ったらこの幼馴染だって、おとぎ話の王子様かという見た目をしてはいるのだが、それとこれとは話が別だ。美智とは完全に腐れ縁だし、その縁がなければ恐らく、友達にだってなっていないだろう。
まだなにか言いたそうな美智は放って置いて、ノートや教科書を開き、講義の準備をする。美智だけに限ったことではないけれど、なぜそんなにも人は、他人の惚れた腫れたの与太話が好きなのだろうか。俺にはさっぱり、わからなかった。
◆ ◇ ◆
今日のスウィーツは、小さなカフェの自家製チーズケーキ。四種類のチーズを使用しているこの店のチーズケーキは、素朴だけれど深い味わいをしていて、日替わりメニューとしてさまざまなバリエーションで提供されている。本日のメニューは、オレンジのベイクドチーズケーキだ。見た目も味もシンプルだけれど、素材の味をしっかりと味わうことができる。ほどよい甘さにオレンジの爽やかさが利いていて、何個でも食べれてしまいそうだ。
いつものように至福のひとときを味わっていると、近くの席に座るカップルの話し声が耳に入ってきた。平日ということもあり店内がやや空いているためか、大きな声で話す女性の声はよく目立っていた。
「やっぱりあたし、あっちの店がよかったなぁ」
「あの店も行ったことはあるが、俺はここの店のチーズケーキの方がおすすめだ」
「確かにおいしいけど、ちょっと地味であんまりインスタ映えしないし」
「写真を撮るために店に来たわけじゃないだろ? それに、この見た目だって充分綺麗じゃないか」
「綺麗だけど、派手さが足りないっていうか……セイだってそう思うでしょ?」
「はぁ……おまえは文句しか言えないのか? 折角のケーキが不味くなるから、とりあえず黙っていてくれ」
何やら不穏な雰囲気を醸し出している様子だが、セイと呼ばれた彼氏の方とは、なんだか気が合いそうな気がした。最近巷では「インスタ映え」がどうのと取り沙汰されているが、俺からしてみれば、見た目で話題性を勝ち取ろうとしているスウィーツなど、邪道にもほどがある。中には、食べるのがもったいないほど芸術的に盛り付けられているスウィーツや、そのボリュームに驚かされるようなもの、カラフルで奇抜なものなどもあるけれども、見た目と味が釣り合っていなければ、それはただの粘土細工と同じだ。食べ物である必要など、どこにもない。彼女の文句に対しバッサリと切り捨てた男には、称賛の拍手を送った。もちろん、心の中でだけだが。
すっかり静かになってしまったカップルのことは、意識の外へと追いやってしまい、俺は俺とスウィーツとの世界に入り込んだ。少しずつ減っていくチーズケーキに対し、徐々に寂しさが募るけれど、それ以上に得られる幸福感で、俺の胸はいっぱいだった。
胸の前で手を合わせ、小さく、ごちそうさまと告げてから、鞄を持ち、伝票を手に席を立った。レジへと向かう時、先ほどのカップルの横を通ると、不意に彼氏の方と目が合った。ちょっといないくらい整った顔。そして湧き上がった、既視感。どこかで会ったような気がしたけれど、これだという答えも見つからなかったので、気のせいだと視線を振り切り、レジへと進んだ。背後で俺を見つめる目は、完全に、俺の意識の外へと追いやられていた。