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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

錠剤に花束を

作者: 高下駄愚息

一、


「見て、高梨が学校来てる」

 好奇に満ちた声が、教室の外から飛んできた。

 同じ歳の男女が無差別に押し込まれている箱の中で、私は今日も平然と呼吸をする。それぞれ皆、制服の着こなしや髪色髪型、ちょっとしたアクセサリーや化粧なんかで個性を主張しているものの、大概が似たような姿形をしている。学校の生徒という括りに大人しく収まって、安全に平穏に日々を生きているのだ。

 しかし、例外もいる。それが高梨悠希だ。

「珍しいね」

 別段興味も無いふりをして言うと、周囲の女子生徒達が「本当だぁ」と彼女に視線を送った。

 白に近い金髪の隙間から、無数のピアスが耳に並んでいるのが見える。ワイシャツを第二ボタンまで開け、指定のリボンはどこにも見当たらず、制服のスカートではなくジャージのズボンを履いている。上履きは踵を踏み潰していて、スリッパのように変形していた。校則違反だらけで、逆に校則を守っている点を挙げて行った方が早そうだ。

 そんな風紀を乱すために生まれてきたようないで立ちの高梨は、高校二年生にして身長は推定百七十センチ。なおかつ切れ長の目にすっと通った鼻という、いわゆる美人に分類される容姿の持ち主のため、いとも容易く人々の注目を掻っ攫っていく。

 忌々しい気持ちで席につく高梨を見つめていると、その念に気づいたのか彼女が此方を見る。私は慌ててそっぽを向いた。

「でもさぁ、なんかカッコイイよね」「ねー、一匹狼って感じ」「生きてる世界違うっぽいよねぇ」

 友人たちが口々に高梨への印象をあげる。しまった、と思った。話を振らなければよかった。

「ね?」

 同意を求められたため、「そうだね」と笑顔を作って返す。カッコイイ? 冗談じゃない。胸の奥底からぐつぐつと湧き上がる嫌悪感を押し殺しつつ、自然な笑顔を貼り付けて「わかるー」と彼女たちの意見に同意し続けた。



 五限が終わり、ホームルームを迎えても高梨は未だ教室にいた。本当に珍しい、大抵は学校に来ないし、来ても昼頃には姿を消しているのに。まぁ、私には関係のないことだが。

 スクールカバンに教科書と筆箱を詰め込み、さぁ帰ろうと立ち上がると、友人の一人である綾が駆け寄ってきた。

「ごめん、晶。今日の掃除当番代わってもらえない?」

「え……、何で?」

「どうしても外せない用事があるの、いいよね?」

 こちらに決定権は無いとでも言いたげな口ぶりだ。どうせ彼氏だろうと心の中で文句を垂れ「わかった、いいよ」とにこやかに引き受ける。

「ほんとごめん、ありがとう。トイレ掃除だから、適当にやって帰っちゃっていいよ。よろしくね!」

「りょうかい、じゃあね」

 そんなこと言うなら、自分でやればいいのに。早歩きで教室を後にする綾のポニーテールを眺めていると、途中で麗香と美希と合流するのが見えた。確かに見えたが、私は悲しいとか虚しいとかそういう無駄な気持ちに蓋をしてトイレへ向かう。

 さっさと終わらせて帰ろう。宿題を片付けて、予習もして、母の機嫌を取らなければいけないのだから。

 女子トイレの前には体育の先生が仁王立ちしていたので、小走りで駆け寄る。廊下は熱気がこもっていて、ひどく蒸し暑い。

「こら、遅いぞー」

「すみません」

「一人はもう来てるから、終わったら職員室まで報告しに来て」

 さばさばした性格の女教師は忙しそうに指示をすると、ひらひらと手を振って背を向け、歩いていった。

 掃除当番はもう一人いるのか。重苦しい気持ちを抱えながら手洗い場の鏡の前に立つと、黒髪を肩のあたりで切りそろえている、化粧っ気のない無表情の女と目が合う。つまらなく、無個性だ。そして美人でも無いし、多分不細工というほどでもない。

 口角を上げる練習をし、「遅れてごめんね」と謝りながら、個室が陳列するトイレへ侵入した。

「別にいいよ」

 向かって一番奥の個室から、平坦な返事が聞こえる。続いて覗く、白っぽいショートヘアー。

「え」

「あぁ、あんたか」

 生白い手でモップを持った高梨が個室のドアを開けて登場し、私を見下ろした。最悪だ。

 左頬が引き攣るのが嫌という程わかったが、すぐに平静を装ってできるだけ明るく、朗らかに言う。

「高梨さんだったんだ、ちゃんと話すの初めてだよね?」

 微笑みかけるのも忘れない。そこから松田晶ですと名前を名乗り、今更だけどよろしくねと友好的にたたみ掛けようとする私を高梨の吹き出す声が遮った。

「松田さ、その下手くそな演技やめてよ」

「……うん?」

「あんたさ、私のこと嫌いだよね」

 箒の持ち手が掌から滑り落ち、タイルの上でカラカラと音を立てて跳ねた。

 どうしてバレているんだ、誰にも言っていないはずなのに。脳が凄まじい速さで動き始めるが、私の口からは否定の言葉も肯定の言葉も出てこず、ただにやけている高梨を見上げることしかできない。

「そんなことないよ」

「大丈夫大丈夫、わかってるから。あんな顔で見てくる奴、あんたぐらいだよ」

 必死に絞り出した言葉をけらけらと笑いながら一蹴されて、手にじっとりと嫌な汗がにじむ。私は一体どんな顔で高梨を見ていたんだろうか。

 言い訳を探していると、それを察したらしい彼女が「いいよ、私もあんたのこと嫌いだったから」と言いながら、大人しく横たわっていた箒を拾い上げて渡してくる。

「皆にいい顔してヘラヘラしてて、無理してる感だだ漏れで、なんて言うのかな。あー、そう、八方美人? つまんなそうだなって思ってたんだよね」

「は?」

「痛々しくて、生理的に無理」

 先ほどのまでの僅かな罪悪感が完全に沈黙し、代わりに確固たる怒りが湧き上がってきた。何なんだ、この女。初めて会話する相手の人格をここまで否定する人間が他にいるだろうか。

 私は薄ら笑いを引っ込め、極めて冷淡に言う。

「私はあなたみたいに図太くないもんでね。空気読むくらい普通にする」

 図星をつかれた悔しさと恥ずかしさが声に出ないよう、細心の注意を払った。しかし、私の言葉を聞いた高梨は面白いものを見た子供のようににんまりと笑う。

「この掃除も、空気読んだ結果押し付けられたんだ?」

「うるさい」

「やりたくないなら断ればいいのに」

 それが出来たら苦労しない。というか、人の触れられたくない部分に土足で上がり込んでさらには金品を物色するような真似はやめろ。

 デタラメに箒を振り回しながら無視を決め込むものの、高梨は御構い無しに続ける。

「お友達に便利使いされてるだけなんじゃない? いいの?」

「いいの、わかってるのそれくらい。友達とすら思われてないってこともわかってんの。好きでやってんだから、ほっといて」

 いいように使われてたって、孤立するよりマシだ。特技もこれといった個性もなく、周りについていくので精一杯な私が平穏に生きていくにはこのやり方が最適なのだ。

 誰もが高梨みたいな異端児のように、悠々と生きていけると思わないでほしい。

「なにそれ、めんどくさいね」

「高梨さんにはわからないよ」

「高梨でいいよ」

 汚物入れの黒い袋を回収し終えた高梨は、それらをごみ袋に突っ込みながら飄々と言う。よく見ると、ジャージの裾を捲り上げていてかなりダサい格好になっているが、スタイルの良さからか様になっている。気にくわない。

「っていうか、そういうの私に言っちゃっていいの」

「高梨にはもう取り繕う必要がないから、どうでもいい」

「なにそれ、あんた面白いね」

「うるさい」

 モップに体重をかけてとんでもなく猫背になったいる高梨が再びけらけらと笑い声をあげた。何も面白くない。

 一センチくらい開いている窓の隙間から、校庭を駆け回る運動部員の声援やバッドが硬球を打つ金属音が流れ込む。私はそれらを聞きながら、顔に熱が集まるのを感じた。



二、


 一面の青の中、白い雲がのろのろと流れていくのをぼうっと眺める。燃えるような日差しが全身に降り注ぎ、鉄板で焼かれる鯛焼きの気持ちがわかるような気になったが、ここはただの屋上で、そこに寝っ転がっている私はただの人だ。

 日焼け止めを塗らなかったことを後悔しながら腕時計に目をやると、あと五分程で昼休みが終わろうとしている。そろそろ起き上がろうと半身を起こした矢先に、背後から声が降ってきた。

「一昨日ぶり」

「げっ」

「今日も元気に愛想振りまいてる?」

 憎たらしい台詞を吐いた高梨が、私の隣に腰を下ろす。今日はスカートの下にジャージを履くというセンスの欠片も無いコーディネートだ。

「ひとり飯? 一人は嫌なんじゃなかったの?」

「ジュース買ったついでにちょっと寄っただけ。ご飯は教室で食べた」

 太ももに挟んでいたペットボトルを見せてやると、「ふぅん」とどうでも良さそうにジャージのポケットをまさぐり始めた。そして、小さな四角い箱を取り出して、その中から一本の白い棒状のものを抜き取り、薄い唇で咥える。

「ちょっと高梨、それ……」

「うん、吸う?」

 もう片方のポケットから出てきたオレンジ色のライターをカチッと鳴らして火をつける。じじ、と紙が燃える音がして、高梨は白い煙を気持ち良さそうに吐き出した。

 やっぱり、どこからどう見ても煙草だ。

「吸うわけないでしょ、バカ! っていうか、未成年だし、学校だし……」

「優等生はお堅いねぇ」

 焦る私とは対照的に、のんびりとした態度で紫煙を燻らせる。今誰かに見つかったらまずい、怒られる。いや、怒られるどころじゃない、停学だ。親にも連絡がいって、クラスでも居場所がなくなって……。

 むせ返るような暑さも忘れて絶望的な未来を想像していると、始業のチャイムが鳴り響いた。

「やば、授業!」

「今から行っても遅いでしょ」

「あー、もう……」

 力が抜けてしまい、死体みたいにタイルの上にひっつくとじんわりと熱い。初めて授業をサボってしまった。泣きたい気持ちなのに、私の隣で煙草をふかしている金髪は悠然としている。二十歳未満の喫煙は犯罪だという事を知らないのかもしれないと思わせる態度だった。

「大丈夫だよ、こっち側から鍵かけてあるから誰も入ってこないし、一回サボったぐらいじゃ何も言われない」

「そういう問題じゃなくてねぇ……」

「何? まさかビビってんの?」

「ビビってない」

 安い挑発に乗ってしまったと気づいた時には、高梨が厭らしい笑顔を浮かべていて、深い深いため息をついた。

「今は、何をしても誰も怒らないよ」

 小さい子を諭すような口調だったため、思わず素直に頷いてしまった。もう一度「吸う?」と聞かれ、思わず吸いさしを受け取る。

 こういうのを非行の始まりと言うんじゃないだろうか。見よう見まねで人差し指と中指で煙草を挟んで口元に持っていきゆっくり息を吸い込むと、胸がぎゅうっと苦しくなって咳き込んだ。絡みつくような気持ちの悪い苦味が口の中に広がる。

「うぇ、まっず!」

「まぁ美味しいもんじゃないね」

 高梨は短くなった煙草に唇を寄せ、「間接チュー」と言った。子供かコイツは。

「何でそんな不味いもの吸うわけ」

「さぁね」

「身体にも悪いし、意味わかんない。早死にするよ」

 百害あって一利なし、と保健の授業で先生が熱心に説明していたことを思い出した。真っ黒な肺の写真が黒板に張り出されて、「グロテスクなものを見せるな」と苛立ったのだ。

 不味いし臭いし、肺は黒くなるし、本当に授業の通りじゃないか。とてもまともな意見を提示したつもりだったのだが、高梨は

「うーん、だって別に、私の人生の目標は長生きじゃないからなぁ」

 と真面目くさった顔で呟いて、短くなったそれをタイルに押し付けて火を消した。

「何それ、屁理屈」

「松田は健康に長生きしたいわけ?」

「平穏に長く生きたいって思うのが、普通なんじゃないの」

「そっか。だからあんたはいっつも猫かぶってるわけだ」

「うるさい」

 波風立てないように、自分を隠して周りに合わせる。それが一番楽で安全だ。でも、とふと思う。私は一生そうやって生きていくのだろうか? この先、三年生になって、学校を卒業して、大学生になって社会人になってもずっと周囲の都合のいい存在であり続けるんだろうか。

 ぬるい風が、正反対な二色の髪を揺らす。

「見解の相違ってやつだね」

「じゃあ、高梨の人生の目標って何なの?」

「えー、考えたこともないな。そんなめんどくさいこと」

「何だよ」

「強いて言うなら、花火みたいに生きたいね。ドーンって咲いて一瞬で散るの」

 とんだロマンチストだ。隣を見れば、高梨は二本目の煙草を楽しんでいた。悔しいけれど絵になる。形の良い唇がもくもくと煙を吐き出す様子に見惚れていると、ぱちりと視線がぶつかった。

「もう。だからそんなに見つめんなって」

「変な声出すな、キモい」

 ペットボトルのキャップを外し、甘い炭酸を身体に流し込む。大きなトラックが通る音と高梨の少し掠れた声だけが鼓膜を打つ屋上は、認めがたいほどに息がしやすくて、嫌になった。



三、


 それから私と高梨は、どういうわけか幾度となく逢瀬を重ねた。この逢瀬という表現は高梨が毎回使うもので、見た目は同い年とは思えないほど大人びているのに阿保だなと思う。

 いつも決まって屋上で、高梨は煙製造機となり、私はその隣で寝っ転がったり座っていたり、たまに本を読んでみたり。特に積もる話があるわけでもないが、ぽつりぽつりと軽口を叩き合う。気づいた時には、この女が私が唯一本性を晒け出せる相手となっていた。

「ちょっと前までは考えられなかったな」

「何が」

「この状況」

「ははは、ほんとね」

 金髪が風になびく。上空では、旅客機がゴゥゴゥと大きな音を立てて飛んでいる。

 もうすぐ昼休憩が終わろうとしていたが、空気の浅い教室に戻ろうという気にはなれなかった。怠惰、という二文字が頭をよぎる。

「そもそも、高梨今までほとんど学校に来てなかったじゃん」

「まぁね」

「最近ちゃんと来るじゃん。何で?」

「もうすぐ夏休みだし、ちょっと行っとこうかと思って」

 私たちの学校は、あと一週間ほどで夏休みを迎える。部活動に所属していない私は一ヶ月半ほどの休みを手に入れることができるのだ。

 以前は心待ちにしていた夏休みだが、今は少し惜しいような気もする。長期休みに入れば当然、ここに来ることもなく、お互いに顔を合わせることも無くなるだろう。なんせ、会う理由も必要性もないのだから。

「ちょい、飲みモン買ってくる」

「うん」

 珍しくちゃんとスカートを履いている高梨が立ち上がり、所々塗装が剥げている鉄のドアを開けて出て行った。途中、何かを落としたのが見えたので、起き上がって近寄ると、白い封筒だった。

「煙草かと思ったのに……」

 かさっと音を立てて拾い上げる。そこには緑色の文字で「処方箋」と書かれていた。私は、少しだけ躊躇してから中身を覗いた。



 家に帰って、リビングのパソコンを起動していると、母親が気味が悪いほど静かな足取りでこちらに向かってくる。

 嫌な予感がして、「ただいま」と声をかけたが、やはり機嫌の悪さを隠そうともしない顔で「授業休んで、何してたの?」と地を這うような声で質す。

 頭のてっぺんから、血液がざーっと足元まで落ちていくような心地になった。どうやら、サボった事が伝わったらしい。何故家に連絡する前に本人に直接注意をしてくれないんだ、と担任の先生に心の中で抗議をしつつ「お腹の調子が悪くて、トイレに」とだいぶ苦しい理由を述べてみるも、当然心配する様子もない。

「どうして普通のことができないの? お母さんのこと困らせて楽しい? そんな調子でまともな大学に行けると思ってる訳じゃないわよね」

「うん、ごめん。もうしないから」

「当たり前でしょ。もう十七歳なんだから、面倒かけないで」

 怒りを孕んでいる反面、氷みたいに冷たい声音でそう言い捨てる。身体中のいたるところから冷たい汗が噴き出るのを感じながら「ごめんなさい」と頭を下げる。教育ババアめ、と苛立つ気持ちも確かにあるが、私の心はすっかり怯え上がってしまい生きた空もない。

 こういう時、私は決まって何のために息をしているのかわからなくなるのだ。

 母の気配が無くなって一度深呼吸をすると、パソコンはとっくに立ち上がっていて見慣れた草原の画面が鎮座していた。

 記憶を頼りにカタカナの薬名を検索窓に打ち込み、まるで縋るかのように虫眼鏡のマークをクリックする。難しい漢字が並ぶタイトルが何件も映し出されて、心臓がいつもより早く脈を打つ。

 いくつかの記事に目を通してから、検索なんてするんじゃなかったと激しく後悔した。


四、


「晶ぁ~、数学の宿題見せてくんない?」

 翌日、寝不足な頭を抱えて登校し自分の席に着くと同時に、美希がノートを手に甘えた調子で言ってきた。綾と麗華も当然のように「あ、私も」とそれに続く。

「うん、いいよ」

 スクールカバンからノートを取り出そうとすると、高梨が眠たそうに教室のドアをくぐるのが見えた。目が合うと、高梨は突っ立ったまま黙ってこちらの様子を伺っていて、私も一切の動きを停止する。

 ーやりたくないなら、断ればいい

 初めて話を交わした日の、高梨の言葉が蘇った。

「……晶?」

「ごめん、やっぱり見せられないや」

 三人の訝しげな視線が突き刺さる。

「何で?」

「急いでやったから合ってるか自信ないんだよね。それに、たまには自分でやった方がいいと思う」

 手も声も震えていた。言いすぎたな、と思った時には時すでに遅し。不穏な空気が漂い、顔を上げることができなくなった。

「なんか最近、晶変だよね」

 綾の淡々とした物言いに、母親を思い出して血の気がひいた。

「付き合い悪くなったよね」

「休み時間とか放課後になるとソッコー消えるしね」

「うちらといても、楽しくなさそうだし」

 私への不満を次々にぶつけられる。そもそも付き合いが良かったことなんてあっただろうか? という疑問が湧くと同時に、やっぱり大人しく宿題を見せれば良かった、昨日からろくなことがない、クラスメートの視線が集まってきている気がする、上手く事態を収めないと今までの努力が水の泡だ、といった考えが溢れ出す。思考回路がぐちゃぐちゃと絡まって、息の仕方がわからなくなった。

 教室の中に重苦しい緊張感が充満した時、

「松田さーん、大変だ、先生がめちゃくちゃ怒り狂って松田さんのこと探してるー!」

 とてつもない棒読み具合で高梨が叫んだ。注目が一瞬にして声の主に移る。

 顔色ひとつ変えない高梨は私の手首を掴み「逃げないと、殺されちゃうかも」と回れ右をして走り出した。どんな物騒な学校だ。私は頭の中を混乱させながら、大人しく手を引かれて走った。

 人が溢れる廊下を全速力で駆け抜けると、すれ違う生徒達が驚いたようにこちらを見ていたが、高梨は気にも留めない。階段を駆け下りて中庭を横切り、プールサイドでやっと足を止めた。

「ふぅ、戦線離脱」

 高梨が腕で額の汗を拭う。プールの水面は朝の日を反射してきらきらと揺らめいていた。塩素の香りが鼻をつく。

 爆発しそうなほどにうるさい鼓動が、耳のすぐそばで鳴っているみたいだった。

「あんたのせいだ」

 母の顔と、パソコンの画面と、綾達の声が一遍に蘇ってきて、そう唸った。そしてすぐに、逆恨みにもほどがあると思った。

 しかし、高梨は怒るでもなく悲しむでもなく「ごめん」と、するりと言う。荒い呼吸を繰り返していた胸が余計に苦しくなる。

「違う、ごめん。私のせいだ」

 ぼやける視界で高梨を捉え、「ありがとう」と礼を言えば「素直すぎて気持ち悪いな」と笑われた。温度を持った雫が目から零れ落ちて頬を伝う。高梨は私に気を使ったのか、プールの中に視線を落としている。

「私、ほんとはこんな自分が大っ嫌いだ。親とか友達の前でいい子のふりして、なんとか気に入られようとしてもうまくいかなくて。でも、そうしないとどこにも居場所がなくて、不安で」

「うん」

「そんな必死な自分を認めたくなくて、平気なふりでもしてないとやってられなかった。自分が、あんまりにも惨めだから」

 情けなくて誰にも言わなかった、言えなかった言葉が涙と一緒に溢れてくる。情けない自分を受け入れる勇気すら、私には無かったのだと思い知る。

「だから、高梨が羨ましかったんだ。人目なんか気にしないで、いつも自由で。私も高梨みたいに強くなりたいって思ってた。でもやっぱり無理だ、怖いんだ」

 気に食わなかったのは、嫉妬していたからだ。高梨のようになれたらと渇望しつつ、それに気づかないように「嫌い」という感情を無理矢理当てはめていたのだ。自分の醜い思考に吐き気すら覚える。

 ふと、静かに聞いていた高梨が口を開いた。

「松田、ケータイ持ってる?」

「え? 持ってない、教室」

「そっか」

 意図が不明な質問に答えると、手を握られてスタートラインの台の上に引き上げられた。

「え、ちょっとまさか」

「はい、せーのっ」

 掛け声と共に大きく腕を振った高梨が地を蹴った。一瞬だけ宙に浮き、すぐに落下する。もちろん、私を巻き込んで。

ドボンと派手な音がして水の中に飲み込まれ、今度こそ本当に息ができなくなった。懸命にもがいて水面から這い出し、酸素を取り込む。鼻にもろに水が入ってじんじんと痛んだ。

「何、あんた、馬鹿なの!?」

「あはははは」

 ずぶ濡れになった髪をかきあげながら、高梨は心底おかしそうに笑う。一体どんな精神構造をしてるんだ、と詰め寄ろうと思ったが、きっと聞いたところで理解できないだろうと諦めて私も笑った。パンツの中までびしょびしょだ。

「松田は、もっと楽になるべきだと思う」

赤いブラジャーが透けている高梨が唐突に言う。

「取り繕わなくても受け入れられるってことをもっと知った方がいい。あんたは自分で思ってるよりも、面白くていい奴だよ」

「そんな風に思うのは、高梨ぐらいだよ」

「理解者なんて、一人いればじゅうぶんじゃないか?」

「そうかも」

 少し照れくさくなって、空を仰いだ。ぬるまっこい空気で肺を満たす。

 始業のチャイムがやけに遠くから聞こえた。

「あーあ、またサボっちゃった」

「落ちぶれたな、優等生」

「うるさい」

 水面下で、高梨の細長い脚を蹴る。

 優等生なんて辞めだ。と思ってはみるものの、母親が気が触れたように怒る様子がありありと想像できて、胃が痛くなる。

 人間、そう簡単に変われはしないのだろう。それは私にも母親にも言えることだし、友人たちにも言えることだ。

「明日からも夏休み明けてからも、ちゃんと学校来てよ」

 水没したマルボロとライターを発見し嘆いている高梨に投げかける。薬が入っていた白い封筒を、今も持っているのか気になったが、確認する術はなかった。

「何だよ、さみしくなっちゃうからか?」

「どうすればいいかわかんないから!」

 茶化すように見下ろしてくるので、食い気味に返答した。否定はしなかった。

 高梨はけらけらと笑って「どうすればいいかなんて、簡単にはわかんないよなぁ」と独り言のようにこぼし、眩しそうに目を細めながら上空を見つめる。水を滴らせながら天を仰ぐ高梨の姿は、陽の光も手伝って神々しささえ感じられた。

「まぁ、じっくり苦しもうよ。私ら、まだ高校生なんだからさ」

 旅客機が、真っ青な空に白い線を引いていく。

 今の私達の感情を、いつか懐かしい気持ちで回顧し、笑える日が来るのだろうか。来ればいいな、と思う。

「そうだね」

 二人並んで、飛行機雲の行く先をただぼんやりと見ていた。



「さすがに冷えた!」

 一限が終わろうとしているタイミングで、私と高梨はプールサイドへよじ登った。地上に上がると水を吸った制服は重さを増し、髪もキシキシと痛んでいて悲惨な状態だったが、気分は清々しいものだった。

「着替えもないし今日は帰るか」

「さすがにこの状態じゃ屋上にも行けないしね」

 高梨の意見に同意して、ワイシャツを絞れるだけ絞り人目につかないよう昇降口までそろそろと歩く。途中で、全ての荷物を教室に置きっ放しなことを思い出した。

「私教室にケータイ取りに行かないと。あんたは?」

「私は基本、持ち物は煙草だけだから」

 学校に何しに来ているんだと呆れる。でも確かに、思い返せばケータイやゲーム機といったものを持っているところを見たことがなかったし、連絡先も知らなかった。金のかからない人間だなと感心する。

「一緒に行くよ」

 高梨はそう言ったが、私は「大丈夫」と断った。

「ケータイ取りに行くだけだし、まぁ、なんか話せそうだったらちょっと話してみるよ」

「泣くなよ」

「泣くわけないでしょ」

 否定した直後に泣き顔を見られたことを思い出して、途端に耳が熱くなった。正直、逃げ出したいほど怖かったが、一人で行かなければいけないと思ったのだ。それが精一杯の強がりでもあった。私はやっぱり、プライドが高いらしい。

 上履きを脱ぎ、靴に履き替えた高梨を見送ろうとすると、柔らかな表情を向けられる。

「私は、松田に会えてよかったな」

「は、何恥ずかしいこと言ってんの」

 くすぐったい気持ちになってそう返すと、高梨は晴れやかな笑顔を浮かべ

「遺言」

 と言った。

「じゃ、また明日ね」

 別れの挨拶を一方的に済ませた高梨は、颯爽と正門を目指して歩いていく。ワイシャツからは未だに赤い下着が透けていて、キャミソールぐらい着るべきではないかと思った。そもそも、下着にワイシャツ一枚という格好でプールに飛び込むなんてバカだ。思いつきで行動するから、煙草もライターも無駄にするのだ。

 熱に浮かされた空気の中、一度も振り返らない背中を見送る。

 高梨はきっと、綺麗な花火を咲かせるのだろう。最後まで自由で、強かで。

 姿が見えなくなってから、ようやく私は教室へ向かうべく歩き始める。水分を含んだ上履きが床と擦れる音が、授業中の校舎に反響した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 王道と言えば王道な展開ですが、高梨悠希と出会い変わってゆく松田晶に感情移入して一気に読んでしまいました。松田の変化のカギとなる高梨の言葉が綺麗ごとを押し付けているような言葉ではなかったのがと…
[良い点] 普通でいる方がいいことだからと自分を偽ってきた松田晶が、超然として他人に気を使わない高梨悠希と交流し、自分の殻を破っていく様子が読みやすい文章で綴られていて、好感が持てました。 生きること…
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