やっぱり君は君のまま
俺たちが付き合い始めたのは、今から2年前、大学3年の春休みだった。
上京し1人暮らしをしながら大学に通っていた俺は、その日サークルの飲み会帰りに美咲と並んで歩いていた。彼女をアパートに送る為だ。
道中、酔いを醒まそうと橋の上で二人で並んで夜空を眺める。冷えた風が、とても心地良かった。
「俺……美咲のこと結構好きなんだけど」
「――はぁ?」
桟橋の手すりに背を預け、東京の狭い空を仰ぎながら軽い気持ちで口にした俺の言葉に、彼女は怪訝そうに呟いた。
視線を横に下ろせば、手すりにもたれた君がこちらをじっと見上げている。ぼんやりとした街灯の光に照らされた美咲の頬は、酒のせいだろうか、どこか高揚しているように見えた。
けれどその口は、いつものように不敵に笑っている。
「答えわかっててそんなこと言う? もしかして酔ってるのかな?」
手すりに頬杖をつき、からかうように笑う君。それがなんとも釈に感じて、俺も唇の端を上げた。
美咲は美人だ。月に一度は告られている。
この前もゼミの先輩に告白され、いつものごとく断ったらしいと風の噂で聞いた。それくらいの美人だ。
とは言え高嶺の花というほどではなく、色気があるかと聞かれればそうでもない。おしとやかでもない上に、生意気で可愛げもない。
なのにどうして俺がこんなことを口走ったのかと聞かれれば、単純に気になっていたからだ。
どうして美咲は、誰とも付き合わないのだろうかと。
「なんで皆断るの? 好きな奴でもいる?」
再び暗い夜空に視線を向けながら「俺ならとりあえず付き合うね」と続ければ、彼女は呆れたように笑った。
「ま、和樹はそうだよね」
「いいじゃん、据え膳食わねば男が廃るって言うし」
「……ていうか和樹、彼女いなかったっけ。ほら、確か教育学部の結構可愛い子」
「あーあれ、振られたわ。思ってたのと違ったって。ウケるよな」
「和樹のいいところ、顔だけだもんね……」
ぼそりと呟かれた美咲の言葉に、俺はすかさず切り返す。
「それ盛大なブーメランじゃね?」
「一緒にしないで。それに私は男にだらしなくないし」
「はぁ? 別に俺だってだらしなくねぇよ! 浮気とか絶対しないタイプだし」
「そんなの当たり前でしょ。何えらそーに言ってんの」
軽口を叩きあって、――少しの沈黙。
この間で、人の相性って大体わかると思う。お世辞抜きで、美咲との沈黙の心地よさといったらない。
そして多分それを、美咲も気付いている。
「俺さ、自分で言うのも何だけど、こう見えて付き合ったら一途だよ。それに、さっきの言葉は嘘じゃない」
「……そう言われても」
「じゃあ俺のこと嫌い?」
「卑怯な聞き方しないでよ」
「あ――もしかしてあれ? 実は地元に彼氏いるとか」
「しつこいなぁ」
「じゃあ何だよ、はっきり言えよ」
「なら言うけど。……和樹のことは好きだよ、でも恋愛感情じゃない」
「それでもいいって言ったら? 付き合ったら変わるかもよ」
「自信過剰すぎ。よくそんなこと口に出来るね、漫画の読みすぎじゃない?」
「まぁ。……確かに少女漫画なら、昔姉ちゃんに読まされたよ。少コミとかマーガレットとか」
「ええ、マジ……?」
「マジマジ」
美咲は、ふーんと呟いて、微かに口角を上げた。
嫌な笑みだ。彼女はその笑顔のまま、再び俺をじっと見つめる。
「いいよ」
「……何が」
「付き合っても」
「……マジ?」
聞き返せば、彼女は笑顔のまま頷いた。
「言っとくけど、私相当わがままだし性格悪いし、そっちの方が先に根を上げると思うけど」
「心配するなって。俺も性格悪いし」
「否定しないあたり、本当いい性格してるよね。あと、浮気だけは絶対しないで」
「しないしない! されたことはあるけど俺は絶対しない!」
「――うん」
そうして、俺たちは付き合いだしたんだ。
そしてそれから、あっという間に2年の月日が流れた。
*
社会人1年目が終わろうとしていた3月末の土曜の夜、俺は居酒屋に向かっていた。東京で就職した大学の奴らと、飲もうということになったのだ。
「おー、和樹! 久しぶり、こっち座れよ!」
掘りごたつの半個室へ入っていけば、他の皆はもう揃っていた。サークル仲間だった純也の隣に座り、ビールで乾杯する。
すると、すぐに尋ねられた。
「そいやぁお前、相原とまだ続いてる?」
「――まぁ」
相原とは美咲のことだ。
俺は東京で、そして彼女は卒業と同時に地元へ帰って就職していた。
俺と美咲が付き合いだしてもう2年。あんな始まり方だったけど、俺たちは何だかんだ今でも遠距離で付き合い続けている。
けれど最近はお互い忙しく、電話もラインもあまり出来ていない。
「相原って地元どこだっけ。遠距離だろ? 辛くね?」
「長野。まぁ寂しくないわけじゃないけど、仕事忙しすぎて正直そこまで」
「えー、マジかよ。俺だったら堪えられねぇわ。最後に会ったのいつ?」
「お前、見かけによらず女々しいからな。――年末年始」
「別に女々しくなんか……って、はぁあ!? もう4ヶ月経つぞ、大丈夫かよそれ!」
純也の呆れたような視線が俺に向けられる。
「相原、何も言わねぇの?」
「特には。っていうか、なんでいきなり美咲の話? お前そんなに接点あったっけ?」
机に並んだ適当なつまみを口に運びながら問えば、純也は一年前と変わらない弾けるような笑顔を見せた。
「おーおー、よくぞ聞いてくれました! 実は俺今、由香と付き合ってんだよね」
「由香って、笹沢?」
「そう、笹沢由香。ほら、由香って相原と仲良かっただろ。今でも連絡取り合ってるらしくて、それで時々相原の話聞くんだよ」
「ふーん」
「って、ノリ悪ぃなぁ! お前本当に上手くやってんだよな? ちゃんと話聞いてやってる? 今大変なんだろ、彼女」
「――は?」
俺はつい、箸を止めた。純也の告げた、俺の知らない美咲の話に。
「母子家庭だってのに、母親出てったらしいじゃん。大変だよなー」
――何だそれ。聞いてない。
一瞬で頭に血が上るのを感じた。――いや、逆か?血が引いたのか?
混乱する頭でそんなことを考えながら、冷静を装って聞き返す。
「それ、いつのこと」
「確か一週間前、って……お前まさか」
「……そのまさかだよ」
俺の言葉に、純也の瞳が見開かれた。マジかよ、とその口が呟く。
俺は慌ててスマホを取り出しラインを開いた。美咲に電話をかけようとして――手を止める。
「――はは、やべ。俺、一週間美咲と連絡取ってねぇわ」
「おいおい……」
「ちょっとかけてくる」
席を立ち、店の外に出て電話をかけた。けれど、出ない。何度かけても。
俺の中で、焦りと不安が大きくなっていく。
そんな俺を心配してくれたのか、純也が笹沢に電話をしてくれた。でも、最後に連絡を取ったのが一週間前で、それ以降のことはわからないとのことだった。
「俺、行ってくる」
「は? どこに」
「長野」
「はぁ? 今から?」
「あぁ」
スマホを睨むような俺の視線に気づいたのか、純也はどこか俺をなだめるような顔をする。
「いや、でも、取り敢えず明日にした方が。もう遅いし……ほら、相原だってただ寝てるだけかもしれねぇだろ。そもそも今からじゃ相原んちまで辿りつけないって」
「家までは無理でも、長野までは行けるだろ」
俺はそれだけ言い残し、駆け出した。背中から純也の声が聞こえたが、一切無視して。
*
それから数時間後、俺は2年前のことを思い出しながら、どこだかわからない橋の上で途方にくれていた。
過去に一度だけ遊びに行った記憶を頼りに、新幹線とタクシーで美咲の実家の近くと思われる辺りまで来たのはいいものの、結局迷ってしまったのだ。しかもスマホの電源も切れている。
街はひっそりと静まり返っていた。コンビニ一つ見当たらず、灯りも殆んどない。
「――くそ」
何やってんだ、俺。
人気のない真っ暗な橋の真ん中で、力無く一人うずくまる。
今は何時頃だろうか。長野駅に着いた頃には既に日付は変わっていた筈だけど……。
スマホを握り締める手が、震えていた。それはこの冷えた空気のせいか、それとも焦りのせいなのか。
多分、両方だ。スマホが切れるまで美咲に何度も何度も電話をかけたが、結局一度も繋がらなかったのだから。
「……何、やってんだよ」
思わず口から漏れ出た声は、果たして自分に対してか、美咲に向けての言葉なのか、自分でもよくわからなかった。
――俺、何か間違えたのかな。
この2年間、美咲とは上手くやってきたつもりだった。小さい喧嘩はしたが、泣かせるようなことは一度だってしなかった。
確かに最近はお互い頻繁に連絡を取るようなことは無かったけれど、そういうものかと思っていた。
でも、本当は我慢させていたのだろうか。俺は美咲に気を使わせてしまっていたのだろうか。卒業するまでは確かに、言いたいことを言い合える仲だった筈なのに。
「……美咲」
自分でも気付かなかった。あんないい加減な告白で付き合いだした相手が、こんなに大切な存在になっていたなんて。
離れていても絶対大丈夫だと、そう思えるくらい絶対の存在になっていたなんて。
俺はただ、後悔し続けた。橋の下の流れる水音だけが空気を震わせる闇の中で。もう、どこに向かえばいいのかもわからずに。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと気が付けば、いつの間にか空が白んでいた。――朝焼けだ。
連なる山々の向こうから差し込む光の眩しさに、思わず目を細める。
「……美咲」
会いたい。君に、今すぐ会いたい。
瞬間――俺は確かにそう願った。それと同時に、耳に届く声。
「……和樹?」
それは聞き間違いかと思える程に小さな、けれど決して聞き間違える筈のない声。
はっとして振り向けば、そこには美咲が立っていた。俺の大切な、愛しい愛しい彼女が、橋の向こうに。
「良かった、いた!」
そう叫んでこちらに駆け寄ってくる君の姿に――俺は夢中で、地面を蹴る。
「美咲!」
君の名を呼びその腕を掴んで、そのままぐいと引き寄せる。君の瞳が、大きく見開かれた。
「和……樹?」
あぁ、美咲だ。本当に美咲だ。
彼女の背中に回した腕に力を込め、うなじに顔を埋めて、懐かしいその声をこの耳に焼き付ける。
「もしかして、泣いてる?」
「……泣いてねぇし」
必死の強がりで返した声は自分でもびっくりするぐらい掠れていて、死ぬほどかっこわるかった。
「和樹って暗いの駄目だったっけ、本当に大丈夫? ごめん気付かなくて、私寝ちゃってて」
「――いい」
あぁ、何やってんだよ俺。謝りたいのに、謝らなきゃいけないのに。
もうどうしようもなくて、これ以上一言でもしゃべったら、本当に泣いてしまいそうで。
「でも、和樹も悪いよ。来るなら来るって前もって言ってくれないと。由香から連絡来ててびっくりした」
「――うん」
「ねぇちょっと、ちゃんと聞いてる? 何かあった?」
美咲の心配そうな声。
けれど本当に言葉が出てこなくて……ただ、彼女を抱き締めることしか出来なくて。
辛いのは自分の方だろうに、俺の心配なんてしている彼女が健気すぎて――何とか、言葉を絞り出す。
「……何で言わないんだよ」
「え……何を?」
「だから……母親、出てったんだろ?」
「はぁ?」
「はぁ、じゃねぇよ! 言えよ! 大事なことだろ!?」
「何言ってんの? 別に誰も出てってないけど」
「――は? だって純也が……笹沢に」
聞いたって――と続ければ、美咲は何か察したように眉をひそめた。けれどすぐに、吹き出す。
「な、何だよ」
俺は事態が呑み込めず、腹を抱えて笑い始めた美咲を呆然と見ていることしか出来なかった。
ひとしきり笑うと、彼女はようやく俺を見据える。
「ごめん和樹。せっかく心配して来てくれたのに、それ多分、あの子の勘違いだから」
「勘……違い?」
「うん、私が由香に言ったのは、お母さんが2週間の海外旅行に行ったってこと」
「はっ、はあああ!?」
俺はその言葉に、全力で脱力した。
すると、再びクスクスと笑いだす美咲。彼女は心底楽しそうな笑みを浮かべ、俺の右手を掴んで歩きだす。
「おい!? どこ行くんだよ」
「ウチに決まってるじゃん。今日休みでしょ? どんな思いでここまで来たのかゆっくり教えてよ」
「――!?」
「それから、一眠りしよ? 一緒に」
「――っ」
それは2年前と全く変わらない、イタズラな笑顔。その表情に、先ほどまでの暗い気持ちが一瞬で吹き飛ばされる。
――相変わらずいい性格してる。あの頃と何一つ変わることなく。
俺はそのことに安堵しながら、軽い足取りで歩きだす美咲の腕に引かれて、もう一度だけ――山の向こうの朝焼けに、目を細めた。
-完-




