幸田露伴「うすらひ」現代語勝手訳(2)
これまで、語句の注は、…○○…、としていましたが、読みづらいという声もあったので、(*○○)という形に変えてみました。
其 二
老いほど悲しいものはない。道理も法律も力というものが無くてはどうしようもない世の中。腕も弱り、腰も屈むようになっては、一切合切、下に見られ、居るだけでぞんざいに待遇われても、憤るだけで何かができる訳でもない。
老人が山に捨てられたという昔話そのままのことは、今なお至る所にありがちなのである。
青柳の婆おとわは、この夏の初め、生まれ年と同じ干支を迎えた上に既に六年も過ぎた六十六歳になっていたが、栽松が珍しく訪れた頃は、脳卒中の後遺症に悩まされていたけれど、半身不随になっただけで、心はまだ活き活きとしていた。孫を護い、お力と言葉を闘わすほどのことはできたが、どういう訳があってか、折角雲のように突然現れた栽松が眞里谷のお静の家を訪れると言った切り、煙のようにフッと消えてしまってからというもの、短い歓びの後に遺った長い失望に気落ちしてか、次第次第に身体も弱ってしまった。庇に蚊柱が立つ夏の酷い暑さには肉を奪われ、団栗を落とす風の音も冷やかな秋には骨を痩せさせられた。その上、労ってもくれない新右衛門の不孝や、死ねば良いのにとでも言うようなお力の振る舞いに、朝に夕に腹を立たせられ、肝を煎らせられれば、灯油の尽きてしまった瓦燈(*灯火をともすための陶製の用具)のように心の張りというものが衰えてしまった。人が居ない時はただうとうとと眠るでもなく醒めるでもない夢と現の間に休み、お力が筋の通らないことにも無理矢理理屈をこじつけて、新三を手痛い目にあわせていても、この頃は早、目を瞑ってほとんど争うこともなく、後ろを向いておろおろと悔し涙を流しながら、聞かれたらまた怒られてしまうと、口の中で南無阿弥陀仏をそっと唱えるばかりの情けなさであった。
前世でどんな罪を作ってこの切ない思いをすることかと、自ら歎けば、
「ああ、おいたわしいこと。元はこの辺の十ヶ村、二十ヶ村きっての富家で、『農』の身分であっても苗字帯刀の許された家柄の青柳。しかもそこへ、武士の家から来られた方が、あのように辛い日々を送って、やがて三尊の来迎もあろうかと思われるこの頃をどんな思いでおられることか」と、二十年ほど前まで雇用ていた與助という男は、今は二里余り離れたところに住んでいるが、恩を忘れず、時折訪ねて来ては、家に帰ると必ず、妻のおはやという、これも昔は同じく召し使われていた者と共に、お天道様のすることを疑うまでに、そのいたわしさを歎き合っていた。
垢光のする薄布団に破れ掻い巻き、破れ屏風、せめて裾の方に湯たんぽでもあればいいのだが、それも無い。若い者でも鐘の音が澄んで高く響く早朝や、家の横手に吊した大根の葉っぱが風にがさつく夜など、冬の寒さには耐えられないものなのに、まして丈夫でもなく病み衰えた老婆である。平常の日でもいじけ勝ちに辛うじて息をしているだけのところへ、昨日から雲も凍って動かず、肌を刺すような寒さは老いの身にも憐れむことなく襲いかかる。
一晩中わななき震えたけれど、蒲団一枚掛け足そうともしない、そんな無慈悲な者を子どもに持ったどうしようもなさに、歯を食い縛って短い夢さえ見ることもできずに夜を過ごしていたが、暁から降り出した雪に風も加わって、寒さはいよいよ、ますます烈しく、家の鑵子(*真鍮製の湯釜)の水さえ凍るのに、歩くこともままならない老いの悲しさ。思いがけず、おとわは粗忽(*寝小便)をしてしまった。優しいまでとは行かないまでも、普通の嫁なら介抱をおろそかにしてしまったと、自己を責めて、姑を庇いもすべきなのに、正妻でもないお力はそれを見つけると、毒のある眼を先ずもって閃かせて、
「この寒空にこのようなことをされては困りまする。誰がこの蒲団を洗うと思っておられまするか」と、声を荒げて罵るのであった。
つづく