袾音の正体(「硝子の悪魔」シーン8)
「私はもっと、愚かなら良かったな・・・」
赤く染まる西の空を御簾越しに眺めながら呟くと、袾音の表情の見えない場所にいる秋が、
「はいっ?」
と素っ頓狂な声を出した。
いつもの袾音の在所だ。秋の隣には雪乃が端座している。夕刻。西空へ遠く去っていく太陽の緋が、茂みからひょっこりと姿を現した兎の白い背を、深い哀愁の色に染める。
「私はもっと、浅薄な、ただの息をする人形なら良かった。先代や摂政や気鷟や・・・他の水浪の思惑通りに動く、何も考えない、両手に糸のついた人形なら・・・」
「いつになく弱気ですね。晶さん」
優しく、秋が言った。
「別に」
「・・・・・僕は、能力の高いひとが自分の意志を持たないのは、とてもこわいですけどね」
秋はあえて詮索せず、袾音に一つ一つ言葉を噛み締めるように、ゆっくりと言い聞かせた。
「奇跡を起こせる人が、他人の為だけにその力を使うのは、とても悲しいことでしょう?」
心のこもっていない、輝きだけは眩しい、空白の奇跡を来訪者の為、水浪の為だけに起こしても。晶は結局虚しいだけだ。晶が『袾音』として、その力を自分自身の意志で使っていかなければ、本当には誰も、救われないのかもしれない。
「―――――この私の力で、誰かを救えるとでも思っているのか?気鷟」
しかし、袾音の評価は冷淡だった。
「お前が言う所の『奇跡』を、確かに私は僅かに起こすことが出来る。でもな、気鷟、その奇跡を、起こすのは人だ。神じゃない。この奇跡も所詮、人の力だ。そして人は、神によってしか救われない。人に人は救えない。人に人が救えたなら、何故この世に神や仏がある?浄瑠璃世界や極楽浄土の夢を何故語る?何故私のようなただの子供を『神の子』だなどと祀り上げる?―――だから私は、私の言霊や預言で、誰かを救えるだなどとは一生思わない。それは神や仏に対する傲慢だ」
すべてのくるしみや痛みを取り除くのが救いだと、袾音は思っているから。彼女が神子でも、救うなんてことは無理だ。何の苦しみも痛みもない、癒しだけが満ちた地平に、水浪や来訪者を導くなんて事は。
袾音はただ、足掻くだけだ。少しでも、そこへ近づけるように。
「・・・・でも、晶さんのその奇跡で、救いじゃなくても、一つや二つの瑕なら、癒すことが出来たじゃないですか?今までも、ずっと」
例えば、絶望に打ちひしがれた者に、祝福出来る未来の預言を、授けること。
「・・・・信用されない事も多いがな。私の『奇跡』には形がないから。時にあやふや過ぎる。『預言』と呼ばれるものは大体そうだが」
「一度なら偶然だって、積み重ねれば奇跡になりますよ」
連続して偶然が起き続ければ、誰だって流石に出来すぎていると思い直すから。
「そうだな。だが、偶然を何度起こせば奇跡になる?」
気付けば室内は大分暗い。日輪はあと少しで沈んでしまう。ずっと全く微動だにしない雪乃の白い頬を、緋の夕焼けが半分照らし、もう半分に濃い影を作っていた。
「雪乃…………私には、ずっと、不思議に思う事がある。守の人間に会えたら一度、訊いてみたいと思っていた」
「………なんでしょう?」
秋は急な話題の転換についていけず、小首を傾げた。
「外の人々は。特に、京の人々は何故、水浪を現人神の様に信奉するのか。それが、私には、どうしても分からない」
京都や奈良には、門跡寺院や元官幣大社も多く、徳の高い僧侶や神主が幾らでもいる。
それでも時々。晶の父などは、守に付き添われて下界に行く。
京都の名の知れた寺院の、祈祷などに参加する為だという。
「水浪だからですよ、袾音様」
謎解きの様に雪乃が言った。
「千年の時を超えた、神の子の一族だからです」
「………………」
雪乃の黒い瞳に、赤橙の夕焼けが、妖しく映りこんだ。
「でも、袾音様。貴方は貴方の正体に、本当はもう気付いているんでしょう。違いますか?」
雪乃は静かにそう問いかけたが、晶は押し黙ったまま、黒曜石色の瞳で、雪乃を見詰め返しただけだった。
秋は意味を計りかねて、二人を交互に見比べた。
静かに、比叡山の晩秋の夕暮れが、過ぎ去ろうとしていた。
―――闇夜は、もうすぐだ―――