人形(「硝子の悪魔」シーン7)
「袾音様!」
未の刻。半月ぶりに母と飛鳥が暮す部屋を訪ねたら、少し驚かれた。牛の方角の袾音の部屋から、子の方角のこの部屋はかなり離れている。
この部屋も畳敷きだ。けれど十二畳ほどで、しかも真ん中から几帳で区切ってあるので、袾音の在所とは違って、狭い。その中に正座する地味な着物姿の母はひどく疲れている様子で、口元に引いた赤すぎる紅のせいで、顔色が尚更悪く見えた。
「どうしたのですか?何か、あったのですか?」
母は、先代の「袾音」はいつもおどおどした話し方をする。現袾音だからという理由だけで、敬語を使う。
でも、母の言葉は、どこか温かい。
「別に……。お邪魔してかまいませんか?」
袾音も、母にだけはいつも丁寧な言葉遣いをする。
「ええ、ええ大丈夫です。飛鳥は今、几帳の向こうで寝ていますし。大丈夫ですよ。どうぞ、お入りください」
母は決して、袾音と飛鳥を直接会わせず、飛鳥の話自体を極力避ける。父も。秋さえも。それが何故なのか、袾音は知らない。
「飛鳥、具合でも悪いんですか?」
「え?」
「寝ていると。まだこんな昼間だというのに」
「いえ、あの、ただのお昼寝です。飛鳥はまだ、四歳なので」
飛鳥は袾音様が四歳だったときよりも、少し幼い子のようなので、と。
いつか。母が摂政の父に、晶は生まれた時から大人のような子だ、と洩らしているのを袾音は耳にしたことがある。
ワザと子供のふりをしているような。一見、思慮が浅いようだが、本当は何を考えているのか分からないような子だと、言外に母は言っているようだった。
「本当は、何か、用事がおありになるんじゃありませんか?袾音様」
中央に置いてある炬燵と、入口付近の棚や箪笥を避けて、母の右後ろ、太い柱に寄り掛かって足を行儀悪く伸ばしている袾音に、先代は窺うような視線をやる。
母のこの目が、袾音は苦手だ。自分の内側を見透かされるような気がする。先代には、何の力もないというのに。
「………袾音様」
「はい」
「昨夜水浪の家を脱け出したそうですね」
「………」
「寄合と対立するもととなるようなことは、どうかお止め下さい。昨夜、里からやって来たのが、守の新しく入る方だけだったので良かったですけれど。外の者に見つかったら大変ですよ」
「…………来訪者に、ですか」
天井の隅、夏の名残のように置き去られた燕の巣を、袾音は見上げる。
「先代。『袾音』は何故、来訪者にとって神聖な物でなくてはならないのでしょう?何故来訪者に崇められる存在でなくてはならないんですか?」
半ば独白のように訊いた。守の家と〈黒蝶〉の話を聞いてから、改めて考えていたことだった。
水浪は何故、来訪者が願ったものなら、どんなに酷い望みでも叶えようとする?
叶えられた悪意は、水浪の家に残るのに。こびりついた染みとなって、水浪を穢すのに。
何故そこまでして、袾音が崇められる水浪を続けていこうとする?
「それを考えては駄目よ、あきら」
袾音は目を瞠った。何年ぶりかに聞く、母の声だった。
あきら、と。
「それだかは、考えてはならないの。私達は、もう俗世間には戻れない。源平合戦から既に千年近く、下界から離れすぎているのですもの。水浪を続けていくことに、袾音様を表向きの頂点に据えた水浪を守っていくことに、疑問を感じては駄目なのよ。意義なんてなくても、私達は今のままでなくては、もう暮していけないんだから」
母は必死だった。
「……意義など、ない?」
「鵺さんや気鷟様なら、来訪者を受け入れる理由を、あるいは知っているのかも知れません。けれど、私には分からない。分かってはならないのかもしれない…………」
知ってはならないのなら、知らないままでいろというのだ、母は。譲位によって名前さえ失くした、寄合に従順な人らしいと袾音は皮肉に思う。
「私は分からないままでいるのは嫌です。私はあなたとは違う。寄合に頭を下げて暮らしていくなんて真っ平御免ですよ。私は寄合に負けたくはない。寄合が隠していることをぶちまけて、新しい袾音や水浪を創っていきたい」
「あきら……」
いつもはのらりくらりとした娘が、滅多に無く語気を荒くしたのにびっくりして、母は動揺していた。視線を彷徨わせる。
母は――――弱い人だ。だからこそ早く、もっと安心できる場所で幸せになってもらいたかった。そのために自分は、やはり寄合と対立してでも水浪を改革しようと、このときの袾音は固く決心していた。
―――――それはこどもの浅知恵で、結局、叶わない望みだったのだけれど。
「あなたが寄合に負けたくないと考えるのは、間違ったことではないと思うわ。でも――
――」
袾音と視線を合わせないままだった母が、思い詰めたように顔を上げて袾音を見た。
「水浪には、直系でも寄合の人間でもない人も少なからず暮らしているわ。その人達はもし、水浪の内側に嵐が起こったらとても困るんじゃないかしら。だからあなたはこの家に波紋を広げないように、寄合の言う事をある程度は聞くべきです。けれど……私のように力が無いからといって完全に寄合に頼るのは、きっと間違っていたんだわ……………。
――――あなたは意志ある人形になりなさい、あきら」