裁判(「硝子の悪魔」シーン2)
その一族は遥か千年の昔、「神の子」の導きで、当時の平安京の艮の鬼門を守護する比叡山の奥深く、身を隠したのだという。
一族の名を、「水浪」という。
比叡山の道なき道を、倒れた石灯篭を目印を頼りに数時間も歩けば、急に開かれた広場の様な場所に出る。広場と言っても、そこには田舎に未だ良く見られる様な平家が三軒、コの字型に建っているだけ。千七百ヘクタールあるという広大な比叡山全体から見れば、猫の額ほどの土地だ。平屋のすぐ傍まで鬱蒼と木が生い茂り、ヘリでようやっと見付けられるぐらいだろう。
そこに暮らすのは、僅か十数人の、今を生きる「神の子」の末裔の人々。水浪の家はいくつかの血族からなり、かつては数十人はいたという。ほとんどが自給自足で暮らしている。
そして同じく千年以上の歴史を持つ、様々な人々が、この隔絶した小さな社会を支えている。何度も家を補修し、建替え。物資を調達し。外部に見つからない様、気を配り。水浪を護っている。
それが何の為なのか。袾音には分からない。いいや誰にも、分からないかも知れない。
千年もの間、細々と血を繋いで来た水浪は、隔絶された環境の中で、永く独自の文化を発展させて来た。
あらゆる時代の服飾やしきたりが、抹え去らず、残っているような。
例えばその代表的なものが、「袾音」という名前の継承だ。水浪一族を京都に棲む鬼から護る為に、比叡山へと導いたとされる初代水浪袾音の名前を、直系の女子が代々継ぐ風習がある。袾音は一族の頂点に立つ神子として、加持や祈祷などの祭祀で水浪を安泰に導く。水浪では、袾音は絶対不可侵な聖域とする風習が今も根付いている。
袾音が最も上位とされている―――――――――――形式的には。
袾音はその当初から、邪馬台国の卑弥呼のように、実務を兄弟や配偶者に任せていたという。水浪の家を実際に動かしていたのは、その兄弟などが就く「摂政」を長とした「寄合」(水浪の人間数人で構成される議会のようなもの)だった。だから、時代が進むに従って、だんだんと寄合の力が強くなってゆくのは必然だった。満月の夜、水浪を訪れる信奉者が減り始めた明治維新以降は特に。
今日ではもう、水浪が袾音を崇めるのは形だけになっている・・・。
(ここにはもう。ほんとうの聖域はない)
明くる朝。白衣と緋袴を着た髪の短い神子――――袾音は母屋の縁側を歩きながら胸中で独白した。袾音は芯の強い喋り方をするが、顔立ちは意外と繊細だ。背もあまり高くない。白衣から覗く手首もかなり細くて、一見すると、袾音としての透明で脆い声に似合いの、どこか折れそうに弱い少女に見える。
(水浪が下界に混じらないことに何の意味がある?)
袾音は考えていた。千年の隔離は水浪に、独自の文化を齎したのだろう。生まれた時からここにいる袾音に、下界の文化がどんなものか分からなくても。神道・仏教・陰陽道を基本としつつ、様々な宗教が混在し、あらゆる時代の文化が消え去らず残っている様な、独特の家風は、稀に会う南都北嶺の高僧達をいつも感嘆させて来た。
けれど、それ以外に、隔離によって得られたものは何もないのかも知れない。
(狭い世界で淀んでゆくだけだ)
清涼な早朝の空気の中、藤色の着物の中年女性が障子の前で正座していた。袾音を目に止めると、複雑な表情をする。
「ほんにおいでになられたのですか・・・・袾音様」
「こないわけにはまいりませんでした」
咄嗟に神子専用の口調で答えながら、袾音は内心、忌々しさに歯噛みしたくなる。
今朝、摂政から、まもなく開かれる寄合に来てくださいますように、との慇懃無礼な通達が来た。袾音を呼び出したのだ。自分達から出向くのではなく。
「袾音様のおなりにございます」
かん高い声で言いながら、先ほどの女性が障子を開く。背筋をピンと伸ばして、袾音は開かれた部屋の中を見回した。
中は―――――暗い。採光が少なすぎるのではない。空気が悪い。濁っている。悪意や傲慢さといったマイナスの感情が空気に滲み出ていて、感覚の先鋭な袾音は気分が悪くなりそうだ。
「よくぞおいで下さいましたな、袾音様」
老獪という言葉がよく似合う、神社の神主の様な服を身に着けた初老の男が、袾音に声を掛けた。寄合のナンバー二、「神官」だろう。袾音はそれでも一応、部屋の最も奥の上座に通された。
ゆっくりと正座した袾音は、一同に目をやった。八畳ほどの畳敷き、真ん中に檜の机がある以外は本当に何もない部屋に、六人の男性が左右に三人づつ相対して胡坐をかいている。いづれも中年以上だ。八十を越えていそうな翁もいる。
(平安貴族のような格好をしているのが「摂政」、紺の袴を佩いているのが「神官」、着物姿の残り四人が「長老」か)
摂政と神官。寄合での上位二人が袾音の一番側で向かい合って座っていた。やがて髭を生やした神官が唐突に口を開く。
「困りますなあ、袾音様」
ねちねちとした話し方。
「水浪の第十三代神子ともあらせられる御方が、供の者もつけずに一人で里を抜け出すなど。しかも満月の晩ですぞ。来訪者といつ出くわすとも限らんではありませぬか」
「・・・・・・・・・」
息苦かったが、簡単に謝ってなどやるものかと思っていた。人を見下した寄合の連中に負けたくなかった。
「袾音様は、いつもいつも神子らしく無いことばかりなされる。勝手に髪を短くされたり。古より千有余年続いておる我ら水浪を代表する神子として、もっと自覚を持たれてはどうか!」
「まあまあ気鷟殿。袾音様も反省されていらっしゃるようですし、今回は大事に至らなかったではありませぬか。そのようにお怒りにならずとも・・・」
助け舟を出したのは、摂政の水浪鵺。今は譲位して隠居している第十二代袾音の配偶者――――――現袾音の父だ。
「鵺殿は甘すぎる。袾音様はどうも、水浪を大事に思うて下さらない節がある」
「私もそう思いますな」
下座、一番出口に近い所からも声が飛んだ。目つきの悪い、中年の男。ならず者のような長老だ。
「恐れながら、袾音様は、妹君の飛鳥様とは明らかに資質が違われるように思います――
―――やはり、譲位の件、お考えになられた方がよろしいかと」
(譲位)
初めて聞くことではなかった。袾音は気が強く、先代より前の過去数百年の袾音達とは違い、寄合の頼みに従順ではない。奔放な少女だった。神子が行う「祭祀」での約束事もよく破った。因習を嫌がり過ぎた。だから、寄合との仲は、彼女が先代から六歳で「袾音」の名を引き継いでからすぐに、摩擦が起き始めた。
四人の長老の内三人は、袾音から神子の地位を取り上げ、妹の飛鳥に即位させるべきだと強硬に主張しているほどだ。
(だが早すぎる)
飛鳥は今、四歳だ。「袾音」の儀式を取り仕切るには幼過ぎる。それに、先代が生きているうちに譲位するのが「袾音」の習慣とはいえ、第十二代袾音が現十三代袾音に位を譲ったのは四十歳の時だ。今、十歳の袾音に無理矢理譲位させた後、先代のように隠居でもしろというのは出来ない相談だろう。
(水浪の家の中で力を喪ってしまったら私は・・・・・)
寄合に負けるわけには、いかない。
「気鷟殿。飛鳥様は確かに現袾音様よりも幼く、神通力などの方も多少・・・至らぬ所はございますが。飛鳥様は他の誰よりも『袾音様』に相応しい印をお持ちではございませぬか。今一度ご裁量のほどを―――――――」
「なりませぬ!現袾音様にこれからも、我々水浪の加護をお願いいただく。そうですな気鷟殿」
やや強い口調で長老の言葉を遮ったのは、鵺だった。その眼光が鋭くなる。
「・・・・・ああ、ああそうですな。現袾音様は、ここ数代の神子の中で飛び抜けてお力の強い御方じゃ。言霊の威力など素晴らしゅうございますものな。いくら目に余る行いがあるとはいえ、譲位まで持ち出すのはいささか度が過ぎると思いますぞ」
先ほどまで袾音に文句を言いまくっていた気鷟も、譲位の話になると突然袾音を持ち上げた。何かおかしいと袾音は気付く。父を見ると手拭いで顔を・・・冷や汗を拭っているようだ。
(何だ?)
自分が「袾音」を止めるとどんな不味いことがあるのか。袾音には分からない。だがそのことを考える暇も無く、袾音は再び、人を睨むように見る長老から冷たい言葉を浴びた。四人の長老の中で、さっきから一人だけ声高に袾音を非難するこの男は、どうやら長老の中でも上位らしい。
「まあ、ひとまず此度のことは、袾音様にお謝り頂き、幕としましょうか」
袾音は一瞬、逡巡した。
「・・・・・・・・・・もうしわけありませんでした」
軽く頭を下げる。部屋の空気があまりに澱んでいて、感覚が鋭敏な袾音は悪酔いし始めていた。軽い眩暈がする。喉の奥が冷たい。もうどうでも良いから早く、この部屋から出て行きたかった。
「心がこもっていませんな」
「・・・・・・」
「それでは足りぬと言うているのです」
袾音はギュッと唇を引き結んだ。
「わたくしも、ぬかをついてあやまりたいのはやまやまなのですけれど。水浪のおさである袾音が、おきてをやぶってしたのものにあたまをさげるのは、あってはならないことですので。いまは、おきてをまもれというはなしをしておるのではありませんか?こたびはこれにて、しつれいさせていただきます」
あって無いような太古の掟だ。「袾音」が、最も貴い神の子が、一族の他の、下位の者に頭を下げてはならない、など。だが、「袾音」が一番上位ならば、それは水浪では守られなければならないおきてとして今も生きているはずだ。
「ともかく、奔放なふるまいは慎まれよ。・・・・ご自分で望むと望まざるとに関わらず」
鵺の濁った瞳が、朝日の中で、陰影を深めていた。
「貴殿は現世唯一の、生ける神の子なれば――――――――袾音様」
おしゃべりな長老は舌打ちをして、そっぽを向いている。
―――――妙な所で聡いガキだ。いつもはボケて規則破ってやがるのに―――――
その内心の忌々しさに満ちた呟きが、袾音には聞こえそうな気がした。いや、耳でない器官で実際に聞いたのかもしれない。
彼女は、超常的な力を持つ、水浪袾音なのだから。
「それではこれにて、しつれいさせていただきます」
果てしなく気まずい雰囲気の室中には構わずに、袾音はさっさと部屋から出る。待ちかまえていたように、外で控えていた女性が障子を開いたとき、神官が独白のような声を洩らした。
「お母上の第十二代袾音様は、この上もなく立派な御方じゃったのにのう・・・」
当たり前だと、袾音は胸中で毒づいた。先代は寄合の操り人形にはうってつけだっただろう。
二十六年前。唯一の直系の女子だという理由で、寄合の強力な後押しを受け即位した先代、四年前譲位した母には。
なんの神通力も無かった。