目に見える世界
舞台監督、円城寺一景は、田神夕菜にこだわった。
高名な劇団「朗々廊」の次回作、「アイは与える」のヒロインの話だ。
筋書きは、事故で視力を失ったヒロイン「アイ」が、いろいろな人の協力で再び目が見えるようになるまでを描いた感動のドラマだ。
もともと舞台は、午後開演分を日比野京子が、夜開演分を田神夕菜が務める、いわゆるダブルキャストを予定していた。人気アイドル歌手の田神夕菜が舞台俳優としてどこまでやれるか、はたまた演技力は折り紙つきだが人気の面でもう一つ波に乗れないでいる日比野京子がきっかけを掴むかがもっぱらささやかれ、準備段階から高い注目を集めている話題作だ。
その、田神夕菜が事故で失明した。
両目がその機能を失ったのだ。
誰もが田神夕菜は舞台を降り、日比野京子が波に乗ると見た。
ところが、円城寺一景。
「田神夕菜は、降ろさない」
と、きっぱり。
ダブルキャストは中止され、「アイ」の失明時を田神夕菜が担当し、目が見える部分を日比野京子が担当することになった。ただし、監督の意向はあくまで田神夕菜を優先し、日比野京子が田神に合わせるという形だ。
日比野は、怒り狂うぞ。
彼女を知る関係者は、誰もが危惧した。
日比野京子が、その実力にも関わらず未だ人気の点でメジャーになれないのは、その性格に問題があったからだ。
とにかく気性が荒く、陰険。
そこまで見ぬくファンなどいないが、関係者がその性格に辟易していたので仕事が少なかった。つまり露出機会が少なく、認知度が決定的に不足していたのだ。
「こりゃあ、しばらく近寄らん方が身のためだな」
「いやいや、田神夕菜へのいやがらせが始まるんじゃないか」
「まさか。相手は障害者だぞ」
事情をよく知る裏方スタッフたちは、そんなささやきを交わしていた。
しかし、周囲の予想に反して、日比野京子は田神夕菜に優しかった。
目の見えない彼女を気遣い、声を掛け、親切にした。
いざ入院するとなると、彼女のアパートまで同行し、鍵を預かり準備を手伝ったほどだ。
一方の田神夕菜。人がよいというか、妙に素直なところがある娘で、そんな日比野にひどく感心し、感謝した。
「日比野京子さんが優しくしてくれるので、入院先からの出勤もつらくないです。私、目が見えなくなって初めて、一番きれいなものを『見た』気がします。私が舞台に立てるのも、すべて日比野さんのおかげです」
記者会見で、無邪気な笑顔でそう言ったこともある。皮肉にも日比野京子に感謝したこの言葉、田神夕菜自身の評価を上げることになっても、日比野京子のそれを上げることにはならなかった。
日比野にとっては心中面白くないはずだが、そのような様子もまったく見られなかった。
それはともかく。
光を一瞬で失った田神。回復も驚くほど早かった。
名指しの角膜提供者がいたためだ。
遺言で「ぜひ、私の両目を田神夕菜のために」と。
円城寺一景はこういった事態を予想して退院をさせず、田神夕菜に院内からの通勤を命じていたため、角膜移植手術は驚くほど速やかになされ、順調に田神の視力はもと通りに戻った。
そうなるとしかし、舞台の配役も元に戻るのか?
「ノット、ダブルキャスト」
田神夕菜視力回復の記者会見で、円城寺一景は力を込めた。
「じゃあ、田神と日比野の二人一役のままですか?」
記者が聞く。
円城寺は、再び首を横に振った。
「田神夕菜は、自身が実際に失明とその回復を体験したことで、もはや演技の域を越えた演技を見せてくれる。同列に並べては日比野もやりにくかろうし、この期に及んで二人一役なぞ考えるべくもない」
円城寺の言葉は、事実上の日比野京子降番を意味していた。
「今回の『アイは与える』は、『朗々廊』の最高傑作となるだろう」
両腕を広げた円城寺の言葉は、高らかだった。
しかし、「アイは与える」は最高傑作とはなりえなかった。
それどころか、上演すらされなかった。
田神夕菜が、自殺したためだ。
記者会見があった日、田神夕菜は久しぶりに自宅に戻った。両目の包帯が取れた、その日のことだ。
そこで、田神夕菜は首を吊った。
ぶらりと田神がぶら下がったアパートの自室は、ひどく荒れていた。
久しぶりに自室に戻った田神は、おそらく我が目を疑ったことだろう。
クローゼットは開け放たれ、床には切り刻まれた衣服が散乱。
壁には、「死ネ」と大きく書きなぐられたルージュの文字。
空き巣に侵入されたときの荒らされ方など、なまやさしいものだ。この荒らされ方には、悪意と、敵意と、殺意とが入り乱れた怨念が込められていたのだから。ここ数日で荒らされたような痕跡ではない。一体、いつから――。
「すべてはかりそめ。人生で、一番醜いものを見た」
遺された田神夕菜の手書きの書き置きに記されていたのは、それだけだった。
オワリ
ふらっと、瀬川です。
他サイトの縛り条件付き競作企画に出展した旧作品です。瀬川潮名義でした。
中途失明からの回復などについては詳しく調べていません。軽々しい描写ですいません。
縛りは
「主人公は目が見えない(中途失明でも生まれたときからでも可)」
「手術により目が見えるようになる」
「主人公は目が見えるようになって謎の死を遂げる」
の三つでした。昨日公開した「アイは奪う」でも主人公が死んでいるので間違いないと思われます。というか、「ああ、そうだった」と思い出しました。
同じく2004年の作品です。