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8.


 殺してしまった。

 どうしたらいいのかわからなくなって医務室の布団にくるまっていたら何の前触れもなく戸が開いた。乳母のヘリーネだったらよかった。片親のセルジュ兄でもよかった。二人はアウリスが怖い思いをしていると、いつもとても優しくしてくれたからだ。

 だが、現れたのは世にも嫌いな男だった。

「よお、可愛い坊ちゃん」

 猫じゃらしは後ろ手で戸を閉めた。そのへらへらした薄笑いがアウリスは大嫌いで、布団を引きずって行き部屋の隅にうずくまった。泣きたくなりながら毛布を被る。

 室内にはアウリスの背の届かない高さに窓があり薄寒い月明かりが差し込んでいる。猫じゃらしは部屋の暗さにも躊躇うことなく長い足ですいすい入ってくると、布団のない寝台に腰下ろした。まさか寝るつもりかとアウリスが訝しんで見ていると、そのままごろりと転がる。ほ、ほ、本当に寝た。

 こいつは一体何しに来たのだ。アウリスは呆れたが、猫じゃらしがあまりにも動かないのでソワソワしはじめた。一体どれだけ自分勝手なのか。アウリスは一人になりたくて医務室に籠もっているはずが、猫じゃらしに居座られたら出ていかなければならなくなる。アウリスが先に居たのにだ。

 そんなのは癪だし、断じて嫌だった。アウリスは大声を上げるべきか歩いて行って猫じゃらしを叩き起こすべきか真剣に悩んだが、そんな心配は杞憂だった。

 前触れもなく壁に影が伸びる。猫じゃらしが片腕をまっすぐ上に伸ばしたのだ。寝ていなかったのかとアウリスはギョッとする。

「手を見せろ、アウリス」

 アウリスは布団の中で身を竦めた。ぜ、絶対に嫌だ。布団の隙間から覗いていると、猫じゃらしは急に寝返りをうち、「黙って来い」と厳しい声で言った。そんな脅しにはアウリスは頑固抵抗するつもりだった。だが、口から洩れたのは思いの外に弱弱しい声だった。

「い、嫌……」

 だって、死んだ。死んでしまったのだ。気づいたら動かなくなっていたと言うのに、アウリスの手? それが何だというのだ。

 アウリスはフェゼル医師に包帯を巻かれたそれらを握りしめた。まだ痛くて涙が出るほどだ。涙は濡れた睫毛から落ち、それを追うように俯く。

 相手に比べれば、こんなもの、かすり傷だった。アウリスは震える声をおしてそう言った。

「だって、じ、じぶんのせいだもの。わたし、変なかまえをしたのよ。手袋もつけずに木刀を握ったからよ」

「アウリス」

「だ、だって倒れないんだもの」

 アウリスは口を閉ざした。ついでに布団の中で強く目を瞑る。そうすると、僅かな月明かりもなくなり、何も見えなくなる。

 闇の中に景色がよぎる。みんなで出かけた雑木林。お手洗いの為に一人で向かった、黒い岩肌の河原。そこに現れた、一匹の野犬。

 その獣は黒い毛皮を纏い、細長い胴体をしていた。そして、ひどく痩せこけていた。餓えてギラつく瞳には既に理性はなかった。めくれた唇の赤黒い肉、爛れた色の鼻柱、ひしゃげた牙。

 アウリスは獣に襲われ、とっさに木刀を出した。それは林で遊んでいて拾ったもので、練習用の物とは違い、無骨な形だった。アウリスは木棒が手を引っ掻くのに気づかず振り続けたのだ。

 微かな衣擦れの音がし、アウリスは思わず目を開く。頭に被った布団を少しだけ捲ると、寝台の縁に腰下ろした猫じゃらしが見えた。翠色の瞳が細められたのが見える。壁際の薄暗がりには月明かりを透かした若葉のようなその色だけが光を放っていた。アウリスは必死に猫じゃらしに訴えた。べつに何か期待したわけではない。ただ感情の行き場がなく、今部屋には猫じゃらししかいなかったのだ。

「だ、だって、わたし、何回も叩いたのに、何回も何回も叩いたのにむ、向かってくるから」

「そりゃ、あっちもそう思ってたんだろ」

「え?」

「あっちも同じこと思ってたんだ。どんなに怖がらせても向かってきやがる、ってな」

 アウリスは閉口した。そんなの考えてもみなかった。押し黙って今言われたことを思い返していると、猫じゃらしが「来い」、と手招きした。なんとなく嫌で布団を握る手をむずつかせる。

 手のひらがジンジン痛い。暗いので気のせいかもしれないが、手のひらの側の包帯に新しい血が滲んだ。アウリスはそれを見下ろし、ぐすっと鼻を鳴らした。猫じゃらしは急に顔をしかめた。

「煩ぇ。七課の傭兵がいちいち泣くな」

 アウリスは思わずむっとした。な、なんて言いぐさなのか。べつに猫じゃらしに慰めてもらいたいなんて、これっぽっちも、ちっとも思ってない。思っていないが、嫌味を言われるとも思っていなかった。本当にこいつは何の為に来たんだとアウリスは改めて不思議に思う。

「猫じゃらしにはわからない。だって、あなたはい、犬を殺してしまったことがないから」

 アウリスはどうにか気力を振り絞り、猫じゃらしを睨んだ。猫じゃらしは布団のこんもりとした盛り上がりをまんべんなく眺め、ふんと鼻で笑った。

「犬の一匹や二匹殺したことくらいある。が、あんたの気持ちはさっぱりわからねえ」

 それは、猫じゃらしが薄情者だからだ。アウリスは押し黙り、ぎゅっと布団の端を握る。喉が熱くなり、言葉が渦巻く。

 辛いのは、猫じゃらしがアウリスの気持ちをわかってくれないからなんかではない。ほんとうに悲しいのは別のことだ。これでもアウリスは解っていた。猫じゃらしは薄情者だけれど、愚かではないことも。

 アウリスは少しばかり考えてから、ため息を吐くときのように言った。吐き出すと、涙があふれた。

「……殺さなくても、よかった」

 アウリスは俯いた。膝と膝のあいだに頭を抱く。その恰好のままでアウリスは少しの間泣いた。暫くして疲れてくると、部屋があまりに静か過ぎるのが気になりはじめた。アウリスはのろのろ体を起こし毛布から這いでた。濡れた頬と、半袖から覗く肩に外気が少し寒い。

 痛い目を擦りながら室内を見渡すと、猫じゃらしはまだいた。寝台の端で微動だにしていない。アウリスは久しぶりのように窓の外の草木の香りを感じながら、すっと小さく息を吸った。

「これで、よかったと猫じゃらしは思う?」

 猫じゃらしは何事か考えるように首を傾げた。大きな襟ぐりがずれ、銀の髪が鎖骨に散らばる。

「それは自分で考えろ、アウリス」

 アウリスは閉口した。それがじぶんでは解らないから猫じゃらしに聞いているのに。そう思ったが、先程までの辛さに言葉がついたことにより、アウリスは少しばかり心の整理がついていた。

 アウリスは遠慮がちに猫じゃらしの方を見る。すると、猫じゃらしは寝台の端から長い足を引き上げるようにして壁にもたれた。そうして枕元の本を取る。何ら脈絡のない行動である。

 猫じゃらしはあたかもアウリスを無視して、本をあぐらをかく膝元に広げた。独特の低い声が芯から甘く響いていく。

「これはエドニア星座に纏わる神話である。遠い昔、大陸にはトロアとユーアという二国があり、激しい戦争をくりかえしていたが、ついにトロアがユーアを破り、大陸の覇王となった。その日、ユーアの王と王の妃は火あぶりにされ、ユーアの王の一人娘は花嫁としてトロアの王の元に送られた。花嫁の名はエドニア。三千世界の花も恥じらう美貌の持ち主であったという」

 アウリスは猫じゃらしを不信感一杯に眺めていた。急に何をしだしたのかと思いつつ、少しずつ膝立ちで近づいてみる。被る毛布の裾がカタツムリの尾みたいに床を這う。

「美しいエドニア姫にトロアの王は一目で恋に落ちた。結婚の……、あ、あー、あけぼの?」

 猫じゃらしがどもる。アウリスは寝台の縁に頭を覗かせて、違う、あかつきと読むの、と言った。猫じゃらしは庶民の出だからアウリスのような子供が解る字が読めないのだ。そう言ったら猫じゃらしはアウリスの頭をはたいた。い、痛い。仕返しに殴りかかったら拳をひょいと避けられる。猫じゃらしが体をずらしたところに人一人分の空間が出来ていた。アウリスはそこによじのぼり、猫じゃらしと同じに壁に背を預けて座った。

 そのまま朗読は暫く続き、アウリスは早々に飽きてしまった。その本ならもう知っている。エドニア姫は何を見ても笑わないのだ。だから、トロアの国王はエドニア姫にどうすれば笑ってくれるのかと聞く。すると、姫は遠い彼方の地に棲む魔物が見たいと言った。トロア王は兵力をぜんぶ費やして化け物を生け捕ってきた。エドニア姫はいたく感じ入り、トロア王は美しい彼女の天女のごとく美しい笑顔を見ることが叶うのだ。

 ここで終わればそれなりにいい話だとアウリスは思うのだが、そうはならない。エドニア姫は化け物を飼いはじめるのだが、暫くして彼女は妊娠するのだ。そうして生まれたのは当然ながらトロア王の子供ではない。不気味な黒い爪と牙をもつ、醜い化け物の子供だった。エドニア姫はそのこに夫であるトロア王を殺させ、トロアの国民ぜんぶを殺させた。先に化け物を生け捕る為に兵士をみんな失ってしまっていたトロア国に、エドニア姫と彼女の化け物の子を止める術はなかった。

 そうして、今もエドニア姫は高い空で笑っている。醜いものを抱く星座の形になり、笑いながら泣き続けているのだ……。

「おしまい」

 アウリスは目を開けた。眠りの縁に居るままに見上げると銀色の髪の光が見えた。じかに月光を浴び、男の横顔は陶器より透明感を帯びている。銀色の髪は優美な目元にかかり、その奥では翠の瞳が海底の石みたいにひっそりと輝いている。

 窓の方を見上げたままに、猫じゃらしはアウリスの名前を呼んだ。アウリスは眠くて目を閉じた。身じろぎし、隣に腕を見つけて枕にする。そうしていると、じぶんを見下ろした眼差しの向こうに微かな暖かい吐息を感じた。

 七課に配属されたての頃。アウリスがまだ十三歳だったときの、今は遠い昔話である。





 ラファエさまの出自のことは世間に広まっているらしい。猫じゃらしが言ったとおりである。王都へ向かう前の夜のこと、ロウソクの明かりの下で猫じゃらしはアウリスを至極真面目な顔で見つめ、「あんたの父親の形見かもな」と言った。王太子の醜聞の悪い噂はアウリスの父親、レオナートが残していったものだというのだ。

 正直、アウリスはどう考えればいいのかわからない。なぜ噂が広まってしまったのかわからないし、それが父親のせいだと言われると、なぜ父がそんなことをしたのかわからない。ラファエが心を痛めるようなことを父がする理由なんてないからだ。だって、そんなことをして何が全うされるというのだ?

 アウリスはぱちんと指でコインを弾く。

 ラファエさまは玉座の正当な後継者ではない……かもしれない。ラファエアートはグレン国王の子供ではないかもしれないからだ。父レオナートはそれを突き止めた。猫じゃらしの言う事が真実だとすると、そうなる。父はどうやってその可能性にたどり着いたのだ? 父は何を望んだのだ? 

 アウリスが秘密として守り続けていたことを父は暴いてしまった。そんな状況になってしまっている。アウリスの望みはこんなことではなかった。だって、秘密を暴いたって誰も幸せにならない。逆に、アウリスがその秘密を黙秘していても特に誰も損はしない。

 アウリスはもう一度コインを弾いた。

 ちがう。アウリスがラファエの秘密をしゃべらなかったのはラファエの為だった。ラファエが悲しむと思ったからだ。他に難しいことは考えていなかったし、子供のアウリスには十分な理由だった。大人のアウリスにも十二分な理由である。

 けれど、そのせいで今猫じゃらしが王宮に呼ばれているのだとしたら? 猫じゃらしには彼自身行きたい理由があった。そう言った。はっきり教えられなかったが、きっとグレン国王の死が関係している。では、王宮に居るラファエは? ラファエは今何を考えている?

 アウリスが頭を悩ませていると急に明るい笑い声が聞こえた。宙に浮いたコイン越しにそちらを見る。馬車道は昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、土が夕日を反射している。その端にチエルと肉だんごがしゃがんでいた。チエルは一度宿で着替えた薄手の外套を着ている。奥には垢抜けた感じのベルトズボンを履き、上は赤と黒のチュニック模様の大きなボタンを留めたシャツを纏っている。

 普段に相対してあり得ない程に洒落た服が土に汚れるのをまったく厭う様子無く、チエルはススキとススキのあいだに手を突っ込み、悪戯そうな顔をした。

「ほらな、二つも落ちてた。また俺の勝ち!」

「本当だ、チエルはなんてお金を見つけるのが上手なんだ」

「おまえももっと真剣に探せよ、肉だんご」

「あのな、チエル。前から言ってるけど僕の名前は肉だんごじゃないんだ。僕の本当の名前は」

「行くぞ、肉だんご」  

 チエルは肉だんごとの宝探しに夢中で、肉だんごがこっそり懐に手を入れて立ち上がったのを気づかない様子である。チエルが矢の如く一直線に駆けていく。それを見て、肉だんごの方は大人げもなく全力疾走し、チエルが追いつくより先にこそっと背中に回した拳を開き、またひとつ、コインを道に落とした。

 アウリスは何気なく手の中のコインを見た。チエルがさっき「道にあった」とくれたものである。それを親指に乗せて何度目かに弾くと、コインは夕日にチカリと銀に光り、あろうことか丁度そばを通った馬車の風に巻かれていく。同じ風が髪を音を立てて広げる。慌てて来た道の地面を見回すが、有難く頂くつもりのコインは見つからず、アウリスは大いに落胆した。もともと沈み込んでいたので黒雲が頭上でとぐろを巻くような陰鬱な顔になる。

 夕ご飯を食べ終わった頃、セツが一人で先に行くと言ってアウリスたちの元を離れた。これからチエルを預ける施設の下見をしに行ったのである。

 セツは七課では一番馬を駆けるのが速い。その特技は遠い王都に来ても発揮されていて、ものの十五分程で遠くに緑色ののろしを認め、アウリスたちは宿を離れた。

 朱色の夕日に照らされる道のりは陰鬱としている。何も知らないチエルだけが楽しそうで、それを見て更に落ち込みそうだった。セツが先に出たのは多分すべきことに集中する為だ。肉だんごは肉だんごで普段に増して明るい。アウリスはというと、小難しいことを考えることで、同じ陰鬱さから逃れようとしていた。

 一台の荷馬車が錆びた車輪の音をさせて通り過ぎていく。左右に広がっていたすすき野原は途絶え、人や馬車とすれ違うことが多くなり、同時進行で行く先に町が見えだした。驚く程まっすぐ続く道の先に全体的に茶色っぽい、石と木材造りの建物群が見えはじめている。

 前方で肉だんごが懐の地図を開く。どうやら目的地が近い馬車が通り過ぎるのと一緒に駆けてきたチエルをアウリスは見た。チエルは走って乱れた息を整えると、額を手の甲で拭った。汗なんて一つもかいていない。

「疲れたぜ。一仕事したあとは体が重くてかなわねえ」

 誰の真似か。でも報酬はがっぽりだ、とチエルは得意げに外套のポケットを漁って両手でコインを見せてきた。アウリスはギョッとする。そ、そんなにたくさん。肉だんごはチエルに新しい外套でも買ってやりたいのか?

「す、すごいですね」

「だろ。もっと早く宝探しをしてたらよかった。そしたら、飴もじぶんで買えたのに」

 チエルは恨めしげにアウリスの腕を見た。夕方買った、瓶詰の飴が色さまざまに光っている。店で一番大きいのをセツが買ってくれたのだ。お蔭でアウリスは今片手が完全に塞がり、しかも肩が凝っている。

 アウリスはチエルの何か言いたげな視線にいるか、と聞いたがチエルは首を横に振り、その拍子にコインを二つ落とした。チエルが慌てて残りをポケットにしまい、足元を探るのに中腰になる。チエルはアウリスより宝探しが得意だった。チエルはすぐ見つけたコインを手に、ふうっと大事そうに息を吹きかけた。前髪が揺れ、僅かな砂埃に顔をしかめる。

「にいにも見せたかったな。何で一緒に来なかったんだ? 仕事は終わったんだろ?」

 アウリスは前に立って歩き出すチエルに「終わってませんよ」と答えた。少し考える間をおき、もう一度声をかける。前方では肉だんごが道端で立ち止まり、アウリスたちを待っている。彼の居る側には木材の看板が地面に生えていて、夕日に滲む濃い色で「セルマの町へようこそ」と書かれていた。

「賊を捕まえたあとは国家騎士団に引き渡します。だけど、それで終わりじゃない。今回は地域の騎士団たちにも疑惑がかかっているんです。あそこまで賊がのさばってるなんて、おかしいじゃないですか。騎士団たちは賊たちの味方だったかもしれない。取引してたかもしれないんです」

 アウリスはいつになく丁寧な説明をして、チエルが目をしばたかせるのを見る。

 国家騎士団も、領主も、知っていて犯罪を見逃していたのかもしれない。なお悪く、加担していたかもしれない。「黒炭」はその証拠を集めていたはずだし、今も集め続けているはずだ。相手が貴族なので生半可な手段では告訴できないし、有罪にもならない。だが、過去に「黒炭」の働きによって貴族の汚職が露見し、断罪されたことは一度や二度ではない。何回もある。「黒炭」には強い味方がいるのだ。

 これらのことをアウリスが知ったのはごく最近のことで、王都を出る前の夜に聞いていたばかりだった。計画としては知っていたものの、裏の人脈まではよくわかっていなかったのだ。猫じゃらしの言葉を簡潔にして伝えると、チエルは頭の後ろで手を組み、ふうん、と鼻歌のような声をだした。

「王様は悪い奴が許せないのか」

「そうでもないですよ。悪い奴が貴族だった場合は特に。じぶんに近い分、機嫌を損ねるより守ったりおべっかを使った方が、何かと都合がいいらしいです。でも、グレン国王、先代の王はそうしなかった。貴族より、平民を守ったんです」

「なんで?」

 聞き返され、アウリスはまた猫じゃらしの言葉を思い出した。それをそのまま伝えた。

「グレン国王は異端の王だったからです」

 その王は死んだ。ここ数年、グレン国王は伏せがちになっていたらしく、そのせいで貴族たちの汚職の取り締まりもしにくくなっていたという。

 アウリスはそこまで思い返し、あれ、と首を傾げた。しかし、グレン国王が病気だったのならば今回のことは病死ではないのか? 猫じゃらしは違うようなことを言っていた。けれど同時に、真相はまだわからないとも言っていた。はっきりしない。ということはつまり、どっちなのだ。

 アウリスが唸っていると、急ぐように袖が引かれる。チエルかと思い見下ろすと、ごつごつした指が手首ごと服を掴んだ。いつしか町の門を通り過ぎていたのだ。

 肉だんごはアウリスが見上げると「おい」と腕を引いてきた。アウリスは怪訝となって彼の見る方へ視線を向ける。

 夕日が落ち、急速に暮れ始めた通りの向こう側には石造りの門が開いていた。煉瓦造りの壁には紙幣程の大きさの表札がかかっているが、暗くてよく見えない。アウリスは驚いて足を止めた。一緒に息も止まるかと思った。黒い外套が風を含んで揺れていて、その向こうでは門の傍の植え込みに一匹の馬が繋がれ、凛と首を伸ばしている。セツがいるのならば煉瓦の建物は目的地なのだとわかった。わかったが、セツと一緒に立っている人物には物凄く見覚えがあるのである。アウリスは止まっていた息を細く吐いた。

「お、」

「お婆!?」

 肉だんごがすっ飛んでいく。彼に腕を掴まれたままに引きずられ、アウリスは顔をしかめて手を払っていた。痛む手首をさする。そうしながら、肉だんごが迎えられる方を見た。

 老婆の白いものの混じった髪は綺麗な団子に結われており、後れ毛が思いきり嫌そうにしかめられた顔にかかっている。彼女は給仕時にアウリスが着るような白い衣を纏っていた。魔女の恰好じゃない。だけど間違いない。アウリスは彼女の皺のひとつの位置をきちんと覚えているからだ。あれは飯炊きのお婆だ。アウリスたちが育成施設に居た頃の、お婆である。

「誰だい、往来で人をババア呼ばわりしやがって。なんつう礼儀のなってねえ若造だい」

「お、お婆、俺だよ俺」

「あんたみたいのは知らんね」

「いや、お婆。信じられんだろうが、これは肉だんごなのだ」

 お婆は横やりを入れたセツを振り返り、次いで肉だんごを見た。白みがかった瞳が大きく開く。

「あんた、めん棒に引き伸ばされたのかい。そんな二次元になっちまって」

 絶句する肉だんごに、「これがふつうだぞ、おばば」とセツが助け舟を出した。アウリスはそのやりとりを茫然と見ていたが、服の袖を引かれてハッとする。

「あの妖怪みたいのは知り合いか、アウリス」

 や、やっぱりお婆だ。子供に初対面で妖怪やら魔女やら思われるのならば絶対そうである。アウリスは新たに確信を得て、チエルの手を引いて門の方へ向かった。行く先では既に待ち構えていたお婆が背を凛と伸ばして立っていた。人通りのまばらな石畳の路上を微かに肌寒い風が吹いていく。

「おやおや、こっちはまた」

 それだけ言い、お婆は言葉を切った。アウリスは何も言わずにお婆を見た。隣でチエルが行儀よく外套についた土を落としたりして身繕いをしているあいだ、二人は暫く見合った。お婆がため息をつく。

「あんたは股ぐらのもんを持ってかれたのかい」

「お婆、もうみんな知ってるからいいの」

「どうやってばれたんだい」

「ふつうに大きくなったの」

 その前には散々だった。アウリスは性別を隠しているばっかりに酷い目にあったのだ。一番怖かったのはグレウに身ぐるみ剥がされたときだった。一人で手洗いや水浴びに行くのが気に食わないと日頃から目の敵にされていて、ある日ついに追い詰められ、みんなの前で捕まり、服を破られた。慌てて肉だんごが場を濁したが、あのときはばっちり体を見たはずなのにグレウは何も気づかなかった。その後アウリスは色んな意味で虚しくなった。思い返せば、グレウのことは苦手どころではなかった。一時期アウリスはグレウが大嫌いだったのだ。

 そんなことをアウリスが思い出して話すと、急にお婆は口を大きく開き、真っ赤な喉を見せて、かかっと乾いた声をたてた。素晴らしい癖であった。あまりに懐かしくて思わず手を伸ばす。飴の瓶が胸を圧迫し、それに構わずにあいた腕の方をぎゅっと回して、感極まって叫んだ。白い衣の中の体は驚く程細かった。

「おばば!」

「耳元でやかましい!」

 次いで頭に鈍い衝撃がくる。オタマで叩かれたときみたいでアウリスは驚き、身を避けてみて本当にお婆がオタマを持っていたのでまた驚いた。お婆はオタマを指先に揺らして腕を組む。そうしながら、目線だけがちらりと向けられた。アウリスは隣のチエルを見下ろした。

「こ、こんばんは。チエルです」

 チエルは注目されたのがわかって頭を下げた。アウリスは片膝を地面につく。チエルはヘーゼルの瞳でお婆を見上げ、お婆が挨拶を返すのを待つと、こちらをふりかえった。アウリスはその短い間に心の整理をしなければならなかった。

 今更だと思う。これが一番の方法だとみんなで話し合った。チエルは施設に預けるのだ。引き延ばして引き延ばして夕方になってしまったが、どんなに引き延ばしてもお別れの時間はくる。アウリスは今日一日を思い返すようにして、チエルの肩に手を乗せた。チエルとまっすぐ目を合わせる。

「チエル、ここはエポナという孤児院です。今日からここでお世話になるんですよ」

「孤児院?」

「そうです。チエルの家になる場所です」

 チエルはぽかんとしていた。次いで眉をひそめ、訳なく辺りを見回そうとするのをアウリスは飴の瓶詰を差し出して引き留めた。チエルは警戒したように眉をひそめる。それを見て全く唐突に熱いものが気管を込み上げてきた。喉がわななく。アウリスが押し黙っていると肩に手が乗せられ、次いで、差し出す瓶の蓋の部分ごと大きな手が掴んだ。

「チエル、お別れだ」

 チエルが何もされていないのにびくりと震えた。アウリスの隣に膝をつき、肉だんごはチエルの方に指を伸ばした。その片手でチエルの両手を引き、瓶詰をしっかり持たせる。

「チエル、前に話したよな。いいおうちが見つかるまで七課と一緒に仕事がんばるんだろ?」

「に、肉だんご」

「いいおうちが見つかったんだよ、チエル。俺たちはここでお別れだ」

 瓶が地面に落ちた。飴粒がカチャンと打ち合う音をさせ、落ちた拍子に外れた蓋から溢れだす。赤や青や緑色がランダムに散らばった。チエルはそれから後ずさりした。信じられないと言わんばかりの目である。アウリスは思わずチエル、と呼ぶが、チエルは逃げるように遠くなる。

「な、何、アウリス、なに」

 チエルは急に地面の土を蹴った。

「何言ってんだよ! 俺はどこにも行かない!」

「チエル」

 肉だんごが僅かに目を見開く。チエルは肩を怒らせて唸った。大粒の涙が大きなヘーゼルの瞳に幕を張り、睫毛が上下するたびに零れていく。

「い、いやだ、俺、七課にいる。アウリスたちと仕事するよ! 仕事するの嫌じゃないよ! 絶対いや、絶対こんなとこいや! 行かない! アウリスたちといる!」

 アウリスは眉をひそめた。正直にいうと、決意がぐらつきそうだった。チエルの断固抵抗の姿勢を見ていると、チエルの好きなようにした方がいいのではという気にすらなってきた。

 チエルはいい子だ。愛らしく、一緒にいると楽しいし、あのヘーゼルの瞳で見つめられると可愛くて何でもしてあげたいと思ってしまう。チエルが泣くのを見ていると、ほんとうにこれでいいのかという疑惑が拭えない。

 アウリスは言葉を探して口を開いた。その一瞬に異様な光景が広がる。ぱん、と乾いた音が鳴り、チエルが呆けた。今の今まで何を言い合っていたのか、何をしようとしていたのか、一瞬全部忘れたような顔だった。チエルはぶたれた頬に手をやり、ぽかんとセツを見上げた。

「男が泣くな、うるさい」

 チエルは目をぱちぱちした。冷たい雰囲気を纏うセツ本人に驚いているのか、彼の言葉に虚を突かれたのかもしれない。セツは背を低くすることも、跪くこともなく、まっすぐチエルを見下ろしていた。その緊迫した様子を眺めながら、アウリスは昔のことを思い出していた。

 いつだったか、七課に配属されて間もない頃だ。アウリスは医務室で不貞腐れていた。猫じゃらしは夜中に現れて、こう言った。うるせえ、七課の傭兵が泣くな。今のセツの言葉になんとなくそれを思い出した。初めて生き物を殺した日のことだった。

 アウリスはきっと一生、この選択が一番だったのかどうかわからない。誰にもわからない。チエル本人にだって解らないかもしれない。未来なんてわからないからだ。だからこそ「もし」を考えるし、考えてもわからない。

 アウリスはチエルを呼ぼうと息を吸った。一度視線をよそへ向ける。白い衣を肩紐と腰紐できっちり着つけた老婆は依然変わらず植え込みみたいに動かないでいた。そこに立っているだけだ。

 猫じゃらしの奴、天邪鬼せずに教えてくれればよかったのに。アウリスには未来はわからないが、この施設の人間がいい人間か悪い人間かは今日わかった。それが有難かった。視線を前に戻すと、チエルは泣きながらアウリスを睨んだ。

「俺、絶対いや。七課と一緒にいる」

「一緒にいてどうするんですか?」

「どうって、一緒にいる」

 チエルは断固動かない姿勢を見せ、アウリスは静かに聞いた。

「じゃあ、傭兵になるんですか?」

 チエルはそれを聞くと、我が意を得たりといわんばかりに大きくうなずく。 

「そうだ、俺、傭兵になる。なるよ」

「そうですか。じゃあ、盗賊に拾われたら盗賊になるんですか。人攫いに拾われたら人攫いになりますか?」

 チエルは目を大きくして、遅れて首を振る。そのあいだにセツが立って片手をチエルの肩にやり、アウリスの方へ若干前のめりになり小声で「言い過ぎだ」と言った。言い過ぎも何もない。だいたいセツはチエルをはたいたではないか。自身の行いを棚に上げてとはこのことである。

 アウリスはチエルを見た。目線を合わせたままに腰を低くする。セツの言いたいことが解らないわけではない。今日の事はみんなで考えたのだ。チエルには仕事に行くとだけ言い残すとか、そういう感じの案も出るには出たが、それではあまりに酷いではないか。主観だが、嘘の約束はしたくない。それがチエルの為でもだ。幼いチエルにはよくわからないかもしれないが、アウリスはアウリス自身の考えを全て話しておきたかったのだ。

 チエルは子供だ。孤児で、きっと派遣先のデルゼニア領の戦地で見た孤児たちと同じに乾いた暮らしをしていた。山賊に浚われて売られそうになっていた。それでも、子供なのだ。チエルが流されるままに七課が彼を連れ回すことは、七課の生活をチエルに押しつけることになる。それでは、じぶんたちは山賊たちと何ら変わらない。チエルの為を思って整えられた環境は「黒炭」にはない。

 だって、チエルは知らない。毎朝カーテンの隙間に差し込む陽射し。暖炉に寝そべりおとぎ話を聞かされる時間。毎日ちゃんと三食、食卓で食べること。同い年の子らと机を並べること。

 そんなことをアウリスが言うと、チエルはぐずって地団太を踏んだ。俯いたままに、体の横に降ろした手で拳を握り、そんなことはないと口の中でもごもごいう。すとんとまっすぐ涙が落ちる。

「俺、そんなのいらない。七課といたい」

 そう思ってくれることは嬉しい。嬉しくないわけがない。アウリスは笑んだ。多分ひどくぎこちない、へたくそな顔だ。

「そうですね。チエルはいらないと思うかもしれません。でも、食わず嫌いはだめです。あなたにとって何が一番いいのかなんて、解りません」

 手を伸ばしてチエルの頬に触れる。その濡れた頬を指の甲で拭う。そうしながら、猫じゃらしの言葉を思い返した。

「だから、それはこれから、じぶんで考えていきなさい、チエル」

 次には、アウリスは子供らしい熱っぽい体温に包まれていた。短い腕でアウリスの首に抱きつき、いやだ、とチエルは聞こえないくらいの声で泣いた。アウリスはしっかり小さな体を抱きしめた。その頭に手を乗せて立ち上がる。

 入れ替わりのように身を寄せ、セツがチエルの額にキスした。チエルは小さく身じろぐ。その体温が離れるのと一緒にチエルはセツを見た。セツがお婆の前へ行き頭を下げる。その隣では、肉だんごが拾った飴の瓶詰めを裾できれいに拭いている。

「達者でな!」

 肉だんごはいつもみたいに笑っていた。立ち尽くすチエルの前に飴の瓶詰めを置く。チエルの目線がそれを追う。ぐずぐず泣いて、今にも目が溶けてしまいそうだった。チエルの方を向いたまま、アウリスはセツと肉だんごの方へ下がった。

「チエル、あなたが考えて、あなたが選べばいい。もしもいつか、あなたがじぶんで剣を握りたいと思ったら、どこの支部でもいい。扉を叩いてください」

「アウリス」

 チエルが堪えていたような嗚咽を漏らす。アウリスは微笑んだ。今度は心から笑った。

「そのときには、黒炭はあなたを歓迎する」

 チエルは途方に暮れた顔をした。そこに心残りがないと言えば嘘になるが、アウリスは迷わず腰の剣に手をかけた。

「行きなさい。ここで見てます」

「アウリス!」

 チエルが出したその半歩に、アウリスは剣柄を握った。両脇で風が薙ぐのが、アウリスが抜刀するのより一瞬早かった。刃は音をたてて鞘を滑り、服の袖が風に乗りゆるやかに弧を描く。何もしていないのに空気が揺れる。チエルは息を呑んだ。彼に向けられた二つの刃は夕日の残滓を帯びて朱色に光っている。奥にいたお婆が初めて声をかける。

「やめんかい、チエル。こいつらは里親じゃないよ」

 お婆はゆったり歩いてくると、木枝みたいに無骨な指でチエルの頭を撫でた。

「こいつらはあんたのものじゃない。黒炭のものだ」

 白く濁った瞳が剣を抜き晒す二人とアウリスを見渡した。お婆に手を握られ、チエルはおずおず彼女を見上げた。アウリスたちの方を気にして顔を向けかけ、そのまま俯く。お婆の木枝の指が折れてしまいそうに強く握る。一拍おいて全く唐突にチエルは手を離し、一目散に門の向こうへ走っていった。

 中庭にチエルの走る音だけが漂い、そこに凛と声が響く。セツだ。

「礼!」

 アウリスは抜刀した。チエルの後ろ姿が煉瓦の茶色い階段に紛れる。膝の下で砂が鳴る。脇の二人も同時に跪く。三人で打ちつけた刃が反射し、刀身は鈍い音をたてて石畳に沈んだ。追うように頭を垂れると、目の前に青いサンダルがきた。

「納得したと思うなよ」

 アウリスたちは遅れてはい、と答えた。鼻で笑う声がする。

「物分かりが良い子供は子供じゃあねえ」

 はい、と返事をしたら、ゴン、という音が立て続けに三回上がった。思わずアウリスは片手を離して頭に触った。い、痛い。涙目になりながら何故か笑いが込み上げてくる。そのせいで、アウリスは泣きながら笑うという変な顔になった。

 俯いたままに、アウリスは柄を両手で握りなおし、頭上のお婆に声をかけた。

「お婆がいてよかった」

「ふん、あの腐れたむさ苦しい場所でいつまで重労働させるつもりだったんだい。わたしはもう歳なんだ」

「痛!」

 低くした頭をオタマで殴られた。な、なんでだ。潤んだ視野に青いサンダルのつま先が退くのが見え、白い衣が翻って乾いた音をたてた。お婆はいちど足を止めて振り向く気配をさせた。

「あんたたちも頑張んなさい」

 いつしかお婆の足音も消えて、アウリスは夕日が落ちた暗い路上に空っぽの風が渡っていくのを感じた。頭を起こし、柄を小さく揺らして地面に突き立てた剣先を出した。そうしながら横目で見る。

「肉だんご、泣かないでください」

「ア、アウリスもだろ……」

「煩いぞ貴様ら!」

「怒鳴らないでください、セツ先輩!」

「貴様もだ!」

 アウリスは剣を一振りで腰にしまい、今は閉じた門を見上げた。低い石造りの向こうには、夜の静けさに包まれた煉瓦の家の窓に、ひとつ、ふたつと明かりが灯っていくのが見えていた。

 

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