6.
雨の降りだしそうな澄んだ灰色の空の下で、アウリスは肉だんごに一冊の本を貸していた。いきなり雨が降ってきたらと考え、いちおう、さるすべりの樹の根元にいる。白い花びらが茂って傘の代わりになっているのを見るのはきっと綺麗に違いない。だが、今朝は王都へ出発するのだ。その旅を思うと晴れの方が何かと都合がよさそうである。
「ましろ?」
肉だんごはそう言って首を傾げた。アウリスは肉だんごが何を言っているのか解らず呆気にとられ、どうやら題名を読んだつもりなのだと気づくともっと呆れた。だけど、アウリスは三年程前から肉だんごの字の教師なので、ここで笑ったりしてはいけない。どんなときでも忍耐強く、優しく微笑みながら指南するのだ。
三本の赤い紐で束ねた本には表紙に題名と、城の絵が載っている。城の絵はいかにも難攻不落そうな岩肌の城である。アウリスはそれを指さした。
「籠城、兵法の基本。そう書いてあります」
「意味わからないよ」
アウリスはむっとした。なぜ解らないのだ。昨日同じ本を見せたではないか。
「というか、どこで真っ白なんか出てくるんですか」
「えっ魔の城じゃないの?」
そっちか。アウリスは続いて何故「魔」が出てくるのかと訪ねたが、「字が複雑そうな形なのが一緒」と言われる。こいつは勉強する気があるのか?
「フィーリングでやっていても何も習えませんよ」
「この字が難しすぎるんだよ」
「本のせいにしない」
「だいたい兵法って何だよー」
肉だんごは明らかにやる気なさげだった。それを体現するように樹の根元に座り込まれてしまい、アウリスはそんな彼の前で仁王立ちになる。そもそも字を習いたいと三年前に縋り付いてきたのは誰だ?
「兵法というのは兵隊を動かす戦略のことです」
この本のことは、字のついでに他のことも教えてあげようというアウリスの親切心なのである。本自体は前に猫じゃらしから借りていたもので、少人数での籠城の為の効果的な戦法を説いている。所謂ハウツー本だ。それによると、城を守ることと城を攻めることとは根本的な手段が違い、前者は上手くすると後者の四分の一の兵力でいいらしい。そういった内容を自らの読書時間からかいつまんでアウリスが言うと、肉だんごは円い目をしばしばさせた。
「そんなんで魔王の城とまで呼ばれるの? 大げさだな」
「あなたの見解が違うんです」
「だめだ、まるでピンとこないよ」
肉だんごは今にも欠伸しそうな顔をしている。アウリスは彼の前に背を屈め、人差し指をすっと伸ばして彼の眉間で一度止めた。勢いよく弾く。彼に喝を入れるつもりだったのだが、思いの他強烈だったらしく、肉だんごはぎゃあと叫んで倒れた。さるすべりの葉が乾いた音をたてる。な、なんて大げさな。
「やられたあ! と見せかけて墓場からドスッ!」
アウリスがしらけた隙を突き、肉だんごはいつの間にか拾っていた小枝を振り返りざまに突き刺した。や、やられた。くるぶしに硬い木枝が押している。アウリスは前のめりに倒れた。
「あ、足をやられたあ! と見せかけてデコピン!」
「一回死んだから死なないドスッ!」
「死者は沼に帰れ! ブスブスブス」
アウリスが手近なところにあった枝を拾い、肉だんごの脇腹をぶすぶすやったら、肉だんごはまた「ぎゃあ」と叫んだ。アウリスも付き合いで「ぎゃあ」と言った。
土と葉っぱの匂いが涼しい。アウリスは思った以上に柔らかい地面が気に入って、ごろりと転がった。肉だんごも隣で大の字になった。曇り空を見上げながら、葉っぱの下で二匹の猫にでもなった気分である。
アウリスたちがゴロゴロ寝転がっていると、駐屯所の方からセツが歩いてきた。夏には少々暑苦しい漆黒の外套を纏っている。アウリスは笑うのをやめてセツを見上げた。木の根元に来たセツも、アウリスと肉だんごを見下ろした。いかにも気味の悪いものを見る目つきだ。
「おまえ達は何をやっておるのだ、笑い上戸か」
「セツ先輩、今日はおめかしですね」
アウリスはゆっくり身を起こした。風のない静かな木の下にいるせいか、欠伸がでる。セツがアウリスを見て顔をしかめる。
「なんだ、行儀の悪い」
そんな事を言われても生理現象は仕方がない。昨日あんまり寝れなかったのだ。アウリスはもういちど欠伸をしながら、隣で身を起こしている肉だんごに本を差し出した。肉だんごの白いズボンが土で汚れている。アウリスは誰が洗濯すると思ってと言いかけたが、途中でやめた。もうそんなことを考えなくていいのだと思い出したのだ。葉っぱが一枚、上手に肉だんごの頭についているのを見つけ、アウリスは指でそっと払う。
「肉だんご、この本あげる」
「え、何で?」
「昨日猫じゃらしに返そうとしたら、旅の荷物になるからいらないって言われたんです。だからもう、面倒なのであなたにあげる」
「ほう、何の本だ?」
セツが背を屈め、アウリスの肩の方から覗いた。肉だんごは妙に渋っている。
「でも俺読めないよ」
「勉強したら読めるようになります」
「つまり教材ってことだろ? だったらいつもみたいにアウリスが持ってたらいいじゃん。俺一人じゃ勉強しないしさ」
アウリスは閉口した。肉だんごが今後は一人でも勉強出来るようにと思ってアウリスはこの本を置いていくのだ。だがそれは言わず、アウリスは場を濁して立ち上がった。厩から正門への道に馬車が到着するのが見えたのだ。
「じゃあ、わたしは行きます」
しばしのお別れだ。アウリスが言いながら振り向くと、セツと立ち上がりながら肉だんごも絶妙なタイミングで一緒にうなずいた。
「行くか」
「俺、王都って初めてなんだよな。どんなところだろうな!」
アウリスはそれに違和感を覚え、足を止める。肉だんごを見ると、何が嬉しいのか木の実を煎る時みたいにほくほくしている。アウリスが思いきり眉をひそめて不審な顔になると、セツと肉だんごも眉をひそめた。なので三人でだんまりすることになった。セツが何気なく拾っていた枝を指先から落とす。
「なんだ、アウリス」
「あ、そうか。見送りですか」
アウリスは唐突に閃いて言ったが、それにセツはますます眉をひそめた。
「はあ? 俺も行くのだ」
「ええ?」
「ええ、って。アウリス、もしかして自分ひとりだけが猫じゃらしに誘われたと思ってるのか?」
肉だんごが呆れたように言うので、アウリスは混乱した。も、もしかしても何も。思い込みではなくそういう話になっていたはずである。
「そ、そんな、二人とも王都に一緒に来るんですか?」
おそるおそる聞いたアウリスに、セツと肉だんごは顔を見合わせた。
「猫じゃらしにはそう聞いてるよ」
「ああ、羽根休めの為の慰安旅行だ。今回の仕事で我々の活躍が輝いていたからだろう。猫じゃらしもごく稀にたまーに一瞬だけ性格と羽振りがいいところを見せるな」
何故かふんぞり返ってセツが言う。アウリスは蒼褪めた。ね、猫じゃらしの奴。施設の仲間たちには一緒に来てほしくないとあれ程お願いしたのに、何なのだ。よくよく思い出してみると、確かに名指したのはアルヴィーン一人ではあった。ではあったが、じぶんの気持ちは猫じゃらしに伝わっていたとアウリスは思っていたのに。
「なんだ、幽霊と怪物を一緒に見たような崩れた面をして」
セツはアウリスの顔を見て失礼なことを言った。アウリスが反応しないと「いい、いい」とあたかも合点したようにうなずく。アウリスは憮然となった。何がいいのだ。何一つちっともよくない。
「まあ、そんな事だろうと思っていた。都に行くと聞いて緊張しているのだな」
「違います」
「おまえのような下賤の田舎者は物見遊山にも行くことがなかっただろう。よかろう、俺が楽しいところに案内してやらんでもないぞ」
貝殻でアクセサリーを作る店とか、造花の教室とかな、などと童女の如く目を輝かせて、とても人前では言うべきでないような個人的な趣味をセツは並び立てていく。アウリスは否定したのに無視され呆気にとられた。肉だんごはわりと付き合いがいいので「楽しそうだなあ」と笑っている。だ、だめだ。これでは本当にみんなが一緒に来てしまう。アウリスは頭を抱える。物見遊山だなんて、みんな猫じゃらしに騙されているのだ。アウリスが何とかしなければならない。
「待ってください。何かの間違いです」
アウリスはセツの袖を引いた。セツはさっきまで地べたを張っていたアウリスの手を見て、嫌そうな顔になった。じぶんの言葉に集中させる為にアウリスはセツの腕を強く掴む。同時に逆の手を伸べ、肉だんごの肩に置く。
「二人とも、可哀想に。実はね、その王都への旅行は七課の中で、わたしだけ行くことになっているんです。何か手違いがあって情報が誤って伝わったんでしょう」
「ええっ? そうだったのか!」
肉だんごは魂切るような悲鳴を上げ、隣のセツと顔を見合わせた。
「そんな、楽しみにしてたのに……」
アウリスは何かとても悪いことをしている気になりつつあった。肉だんごがしょげ、その様子を見てセツが難しい顔になる。アウリスも元気を出してもらう為に肉だんごの肩を叩いてやりたい。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。アウリスは本心からか、作りものなのか解らない申し訳ない顔でセツを見上げた。セツは眉をしかめ、仰々しく息を吐いた。
「よく解らないが、アウリス。おまえの言うことは違うぞ。肉だんご、安心しろ」
「あ、安心?」
肉だんごはまるで人生初めて聞く単語のようにぽかんとした。その様子にセツはため息をつきながら、外套の懐に入れた紙を取り出した。綺麗に三つ折りに開いている。セツはそれをアウリスの目の前にわざと揺らした。
「審議会からの謝礼の言葉と休暇状だ。俺とこいつとおまえ、三人の名前が載ってるだろう。ほら、猫じゃらしのサインもここにある」
アウリスはぐっと言葉に詰まった。その猫じゃらしのサインが一番信用できないというのだ。万事休すである。ここまで証拠を揃えられると、逆に背景を説明せずに相手を説得するのは不可能に近い。思わずセツの腕を掴む手をむずつかせると、その手を強く握られた。セツはまっすぐにアウリスを見ている。
「おまえ、何故そこまで言い募るのだ。も、もしかしておまえ、あえて猫じゃらしと二人っきりとかで行きたかったのか!」
「違います」
「な、なんという破廉恥な奴! しかし残念だったな! 猫じゃらしは既に出発した」
「知っています」
「我らの馬車はあれだ。ほら、五人乗りの大きいのが用意されているではないか。気を落とさずとも、どうしてもと言うのならば花見くらいは一緒に行ってやるぞ?」
こ、こいつ人の話を聞け。アウリスは思わずセツの手を振り払った。今までとは別の意味で口ごもり、俯く。何故か唐突に、服を着つける猫じゃらしの姿が目に浮かんだ。
昨夜の一件を思い返す。アウリスはかーっと頬が熱くなるのを感じた。セツが怪訝とした眼差しを向けてきても、上手い言葉が浮かばない。は、は、破廉恥なんて言う人間が破廉恥なのだ。アウリスは無性に部屋に帰りたくなった。部屋の布団に丸まってしまいたい。けれどそれは即座に実行できないので、恥ずかしまぎれにセツを睨む。セツは驚いたように目を開いた。
「なんだ? アウリス」
「な、なんでも」
「だったら急ぐぞ。チエルはもう準備できている。食堂で待ってるぞ」
その言葉に少しばかりアウリスは頭が冷えた。セツは手紙を畳み、外套の懐に入れた。
「俺は行くぞ。チエルの見送りとか、そういうのもあるしな。絶対行く」
「うん。そうだな」
肉だんごが賛同し、セツは皺ひとつない襟を掴んで正しながら、アウリスの顔を一瞥した。そういえば、チエルを七課に置くとはじめに言い出したのはセツだったのだ。
「この旅ばかりは例えアルヴィーン様に代われと言われても譲らん」
アウリスは万策尽きた。セツは黙り込んだアウリスの肩を押すようにして歩きだす。頭上で「ふん」と意味なく鼻で笑う。口喧嘩に勝てたのでとりあえず嬉しいのだろうか。肉だんごの方を見れば、さっきセツが捨てた小枝を拾い、上機嫌に振り回していた。アウリスはため息をつく。最初の衝撃も去り、アウリスは猫じゃらしの性根の悪さを呪った。ほとほと行動が斜め上の男なのだ。あ、あの天邪鬼……。
休暇に備えて、アウリスたちは何をしたいか予め話し合っていた。肉だんごは食べ物屋に入りたいと言い、セツは占いの店に行きたいと言った。
時々ふとチエルが揺れる馬車の中で目を覚まし、会話に加わったが、彼の案はどれも変てこなものだった。チエルは大きい町に行くのが初めてで、何を期待すればいいかわからないのだ。王都は内陸なので「船」はない。「空に咲く花」も多分ないかと思う。
そうしてアウリスがチエルの発想をことごとく撃ち落としていくと、チエルは不機嫌になり、腹いせにセツの趣味をせせら笑った。セツはひどくうろたえた。彼には「乙女か」と言われる趣向だという自覚がなかったのだ。しまいには、「お花見」を誤魔化そうとして「虫取り」に行こうなどと言う。アウリスはその案も容赦なく撃ち落とした。アウリスは子供の頃から虫が嫌いである。あんなもの、食材にはならないし、木登りの邪魔なだけではないか。
馬車で旅する数日で、アウリスは少しばかり考え方を変えていた。はじめに心配していた同行人たちの身の安全も、よくよく考えてみると余り危険はないような気になっていた。アウリスは正直浮かれていた。ラファエアート王子の即位式はまず城内で行われ、そのあと新しい王となった彼が王都の広場に姿を見せて国民に挨拶をする。つまり、その挨拶の日までは何も起こらないはずだ。アウリスは猫じゃらしと話し合った計画を反芻し、そう結論した。
もっと用心するべきだったかもしれない。だが、休暇にはしゃぐみんなの姿を見ていて、アウリスはそれまではこの時間を楽しもうと決めたのだった。
王都へは五日でついた。当初は四日を想定していたが、二日雨が続いたせいで遅れた。緊急の用があるわけではないので特に支障はない。アウリスたちは毎日宿に泊まっていたから左程疲れておらず、そこでさっそく町を見て歩くことになった。
「ここが王都だ!」
セツは馬車を出たとたんに二腕を広げ、そう叫んだ。まるで彼が王様みたいである。頭上は乾いた快晴だ。夏の日差しが軒先の屋根や、高い所に干されている洗濯物に降り注ぎ、町のあちこちで影を落としている。
アウリスは都市の市場に怖気づいていた。市場の道は活気に溢れている。立ち並ぶ店の軒先では、みんながみんな大声で客を呼び込み、そこへ立ち寄る客も狭い通路が見えなくなる程たくさんいる。アウリスは思い立ってチエルの手を握り、じぶんの前を歩かせた。チエルの逆の手を握る肉だんごが「おい!」と声をかけてくる。
「俺、ちょっと用があるから先に行くよ。すぐ戻る!」
アウリスは肝を抜かれた。す、すぐ戻るって。これだけの人の中で別行動なんて、はぐれようと言っているのと同じではないか。
しかし、アウリスの杞憂も他所に肉だんごは勝手に走り去っていった。アウリスは彼を待つ為にはこの場を動くべきでないと思ったが、人ごみの中で立ち止まっているのは迷惑になる。仕方なくチエルの手を引き壁の方へ避けた。
アーチ状になった軒先の奥ではビーズの小物が売られていた。アウリスはそれにセツを思い出した。後ろにいるはずの彼をふり向こうとすると、前触れもなく衣擦れの音がし、視野が真っ暗になる。
「ぅわ!」
驚いてアウリスは頭に被さった物を掻いた。両手に握り、目の前で広げる。下着だ。白くて薄いレース地。小さな桜色の花の刺繍が胸元を飾っている。アウリスは唖然とした。
「ごめんよー!」
上から声が降り、慌てて見上げようとし、陽射しに目が眩む。アウリスは手の中のものを丸め、それを頭の上に翳して影をつくった。市場の両側には店が並び、その奥には更に建築物が並んでいる。その木材と石で出来た建物の二階の窓に、若い女性が乗り出していた。
「洗濯物、拾ってくれてありがとー。下のとっつぁんに預けて」
アウリスは急いでうなずき、とっつぁんらしき人物を探す為に視線を市場へ戻した。後ろから肩を叩かれ振り返る。焦げ茶色の剛毛と髭をたっぷり蓄えた、年上の男性が立っている。店主のようだ。チエルが手を繋ぐ腕にしがみつく。アウリスは思わず目の前の男と可愛いビーズの小物とを見比べた。
「お客さん!」
店主は会話の声の五倍くらいの声量を出した。
「うちの娘が申し訳ねえ! お詫びに安くしとくよ! どれも世界に二つとない手作りだ。ほれ、見ていきな!」
店主はアウリスの手から洗濯物を奪うと、彼女の腕を掴み品台の前に立たせた。ひとまず下着を回収してもらえて、アウリスはホッとした。こっちは他人の下着を拾ってしまって少しばかり動揺していた。だが、店主の方は日常茶飯事という感じだ。
アーチ状の軒先の方を仰ぐと、もう窓辺には誰もいない。洗濯紐だけが建物から建物へ結ばれていて、ちらほらと服が干されている。アウリスは品台の向こうの木椅子にのそりと腰下ろす店主を振り返った。
「あなたは上に住んでるんですか?」
「うん? そうだよ。このへんに店出してる奴らは殆どそうだ」
アウリスは店主に促され、品台を睨む。きらきら日光を反射して輝くビーズが横並びに寝かされている。輪っかが多く、贅沢にぎっしりとビーズを詰めた立体的な小物もあった。
アウリスは日頃滅多に市場には行かない。行くとすると食材を買い込む時くらいだ。選ぶ基準がわからないので店主にお勧めを聞くと、店主は三つの輪っかをアウリスの手に乗せた。
「若い女の子にはそのへんが人気だな。あと、男の子に贈り物するなら、このへんだな」
店主は言いながら、アウリスの左手に新しく輪っかを三つ乗せた。アウリスは両手が塞がれ左手の方を見た。
ひとつ、際立っているのがある。丁度アウリスの手首を三周する程の長さで、ビーズはアンバーの珠にグレイを流し込んだ色をしている。アルヴィーンに似合いそうだ。
アウリスは早速店主に幾らかと聞いた。店主は一割まけてやると言った。
「こっちのお揃いのと一緒なら三割まけてやるよ」
店主がアウリスの右手の輪っかを一つ、指さした。アウリスは非情に困った。給料袋が入ったばかりだし、旅に向けて猫じゃらしからお金を包んでもらったので、金銭的な心配はない。けれど、アウリスはアルヴィーンの恋人ではないのだ。だから、お揃いはおかしい。そう思うと、贈り物をする事自体がおかしいような気がしてきた。
だいたい、どんな顔をして渡すんだ。アルヴィーンは猫じゃらし程でなくとも好き嫌いがはっきりしているし、万が一気に入らないものを渡して困らせてしまったら……。
アウリスはすっかり怖気づきビーズは諦めることにした。付き合ってもらった店主に悪いが仕方がない。店主に詫びながら返そうとすると、その左の手首を誰かが掴んだ。
アウリスは肩越しに見上げる。セツだ。そういえば一緒にいたのだ。セツはアウリスの手の中を見て、おおらかに笑った。ここまで腹の立つ笑顔をアウリスは未だかつて見たことがなかった。
「ふむ、そのアンバーにグレイのはアルヴィーン様によく合いそうだ。よし! 買おう」
セツは暑苦しい外套から財布を取り出す。店主は商売なので快く品を出し、三色の包み紙とリボンの色と結び方までセツがこまめに指示した。そんなのどうでもいいじゃないか。アウリスは殺意を堪えながらさっさとセツを置いて店を出ると、隣を見下ろした。そこで、ギョッとした。
チエルがいない。アウリスは思わずその場で回りながら懐を叩いた。
「なんだ、アウリス。財布でも落としたのか?」
セツが杏子色に黒いリボンの包みを胸元にしまいながら出てきた。アウリスが彼に事の次第を話すと、セツは蒼褪め、三百八十度見回しながら懐を叩いた。当然チエルはポケットに入っていない。
「どうしよう」
「う、うむ。とりあえず探そう」
セツは今にも倒れそうな顔色だった。アウリスは手近な一本の樹の植え込みを見つけ、そこへ走って頭上の枝に飛びついた。木陰で涼を取るカップルがアウリスを見上げ、変な顔をした。先へ登ろうとすると、アウリスの目の端に駆けてくる小柄な姿が映る。チエルだ。
「チエル!」
アウリスは両手を離し、木から飛び降りた勢いでチエルを抱きしめた。
「アウリス」
「チエル、どこへ行ってたんですか!」
アウリスはチエルを叱り、絶対一人でうろつかない、と約束させた。チエルはしょげて下を向いた。
「ごめん、だって楽しくて」
アウリスはその言葉にじぶんの子供の頃を思い出した。今でこそ食材の買い出しだけだが、昔は町に出ることが楽しみで楽しみで仕方がなかった。市場の活気や、たくさんの人が行きかうのを見るだけで、勝手に心が浮き立ったものだ。こっそりラファエと二人でお屋敷を忍び出たこともあった。
懐かしい気持ちになりながら、アウリスはチエルの頭を撫でた。人ごみを無駄に掻き分けてくるセツが見える。アウリスはチエルの前で立ち上がり、彼の手を握った。
「次はおもしろいお店があったら、わたしたちも連れて行って下さいね」
とたんにチエルは元気になり、「あのね」と叫ぶように言った。アウリスが優しくなったとたん、子供らしいサバサバした感情の切り替えで笑っている。
「俺、見つけたよ」
「うん?」
「空に咲く花。売ってる店があるんだって」
アウリスがふりかえると、彼は「あそこ」と指さす。
「あのダンディーな姉ちゃんが言ってた」
「おねえさん」
「俺、おねえさんたちが話してるの聞いたもん。本当なんだ。あのおねえさんは、空に咲く花を売る人なんだ。でも秘密だから、みんな知らないんだよ」
あのね、とチエルはまだ何か続けようとしたが、セツがすっ飛んできたのを見て慌てて反省していますという感じの顔をつくった。アウリスはチエルが指さした方を見ていた。
ダンディなおねえさん。それはどんなものなのか皆目見当つかない。つかないが、際立って怪しげな人物なら、一人いる。その人物は煤けた外套のフードを目深く被り、炎天下で太陽を嫌うように壁際ばかり歩いている。しかも周囲より頭二つ程背が高い為、その動きはよく目立った。アウリスはその頭がすー、と動いては止まるのを見て、足が悪いんだろうかと訝しむ。少しばかり好奇心が湧くままに視線で追っていると、店のひとつの前に立つ人物と目があった。
「アウリス! セツ!」
肉だんごである。アウリスはびっくりして手を振った。肉だんごも手を振りかえし、何か叫ぶがよく聞こえない。よかった。はぐれなかった。
アウリスはセツとチエルと連れ立ってその店の方へ向かった。近づくと飲食店なのがわかる。木材を二階の窓の下に打ちつけた看板には「コヨーテの残飯」と書いてある。これだけだとあまりにまずそうだが、吹き抜けの一階の窓から漂う香りは逸品で、物凄くおいしそうだ。香ばしいパンの焼ける匂いや、肉が鉄板の上で脂を落とす匂いが変に混ざらず、上品にかおっている。そういえば丁度昼時だったとアウリスは思い出した。肉だんごは手頃な店を見つける為に姿を消していたのか。
急に空腹を覚えながら、アウリスはふと思い立って壁際の方を見た。さっきの怪しげな人物はもういない。アウリスはチエルの言葉を反芻した。空に咲く花。そんなものが本当にあるなら見てみたい。けれど、この人ごみの中、一度見失ってしまうとなかなか目当ての人物は見つけられなさそうだ。
アウリスが何気なくチエルの方を見ると、チエルは何かもぐもぐしている。アウリスの視線に気づいた彼は、彼女の手を握り、反対の掌を翳してきた。きらきら光る赤い飴だ。
「チエル、これ、どこで?」
とりあえず受け取る手を出しながらアウリスが聞くと、チエルはもらった、と言った。アウリスは手の中の二粒の飴を見た。そっと指に取り、舐めてみる。イチゴの味だ。
いちおう毒見に数度舐めたが、心配なさそうだ。アウリスは改めてチエルの顔を見る。
「もしかして、ダンディなおねえさんにもらったの?」
「ううん、ダンディーなおねえさんの客の野郎に」
「男のひと」
「客のおとこのひとにもらった」
チエルは無邪気に笑いながら繋ぐ手をぶんぶん振った。小さな口の中に大きな円くて赤い飴が覗いた。
「その二つはアウリスの分だって」
「え?」
「そう言ってた。めかけはひとつぶで、おくがたはふたつぶ」
それだと、チエルが「妾」でアウリスが「奥方」なんだろうか。アウリスはよくわからなかいが、とりあえず人に物をもらったときはちゃんと大人にいう事、とチエルに約束させた。チエルはヘーゼルの瞳を大きくした。アウリスがそんな顔をされる理由がわからず首を傾げると、チエルは俯き首を振った。
「一日が終わったら約束で俺は頭がパンパンになってしまう」
「何を大人びた口調で言っているんですか」
アウリスはチエルのたんぽぽ色の頭を撫でた。チエルはそれを両手で掴み、手を繋ぎなおした。肉だんごが近づく一行をほくほくした笑顔で迎えた。
「ここ、すごくおいしいって評判らしいぜ! 俺が並んでたから、あと少しで入れる」
「貴様、残飯などという名の店を俺に進めるとは」
セツはチエルが見つかった安堵で情緒不安定になっている為、肉だんごと口げんかを始めた。アウリスは急に物凄くおなかがすいていたのでイチゴ飴を食べた。それを肉だんごが見つめる。土砂降りの日に川で溺れかけている子犬の目である。それに耐えかねて仕方なくアウリスが彼にもう一つをあげると、それを見てチエルが飛び上がった。
チエルは肉だんごの堅い腹に抱きつき、片手を伸ばして服の袖を握った。
「だめだ。言う事を聞かなかったら、夜に悪いものが首を狩りにくる。そう言ってた」
チエルは言いながらも特に怖がっていない風だった。肉だんごは意味なく笑い、チエルは相手の口の中をじっと見て、それからアウリスをふりかえり、「これだと、めかけ。おくがたはふたつぶ」と文句を言った。
「め、めかけ? け、けしからん……!」
セツが蒼褪めて言う。飴を舌で転がしながら、確かにけしからんとアウリスはぼんやり考えた。アルヴィーンの言葉をなぞったときのように生死の話ではないから、アウリスは左程気にならない。だが、子供の使う言葉でもない。
やはりあの怪しい人物を追いかけるべきだったと思い返す。誰だか知らないが、うちの子供に変な言葉ばかり覚えさせないでもらいたいものだ。これだから都会はいけない。でも、飴は凄くおいしい。