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5.

 

 駐屯所から半刻程離れたところに一本の川が流れている。昨夜十二課の連中と戦った丘の向こうから流れていて、地面が平たくなる程に幅が狭くなっていた。アウリスは明かり一つ無い河原を上流の方へ向かっていた。肌寒いように澄んだ夜空を眺めていたら、その下では木々が不気味な影になって揺れているのが見えてくる。

 歩きながら、アウリスは肉だんごがこの間言った事を思い出していた。肉だんごはコンニャクみたいに緩い表情を珍しく真顔にして、女の子だろ、と言ったのだ。あのときは何故急にと気になったが、何のことはない。肉だんごはそういう年頃なだけだったようである。

 女の子は女の子として。男の子は男の子として。肉だんごは生まれて初めて人の性別を気にするようになっているだけのことで、それを肉だんごに意識させたのは多分、先程彼がさるすべりをあげていた医療団の女の子だった。

 それだけのことだ。けれど、アウリスはそれだけのことが解ってひどく落ち込んでいた。

 川のせせらぎを右手に聞きながら、何気なく立ち止まる。見渡せば土手で、喬木の木々がちらほら生えていた。合間には鬱蒼とした緑の茂みが埋めている。眼下の川の流れは暗くてよく見えない。上を向いたら月も見えなかった。星々の澄んだ薄い輝き以外には暗く、奥行きの深い闇だけがある。

 アウリスはすぐ退屈になり、寒々しいせせらぎの中をまた歩きだした。踏みだすついでに小さく屈み、手近な小石を拾う。堅い石を手に馴染ませるようにしてから、川の流れの方に投げた。すぐにトポンと小さな音が上がる。アウリスはため息をついた。

 なんだ。どうしてこんなに静かなのか。腐った気分のままでアウリスは河原を歩く。時々適当な石を見つけて投げるのをくりかえしていたら、そのうち疲れてきた。アウリスは休憩する為に手頃な樹木を見つけた。

 頑丈な枝を掴み、樹木の表面に片方の足の裏で踏ん張る。アウリスは足場を見つけるのもそこそこに次の枝を掴み、次々に登っていき、驚異的な速さで木をよじ登り終えた。太い枝を跨ぐようにして座る。まあまあの高さだった。子供の頃にいた施設の二階の窓くらいだ。もう少し高くてもいいのだが、てっぺんに行くほど枝も幹も細くなっているから、どうやら登れるのはここまでである。アウリスは視線を前に戻すが、地上と変わらない景色にはまたすぐ飽きそうだった。仕方なく片足を木の上に曲げ、それを抱く。

 高いところ特有の匂いのない風が吹きすぎていく。紐を失った後ろ髪が広がるのをそのままに、アウリスは少しばかり襟を肌蹴け、ネックレスを取り出した。

 星々の僅かな灯りを吸い込んで光っているそれを見る。レアトールの大狼の黒い牙。不思議と何年たってもくすまない。アウリスだけ年々大きくなるので、彼女の掌の中で年々牙は小さくなっている。

 昨日手に取ったばかりのように黒く澄んだ牙をアウリスは見ていたが、やがてそれにも飽き、絶え間ない水のせせらぎの方を見下ろした。水はところどころで小さな流れになっていて、星明りが屈折するのか、そういうところは少しばかり光が集まっている。アウリスはなんとなく、この川はどこまで続いているんだろうと考えた。小石を幾つ投げ込んでも変わらない。川の流れの先はもう決まっていて、夏の生温い水がただそこに向けて落ちていくだけなのだ……。

 アウリスは妙に憂鬱な気分がひどくなっていた。黒い牙を衣服の下にしまい、襟ボタンを元通りに留めているとふと気配を感じる。アウリスが肩越しにすると、そこには見返す目はなかった。黒いフードが鼻の先っぽまでを覆っているからだ。アウリスを見つめているに違いないフクロウの眼みたいな黄金の輝きも、その奥に隠れている。

 アウリスはあまりに突然のことに固まっていた。アルヴィーンはアウリスが動かないと自身も動かなかった。アウリスは小さく息をのむ。

「……アルヴィー……ン」

「アウリス、ここで何をしている」

 それはこっちの台詞だとアウリスが思っていると、微かな衣擦れの音と共にアルヴィーンがすぐ後ろの枝に移ってきた。外套の裾が背中をなぞるのを感じて、アウリスはとっさに下を向く。

「アウリス」

 アウリスは膝の後ろに鼻まで埋もれた。こうすることに特に意味はない。顔を見られるのが急に恥ずかしかっただけだ。でも、アルヴィーンは変に思ったかもしれない。

 返事のないアウリスを見て、アルヴィーンは何か考えるようにしてから、彼女の旋毛にあった視線を川の方へ向けた。「静かだな」という。

「今日は星がよく見えるな」

 ほ、星? 無機質人間のアルヴィーンでもそんなものを数えたりするのか? アウリスはびっくりして、遠慮がちにアルヴィーンを見上げた。アルヴィーンの目元を隠すフードが微かに揺れる。それ以上何も言われず、アウリスはものの四秒で沈黙がきつくなった。

「アルヴィーン、今夜はここで見張りなの?」

「非番だ。支部の牢の番を明け方に」

「そうなんだ」

 七課の裏部隊は昨夜から二手に別れていた。ひとつの部隊は山賊の残党を追って出ている。付近の支部に探索の手助けを頼んだりもしているらしい。もうひとつの部隊は表部隊のアウリスたちと共に留まっていて、目的は賊に浚われた女子供を探すことだったが、それも今日のうちに解決した。ギリギリだった。というのも、薄情者の賊たちは自分たちのことしか考えないので、身軽でいる為に捕えた人間たちを牢代わりの山奥に置き去りにしたのである。後少しでも助けが遅れていたら、女子供たちは飢餓死体になっていたのだ。

 死体ではない家族が戻ってきて、依頼主を含めた町の人間たちも喜びはひとしおだった。生憎アウリスは晩御飯の準備があったのでグレウと一緒に行けなかったが、役所では感謝文と依頼料の残りをたっぷり頂いたらしい。依頼にもよるが、今回は依頼を解決した後に全額をもらうことになっていたのだった。

 そういう背景で、七課は今夜この土地で初めてのんびりした夜を過ごせているのだった。アウリスがそう言うと、アルヴィーンは難しげに頭を傾げた。フードを目深く被っているからアウリスの話に共感しているのかはわからない。声にも表情がなく、「かもな」と嬉しそうでもなんでもないようにいった。アウリスは少し一人で考え込んだ。

 残党の足取りはほぼ間違いなくわかっているらしいから、別部隊が彼らを捕えるのは時間の問題だ。あとは、国家騎士団に罪人を引き渡すときの作業だけになる。

 そのあとはどこへ向かうのだろう。アウリスは考えながら、眠くもないのに出かけた欠伸をかみ殺す。伸びをする為に頭の上で腕を組んだ。そこでハッとした。だめだ。

(ま、また仕事の話ばっかりになってた……)

 アウリスはガッカリした。どうしてこう、アウリスはアルヴィーンの前でばかり仕事熱心になるのか。仕事熱心はいいが、そればかりだと退屈ではないか。アルヴィーンも実はそう思っているのではないか? アウリスは彼に面白味のない女だと思われているかもしれない……。

 そもそも、他の人のときはこうはならない。おかしい。アウリスは意を決してアルヴィーンを振り返って、一生懸命他の話題を考えた。アルヴィーンは不甲斐ないアウリスの沈黙にも突っ込んだりせず、辛抱強く付き合ってくれていた。仕事以外の娯楽か。娯楽……。

 アウリスは考えすぎた。気づくととんでもない事を口走っていた。とんでもない事だと直後に気づいたが、もう遅い。

「そういえば、猫じゃらしが女の子を連れてきてるよね。アルヴィーンは行かないの?」

 アルヴィーンが腕を組む。アウリスは閉口した。例のごとくアルヴィーンの表情は見えない。な、何か反応をくれないものだろうか? 笑い飛ばしたり、呆れてくれてもいい。アウリスは居た堪れなさを早急に解決してもらいたかったが、アルヴィーンは貝のように押し黙っている。もう嫌だ……。

 アルヴィーンが行きたいと思っていたら、ということを考えて、アウリスは虚しくなった。本当に、ただ仕事じゃない話をふりたかっただけで、決して当てこすりを言いたかったのではないのだ。アウリスはもうどうしたらいいのか解らなくなった。下を向くと、奇妙なことに泣きそうになる。どうしよう。もし、「もう行った」とか言われたら。アウリスはきっと遠回りで面倒くさい女となってアルヴィーンに呆れられるのだ……。

 ふと衣擦れの音がし、アウリスはその方向に顔を向けた。少し上がった顎をアルヴィーンの指に捕えられる。アルヴィーンはアウリスの逸らした頭の上に彼自身の顔を被せた。

「アウリス」

 アウリスはアルヴィーンの唇を見た。それは、息がかかるような位置にある。唖然となって口づけられた自分の唇をアウリスは押さえた。顔が熱い。視線の先では黒いフードが僅かに揺れ、アウリス、ともう一度呼ばれた。

「引き留めたければ、こうすればいい」

 そ、そんな体を張れと? アウリスは訳もわからず、拳を作った。口を押えてないと本当に心臓が飛び出る。動悸が早い。こんなの、誤解だった。だが、猫じゃらしの連れてきた娼婦に会いに行ってほしくないのは本心なので、何も言えない。だったらこれは的を射たことになるのか?

 アルヴィーンがフードの縁を撫で下ろすようにして脱いだ。久々に顔を見る。アウリスは惹きつけられた。一瞬他の何も見えなくなった。遅れて、ひとつ後ろの枝の上に屈むアルヴィーンのむこうに、さっきまでなかった月が浮かんでいるのに気づく。満月だった。

「ア、アルヴィーン」

 アウリスはそれ以上何も言えないで、アルヴィーンの額に確かめるように触れる。なめらかな曲線を描く眉毛に触れた。すうっと頬の三分の一くらいまで撫でていく。じぶんの円い指が辿る下で、傷跡は上手に隠れている。人差し指程の太さの傷筋。

「アルヴィーン、アルヴィーンどうしたの」

「なにが?」

「だ、だって」

 アウリスはショックを受けていた。無心でアルヴィーンの顔の傷を辿っていたら、その傷の持ち主が少し笑った。アウリスは笑えない。こんなの、知らなかった。一体アウリスは今日まで何を見ていたのだ?

 この七年、アウリスはアルヴィーンと一緒に仕事をしているつもりでいた。毎日ではないが顔も合わせていたのに。それに関わらず、アルヴィーンはこんなに遠かったのだ。アウリスはアルヴィーンが危ない目に遭っていてもさっぱりわからなかった。

 震える指で傷を辿っている手をアルヴィーンに握られた。亜麻色の髪が手首にかかり、アウリスはどうしようもなく心細くなった。何も言わずに下を向くアウリスを見て、アルヴィーンはまた少しだけ笑った。

 どうして笑えるのだろう。傷のことだけど、傷のことじゃない。二人のことだ。二人の間に開いていた距離が、アルヴィーンにはどうでもいいのか……? 

 顔を上げると、何か言いたげなアルヴィーンの唇が見える。アウリスはその唇にじぶんの唇を寄せた。アルヴィーンが一瞬息をのむ。

「アウリス」

 呼吸を合わせるようなタイミングで呼ばれ、アウリスはうっとりした。アルヴィーンの亜麻色の睫毛が動く。彼が目を伏せて、そのまま樹の上で肩を抱かれた。アウリスは初めて会った時に目を奪われた美貌を見つめた。どうしよう。アルヴィーンが好き。アルヴィーンのことが大好きだ。アルヴィーンはきれいだと何回も思った。

 繋がった口の合間に舌が差しいれられる。アウリスは急に体温が上昇して、慌てて息を止めた。息苦しい。熱の塊が口の中で動く。それが恥ずかしくて死ねると思った。でも、熱いのは恥ずかしいだけでもない。アウリスが戸惑いを必死に押し殺してジッとしていると、合わさった唇のあいまに小さく笑い声が漏れた。

 肩に回る腕に力がこもる。暫くして顔が離れたときにはアウリスは顔から火が出そうになっていた。アルヴィーンは笑っている。小憎たらしい笑みからアウリスが思わず目線を逸らすと、前髪を指で流された。アルヴィーンの手が頭の後ろにまわり、こめかみに唇が押しつけられる。

「降りるか」

「う、うん」

 アウリスは空返事をした。アルヴィーンの腕に頭を抱かれながら、驚いたことに彼の心臓の音が聞こえてくる。アウリスはそれに物凄く戸惑った。それでもお互いに心臓の音が徐々にゆっくりになっていくと、アウリスも少しばかり生き返った気分だった。躊躇いつつ頬を寄せてみる。アルヴィーンの腕の中はとても暖かい。

「この仕事が終われば、二人でどこか行くか」

 皮肉なことかもしれないが、アウリスはその言葉に正気に返ったような気分になった。アルヴィーンは腕の中でもぞもぞするアウリスを見下ろし、アウリスが視線を感じて顔を向けると唇を塞いだ。特に返事は期待されてなかったらしい。彼は特にそれ以上してくることもなく、アウリスは少しばかりホッとした。

 まったく、いつも飄々として。本当はどこまで気づいているんだろう。アルヴィーンは四日前の夜、アウリスが猫じゃらしの使いのラーナと会ったときも、小屋の中にいた。七年前からそういう感じだ。いつも際どい場面を彼に見られてばかりである。本当はアウリスの出自だってもう知っているんじゃないか? 

 唇を触れあわせたまま、アウリスはおずおず遠慮がちにアルヴィーンの頬に触れる。指先でそっと傷を伝う。アルヴィーンは少しだけ目を開いたようだ。唇に吐息がかかり、アウリスはむっとした。まったく笑いごとじゃない。今度アルヴィーンが怪我をしたらアウリスは心臓が止まるかもしれないのだ。絶対死にたくなる。だから、そんなことはあってはならないのだ。

 考えていると、何気なくグレウが頭に浮かんだ。それから、肉だんごとさるすべりを思い出した。どうやら、アウリスはどちらかと言うとグレウ派の人間だったようだ。アウリスがやっと目を開けたら、すぐ近くにアルヴィーンの見返す目がある。黄金色に艶めいて、やっぱり捕食鳥みたい。アウリスは躊躇いつつ言った。

「あ、あのね、アルヴィーン。わたし、べつにアルヴィーンが女の子たちに会いに行くのが嫌だっただけじゃない。アルヴィーンとき、ききキスしたかったよ」

「なにが?」

 聞き返すアルヴィーンは笑っていた。依然あまり表情は動かないが、唇の僅かに吊り上がった形が呆れるほど愉快といわんばかりに見えた。額から頬にかけての傷も歪んでいる。し、失礼な。アウリスはここだけは誤解されないようにしたかっただけだ。アルヴィーンを独占したいという気持ちだけでキスしたんじゃない。もちろん、猫じゃらし相手のような挨拶でもなかった。

 アウリスはぷいと顔を背け、じぶんの跨ぐ枝から降りた。目線が下がり、丁度よく正面にきた枝を掴む。瑞々しい葉の茂りが頬をくすぐる。高いところに登るのはもともと得意なので、アウリスはものの十秒もしないうちに地面に降り立って、樹の上を見上げた。頭上で吹く風に混じり、アルヴィーンの呼ぶ声がする。アウリスは両手をまるく口元に翳して叫んだ。

「明日! 王都に行くから、チエルを連れていくね!」

 木枝の上に屈んだまま、アルヴィーンは首を傾げたようだった。アウリスは気に留めずに感情のまま走り出した。ふと思いついて慌てて振り向く。

「もしも猫じゃらしに旅の護衛につくよう言われたら、断ってください。アルヴィーン、約束ね!」

 アウリスは再び走りだした。木々の合間にアルヴィーンが立ち上がるのが見え、亜麻色の髪が闇に溶けた。性懲りもなく、アルヴィーンはきれいだと思った。流れるような切れ長の目の形も、琥珀色の目の輝きも。アルヴィーンはどんな貴族の家で見たどんな肖像画よりずっときれいだ。

 アルヴィーンはわりと頼めば用事を聞いてくれるタイプなので、きっと大丈夫だろう。アウリスはこれから猫じゃらしの元に帰るつもりだし、彼にも言って、アルヴィーンを明日の王都行きの仕事から外してもらったらいい。

 アウリスのいた河原と駐屯所までは直線で半刻ほどある。上流に出ていたから少しばかり遠いかもしれない。木々の揺らめきが背後になるのを聞きながら、アウリスはこの時間を利用して考えた。

 アウリスには王宮がじぶんのことをどう考えているのかわからない。七年前、まだ十を超えたばかりの子供だった頃に、アウリスはその頃仲が良かった王子について、ひとつの疑惑を抱いた。それは、彼の出自についてだ。ラファエアート殿下はグレン国王の子供ではないかもしれない、という疑惑だった。

 その疑惑は王宮にとって些細なものかもしれないし、早急に潰しておきたいと思われているかもしれない。ここ四日ほど考えていたが、やはりそこはアウリスにはわからなかった。ただ、じぶんは七年前にそのせいで殺されかけたのだ。それは紛れもない事実である。猫じゃらしが用心しろというのもわかる。

 だが、猫じゃらしの気持ちは別の場所にあったのかもしれない。

 夕方会った猫じゃらしの様子が浮かぶ。アウリスは今日まで、ここ数日の出来事をきちんと理解していなかったことに気づいた。「ラファエさまが王位を継承すること」、それがアウリスにとっては全てだったからだ。

 だけど、それはきっと事件の一面でしかない。猫じゃらしは本当は別のことを言いたかったのではないか。「グレン国王が死んだ」こと。それが、彼にとって全てだったのかもしれない……。

 悩んでいるうちに正門について、アウリスは誰もいないのをいいことに花壇を斜めに突っ切った。本堂へはこれが一番の近道なのだ。駐屯所の付近にも人はおらず、少々行儀悪く屋内を走る。

 女たちはみんな出払っているのだろうか。全員添い寝の相手を見つけたとか? アウリスは元々過敏になっていたので、心が乱れるようなことは出来るだけ考えまいと思い、坂の下から目的地を見上げる。二階通路には灯りの筋が漏れている。坂を上り、隙間だけ開いた扉の前に立った。

 ラーナの姿はない。もう一人の護衛も見当たらないようだ。アウリスは一度止まると社交辞令でノックする。「誰だ」と気怠そうな声がかえった。アウリスは無言で扉を押した。

 案の定、部屋には女の子たちも七課の姿もない。八方に燃えるかがり火により明るく保たれた部屋の中央では、銀の髪のてっぺんが、カウチの向こう側で見え隠れしていた。アウリスは何をしているんだろうと思いながら歩いていく。すると衣擦れの音が聞こえる。い、意外だ。あの猫じゃらしがことさら真面目に剣の手入れをしている。アウリスはそんな彼を見るのは初めてだったので驚いた。

「剣の手入れ?」

 アウリスが見たまんまを言うと、白い布で上手に刃を挟みながら「ああ」と猫じゃらしは答えた。

「なんで急にそんなことしてるの?」

「急じゃねえ。毎日やってる」

 そうなのか? 見ていると猫じゃらしの膝の上から打ち粉がころりと転がった。白い粉を撒きながらアウリスの足元まで来る。猫じゃらしの後ろ姿が小さく舌打ちした。アウリスは打ち粉と猫じゃらしをおずおずと見比べた。

「猫じゃらし。あのう、明日のことを考えてたんだけど」

 アウリスは少し待ち、不躾な猫じゃらしが客人をふり向かないのに、仕方なく彼の背中に語りかけた。

「王室の呼び出しを無視することって出来ないの?」

「無視した方がよっぽど何か隠してるみてえだろ。俺を追われ者にする気か」

「そ、そんなもの?」

「そんなもの」

 猫じゃらしはいつもの軽い調子だった。真正面に剣を立て、彼は裸の刃を、拭い布をたっぷり使って上へ上へ拭っていく。アウリスは手持無沙汰に突っ立っていた。猫じゃらしの静かな手際を眺めていても、アウリスの動悸は静かになんかならなかった。

 妙に心がざわつく。猫じゃらしは何故刃を清めているんだろう。何のために。誰のために。暫くして思い出したように猫じゃらしから返った。

「それに、俺が行きてぇの」

 刃がかがり火の炎に揺れる。猫じゃらしは手を止め、その反射する光を美しい瞳にとっくり映した。アウリスは押し黙っていた。わけもわからず、緊張に体が硬い。息が苦しい。指先が冷たい。

 見ていると、刃の輝きは光の滴のように不安定にうつろう。アウリスの頭にも様々な景色がうつろった。レアトールの大狼の牙、それをくれた人、木の上のアウリスを地上から見上げるラファエの、青より青い瞳。売られたいのかと言った猫じゃらしの、意地悪な顔。

 アウリスは猫じゃらしを呼んだ。睫毛が震える。

「猫じゃらし」

 ……前回は、猫じゃらしが助けてくれた。彼は森の中でアウリスを殺さなかった。アウリスを探す騎士団からも彼女のことを隠してくれた。じゃあ、その恩返しがしたいのか?

 多分違う。アウリスはじぶんの気持ちと向き合おうとした。頭にはひどく懐かしい面影が浮かんでいた。寡黙で静かな、ジークリンデの主の顔。七年前の父の面影。忘れていたような涙が落ちる。あのときも、七年前の夜も猫じゃらしが隣にいた。猫じゃらしはあのときのじぶんと同じ気持ちなのだろうか? アウリスは手の甲で頬をいちど拭い、猫じゃらしを見た。

「わたしはやっぱり知りたいよ。王宮の話とか、お父様のこととか、あなたのこととか知りたい。わたし、朝までかかってもいいよ」

 一大決意を告白し、アウリスは猫じゃらしの首筋に後ろから抱きついた。絹のような銀髪が腕を撫でる。猫じゃらしは何か考えるようにしてから、アウリスの手の一本を手首のあたりで掴んだ。

「貴族女ってのは気紛れな奴が多いなあ」

 猫じゃらしはすがすがしいように笑った。アウリスも笑った。手首をなぞる猫じゃらしの指がくすぐったい。目の前の大きな背中に頬ずりしたら、彼の体を伝ってじぶんの心臓の音が聞こえてくる感じがして、アウリスは暫くそれに耳を澄ませた。


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