4.
悪い予感は的中していた。暖炉の炎の消えた薄暗い部屋には一組のすらりと背の高い男女がいた。背中しか見えないが、女の方は泥ネズミ色の羽織りを纏うセル=ヴェーラなのが解った。美しい金髪が黄金の炎みたいに広がって光源になっているのが見えて、アウリスは慄いた。彼女の内の怒りが噴出しているみたいに見えたからだ。
「グレウさま……、こ、これはどういう、どういう……」
円やかな肩を細かく震わせて、セル=ヴェーラが詰問した。その先にはグレウが寝台の端に半掛けになっている。
「どういう? それはこっちの台詞だっつの、いいところ邪魔しやがって」
(こ、こいつ堂々と開き直ってどうする)
堂々と言えばまさにグレウの恰好がそれである。彼は上半分に何も纏っていないのだ。数年前に、これもまた堂々とした大面積で入れた黒い刺青が、均等に筋肉を盛り上げた屈強な両の肩と腕を覆っている。へその辺りにも同じように模様が入っている。アウリスも見るのは初めてだ。普段はそんなにズボンを下げて歩かない。グレウは極度の人見知りなのに、そんなところに入れて誰に見せることがあるのだろう。
だが、逆に言えばこの現状は非常に異質だということだ。アウリスは危機感さえ覚えた。グレウの代わりに手が震えそうだ。
グレウは安定の被害者率なので、状況的に見てどうであれ、押し倒すより押し倒されたことは明白だった。グレウが猫じゃらしの前で着ていた濃翠の上衣が寝台の支柱にかかっているのをアウリスは見た。一方で、正装の襟シャツの方は寝台の足元でくしゃくしゃになっている。アウリスはそれを誰が洗濯して皺を伸ばすと思っているのだと不満になったが、今問題はそこでもない。
ズボンはズボンで、へその下のかなり際どい部位までずれ落ちているし、足元は裸足だ。まずズボンを引っ張り上げろ。グレウは何を間抜けてたのだろう。じぶんで全部脱いでくつろごうと横になった途端に、先ほどの娼婦に待ってましたとばかりに襲われたのか? 生憎アウリスにはそれ以外のシナリオは思いつかなかったが、セル=ヴェーラは多分どういった経過だったとしても怒るような気がした。
アウリスは後ずさりし、戸口の傍に植えてある生垣の柵を掴んだ。盗み見はさすがに悪趣味かと考えたからである。だが、アウリスが踵を返すより先に室内で物凄い声が上がった。
「グレウ様アアアァ!!」
「%&*#$!?」
セル=ヴェーラはグレウに抱きつき、グレウはセル=ヴェーラに背負い投げをかました。アウリスの位置からは見えないが多分間違いないだろう。衣服を着ていない分、グレウは人間の威厳を失って獣の咆哮みたいな声を上げていた。
泥ねずみ色の衣を羽根のようにはためかせて、セル=ヴェーラは戸口から噴射された。砂の瀑布が巻き上がり、一瞬何も見えない。セル=ヴェーラはうつ伏せで勢いよくスライディングしてから、何事もなかったかにむくりと上半身だけを起こした。
アウリスは戸口を突き抜けて飛んできたセル=ヴェーラから慌てて身を隠すのに一生懸命で、すぐに気づかなかった。無我夢中で飛び込んだ生垣の茂みの上へ、顔だけを出す。砂煙が引いた後の地には人影がこんもり浮かんでいた。戸口にはグレウが脱力した体勢で膝に両手をあてている。いつもの二人と同じだったが、いつものようにセル=ヴェーラは起き上がらない。微かな息遣いがやっと耳に入り、アウリスはぎょっとした。手の甲で口を押えていたセル=ヴェーラは、逆の手を地面について、尻込みするみたいな恰好で立ち上がった。
辺りは妙に静かになっていた。そのせいで、滴の落ちる小さい音がいやによく聞こえていた。アウリスはすっかり肝を抜かれて、オドオドしていた。何よりアウリスが驚いたのはグレウの顔だった。
冷淡な表情だった。表情筋が削げ落ちて物凄く鋭くなっていた。黒い瞳は碁石のように光沢を失い、薄情そうに見える。普段のように怖ろしさではなく、無関心なまでに冷たい印象だった。
アウリスは無駄にオロオロしてセル=ヴェーラを見上げた。この場で明らかに第三者なので声をかけたりも出来ない。グレウに相対して、セル=ヴェーラは普段以上に感情を溢れ出すように体現している。
「グレウ様が好きです」
思わずアウリスは口を押さえ、グレウは押し黙った。グレウが膝に手をあてるのをやめて身を起こす。アウリスはセル=ヴェーラの泣くのを見るのは初めてだったが、グレウの態度もひどく気になった。抱きついては投げられ。抱きつかれては投げ。アウリスの中ではグレウとセル=ヴェーラの関係はわりと半永久的にそんな感じだったのだ。
グレウなんか、今も半透明な冷や汗のような何かを全身から吹き出させている。驚愕の根性のセル=ヴェーラも、いつもと同じに投げられても悲鳴ひとつあげない。アウリスには何が違うのかわからない。けれど、セル=ヴェーラの「グレウ様」と呼ぶ表情は異質な程に切羽詰っていた。
「わたし、ずっとグレウ様のこと困らせてるってわかってました。でも、他にどうすればいいか解らなくて、どうしても気が惹きたくて、いろいろ困らせるような事をしてしまいました。ごめんなさい」
セル=ヴェーラは両手を胸元で組んだまま、急に明るい笑顔になった。
「でも、もう全部そういうの、やめます。これからはわたし、グレウ様が嫌だと思うことはしません。わたしはグレウ様と一緒にいたい。一緒にご飯食べたり、楽しい話をしたりとかそういうことをしたい。これ以上グレウ様を困らせるようなことは絶対しない。これまでのことは謝ります。だから、これからは少しずつ、もっとわたしを知って欲しいです。少しずつでいいから、わたしと一緒にいてほしい」
「俺はおまえのそういう話が困る」
「……グレウ様」
グレウは絶句するセル=ヴェーラを眺めた。
「俺はべつにおまえのこと興味無えよ」
その言葉にセル=ヴェーラは一拍おいて涙を滲ませた。元々気丈な性格だから、嗚咽を堪える為に唇を引き結んでいるが、それも震えている。というか全身ぶるぶるしている。
アウリスはあまりのことにグレウに対し腹の底で静かな憤りを渦巻かせていた。グレウは戸口の上枠に腕でもたれ、「話はそれだけか?」と聞いた。
「おまえもう、七課の派遣先に出てくんな。セル=ヴェーラ。医療団ってことで確かに仕事場じゃ世話になってるが、こういうのはいらねえ。そんなら居ない方がいい。おまえも、おまえの医療団も、俺はいねえ方がいい」
セル=ヴェーラはやがて胸の前で組んでいた両手を下ろした。顔が真っ青だった。それでも何か言おうとしているのか、言葉を探す間に手持無沙汰な感じで棒立ちになっている。その目を覗くように僅かにグレウは頭を傾げた。
「……話はそれだけか?」
(こ、このひと、顔のとおり鬼なの?)
アウリスは一連の展開に衝撃を受けた。グレウのことは怖い怖いとアウリスも思っていた。思っていたが、こんな血も涙もない調子に乗った男だとは思わなかった。セル=ヴェーラは小さく後ずさり、グレウがまだまっすぐ見つめてくるのを見てから、急に頭を下げた。
「失礼しました」
セル=ヴェーラは踵を返して本堂の方へ走り去っていった。アウリスがさっき開けたままにしていた裏庭の戸が閉まる音が聞こえ、自室の戸口に佇むグレウもその頃になってやっと部屋の方へ入りかけ、ふと肩ごしに振り返った。
「ァ、アウリス!?」
(何だそのびっくりした顔は)
表情筋抜けていたくせに今更、しらじらしい。
茂みの中で肩まで生えたアウリスを見て、グレウは固まっていた。アウリスは彼の元へ歩いていくと、彼が後ずさる分だけ彼の室内へ侵入した。玄関の横に庶民的な施設には珍しく靴立てがあったが、構うものか。今アウリスはどこまでも土足で踏み入る気分である。
「セル=ヴェーラさん泣いてましたよ」
「はあ?」
「泣いて走っていきましたよ。どうするんですか」
グレウは急に後ずさりをやめ、アウリスの勢いを一瞬だけでも萎えさせるような怖ろしい真顔で彼女を見た。
「んなもん知らねえ。てめえには関係ねえ」
(知らない?)
アウリスは見ていただけで意味なく罪悪感を覚えていたというのに、当人のこいつは知らん顔をする気か?
アウリスはひどく不愉快だった。そもそも、知らないとか、そんなこと女の子を泣かせていて、言わない。自分のせいじゃなくても言わない。グレウはこのまま彼女を放っておくのか? それでいいのか?
このさい、相手を好きじゃなかったとしても何か他に言い様はあったはずだった。あんな風に傷つけないでよかったはずだ。例えば、美しい何かに包んで遠まわしに断るとか。
(いや、そんな技術、このひとにはないかな)
それでも、この場合には当てはまらない。グレウの気持ちはそうじゃないのだから。
「……そうですか」
このとき、アウリスは真面目にグレウに怒っていた。素早く辺りを見回したアウリスは、玄関の横壁に数本の木刀が立て掛けてあるのを見つけた。練習用のものだ。幼い頃に使っていたものではなく、施設を出た後に渡された一層重く、長いもの。
「アウリス」
アウリスは木刀を一本右手に持ち、残りの二本を困惑げな声を上げたグレウの方へ投げた。グレウは日頃の条件反射で両手にひとつずつ受け取る。
アウリスはそれを見届けるや否や、飛び出した。
最初の一踏みは、木刀が三回転して宙を舞った距離を一気に渡った。アウリスはわりと低かった天井にひやりとさせられるが、当然ながら空中で軌道変化なんか出来ない。木刀をオーバーヘッドから横へ構えなおすしかない。
そのおかげで、最初の一撃ははじめに計算したより勢いが落ちてしまった。鈍った剣先をそれでもグレウの斜め上から叩き込んだが、あえなく払われる。払われたら後は、もう一本の刀がくる。グレウは七課で唯一の二刀流なのだ。
「っ何のつもりだ!」
牙を剥く迫力でグレウの怒鳴り声と刃が迫った。アウリスは剣先でグレウの一撃を払い、逆方向へ吹っ飛んだ。単純な力負けである。
(っ、やっぱり重いな)
アウリスは慌てて立ち上がる。戸棚の角で打ったせいで肩が鈍く傷んだ。グレウはアウリスに休憩を許さない。アウリスは急いで間合いを取り、重力を帯びた刀が滅茶苦茶に襲いかかるのを滅茶苦茶に払いまくった。
「てめえっ……屋内で、なぁっ……暴れて機材壊したらっ……どうすんだコラアアっ!」
(あ、あなたもじゃないか!)
二本の刀を己の手のごとく操るグレウがアウリスの真正面に競り込んだ。グレウは元の性格で几帳面さを兼ね備えた男だから、敵に回られると物凄く厄介だ。破壊的に、かつ怖ろしいくらい的確に打ち込んでくるのだ。
アウリスはその間合いの更に奥へ踏み込んだ。じぶんの得意なゼロ距離に持っていこうとしたのだ。グレウはそれに気づいたのか目を細めた。そして、いきなり片足で床を一度踏んだ。板張りを打ち抜きそうな勢いだった。地鳴りが床を震わせ、アウリスの全身にまで伝う。
「っ」
「どうした、ん? アウリスよお」
アウリスが寸でのところで止めた木刀が鈍い音をたてる。それ越しにグレウが凶悪な笑みを浮かべた。
「そこまでするなら、てめえの癇癪に付き合ってやる。てめえが地面に落ちるまで止めねえ、覚悟はいいか、あア!?」
(え、いや、ちょっと後悔……)
グレウは自分が言い終えるより早くにオーバーヘッドで双刀を構えたかと思うと、嘘みたいな力で横薙ぎを仕掛けた。アウリスは息が上がっていて何も返事出来なかったが、退く気もないので応えた。というか、応えないと死ぬ。グレウはわりと傲慢な一面があって、アウリスは彼が戦いで相手を許すのを見たことがない。昔からそうだった。楯突いてくる人間はくそ生意気だという。そう言って、徹底的に己の優位を相手に叩き込むまで許さない。
――それだけの押しの強さが、さっきもあったらよかったのに。
グレウの切っ先が頬を掠った。とくに痛いとは感じない。それより腕が重い。そろそろまずいと思い、アウリスはじぶんから次の一手を仕掛けた。正面衝突を長引かせることになっているせいで、体格の差がそのまま戦局に現れる頃だと思ったからだ。
袈裟懸け風に一本、薙ぐ。アウリスはグレウがそれを避けるのを予測して、一つの動作で柄の部分を打ち込んだ。耳元で爆風が鳴る。柔らかい黒髪がじぶんの頬を撫でていく。
髪紐を失った後ろ髪が広がるのをそのままに、アウリスは目を見張った。失敗した。グレウは寸ででアウリスの柄が顎を打つのを避け、刃で切り返したのだ。アウリスは構えを正す為に踏み出そうとして、足首が変な方向に曲がった。
「っうわ!」
つんのめったアウリスの顔に自身の長い黒髪が被さる。こんなときに何も見えない! アウリスは慌てたが一瞬のことで、すぐに目の前が真っ白になるような衝撃が襲った。ひどい痛みが脳天に響く。
「っ」
「痛ってぇ、……てめえ」
ごん、と空っぽの壺が打ち合うみたいな音で、アウリスの頭とグレウの顎が衝突したのだった。身長差を考えると、あり得ないことであった。しかし、戦闘中にグレウが親切心を出し、転びかけたアウリスを助ける為に手を伸ばしたという事の方があり得ないので、アウリスは本当に、このとき何が起こったのかさっぱり解らない。とりあえず、物凄い痛い。
思わず涙目になるアウリスの刃を、グレウが踏み込んで双刃で捕えた。アウリスは急に両手が空っぽになった。何が起こったのか見えない。目の前がまだ髪の毛で覆われている。
アウリスの解らないところで、彼女の刀は二本の刀により蛇が絡みつくように両側から捕えられ、彼女の手を離れて思いきり壁際へ飛ばされた。
アウリスは後ろの壁に背中を打ちつけ、ずるずる落ちた。まだ頭がクラクラしている。それに、目の前が暗い。
グレウは正面に立つと、尻もちをついたアウリスの顔の両側に刀身を打ち込んだ。アウリスは無意識に片手で髪の毛を避けていたが、やっと前が見えるようになったところで耳元で爆音がし、思わず小さく叫んでしまう。
「立て」
グレウは地の底から這い出てきたような声を出した。アウリスは遅れてグレウの双刃の方へ目線を下ろす。グレウの顔はその声と同じくらい怖いことが予想されたので、あえて見ないことにした。グレウはアウリスが逃げ場の無い状況を確認するのを見取ると、もう一度声をかけた。
「立て、チビ」
どうやら立つまで許してくれそうにない。アウリスはなぜか理由のわからない可笑しさが込み上げてきた。小さく笑うと、目線のすぐ下でクロスしている二本の刃が首筋に当たった。アウリスは構わず笑った。戦いの興奮で自分も少しばかりおかしくなっているのかもしれない。
やっぱりグレウは強いのだった。「へばらねえ、退かねえ、びびらねえ」の七課の師団長だけはあるではないか。アウリスは不甲斐なくて鈍感なこのひとに喝を入れようと思ったのに失敗したのだ。これではただの打たれ損ではないか……。
「た、立ちます。でも、もう降参です」
アウリスは言葉だけでは不安だったので、グレウの刀の一つを手で握った。グレウはアウリスの意思表示を見ると片方の刃を下ろした。アウリスは彼に掴んでいる方の刃ごと引き上げられて彼に抱きつく。
大きな手がほぼ同時に額に回った。というか鷲掴みにされた。アウリスは何か勘違いされているのがわかったが構わず、グレウの背中に両手を回す。少し力を込めると、やっと額の圧迫感が薄れた。
「なんだ、さっきと同じ頭突きじゃねえのか」
ほっとしたような、怒ったような声でグレウは言った。それから、アウリスの後ろに二腕を回すと二本の刀を片手に合わせて持ちなおした。その腕でアウリスの体を寄せる。
「どうした」
グレウはアウリスの顔を覗いた。彼は急に攻撃性が抜けていた。頬に触れるその手はアウリスが少し戸惑ってしまうくらい暖かく、先ほどとは一転していた。アウリスは黙って顔を上げ、グレウを見る。グレウは眉をひそめた。単純に不可解そうな顔だった。
「何だ、どうした、アウリス。どっか痛ぇのか? ……あー、額に印ついたのか?」
「ついてない、これは昨日の」
「ああ、そっか」
グレウに指の甲で前髪を払われる。アウリスはそれから頭を避けると、彼の体にますます腕を巻きつけた。これで足の踏み合いになるくらい密着していることになる。アウリスは怪訝そうなグレウの顔を見上げながら聞いた。
「本当に気づかないんですか?」
「はあ?」
「グレウさんの、セル=ヴェーラさんに対する気持ちについて」
グレウは目を瞬かせた。器用に片眉だけを上げている。純粋に驚いているというだけの表情に見えて、アウリスはますます彼に呆れた。
目の前に、これだけ証拠はあるじゃない。いつだって、目を向けようと思えばそこにあった。
……だって、あなたが抱きつかれて投げるのは、セル=ヴェーラさんだけでしょう。
アウリスは少し待った。けれど、いくら待ってもグレウが何も言わないのでとうとう痺れを切らして言った。
「あなたはセル=ヴェーラさんのことが好きでしょう?」
「いや」
「……いや?」
即答されて、アウリスは虚を突かれた。
「べつに。俺はあいつに惚れてねえよ。でもまあ、惚れてたとしても何も変わらねえだろ。……その、さっきの見てたんだろ?」
「うん」
「あー、……だから、仮に、仮にだがな。俺がそういう気だったとしても、俺はあれと同じことをしてたと思うよ」
グレウは言いながら、片手で柔らかくアウリスの身を離した。アウリスは歯切りの悪い彼が片手を頭にやりながら部屋を見回す間に今言われたことを理解しようとしていた。だが、やはり理解できなかった。グレウは臆病だ。だから自分の気持ちを素直に認められないだけだ。少なくともアウリスにはそんな風に見える。ただ、解らないのは何故グレウが冷たくするのかだ。どうして臆病なのかだ。
壁際に三本目の木刀が落ちている。それを見つけて踵を返そうとしたグレウの腕をアウリスは引き留めた。肩の黒い刺青に円い指が食い込む。
「どうして?」
「あ?」
「セル=ヴェーラさんはちゃんと気持ちを伝えてた。グレウさんも、ちゃんと本心で向かい合ったらいいと思う」
「……いや、そうしたよ」
「してないよ。あんな言い方、おかしい。あんな風に言ったら、まるでセル=ヴェーラさんのこと嫌いみたいじゃない。もう来るなとか、グレウさんは会いたくないんだって思われるよ。拒絶されたと思われるよ?」
アウリスは言いながらグレウの腕を掴む手に力をこめた。グレウは不安になるくらい静かな目でこっちを見ていて、それが一層胸を騒がせる。普段とは違う意味で目が合うのをアウリスは避けたくなった。
「じゃあ、……例えば本当に好きじゃなかったとしてもだよ。どうして話を聞いてあげなかったの?」
「アウリス」
「セル=ヴェーラさんも言ってたじゃない、これから知り合うことだってあるって。そのとおりだよ。好きになる機会があってもいいじゃない。少しずつ話を聞いてあげたらいいじゃない。どうしてそれがだめなの? どうしてひどいこと言う必要があったの? 冷たいよ、やっぱりおかしいよ」
「おかしくねえよ」
グレウはアウリスが早口にまくしたてるのに、小さく息をついた。
「何もおかしくねえだろ。俺だって考えてるよ。てめえも俺も仕事一番だろ。傭兵なんて身じゃあ女に苦労させんの目に見えてんだろ。女と一緒んなって、そのうちガキやら出来て? それで? 俺が仕事出てる間中、帰ってこねえかもしれねえって心配させながら家で待たせんのか? 俺は惚れた女にそんなこと出来ねえよ。つか、したくねえ。おまえだって解るだろーが」
グレウはアウリスの手が緩んだのを見逃さず、片方の手の甲でそれを押しやった。アウリスは払われた手を見た。それからグレウがさっさと歩いていき、壁際に落ちていた木刀を拾う背中を見つめた。
かっこつけてるだけだと言えたらいい。
グレウの言葉を聞くまではそう思っていたのだ。だけど言えない。アウリスは理解できてしまった。じぶんにも同じような相手がいるからだ。チエルである。アウリスはチエルと一緒にはいられない。それは、じぶんが傭兵だからで、一緒にいるとチエルが危険な目に遭うのはほぼ間違いないと思うからだ。だから、環境の良い孤児院を見つけて預けるべきだと思っている。もしも猫じゃらしと一緒に明日王都に向かうことになったら、それも遠い未来の話ではなくなる。
グレウの言いたいことは解った。
だからもう、追いかけなよ、とは言えない。
アウリスはグレウに何か見えない色々なところで負けた気になった。敗北感をかみしめ、漠然とした不安を感じた。何より訳もなく寂しくなった。
アウリスはグレウの背中を見ていた目線を足元に向けた。
「だから、商売で仕事してる女のひとはよくて、セル=ヴェーラさんはだめなんだね」
「な、なんでそんなことまで知ってんの!?」
グレウが悲鳴のようなものを上げながら振り返った。きっと肯定なのだ。グレウは丸きり被害者というわけではなかったのである。きっと、色々なことを考えたり行動に移したりして、積極的に動いていた。彼が立て掛けた三本の木刀をアウリスはちらりと見る。じぶんはグレウに対してお門違いなことをしてしまったらしい。
「ごめん、グレウさん」
グレウはアウリスが謝ると眉根を寄せた。何か考えるようにしてから、ことさら面倒くさそうに頭を掻く。
「まあ、そう言やあ、新鮮だな。おまえとこういう話すんの初めてだろ」
それはつまり、他の人間とはよくこういう話をしているのか? 恋とか女の子のことだとかをか? アウリスは確かにそんな話をグレウとしたことはない。それを言うならば誰ともしたことがない。するのは今日の献立や仕事や、時々派遣先に生えている毒キノコや綺麗な花のこととかである。
アウリスは敗北感に苛まれて下を向いた。床に落ちた服を集めて回りながら、グレウがおもむろに「つーか」と零す。
「アウリス。おまえ何か用だったのか? その様子じゃあ猫じゃらしに絞られるかしたんだろ。どうした?」
グレウは言いながらシャツに頭を通す。アウリスはその隙に彼の背後で戸口を出た。
特に宛はなかったが、来たのとは逆方向へ向かって歩いていく。十二課の支部であった敷地には数多の背の高い植木が生えている。アウリスはさるすべりの樹の根元で足を止めた。さるすべりを見上げたら、宵の風が綿あめみたいな白い花の茂りを薄暗がりに揺らしていく。
アウリスは白い花びらが寂しげに漂うのから目を逸らした。今は駐屯所に戻る気にはなれなかったので、再び裏門の方へ歩いていく。肩掛けを持ってくればよかった。とっぷり暮れた寒々しい空の下を歩いていると体が冷えて、アウリスはますます落ち込んだ。
重い足取りで裏門の方へ辿り着いてみると、閉まっていると思っていた両開きの扉が開いている。あれ、と思う間もなく、門の陰に人の姿が見えた。
アウリスは一気に安堵した。金髪が夜風になびいている。肉だんごだ。こんな時間に何してるんだろう。アウリスはことさらソワソワしながら、物陰に隠れた彼の姿を追って門の前まで来たが、すぐ足を止めた。
はじめに見えたのは、さるすべりだった。肉だんごはさっきアウリスが見たばかりの白い花を飾りのようにつけた若い枝をひとつ、握っていた。彼が花を差し出す先には一人の女性がいた。アウリスには見たことがある顔だ。彼女はセル=ヴェーラと同じ泥ネズミ色の羽織を纏っていた。
見ていると肉だんごの唇が動く。宵の冷たく強い風が吹き、アウリスには何も聞こえなくなった。アウリスは後ずさり、元来た道を辿るように歩きだした。