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39.


 川沿いに伝っていた小道が藪のなかに消えてしまい、仕方なく、頭のなかにぼんやりと覚えていた地図を頼りに、王都とは反対方向へと右折した。

 アウリスが正しければ、この道をまっすぐ行くとセルマの町に出るはずだ。セルマの町とは、チエルを置いてきた孤児院があったところである。お婆が現役で飯炊きをしているらしい院のあるところだ。

 黒炭七課がこんな風になってしまって、お婆はどうしてるだろう。

 黒炭という傭兵組織の全体が指名手配になったわけではないので、お婆の身に危険は及ばないと思う。でも、お婆は特に、七課に所縁のあるひとだった。

 もしかしたら今頃、お婆はごはんが喉に通らないくらいに心配して……、いや、それはないか。

 お婆は食が命だ。一日三食が座右の銘。小さい頃に、アウリスが月経で吐くくらいお腹が痛かったときも、問答無用で米を口に突っ込まれた記憶がある。それをアウリスが吐くと、今度は、赤ワインに生卵の黄身を混ぜたものを飲ませてきた。あれのせいで、今もアウリスは卵があんまり好きじゃない。

 泣き疲れた顔で、ぼんやりと、とぼとぼと馬足を進めていたアウリスだったが、突如前方の茂みが揺れてギョッとした。

 次いで、現れた人物を見てギクリとなる。その震えが片手で持つ綱に伝わり、馬までもが足を止めた。

「どこ行くの?」

 にっこりと聞いてきたのは、黒い外套を纏う名無しだった。彼の肩に提がる荷をちらりとアウリスは見る。アウリスは表情こそ変えなかったが、内心ではかなり驚いていた。

 この男、どうやって先回りしたんだ。

 小屋の馬を盗んだのだろうか。よしんば猫じゃらしの小屋まで尾行されていたとしても徒歩では絶対に追いつけない。それとも、洞窟生活での、たった一頭の貴重な馬を駆けてきたのだろうか。

 どっちにしろ、アウリスは居た堪れない気持ちになった。唇をぎゅっと引き結ぶ。こんなときにまで誰かに迷惑をかけたくないとアウリスは思った。

「洞窟こっちじゃないよ。どこ行くの?」

 馴れ馴れしい笑みで近づく名無しをアウリスは睨む。

「馬を連れてるんですか? 誰の」

「アルちゃんのだよ」

「それって洞窟にいた一頭でしょう? 今すぐ返してきてください、でないとアルヴィーンが困ります」

 名無しが公開処刑場を飛び出すときに使った馬は、諸事情でもう、いない。

 というか食べてしまった。騎士が聞いたら激昂するだろう。正直、アウリスも抵抗はあった。

 でも、アウリスたちは騎士ではないし、今や、国を追われる指名手配犯だ。山奥で、他に手軽に調達できる食物もなく、また、そうして名無しが全く躊躇なく皮を剥いだ馬の骨のいくつかは、アウリスの治療のための即興の器具として有意義に使われた。

 そういった事情があり、洞窟団は現在、アルヴィーンが処刑場から連れ出した一頭のみなのである。

 だというのに、その一頭がいないと、危険が迫ったときにまずいじゃないか。

「いいよ。君も一緒に帰るんでしょ?」

 アウリスは黙り込む。それを見て、名無しは仮面のように不気味な笑顔をした。

「アウリスはまだ怪我がちゃんと治ってないでしょ。そんなんで馬駆けたら肩が壊れちゃうよ。今片手しか使ってないみたいだし……もしかして、それ壊れちゃった?」

 指摘されて、アウリスは手綱を持った方の手で逆の肩に触れる。とっさに首を横に振る。

「なにをムキになってるの」

 笑顔のまま、名無しがため息みたいに囁く声を出した。

「せっかく俺がきれいに縫ってあげたのに」

「っ、ごめん」

「うん。もういいよ。ちょっと動揺しただけだよね。アウリス。さ、帰ろう。また薬塗らないとだめだよ」

「……名無し」

 衣擦れの音と共に名無しが差しだしてきた手を見て、アウリスはうなだれる。

「ごめん」

 それが、今言える精一杯だった。

 手のひらを仰向けに述べたままで、名無しが首をひねる。

「君、アルちゃんや肉だんごを置いてくつもりなの?」

 図星を突かれて、アウリスは返す言葉がなかった。

「ふうん。なんで? 猫ちゃんに捨てられたの?」

「す」

 思わず叫び返しそうになる。

 それをアウリスはぐっと堪えた。どれだけの距離を、どれだけの時間を走ってきたのか。アウリス自身も、もうわからない。でも、馬に揺られながら、歯を噛みしめながら、気持ちをぜんぶ吐き出そうとしたところで、吐き出せたわけもなかった。

 今でも胸の奥には、行き場のない想いが燻っている。

「……捨てられた、わけじゃ、ないもの」

 自分でも驚くくらいに小さな声で、アウリスは俯いた。

 喉がかっかと熱い。けれど、アウリスもわかっていた。捨てられたのじゃない。二人で一緒に決めたのだ。

 それでも、涙がまた溢れそうになるのは、もう二度と、じぶんとあのひととの道が交わることが無いのだと。

 そう、理解しているから。

「猫ちゃんはひどいね」

 なのに、目の前の男はひどい勘違いをして笑うのだ。

「猫ちゃんは君を捨てるんだ。君はあんなに一生懸命に助けようとしたのにね。猫ちゃんは君と一緒にいかないって言った。ちがう?」

「っ」

「ひどい。でも、アウリスもひどい。今アルちゃんや肉だんごを捨てようとしてる。……アウリスだって、勝手に一人で出ていこうとしてる。何も言わないだけ、猫ちゃんよりひどい」

 胸が。

 押し潰されて痛い。息まで完全に止まっている。

 アウリスはあいた手で胸のところの服を握りつぶした。そうして落ち着く為に、深呼吸しようとする。

 わかっている。

 アルヴィーン。肉だんご。黒炭七課はジークリンデで落ち合う約束をしている。そのために一緒に頑張ってきた。

 でも、アウリスはジークリンデには行かない。

 アウリスは七課を裏切ろうとしている。

 それに――。

「俺と帰ろうよ」

 名無しのことも、裏切ろうとしていた。

 アルヴィーンや肉だんごと並んで、名無しだって、一緒に戦ってくれた。矢傷に倒れた彼女を介抱してくれたのも名無しだった。その彼に、一言も言わずにアウリスは去ろうとした。

 そこを責められたら、アウリスは何も言い返せないのだった。

「……ごめん」

 薄っぺらい言葉が口を突くだけ。

 だが、それ以外に言いようがないのだ。アウリスがいたら七課はもっと危険かもしれない。猫じゃらしだって、そう思ってるから別行動を取ったのに違いない。あの意地っ張りな男だ。彼は、自分の負傷が七課の足手まといになることも、考えていたかもしれない。

 名無しも、アウリスといると一層犯罪者数値が上がってしまう。

 いや、犯罪歴を顧みれば、絶対どう考えても、名無しはアウリスの上を行くだろう。多分、世間から見ると「首飛ばされた方がいいのでは?」というような人物なのだ。

 でも、アウリスは、もう、そうは思えないのだ。

 どんなに悪辣で、変態で、おぞましい罪を重ねてきた悪人だとしても。

「アウリス」

 ぽく、と硬い蹄の音が上がる。アウリスは俯き、手綱を片手持ちにしたまま、ゆっくりと前進をはじめた。道の先で立ち塞がる名無しから苦笑いが聞こえる。

「どうしても帰りたくないの? ふうん、じゃあ」

 こちらに仰向けにされていた手が、軽く手首を返した。と思ったら、二本のナイフが手品みたいに現れる。

「抜いてみる? 俺の横」

「――っ」

「ねえ」

 ゾクリと背筋が凍る。 

 思わず顔を上げると、名無しの硝子細工で出来たみたいな笑みに微かな熱が混じっているのが見えた。名無しが興奮してきているのがわかる。

 ぞわぞわと二腕が粟立つのを感じながら、アウリスは頭のなかで組み立てようとした。

 抜く。

 しかない。この男を。

 正面衝突だと、アウリスは名無しにはかなわないだろう。腕っぷし的に絶対むりだ。

 だが今はこちらには馬がある。

 かといって、一直線に抜こうとしても馬の足を狙われておしまいだ。

「……馬で蹴っちゃうかもしれないよ」

「うん?」

「危ないよ」

「俺が?」

 クスクスと可笑しそうに笑う名無しを見てアウリスは判断した。

 目くらましを、使ってみるか。 

 身を若干前傾にしてアウリスは彼を見据える。そうして死角を作り、外套の腰紐をほどく。

「……リアの国境町」

 ぴたりと名無しの笑いが止まった。

「七年戦争で一度攻め落とされてしまった町のひとつです。もともと農作物でもってたのに、戦で畑が焼かれてしまった。だからとても貧しくなってしまった町です。治安も悪くて、もともとの住人たちはみんな逃げてしまったので、今は残党と悪党の巣窟みたいになってるといいます」

「ふうん」

「リアの町は、あなたの故郷ですよね」

「うん。そうだけど、……君、覚えてたんだ」

「はい。それに調べました。七年前、あなたと会ったあとに」

 相手の気をほんの僅か逸らすことが出来たようだ。よし、と手応えを感じながら、アウリスは緊張した笑みを浮かべる。

 リアの町のことは名無しに言ったとおりだ。彼と会ってすぐあと施設一階の図書室で調べた。十二歳のアウリスは、十二歳なりに、あの夜トラウマになったものの正体を理解しようとしたのだ。

「リアの町はあなたが生まれた町なんでしょう。あなたのなかでどんな所なのかはわからないけど、そこに戻るのもひとつだと思います」

「戻る?」

「はい。地元で、地理を知ってるなら身を隠しやすい。あなたはセラザーレで覆面をしてなかったし、顔が割れたかもしれません。今まで以上に、注意してください」

 そう返事をするとともに、アウリスは馬腹を強く蹴った。

 嘶きを上げた馬が猛然と駆け足をする。振り落とされそうな勢いに、アウリスは慌てて手綱を繰った。

 目線は、直線で前進する先の相手に置いたままだ。

 ぐんぐんと名無しの姿が近くなり、もう半秒で彼の真横に並びそうになったとき、アウリスは止めていた息をふうっと吐いて、大きく外套をはだけた。

 会話で気を逸らしていたあいだに、腰紐を取り、袖を二腕から抜いてあったのだ。

 しかし、作戦がばっちりと嵌まってアウリスの手から外套が舞ったのと同時に、名無しの手が動いた。

 アウリスは息を呑む間もなかった。

 アウリスの、ど正面へと、斜め上に向かって伸ばされた名無しの手が、短刀をあっさりとしまった。しまって、代わりに、なにか翳したようだ。でも、それを見る暇はアウリスにはない。

「これなーんだ?」

 名無しの呑気な声を聞きながら、アウリスは視界が反転したのを見た。

 日の出に淡く輝く朱空。じぶんの広げた五指。アウリスは、名無しの片腕と馬の前躯が正面衝突しそうになった瞬間に手綱を手放していた。でないと、衝突は防げても、急な方向転換をした馬によって名無しが蹴られかねない。そう瞬時に判断したのだ。

 アウリスはすぐに肩越しに迫る地面の方を向いた。

 身を捻り、避けられない落下の衝撃を和らげる。

「うっ」

 幸い、落ちたのは負傷してない肩の方からだった。全身を揺さぶる衝撃波からアウリスはしかし、呻きを上げる。一瞬呼吸が止まったのを、地面に片手をついて、なんとか耐えた。

 ばさりと背後で音がする。

 大きな翼がはためくみたいにして外套が落ちる。痺れる肩を庇いながら、アウリスはそれを振り向きかけたが、その上にいきなり人影が跨ってきた。

 どん、とものすごい重力が痛みとなってアウリスの身を包んだ。

 声もなくアウリスは悲鳴を上げる。けれど、今打ったばかりの肩と、胸のすぐ下とを名無しの左右の膝に押さえつけられて、動くこともできない。

 アウリスはそれでも半ば無意識に身を捩った。

「……馬鹿!」

 まず口を突いたのはそんな言葉だった。

「何考えてるんですか! あのまま突進してたらどうなってたと思ってるの、腕が折れてたかもしれないでしょう!」

「これなんだ?」

「は!?」

 目くじらを立てるアウリスだったが、名無しが彼女に何か突きつけてきた。

 アウリスは眉をひそめた。

 一見、なんの変哲もない、羊皮紙だ。なんだと言われても普段ならわからなかったはずだ。まして、今は乱闘でアドレナリンの虜になっている。

 けれど、その紙を見てアウリスの表情は変わった。

 たぶん、直前に猫じゃらしと話をしていたから閃くことが出来た。アウリスは唖然と名無しを見上げる。

「名無し、それ」

 思わず自由な方の手を伸ばしたアウリスの指先で、かさっと音をさせて羊皮紙が逃げた。

「猫ちゃんの手紙」

 名無しが、にっこりと笑う。

 やはりそうなのか、とアウリスは愕然とした。

「なん、で」

「君が捨てた物だから何となく拾ったの」

 だったら食べ終わった鶏の骨とかも拾ってしまうのか、と一瞬アウリスは関係ないことを考えた。名無しが自分の行動をわりと近く見ているのをアウリスは知っている。メーテルとの一戦があった山でも見られていたということか。しかし、崖っぷちに落ちてった紙きれを追っていくとは。

「……返してください」

 ひとまず今は手紙の奪還だ。

 これは猫じゃらしから最後に託されたものなのだ。捨てたけれど。

 アウリスは全身が骨折したみたいな痛みを堪えながらも身を起こした。名無しはそれを見ると自然と膝を退いてくれた。けれど、ひとたび、アウリスが手を伸ばそうとすると、彼はさっと手紙を頭の上に翳してしまう。

「……何してるの」

「返してほしい?」

「わたしのでしょう! しかもそれ、封が破れてませんか? わたしはまだ読んでないのに」

「俺は字が読めないからね。ニナエスカに声に出して読んでもらったの」

 つまり、何が記されてるかは知らないが、ニナエスカもそれの内容を知っているということか。

 さらさらと外套の裾を引いて立ち上がった名無しが笑う。

「ねえ。アウリス。君の心意気はわかったよ。そんなに出ていきたいなら俺も一緒に行く。洞窟に戻らなくていいからさ。俺と一緒に行こうよ」

「なにをいって」

「そしたら、これを返してあげる」

 名無しの提案に、アウリスは眉をしかめる。

「どうして? あなたはまだ、わたしを殺したいと思ってるんですか」

 ぱんぱん、と泥を払いながらアウリスは冷静に聞き返した……が、内心、穏やかではない。彼から力づくで手紙を奪うことは多分出来ないとアウリスは思った。

 さっきアウリスが落馬した馬は茂みの手前で足を止めていた。まずそれを確認すると、アウリスは次に、隅っこに落ちた外套を拾った。街に近いとはいえ獣道と呼べるような道だ。打ち捨てられた外套は砂まみれになってしまっていた。

 アウリスはそれを嫌な顔をしながら叩いて、ふと背後を振り向く。妙に静かだと気づいたのだ。

「アウリス」

 名無しはいつの間にか馬の手前に移動していた。またアウリスが馬で逃げようとするのを警戒しているのかもしれない。

「アウリスは粉屋の娘じゃないよ」

「え?」

「なんで粉屋の娘が王子さまと結婚することにしたか解る?」

 藪から棒に何だとアウリスは怪訝となった。

「それって絵本の中での話のことですか? だったら、たしか、粉屋の娘は親がいなくって、まずしくて」

「いい」

「えっ?」

「俺は知らなくていい」

 不意に名無しが人差し指を唇にあてた。

「俺ね、子供のときから字が読めなかったの。だから俺は想像したよ。粉屋の娘はどうして王子さまと結婚してくれたんだろうって。……俺は、粉屋の娘は他に大事なものが一つもなかったからだと思うんだ。だからね、王子さまは色々奮闘したんだよ」

 名無しがあまりに懐かしそうに語るから、アウリスは閉口した。名無しはときどき、こんな和やかな表情もする。でも、それはとても珍しいことだった。

 奇妙なことに、彼の言葉を聞いていると、アウリスの頭にも、その情景が浮かんでくるようだった。

 絵本のなかの景色ではない。

 そうではなくて、褪せて、消えかかったパステル画を眺めている子供の姿だ。どこで拾ったのか。字を教えてくれるひともいない。読めないものを持ち歩く、ちいさな子供の姿だった。

「粉屋の娘の、足を、手を、胴体を、目を。王子さまは、ちょっとずつ奪っていくんだよ。最後には、粉屋の娘は大事なものがひとつもなくなってしまった。王子さま以外何もなくなってしまった。……だから、粉屋の娘は、王子さまと結婚したんだよ」

 だから、と懐かしい思い出を話す口調のまま、名無しはアウリスに微笑みかけた。

「アルちゃんとか七課とかチエルとか。そのへんはみんな殺したかった。殺すつもりだったんだ。でも君はもう、粉屋の娘じゃない。君は大事なものが多すぎる。大事なものを片っ端から作りすぎる。王都でもそうだった。俺もそれに気づいたけど、でも」

 名無しはため息をついた。残念そうに。

「もっと早く……気づいてたらよかった」

 アウリスは名無しを見つめていた。

 名無しがふと笑う。

「なんで泣いてるの? アウリス」

 聞かれても、アウリスは返す言葉を見つけることができなかった。

 今ようやく、頭のなかでかちりと、音がする。

 ――少年は。

 少年は、じぶんだけが大事だった。じぶんのことしか大事じゃなかった。じぶん以外を大事に思う人間の気持ちが、わからない。

 だから、彼は想像するしかなかったのだ。

 じぶんのひふを。にくを。ほねを。てを。あしを。

 戦いの日々のなか、じぶんの一部を削られていく痛み。喪失感。

 それが彼の想像の天井だった。だれかを、なにかを、大事に思うことを、大事なものを奪われた人間の「痛み」を、少年はそうやって想像するしかなかったのだ。

 そして、彼は大人になった。

 その頃のままに大人になって、今、アウリスの前で、優しい笑みを浮かべている。

 アウリスの睫毛から知らずと涙が落ちた。

 アウリスは、こんなに寂しい人間をたぶん、他に知らない。

「わたしは……、あなたがわたしを殺したくなくなったのかと思ってた。一緒にいるうちに、わたしのことを、大事に思い始めてくれたのかと、思ってた」

 アウリスは外套をくしゃくしゃに握る。

「でも、違ったね」

 名無しの言う通りだ。

 誤解していただけだ、アウリスは。

「あなたは何も変わってない。あなたは、わたしが大事なものを奪えないだけ」

 王都にいた八日余り。やすやすと牙を剥いたはずの、その狂気に、歯止めをかけていたのは、アウリスじゃなかった。

「あなたはニナエスカさんを殺せない」

 ニナエスカだ。

 それは、男の育ての親だった。

 それだけのことだった。

 今アウリスの言葉に返る、寂しげな笑みがそれを肯定している。幾度も、幾度も見てきたはずの、彼の表情だった。

 でも、今は少し、わかる。

 この、暖かい血の一滴も通わない昆虫のような男の心は、けれど、完全に寂しくはなかったのだ。空っぽじゃなかったのだ。

「わたしをニナエスカさんに会わせたのは名無しなのに」

「後悔してるよ」

 素っ気なく名無しは言う。

「俺も、もっと早く気づけばよかったね」

 なにを。アウリスが大事な物を簡単に作る、といったことをか。

 じぶんはニナエスカを殺せない、ということをか。

 腕で乱暴に目を拭いて、アウリスは外套を肩から被った。木幹に凭れる男の方へ歩いていく。

 すると、また目の前が滲んできて、アウリスはやけっぱちになって目を擦る。

 遠回りをして、痛いすれ違いをして、誤解をして。

 だけど、今は少し、彼の心が見える。

 アウリスはやっぱり、粉屋の娘だった。この男の片隅に残る、ちいさなちいさなその暖かい心は、もう、アウリスに向けられることはないのだろう。

 この先ずっと、ないのだろう。

 ざあ、と吹き過ぎていく風が名無しの頭上の葉を揺らした。アウリスは立ち止まり、彼を見上げる。 

「わたしはあなたと一緒に行けないわ」

 でも、届いてほしいと、思った。

 わかっていた。近づこうとすることは驕りだと。勝手な願望は相手をますます遠ざけてしまうのだ。

 それでも今日、少しだけ、アウリスは、彼が近くにいるような気がするから。

「でも、一緒に行くって言ってくれて、ありがとう。わたしは」

 小さく、息を吸う。

「……あなたと会えてよかった」

 名無しは?

 名無しは、アウリスといて得た物があっただろうか。

 あったら嬉しいとアウリスは思った。

「ということで手紙を返してください」

「そこに繋がるんだ」

「わたしは返してほしい。でも、まあ、一度捨てた物です。だから拾った名無しの物です。だからどうしてもって言うなら、返さなくてもいい」

 名無しはそれを聞いて少し困惑げな顔をしたあと、うーん、と唸った。

「アウリス」

 彼が背を木幹から離した。

「うん?」

「好き。俺は君が好き。愛してる。ほんとだよ、ほんとに好きなんだよアウリス」

「うん」

「好き」

「うん」

「愛してる」

「うん」

「俺はアウリスといたい」

 名無しが目を細めた。笑みは張りついたままだったけれど、声は途方に暮れているようにも聞こえた。もともとあまりなかった距離が縮んで、ほとんど真上から見下ろされながら、アウリスも彼を見上げる。

「明日はわからない。でも、今君が好き。君といたい。俺は君といたいよ。アウリス」

 何かを堪えるように名無しは言葉を切った。

「それだけじゃ、だめ?」

 その誘惑は、ひどく甘かった。

 鼓膜を震わす、名無しのうっとりとした声に、アウリスの心は一瞬傾いた。

 ほんとうはアウリスも、ひとりぼっちは嫌だったから。

 十二で家を失った。そのあと、七年間、ずっと黒炭にいた。なのに今はどうだ。ほんの一週間のうちに、みんなバラバラになってしまった。猫じゃらしは彼の行きたいところに行くのだろう。そこにアウリスの居場所はない。

 じゃあ、どこに行ったらいい?

 じぶんを七課に置いてくれた、守ってくれた人間はもう、いない。そして七課にも帰れない。 

 名無しはどうだ? 彼も行く宛てがないのじゃないか。

 だったら、二人でいてもいいのじゃないか? 

 アウリスは半ば無意識に名無しの顔を見つめた。

 名無しだったら旅慣れてるし、衣食住の整え方もわかってるし、罪人歴が長いおかげで、国家から身を隠す術も知っている。何より、アウリスを守ってくれる。

 メーテルに、したように。

 生きるあいだずっと、彼がそうするように。敵を、みなごろしにしてくれる。

 チカチカと、どこかで光が瞬いていた。

 初めは視野の隅っこに少々煩わしい程度だった。けれど自然と視線を向けたアウリスは目を大きくした。

 次の瞬間、アウリスは目を瞑った。

 それは眩しさのせいだけではなかった。

 不意に名無しが背後を振り返った。その気配を感じて、アウリスも目を開き、名無しと同じ方角を見上げた。

 馬がのんびりと草を食べ始めている傍の茂みではなく、その後ろに聳える、小丘の方。そこで今、砂煙が巻いていた。

 チカ、チカと、光が、……朝日を反射する刃が、輝いている。

 いつの間に現れたのか、地平線上の急な坂を砂埃と共に駆け下りてくる人影がある。ひとりは弓を構えているようだった。べつの人影は大きい荷物を背負っていて、膨らんで見えた。丘のてっぺんの後尾に用心深く残る人影は、馬に跨っている。

 そして、先陣を切って立ち塞がる人影は、二刀流の――。

 アウリスの目がじわりと熱くなる。

 視線を向けなおすと、ゆっくりとこちらを振り向く名無しと目があった。木漏れ日に妖しく揺れる、真っ黒な目がアウリスの姿を捉えている。

「名無し」

「わかるよ」

 ほぼ同時に口を開いてしまい、思わずアウリスは目をしばしばさせた。濡れた睫毛からまたぽろりと落ちた。

「次に会うとき、アウリスがおばあちゃんになってても、髪が白くなって、目が白くなって、顔が皺くちゃになってても、俺は君がわかるよ。君がどんなに変わっても。俺は君が、君だってわかるよ」

「っぶ」

 囁くような口調に集中していて反応が遅れてしまい、アウリスはまんまと顔面をぶたれた。いや、何か顔に張りつけられた。

 咄嗟にアウリスは鼻を押さえる。生憎名無しの手は離れてしまっていたが、手と鼻のあいだで、かさりと乾いた音がした。

「だから長生きしてね」

 思わずアウリスは隣を仰ぐ。けれど、一足先に――、ちゅ、と耳元で可愛い音が鳴った。

 振り向く間を与えずに、外套のはためきが離れていく。

 その足音が遠ざかるのを聞きながら、アウリスは俯き、羊皮紙を握りしめる。

 ――このひとの手を、取れたら。

 さっき、一瞬、アウリスのなかでそんな悪い空想が過ぎった。確かに過ぎった。

 けれど、それはやっぱり、空想だった。

 戦って。

 疲れて。一緒に休んで。甘えて。甘え返されて。

 その相手は、このひとじゃない。

 アウリスの居場所はここじゃない。

 アウリスには、もう、見えてしまっているから。

「……うん! 名無しもね」

 微かな笑い声が返った気がした。

 それを最後に、アウリスは深呼吸する。

「――追わないで! 行かせてあげてください!」

 そして、そう、少しだけ声を張り上げた。

 顔を上げれば、駆けてくるほうほうが、構えていた剣や弓矢を下ろすのが見える。それより一足先に来た馬が、しかしアウリスの背後に回り込んできた。

「あっ待って……!」

 離れていく名無しの足音はもう聞こえなくなっていたが、慌ててアウリスは振り向こうとした。

「どこへ行く気だ」

「いたっ」

 が、いきなり頭のてっぺんを小突かれた。

 一瞬、馬の頭が当たったのかと思い、羊皮紙と一緒にそこに手をやって見上げる。

「……あ、アルヴィーン」

 なんと、アウリスの頭を小突いたのは真剣であった。

 鞘入りしているとはいえ先っぽの尖ったところである。アウリスは蒼褪め、馬上で逆光を背負う青年を見上げた。アルヴィーンはものすごい怒ってるに違いないとわかったからだ。

 けれど、アルヴィーンの顔色を窺おうとする傍から、ぎゅう、とアウリスの首根っこが絞まった。服の襟を、驚異的な力で引き上げられたのだ。唖然とするアウリスの体は、文字通り、ぶらん、と宙に浮く。両足も揃ってぷらんと揺れた。

「おーおーひとりで何やってんの?」

 そして、眼前に、ものすごい目つきの悪い顔がものすごい目つきで迫るので、アウリスは声も上げられずに硬直した。

「グレウさんの言う通りだぞ! 怪我人がひとりで何やってるんだ!」

 すかさず傍の肉だんごがグレウの味方をする。

「グレウさん……来てたんだ」

 茫然としていたので、ぽろっと零れた。次の一秒で、彼女の頭はがしっとグレウにより固定されて――衝撃波と共に、彼の渾身の頭突きを受けていた。

「そうだよ祭りに出遅れたんだよ! 思い出させやがって! 文句あるかコラァ!」

「――っ」

 痛くて声もでない。

 ひっくりかえりそうになるアウリスをグレウが彼女の襟首を掴んで引き留めた。

「アウリスよお」

「ひ」

「七課はへばらねえ、退かねえ、びびらねえ、だ。仲間内でそれやってどうする。今度やったら」

「というかアルヴィーン様を置いて姿を消すとはどういう了見だ貴様! アルヴィーン様のお体は完全に治っておらんのだぞ!」

「それはアウリスもだろ! セツはちょっと黙ってろよ!」

「何!? 俺が馬を調達してやらねば追いつけなかったクセして! 役立たずが何をぬかす!」

「や、やくただず!? セツの方こそ猫じゃらしの救出に遅れたクセして! ……あっ」

「テメエ」

「ごめんグレウさん! 今のは無しだよ!」

 小丘のふもとには大地を削り降りてきた馬が数頭、遅れてたむろしていた。グレウたちが駆けて来た馬たちらしい。

 よくよく考えると、身を隠しながら王都を出る道筋は限られている。加えて、七課はみんな、ラーナがくれた秘密路の地図をもとに行動している所があるから、アウリスがどの道を行こうとするかは案外簡単にわかったかもしれない。

 いつの間にか、日が高くなっていた。若葉を透かして満ちていく陽射しが翠色の光の輪をかけている。

 眩しさにアウリスは目を細めた。

 肉だんごとセツは勝手にケンカを始めているし、グレウはアウリスの襟を放してくれないし、放してくれないくせに肉だんごを器用に蹴っ飛ばしたし、アルヴィーンは馬を降りたものの、むっつりと腕を組んで、不機嫌さを全身から放出させたままだし。

 なんだか、何を考えたらいいかわからなくなってきた。

「うるせええェエエ!」

 ついに切れたグレウが両腕をぶんと振り回す。当然アウリスも一緒に振り回されて近くのアルヴィーンに激突し、アルヴィーンがしっかりと腕でそれをガードしたので鞠のように弾き返された。

「あっアルヴィーン様!」

「……」

「いいか、アウリス」

 目が、回る。

 首が、絞まる。圧倒的なグレウの握力で、アウリスは彼自身の頭の上まで飄々と持ち上げられた。

「七課の傭兵が退くな。今度逃げようとしたらリンチの刑に処す。師団長命令だ。わかったかチビ!」

 グレウが歯を剝いて怒鳴った。

「は、はい!」

「七課は退かねえ!」

「な、七課は退かねえ!」

「泣かねえめげねえびびらねえ!」

「泣かねえめげねえびびらねえ!」

 グレウの気迫に呑まれてアウリスも叫ぶ。

 そうしたら、どうしてか、いきなり、ほんとうにいきなり、景色が滲んだ。

 グレウがギョッとした顔で硬直する。

 うっうっと肩を震わせながら、宙ぶらりんのまま、アウリスはしょげた。

「はい」

 大地が、くっきりと五つの影を伸ばしている。

「……ごめんなさい」  

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