表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/42

3.


 猫じゃらしは四日遅れでやって来た。

 普段から時間にはルーズな奴だが、このタイミングはないだろう。日はもう沈むという夕暮れ時。いつもに増して話したいことがあるのに意地悪の一貫かと思ってしまう。

 仕返しに四日前に焼いた菓子を出してやろうかとも思ったが流石に大人げない気がしたのでやめた。というより、寸前に肉だんごに食べられた。胃腸が強い子なので大丈夫だろう。

 こちらは仕方がないから作りなおした。レモンティーにレモン蒸しパンに手抜きのレモンラーゼ。ラーゼは蜜漬けして四日ほど乾燥させた果物を、サトウキビをこま切りにした物と小麦粉と混ぜてざっくりと焼く。今朝は時間がないので三十分ほどで作ってやった。とても酸っぱく出来ただろう。

「猫じゃらしってレモン好きなんだ?」

「そうですよ」

 無邪気に聞いた肉だんごに、にっこりと微笑んで答えてやった。

 調子はずれに軽く鼻歌を歌いながら、支部の通路を歩いていく。

 真心ならぬ呪いをこめて菓子を焼いていたらわりと気分がよくなった。小型の荷車を両手で押していく。

 階段代わりの緩慢な上り坂に差し掛かったところで、ふいに軽やかな笑い声が聞こえてきた。三階では既に女達がくつろいでいるのだろう。

 猫じゃらしは訪問のときに慰安目的で娼婦達を連れてくることがあった。いつもではないが、そういうとき七課のみんなは浮き足立つ。アウリスは女だがその気持ちが少しは解るような気がしていた。柔らかくて細い手首。おしろいの塗られた円やかな肌。いい匂いのする髪。どれもこれも、むさ苦しい七課の日常とはかけ離れ過ぎていていっそ幻想的で、アウリスは面食らってしまう。もちろん、アウリスの憧れとは違うところでも彼女たちの存在は七課の男衆を刺激しているのだろうが、あいにくそういう趣味のない彼女には「きれいだな」が精一杯の共感であった。それでも、普段より華やいだ雰囲気には自分も少し落ち着きがなくなる。

 早足になって荷車を押していった先には本部の傭兵が二人かまえていた。

 一人はラーナ。アルヴィーンにより拘束された例の使者で、今は白い衣に緑色のデザインの入った独特の甲冑を細躯の身に纏い、さっぱりした顔をしている。初対面の夜とは大違いだ。卵型の短髪も埃っぽくない。

「アウリス!」

 ラーナはすぐに気づいて声をかけてきた。

「おまえも猫じゃらしに会いにきたのか? 今グレウの奴が中にいるけど?」

「そうなんですか。じゃあここで待ちます」

「いや、多分通っていいだろう。菓子が冷めてしまうしな」

 ラーナは然程迷う風もなく扉の方へ向きなおると、薄い帷子をした手でノックした。そのまま隙間だけ扉を開く。

「誰だ?」

「猫じゃらし、アウリスがきてるんだけど」

 中からの声に、隙間に頭だけを出したラーナが答え、一言二言と交わしたあと振り返った。

「ほら、入れ」

 気さくな笑顔で進められ、アウリスは少しばかり頭を下げて踏みだした。

 ラーナが開いた扉の向こう側では涼やかな陽射しに溶けてクスクス笑いがしている。微かに梨のような甘い香りがする。それに、キセルのもっと濃厚な苦い甘味。

 ラーナがふと首を傾げた。

「あれ、アウリス、その菓子ってレモン……」

「何か?」

 アウリスのぶっきらぼうな声にラーナが面食らっているうちに、彼女の前をアウリスはさっさと通り過ぎた。

 一歩踏み入れたら空気が変わったような気がした。部屋には陽射しの細かな光粒子が目に見えるような煌びやかな香が漂い、着飾った女たちが思い思いに集まっていた。

 香木の樹蜜を燃やすような仄かな匂いがして、またキセルの種類を変えたんだなとアウリスは思いあたった。惹かれるように荷車を押す手から目線を上げる。

「よお、お嬢さん」

 猫じゃらしは面倒くさそうに唇だけに笑みを浮かべていた。

 部屋には四方の窓から夕焼けが満ちていた。中央に大きな二人がけのカウチが置かれていて、猫じゃらしは薄緑色のゆったりしたローブを肘掛けの上から流すようにして斜めに腰掛けている。

 その手前にはグレウが跪いていて、あの鬼みたいな黒目で何用かとでも言わんばかりにアウリスを見上げていた。

「すみません、会議中ですか」

 わざと周りの女性たちを見回すようにして、アウリスはにっこりと会釈した。

 こっちは毎日泥まみれ血まみれになってあくせく働いているというのに、いいご身分だ。じぶんは香と女の匂いなんか纏って人の働きの上にあぐらをかいているのである。

 アウリスは猫じゃらしの気怠そうな態度に毎度変わらず憤慨したが、隣にふと滑り込んできた一人の女にそれ以上の暴言を吐くのを邪魔された。

「あら? お菓子?」

「あ、は、はい……」

 円やかで、柔らかい肉厚の胸が腕に押し付けられる。アウリスは戸惑ってしまい自然と下手になっていた。女の方は気づいた様子はなく増々体を寄らせてくるので、アウリスはあえなく手を伸ばし、少しだけ菓子の皿の蓋を開いて見せた。

「まあ、いい香り」

 そっちこそいい香りだ。女は楽しげに菓子をひとつ摘み、くすくす笑う。そんな彼女をアウリスは見つめた。

 見たことない顔だ。きっと地元の娼館に先に寄って見繕ってきたのだろう。猫じゃらしが経営する花園はラーケンブラという地域にある。ここよりずっと王都寄りの南側で、とても遠い。馬車と運河だと一週間半はかかる道のりだから、人が多ければ多いほど旅費もかかるだろう。そこを考えたら、猫じゃらしの花園で働く全員の女の子たちと会ったことはなくても、多分目の前の女性は別口で働いているのだろうと思われた。

 アウリスはじぶんでも居心地が良いのか悪いのかわからなくて固まっていた。目の前で妖精の羽のような薄布を翻して集まってくる様子を見ていたら、それがどれ程自らの日常とほど遠いのか、突きつけられるような思いだった。

「あら? これレモン菓子じゃなくて?」

 集まってきた女性のひとりが菓子をくんくん嗅いだ。背中を覆う艶やかな黒髪が夕日に反射している。しれっとアウリスは彼女に返した。

「そうですよ」

「ええっ? 猫じゃらしはレモン大嫌いなのよ?」

 女が余りにさらっと言うのでアウリスは意表を突かれてしまった。どうしてその秘密を知ってるのだろう。猫じゃらしにこの近くで買われたのならよくて半日の知り合いじゃないのか。

 だが、その疑問はすぐに解消された。そうなの? まあ、可愛らしい、と他の女性たちが笑うのを見て、アウリスはこの女の子が猫じゃらし本人に買われたのだと思いあたった。半日で仲良くなったようだ。

 そういえば、猫じゃらしは黒髪が好きだ。そして若干お嬢様っぽい勝ち気でワガママタイプのプラス巨乳が好きなようだった。それは前から知っていた。猫じゃらしは好き嫌いがけっこう激しく、例えばレモンなんかはどんなに加工しても食べない。

 嫌がらせが発覚したことに気づいたアウリスは目の前の女性くらい驚いた顔をした。

「えええっ? そうだったんですか? 審議会のお偉いさんで年齢不詳なおっさんがまさか子供みたいに好き嫌いがあるだなんて露ほどにも知りませんでした」

「お兄様だろ」

 そんな声と共に飛んできたキセルをアウリスは頭を避けてかわした。何をするのか。直撃したら額に赤い印ではすまないことをされ、アウリスは自らの行いを棚に上げるとカウチから立つ猫じゃらしを睨んだ。嫌がらせが的を射たことで少し気分は晴れていた。

「まあ、焼きたて」

「わたしはふつうにレモン味好きよ」

「わたしも~。というか出張続きで疲れた~、甘いもの食べたい~」

 女性たちが囀りながらアウリスの荷車を囲うのを見て、猫じゃらしがうんざりしたようにしっし、と手振りした。

「それさっさと表に出せよ。部屋がレモン臭くなる」

「はいはい」

「じゃあ、わたしたちはお仕事行ってきます~」

 アウリスはその「お仕事行ってきます」という意味深な言葉が気になったが、何をどう聞けばいいのか解らなかったので結局黙っていた。荷車をきれいに逆戻りさせて戸口へ向かっていく女性たちの輪から一人がふと抜けてきた。太陽みたいな色の髪の女はアウリスの元で背伸びをすると頬に口づけた。

「ありがとう、すごくおいしそう。全部食べちゃう」

(……っ、う、っわ)

 顔が真っ赤になっているのが恥ずかしく、アウリスはよっぽど照れて頬を押さえた。女性はふふっと小さく笑って去っていく。

 急に疲れた。

 猫じゃらしに無理やりにでも一口食べさせてやろうと思っていたレモン攻撃は失敗した。けれど毒気が抜かれてしまって、あまり悔しいとも思わない。

「なんて顔してんだ。思春期の坊ちゃんみてえだなあ」

 猫じゃらしが心底馬鹿にした声音で言うので、アウリスは閉じた扉の前でぼんやり頬に手をやっていたのを下ろし、彼を見た。

「ここへ来い、アウリス」

 アウリスは言われる通り歩いていくと、不機嫌そうな猫じゃらしの手前で跪いた。隣でグレウの視線がある。

「お勤めご苦労様です、猫じゃらし」

「顔上げろ」

 アウリスはまた言われる通りにした。ほぼ同時に頬に指が触れた。

「見ねえうちにまたいい女になったなあ」

「……猫じゃらし」

「誰か面倒みてくれてんのか? ん?」

 アウリスが嫌な顔をしてみせたら、常日がね退屈で仕方ないと言わんばかりに醒めたその瞳が、ひと時だけ楽しげに光った気がした。

「他の誰かに迷惑かけんのも申し訳ねえ。何ならラーケンブラに連れて帰るか。こんな細腕で、田舎で傭兵なんぞやらせてたって何の利益にもなりゃしねえ」

「そのへんにしてやってくれねえか」

 アウリスと猫じゃらしは顔を見合わせ、それから声の方へ向いた。グレウは跪いたままで並ならぬ殺気を纏っていた。今顔を上げられたら絶対夜眠れない自信がある。目が合ったら多分心臓麻痺で死ぬだろう。そんな何事かと思うような雰囲気である。

「猫じゃらし、やめてやってくれ。そいつは七課の傭兵だ。悪いが俺の方でも替えが効かねんだよ」

 アウリスは猫じゃらしともう一度顔を見合わせた。このていどの悪口の言い合いはいつものことなのだが、初めて聞くグレウはびっくりしてしまったようだ。

 猫じゃらしが苦笑してアウリスから手を放すと、衣擦れの音をさせて立ち上がった。

「頼もしい師団長だな。てめえの七課は成長が早くて助かる。仕事も速くなった」

 お蔭で今回は待たせたな、と一片の誠意のない声音で謝られて、いえ、とグレウは頭を下げた。

「こっちも上手く行き過ぎて拍子抜けしてたんで」

「報告ありがとう」

 花火みたいに艶やかで刹那的な笑みが猫じゃらしの顔をよぎった。

「さっき話したとおり、三日後に国家騎士団の奴らが罪人を回収に来る。あんたはここで待機して、それ以上は指示待ちだ」

「わかりました」

「焦んなよ。まあ、あんたのことだからそこは大丈夫か」

 アウリスはグレウが辛抱強さで知られているとは思わなかったので少し驚いたが、猫じゃらしの言葉にはじぶんのことのように気分がよくなった。グレウが頼られているように聞こえたからだ。

 アウリスは素直にうなずいたグレウが立ち上がるのを見て慌てて彼に声をかけた。

「グレウさん、レモンのお菓子好きでしょう? もらってください」

「あ? ああ」

「遠慮しないで食べてくださいね。血糖値気になる歳になって食べれないらしい人のことは気にせず、いっぱい食べてください。大人の味はわかるひとにしかわからなうぃー」

「誰が高血圧だ、あ?」

「うぃーっておまえ、頬っぺた伸びてんぞ」

 水あめみてえだ、とグレウが感心したような声で言う。アウリスは頬を抓る猫じゃらしの腕を下から押して外すと、小さく手を振ってグレウを見送った。戸口では扉が勝手に開いてグレウを迎えた。そういえば、はじめに女性たちが出て行ったときも外から見張りが扉を開けてやっていたのだった。

 アウリスは扉が閉じるのと同じタイミングでくしゃみした。

 そういえば少し肌寒い。デルゼニア領では、日が出ている間とない間で気温の差が激しく、よって朝早くと夜はびっくりするくらい冷え込むことがあるのだった。

「アウリス」

 アウリスが肩掛けを忘れた自らの肩をさすっていると、後ろから猫じゃらしが声をかけてきた。肩掛けを貸してくれるつもりかと思ったが、アウリスは代わりに腕を掴まれ、振り向きざまに彼に唇を合わせられた。

 予想を裏切られて思わず身を退こうとしたが、頭の後ろに回った猫じゃらしの手がそれを許さない。驚きに半開きになっていた歯列のあいまに舌が差し込まれる。繋がった口の中で小さく湿った音がした。

 あまりの気恥ずかしさにアウリスは息を止め、仕方なく目を閉じて猫じゃらしの肩に両手を置いた。猫じゃらしに縋ったわけではなく、肩を押していないと鼻で息をする空間すらなくなってしまいそうだったからだ。

 猫じゃらしとキスするのは初めてではなかった。最初は抵抗していたものの、猫じゃらしがあまりにしつこいのと、どうやら彼が誰彼かまわずキスするキス魔であることが解ってきたのとで、徐々にアウリスは諦めた。猫じゃらしは本当に誰にでもキスする。さっき部屋を出ていく前に黒髪の女の子にキスしていたし、前に彼の花園に寄ったときは仕事前の店の女の子たちから順番にキスされていた。しこたま酔っぱらって女の子と間違えてグレウを口説こうとして殴り合いの喧嘩になったこともある。しかもその翌日、顔を変形させあった相手を見て、猫じゃらしは「ああ、あんただったのか。すまねえな」のたった一言で済ませたのである。パワハラだったなんてちっとも考えていないのが明らかな薄情な顔だったが、グレウももう忘れたかったらしくすぐ許してやっていた。考えてみると、グレウはけっこう美男美女にもてていた。美しい人間イコール受難という方程式が彼の中に根付いていてもおかしくないであろう。

 アウリスはとりとめもないことを考えて気を紛らわせようとしていた。本当はそうしていないと顔が爆発しそうだった。

 娼館の主、兼、情報屋の上官によるずれた愛情表現を受けながら、アウリスは意外と腕力のある片手で抱き上げられて、彼と一緒にカウチに腰下した。

「レモン臭え」

「……ざまあみろ」

「ほーう」

 やっと離れたあとで、親指で口を拭われた。

 よだれでも出てたんだろうか。

 思わずアウリスが自分の手で口に触っていると、猫じゃらしが片腕を伸ばして傍のスタンドの上にあったデキャンタでグラスに酒を注いだ。

「何見てる」

「小皺がないか探してるんです」

「ほーう」 

 悪魔みたいな笑みをして猫じゃらしはアウリスの顔を両側から押さえつけておちょぼ口にさせた。アウリスは不細工な顔にされてもしばらく断固と見つめ続けたのだが、相手の顔には皺ひとつ見当たらなかった。子供の頃から知っているのに、猫じゃらしの外見はあんまり歳をとってない。変わったことと言えば以前より短くなった、肩を覆う程度で切られた髪の長さくらいだった。だけど絶対三十路は超えたはず。やはり美容詐欺である。

 わけのわからない悔しさにアウリスは猫じゃらしの髪をうなじ辺りに束ねる紐を毟って、彼の膝元であやとりをした。猫じゃらしは呆れたようにアウリスを見ると、最初のグラスに加えて、じぶん用に注いだグラスをスタンドに置く。

「ガキみてぇに拗ねるな」

「拗ねてない」

「遅くなって悪かったって言ってんだろ。ラーナから話は聞いたな」

 遅いと謝ったのはグレウに対してでじぶんは謝罪一つ猫じゃらしから受けていないが、アウリスは黙って濃い翠の目を見た。会話の矛先が変わり、同時に緊迫感が満ちた。

 国の王太子殿下が国王になられる話だったら巷は今それで持ちきりだ。ここケアルトでも無い予算を出し切ってお祝いのパレードが広場で今日開かれている。そうアウリスが早口に答えると、猫じゃらしは考えるようにグラスをこめかみに添えた。

「少し状況が変わってな。それで遅くなった」

 やはり誠意のこもっていない声で前置きして、猫じゃらしは話しだした。ラーナを使いに出した直後、王宮の急使が来て猫じゃらしに即位式と、その前に予定された円卓会議に出席するよう王都へ来いと伝えたという。即位式は七日後に開かれる。会議は今から五日後らしい。ケアルトと王都までは四日ほどの馬車と運河での旅になるから、猫じゃらしは明日ここを出るそうだ。

 アウリスはあやとりの手を止めて真剣に聞き入っていた。胸騒ぎがした。ラファエアート王子が即位する話をはじめて聞いたときのような衝撃はない。あの、言葉に出来ない気持ちが一杯で他のことは何もわからなくなりそうな心境ではなかった。ここ四日でアウリスも少し冷静になったのだ。

 国主が代替わりするという話を聞いても、黒炭の傭兵としては「ふうん」で済まされるが、アウリス自身は違う。猫じゃらしもそれが解っていてラーナを寄越してくれたのだろう。

 だが、アウリスは戸惑いが隠せなかった。

 七年間離れていた事情が急にじぶんに追いついてきて、アウリスには上手に考えが纏められない。

 猫じゃらしの話はそれで終わりではなかったらしい。更にこう言ってきた。

「あんたも一緒に来い」

「えっ? その円卓会議に?」

「あんたな、招待されてないのに出られるわけねえだろ」

 じぶんは招待されたのだから偉いのだ、という感じの言葉だったが、口調はまったく偉ぶっていなかった。むしろ何か気に食わないようだ。

 猫じゃらしは視線を鋭くしたままグラスから酒を一口飲んだ。アウリスもお付き合いでグラスに口をつけた。喉がカラカラに乾いていたことにそのときになって気づいた。緊張する余りに喉を潤す余裕もなくなっていたのだ。アウリスは咳き込んで慌ててグラスを離した。

「王都に俺と来い。ここで留守番してるより情報が早く伝わる」

 猫じゃらしはアウリスが咳きこむと彼女の手の中のグラスを取ってスタンドの上に置いた。アウリスは追うように彼を見る。

「円卓会議って何を話すの?」

「さあ」

「その会議がわたしに関係あるの?」

 アウリスは単純に話に追いつこうとしただけだったのに、まるで靴の底にへばりついたアリの死骸を見るみたいな目つきで猫じゃらしは彼女を見た。

「あのなぁ、重要なのは会議だからじゃなく王宮に俺が名指しで招待受けたことだろ。七年音沙汰なかったのが急にだ。そもそも黒炭に用があるなら他の野郎に声がかかってる。俺は審議会じゃ一番新顔だからな。もっと前から席があった奴が呼ばれて然るべきってことだ。まあ、行ってみねえことには解らねえ、黒炭が国会に呼ばれるのも前代未聞だが、そのへんは代替わりって大仰な行事があるんで声だけかけてくださったのかもしれねぇな」

 猫じゃらしは機嫌が悪そうにアウリスにほどかれた髪を掻き上げた。アウリスは彼が一気にグラスを煽ったのを見て眉をひそめた。この男よりずっとまともな幹部はきっとたくさんいるだろう。昼間から酒を浴びるように呑んで女の子を侍らせているやる気のない卑猥物なんかが何故国に呼ばれたのか。彼を国会に出したら黒炭が恥をかいてしまうに違いない。やはり、猫じゃらしが円卓会議に呼ばれたのは不自然だ。

 猫じゃらしは審議会で知財役員、つまり情報収集の筆頭を務めている。国会がどういうものか解らないアウリスには彼が適役なのかどうか測りかねたが、人格の部分でおかしいと納得し、暫くアウリスは考えを巡らせた。

「声がかかったのが、わたしと関係あると思う?」

 アウリスはおそるおそる聞く。

「だから、そうかもしれねえから一緒に来いって言ってんだろ」

「もしそうだったら、どうするの? あなたはわたしを売るの?」

 猫じゃらしが冷ややかな目つきでアウリスを見たが、考えを纏め終えていたアウリスは怯まなかった。

 猫じゃらしはじぶんに名指しが来たのがアウリスの出自と関係があると思っているようだ。確かにありだと思う。七年前に当時の王妃に殺されかけた記憶が蘇って、アウリスの体に鳥肌が浮かんだ。それはあまりに唐突だったが、アウリスは確かにこのとき十二歳の頃を鮮明に思い出していた。四日前の夜のようだ。薄暗い小屋に囚われていたラーナに初めてラファエアートの名前を聞いたときと同じだった。

 蒼褪めるアウリスを猫じゃらしは本意の解らない笑みで眺めた。

「売りてぇって言ったら、どうする?」

 甘いような口調と共に猫じゃらしはアウリスの耳元の髪を撫でた。

「あんた変わったな。売られて殺されるかもしれねえとあんたは考えたわけだ。今回即位する王子がそのつもりで俺を呼んだと考えてるんだろ?」

 アウリスは答えなかった。代わりに膝元に置いた紐を拾ったが、あやとりをする気分でもなく眺めるだけだった。答えたくないのではなくて答えが解らなかったからだ。

 王宮の誰かが今でもじぶんを殺そうとしている。その可能性はここ四日で考えていたし、可能性はゼロではなく、むしろ譲位の行われかけている今の時期だからこそありえると思った。だが、王宮の「誰か」の部分はふわふわの不明瞭なまま、アウリスの胸の底にこびりついたままだった。

 ラファエアート王子殿下が即位することに「よかったね」とか「すごいな」という想いがないのは多分、あまりに非現実的だからだった。七年間でアウリスはひどくじぶんが遠い場所に来てしまったように感じた。急死した王のこともボンヤリとしか顔が思い出せない。

 だけど王都は遠くても確かに存在している。そして、七年の空白を経て猫じゃらしが呼ばれたのかもしれないのだ。

 「正当な血筋の者」によって、亡き王に代わり王座が譲られる瞬間だから。

 アウリスは寒気に包まれた体を抱いた。何か空恐ろしいものを感じる。黙っていると、猫じゃらしが彼らしい横暴さで彼女が明らかに心沈んでいるのを無視して紐を奪い返し、髪をうなじのあたりに束ねにかかる。白金の髪がアウリスの頬を擦った。その感触を追うままにアウリスは彼を見上げた。

「王さまはいつ亡くなってしまったの?」

「わからない」

「わからないの? どうして亡くなったの?」

 猫じゃらしは情報屋としては文句なく優秀なのに、その彼にもわからないのだろうか。少し驚いて聞き返したアウリスに、猫じゃらしは一瞬だけ視線を留めた。それからついと興味を失ったようにそっぽを向き、ついでに空のグラスに酒を注いだ。

「わからない。だが、巷じゃあもっぱら噂だ。若き王太子殿下が父王を殺して玉座を手に入れたってな」

 アウリスは飛び上がるくらい驚いて思わず猫じゃらしの襟を掴んだ。デキャンタがぶれてグラスと音をたてる。

「何よそれ。ありえないわ」

 猫じゃらしはスタンドに零れてしまった白く濁る酒を特に惜しがる風はなく一瞥した。

「そう思うか?」

「ラファエさまは国王さまを殺したりしない。ラファエさまはお父さまが大好きなのよ。そんなことするはずないじゃない」

 ばかばかしい。真剣に聞いたのに返ってきた答えにアウリスはひどく気分を害した。それを口にした猫じゃらしを睨む。そんなバカげた噂をしている五万の民草にも無差別に怒りが湧いた。

「ラファエさまはそんなことしないわ。絶対よ、ラファエさまは絶対しない、父王を殺すなんて!」

 それどころか、父親が死んでしまってどんなに悲しかったろう。そんな噂を立てられてどんなに傷ついているだろう!

 アウリスは心から巷の根も葉もない薄情な噂が王子の耳に届いていないことを祈ったが、そんな彼女の言い分を猫じゃらしもひどく真剣な眼差しで聞いていた。彼には珍しいことだった。いつもの底意地の悪さでアウリスの言うことに突っかかって口喧嘩で負かそうとしたりする素振りはすっかりなく、まるで彼女の言葉を信じたいと思っているかのようだった。

アウリスは漠然と違和感を覚えて言葉を切った。猫じゃらしが横顔になって片手に持つグラスを一気に傾けた。呑むペースが流石に早すぎやしないかとアウリスは少し心配になる。今日の猫じゃらしは変だ。彼の素行はわりと常に常軌を逸しているが一層変だ。

 アウリスはそろそろと掴んでいた猫じゃらしの服の襟から手を離したが、逆に彼にその手を掴まれた。

「アウリス、あんたやっぱり変わってねえな」

「どういうこと?」

 アウリスのきょとんとしたのを見て、猫じゃらしはひどく冷たい笑い声をたてた。

「俺にはあんたが王子のもとへ売られてぇと俺に言ってるように聞こえるが?」

 アウリスはあまりの言われように返す言葉がなかった。そんなこと一言も言ってない。それに機嫌が悪いのは猫じゃらしの方だ。

 「あんたは変わってない」と言った猫じゃらしの馬鹿にした口調を思い出して、アウリスはひどく気分が悪くなった。だったらこの七年間は何だったというのか。彼の元にいた時間は何だったというのか。みんなと一緒に剣を振るっていた時間は?

 アウリスは立ち上がり、デキャンタのあるスタンドの方へ歩いた。その腰に猫じゃらしが腕を回して少々乱暴に彼女を膝元に戻した。飲み物を飲んで落ち着こうとした術を封じられ、アウリスは猫じゃらしを睨む。

 胸騒ぎが強くなる。いつもならば猫じゃらしの憎たらしいくらい図太い構え方にじぶんの方も頭が冷めて冷静になれるのだが、今は彼を見ていたらもっと不安を煽られる。彼の翠の目を覗いたら、暗くなった外と一緒に沈んだような暗い揺らめきにアウリスは息が苦しくなった。

「その話をしたくなったの? じゃあわたしも聞きたいわ。七年前、どうしてわたしのお父さまは殺されたの?」

 苦し紛れのアウリスの一撃は猫じゃらしの顔色を変えさせた。驚いたように濃翠の双眸が瞬く。この話を持ち出すのは初めてのことだったので、アウリスは意味もなく緊張してまごつく。

 猫じゃらしが悪いのだ。今になって人を試すようなことを言うから。アウリスは黒炭の傭兵なのに、猫じゃらしが意地の悪い質問ばっかりするから、アウリスの気持ちは揺れるのだ。理由はそれだけだ。それ以外にない。アウリスはそう無理やり納得して猫じゃらしを責めた。猫じゃらしは彼女が頬を上気させてしゃべっているのを醒めた目で見ていた。

「変わってないのはあなたの方じゃない。大事なことはいつもちっとも教えてくれないわ。ほんとうは猫じゃらし、今の王宮の話も詳しく知ってるんじゃないの? グレン国王さまのことだって知ってたんじゃないの? 会ったことがあったんじゃないの?」

 最後のくだりと同じ問いを猫じゃらしにしたのは七年前で、アウリスはそのことを覚えていた。猫じゃらしはグレン国王のことを「人徳の王」だと言ったのだ。けれど問いには答えてくれなかった。今何が変わったのかは解らない。猫じゃらしはデキャンタに手を伸ばしかけた。アウリスを膝に乗せたまま少し身を捻った彼は、アウリスの顎を指で持ち上げた。

 アウリスは猫じゃらしからよからぬ気配を覚えて先手とばかりに口を開いた。

「わからないけど、猫じゃらしはいろいろ知ってる気がしてならないの」

「アウリス、あんたとその話をするならあんたを一晩もらう」

 は? と口を丸くしたアウリスに猫じゃらしは接吻した。先手を打ったのに余りの早業で唇を塞がれてしまう。

 一気に気恥ずかしくなり必死でアウリスは猫じゃらしの頭を押したが、彼はもとからそのつもりだったようにすぐ離れた。次いで下唇が軽く噛まれる。アウリスはぞくりとして思わず相手を見上げた。猫じゃらしは真顔でアウリスを呼んだ。そのまま目線を伏せた彼が、噛みつくようにアウリスの首筋に唇を滑らせていく。

 指が首にかかった。

 と思ったら衣擦れの音をさせて襟が肌蹴けた。すーすーする感触にギョッとしてアウリスは体が竦む。思わず両手で襟を掴もうとしたら、あっという間に背中に回された腕でカウチの上に仰向けにされた。

「? ? えっ、猫じゃらし何をしているの」

「男にわざわざそういうこと言わせるのは野暮じゃねえか、アウリス」 

 アウリスはびっくりして猫じゃらしの髪を両手で掴んだ。さすがに痛かったのか彼女の両手を乱暴に掴んだ猫じゃらしはアウリスを万歳させてカウチに押さえつけた。

「言っただろう、あんたは一晩ここにいる気なのか」

 わざと耳に声を注ぎ込むような言い方にアウリスは今度こそ何かが切れた。猫じゃらしの腹を蹴り上げ、その勢いでバネみたいにカウチから跳ね上がる。

(こ、このひとやっぱり今日は変だ!)

 猫じゃらしとキスしたことはあったけれどそれはお互いに彼流の挨拶以上でも以下でもなかったからであり、それ以上のことは愛を誓い合った恋人同士でもないのにするつもりはないし、したいと考えたこともなかった。そんなの知らない。誰相手でもしたいと思ったことはない。猫じゃらしはそれが解っているのに他の女の子にするみたいにアウリスをいなそうとした。きっとはぐらかそうとした。アウリスは聞きたいことがあったのに。アウリスは彼の傭兵なのに。それをしたのが誰でもなく彼だったことが何より嫌だった。

「……馬鹿!」

 アウリスは裏切られたような気持ちになって、捨て台詞を吐いて部屋から逃げ出した。ラーナは扉を開けてくれなかった。

 じぶんで扉に体当たりして出た先の廊下では、壁際で暗い顔をしたラーナが膝を抱えていた。アウリスは一度足を止めたが、ラーナはわりと常に挙動不審なところがあるので気にしないことにして声をかけずに走り去った。

 外はもう日が暮れていて、吹き抜けの窓には風が集まり、寒々しい音をたてている。アウリスは頭の中がこんがらがっていた。一人で残してきた様子のおかしい上官のことにまだ憤慨しながら八つ当たりみたいに大股で廊下を歩いているうちに、ふと下りの坂道で角から現れた女性に衝突しかけた。慌てて半歩で避ける。じぶんも怒っていて周りが見えていなかったが、相手の方もひどく急いだ様子で衣服が乱れたままだった。

 女性は豊富な胸元に手で襟を集め、早足に歩いていく。すれ違いざまに変な鼻歌に混じって「シュラバッバ~」と言っているのが聞こえた。嫌な予感がした。アウリスは彼女が来た方へ顔を向ける。この先には裏戸しか目立ったものはなく、戸を出た先には七課が泊まっている駐屯所があるのだった。

 アウリスは早足になって通路を突っ切り裏戸を出た。とたんに女性の悲鳴に似た声が届く。やはり知っている声だった。アウリスは焦りが湧くままに駐屯所の角へ走って、目当ての部屋の半分だけ開いた戸口の横に体をくっつけると、そっと中を覗いた。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ