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38.


 静かな川のせせらぎが聞こえて、意識が覚醒した。

 辺りはまだ暗い。なのに、薄く開いたアウリスの目には、いの一番に赤い髪をした男の顔が映っていた。

「わ、びっくりした」

 寝起きで声がちょっと掠れてしまった。ぼんやりとしていた視野が徐々にはっきりとしてくる。どこかで燃える焚き火が洞窟を琥珀色に染めていた。膝を抱える名無しが闇のなかでもちゃんと見えるのは、その明かりのおかげのようだ。

「ごめんね」

「え?」

「寝かせとこうと思ったんだけど」

 名無しの目線が動くのに促されてアウリスが振り向くと、焚き火の手前に仁王立ちになる姿があった。

 二度目にアウリスは声を失くす。

 ここ四日ほど、この洞窟で、名無しと、そしてアルヴィーンと生活していた。

 夜起きると、ときどき、名無しがこうやって枕元に座っていた。座って何をしているでもない。ただ、何故か近くにいて、何故か真夜中なのに起きていて、その漆黒の目で、ジッとアウリスを見ているのだ。

 アウリスの具合を心配して……みたいな眼差しでもない。そういうとき、アウリスは何となく彼に背を向けて寝に戻るようにしていた。けれど、今夜は名無しの挙動不審だけでは、ない。

「ラーナ」

「アウリス。具合はどうだ?」

 実に四日ぶりの姿だった。最後に彼女を見たのはセラザーレの公開処刑場でだ。

 慌てて起き上がろうとしたアウリスだったが、途端に痛みに顔をしかめる。半ば反射的に肩の包帯に触ってしまうと、それを見たラーナが顔をしかめた。

「おまえの怪我のことは聞いたよ。まだ痛むのか」

「えっ、あ、……はい、ちょっとだけ」

「無理するな」

 ラーナが早足で近づいてくる。

「ラーナ。あの、なにかあったの?」

 ラーナが今夜来てくれることは知らされてなかったのだ。唖然とするアウリスの頭には当然のように一番に猫じゃらしのことが浮かんでいた。けれど、ラーナは苦笑している。

「いや。おまえもひどい目に遭ったよな。話には聞いてたけど……ひとまずこの目で無事を確認できでよかったよ」

「ラーナ」

「出歩けそうなら少し話をしようと思って来たんだけど」

 ラーナがそう切り出して、アウリスは考えるまでもなくうなずいた。

「でもおまえ体は?」

「だいじょうぶです。毒は初日で抜けたし、それに傷口を縫ったんです。二日で塞がったっぽいからもう平気」

「へえ、そんなもんか?」

「はい」

 アウリスの怪我の処置をしてくれたのは名無しだった。縫合した傷の回復速度も彼が予測してくれた。実際、矢が貫通した傷口はわりと上手に治っている気がしている。膿んだり、熱が出たりといった症状もない。

 まだ痛みはあるし、重い物を持ったりは出来ない。でも、アウリスはラーナに過剰に心配させたくなかった。ラーナの話を聞きたかった。せっかく、ようやく会いに来てくれたのに。

「糸抜くときがまた、かなーり痛いんだけどね?」

「えっアウリスおまえ麻酔なしで縫ったのか?」

 うっとりと笑う名無しの言葉が気にならないではなかったが、アウリスは驚くラーナの前に身を起こした。

「アウリス」

「うん、だいじょうぶ。外へ行くんでしょう?」

 立ち上がりついでに枕がわりにしていた外套を拾い、身に纏った。

 素早く身支度を整えたアウリスを見て、ラーナはちらりと心配する顔をしたけれど、それ以上何か言ってくることはなかった。

 ラーナを先頭にして二人は洞窟を出た。

 外は透きとおるような星空だった。川が近くにあるからか、景色は白く霧がかっている。洞窟と外とを隔てる岩壁のそばには、アルヴィーンが座っていた。そこは夜の彼の定位置なのだ。

 一緒に来るかと思ったけれど、アルヴィーンは一瞥を寄越してきただけだった。

 洞窟を後にするこちらの背中に、「帰ったら薬塗ろうねー」とやたら楽しそうな名無しの声が追いかけてきた。





 まずはそっちの様子を教えてくれ。

 ラーナが真っ先にそういうので、アウリスは公開処刑があった日から今日までの経過を話して聞かせることにした。

 川べりの少々ぬかるんだ地を歩きながら、アウリスは順々にこれまでのことを浮かべる。

 四日前、アウリスは名無しに担がれて公開処刑場を後にした。次に目が覚めたのはさっきの洞窟のなかで、そのときすでに、半日以上経っていた。

 矢の怪我のせいで、初めの数日は殆ど寝たきりだった。ようやく寝床から起き上がったのが昨日の夕方だ。リハビリを兼ねて、今日は朝から歩いたり飯炊きしたりもしていた。

 洞窟生活の二日目、アルヴィーンと肉だんごがやってきた。アウリスはとても驚いたのだけれど、名無しの方は、彼らが近くにいたことをちゃんと知っていたらしい。アウリスが洞窟で目を醒ましたとき、彼は「明日猫ちゃんと会わせてあげる」と言っていた。あれはこういうことだったのだろう。名無しはちゃんと、黒炭の仲間と連絡を取り合えることをわかっていたのだ。

 でも、アウリスが「明日」猫じゃらしに会うことはなかった。

 アルヴィーンと肉だんごはふつうにアウリスを追っかけてきただけだったのだ。まあ、アウリスが去った現場を見ると誘拐に見えなくもなかったようだ。彼らも猫じゃらしの行方を知っていたわけではなかった。

 しかし、裏師団であるアルヴィーンはラーナとの連絡方法がある。そこで、アウリスを見つけ次第、彼は彼女と通信した。そしてラーナの、ひいては猫じゃらしの居所を知ると、遣いとして肉だんごを彼女たちの元へと送った。これが二日前である。

「もう少し早く来れたらよかったんだけど。ごめんな」

「いいえ、ラーナの方も大変だったでしょう」

「というか、あんまり行ったり来たりしたら目立つだろ。お互い隠れ家知られると困るもんな。今は安易に移動できない状態だし」

「じゃあ、ラーナたちもまだ王都に?」

「ああ」

 ラーナがアウリスの顔から目線を外した。

「猫じゃらしがさ。ちょっと、……悪かったんだ」

「……はい」

「今はだいぶよくなった。でもまだ長旅とかは無理っぽくてさ。動かさない方がいいって」

「そう……ですか。じゃあ、猫じゃらしがもう少し安定してから王都を離れるの?」

「そうなると思う。フェゼルが一緒に来ててよかったよ。ほんとに」

 フェゼルというのは黒炭お抱えの医師のひとりだ。猫じゃらしとは昔から仲が良い印象があった。

 アウリスは言葉もなく俯いた。

 歩きながら、暫く二人の間に沈黙が続く。

 猫じゃらしは医者にかかりながら王都に隠れている。ラーナも、肉だんごも、今は彼と一緒にいるのだろう。

 「だいぶよくなった」。ラーナはそう言ったけれど、彼女の口調は沈んでいたようだった。アウリスもあまり喜ぶ気持ちになれない。回復した、といっても、猫じゃらしが元気にしているとはアウリスには思えなかったからだ。

 あのとき、アウリスは猫じゃらしの体を見た。

 彼の顔を、見た。

 ゾクリと嫌な寒気が走る。

 息が詰まり、半ば無意識にアウリスは身を抱いた。猫じゃらしは、……あの体は、もう、元通りにはならない。彼自身もたぶん、そう。もう、彼は以前の日々に戻ることは出来ないのだ。

 それでも、命は繋がった。

 今はそう言って喜んだらいいのだろうか? 「みんな助かった」って?

「すまない」

 そう言ったラーナの表情を、アウリスは俯いていたので見逃した。

 遅れてアウリスがそっちを見ると、今度はラーナが俯いてしまった。甲冑を嵌めた手で、彼女は額にかかる髪をくしゃりと握る。

「あのひとさ、ずっとあんたに会いたいって言ってたんだ」

「え?」

「処刑場を出た後さ。でも、わたしが止めていた。あのとき猫じゃらしは本当に危ない状態だったんだ。言ってることもなんかちょっと訳わかんないっていうか。うわ言っぽくてさ。そのあとも暫くそんな感じで、フェゼルもわたしに味方してくれて」

「……そう、だったんですか」

「でも今は話せるくらいに回復したみたいだから」

 ラーナが手のひらで目を覆う。かすかに笑う唇が、けれど震えていた。

「会ってやってほしいんだ、猫じゃらしに。アウリスを待ってるから」

「それはもちろん、そうするつもりです」

「うん。そっか。そうか、……アウリスだって、あのひとが心配だよね。変な言い方して、ごめん」

 軽く頭を振り、戸惑うアウリスの方へラーナは振り返って、笑った。

 アウリスは言葉に詰まった。

 ラーナは憔悴している。彼女の疲れは猫じゃらしの容態の悪さと直結している。それが、伝わってくる。

 でも、それだけではない気がした。

「ラーナ」

「ん?」

 アウリスは言いよどんだ。じぶんが言うべきではない気もした。

 前にアルヴィーンが毒矢に倒れたとき。アウリスは何も出来ないじぶんを責めた。考えていた。他の誰かが。例えば、毒通の猫じゃらしとか。裏師団で準備がいいラーナとか。アルヴィーンを背負って歩くだけの体力があるグレウとか。

 別のだれかが、いたらよかった。じぶんじゃない、べつの誰かの方が、アルヴィーンは助かった。

 アウリスはこっそり、何度も、そう考えていたのだ。

 けれど、そんなものは意味がない。じぶんを苦しめるだけ。じぶんが消耗するだけだ。なにより、それはひとつも、アルヴィーンのためにならなかった。幸か不幸か、あのとき苦しむアルヴィーンの傍にいたのはアウリスだ。

 だから、出来ることは、全力で彼のそばにいることだった。

「猫じゃらしは、ラーナがいてよかったと思ってると思う」

「そうかな」

「はい。ラーナはすごく頼りになる。わたしもそう思っています。ラーナがいなかったら、正直、猫じゃらしの救出はとても難しかったと思う」

「というか不可能だったな」

「不可能ではありませんでした。でも難しかったと思う」

「それは確かにそうかもな」

「はい!」

「けどなアウリス」

 若干前に出ていたラーナが、ふと歩調を緩める。

「なぐさめてくれてるとこ悪いんだけど。そういうのじゃないんだよなあ」

「え?」

「わたしが落ち込んでる理由」

「えっ」

「まあいいよ。ちょっと元気出たしさ。アウリス」

 いきなりラーナが振り向いた。と思ったら、硬い拳が胸にあたった。

「今日だけはおまえに譲る」

 ラーナは困惑するアウリスを見て、笑った。

 ぎこちなさのとれた、少しばかりいつもの調子の笑みだった。

 一拍おいて、甲冑を嵌めたその拳がアウリスの胸から離れた。最初と同じに唐突にラーナは背を向けた。

「じゃ、行くぞ。猫じゃらしに会いに」

「えっ、あ、これからですか?」

「何か不都合でもあるのか?」

 いきなりで驚いたが、アウリスは首を横に振った。じぶんの表情が引き締まるのを感じる。

「行きたいです。……でも」

「なんだ」

「その、起きたばっかりでちょっと、お、お手洗いに」

「アウリス……」

 振り向いたラーナはものすごい白けた顔だった。

「おまえ緊張感のひとかけらもないな」

「ごっごめんなさい」

「まったく。ここで待ってるから」

「は、はい」

 アウリスは恥ずかしくて顔が赤くなるのを感じながら近くの茂みに飛び込んだ。暫くして、生理的欲求を解放して出てくる。

 その足で川に出て、少々雑に顔を洗った。 

 眠気はもうとっくに吹っ飛んでいる。夜の川の冷たさが頬を刺すのを感じながら、アウリスはふと視線を上げる。

 鬱蒼とした木立の頭上には、今夜は月が浮かんでいなかった。まっくらにざわめく林を見下ろしながら、星屑をちりばめた晴れ空が、ただどこまでも広がっていた。

 




 考えてみると、ラーナがわざわざ夜襲をかけてきたのは、日中移動するより見つかりにくいからだろう。二日前の肉だんごも夜を待ってから馬を駆けていた。

 今、厳重な警戒態勢に入った王都内を出歩くのはものすごく注意がいる。今夜のアウリスたちは馬もなかった。

 けれども、まさか三時間半も歩き続けることになるとは。

 その小屋に辿り着いたとき、アウリスはちょっとへとへとになっていた。肩の傷が思い出したように痛みはじめている。

「いいだろ? ここ」

 ラーナは目的地の周りを見回して、ちょっと得意げだった。から元気だとしても凄いスタミナだ。

 小屋は丸太組みの二階建てだった。灯りのともった小屋の周りはなかなか綺麗に整えられていた。農作物の畑が小規模ながら広がっている。柵の向こうには、5頭の馬。今は立ったまま寝ているみたいだったが、アウリスが近づくと、一匹が小さくいななきを上げた。

 裏手にはちらりと井戸も見える。奇妙なくらい生活感のある小屋の前に、アウリスはおずおずと佇んだ。ラーナの方を見る。

「じゃあ、わたしはここにいるから」

 言われて、アウリスは丸太の戸に向きなおる。軽くノックをして、返事を待たずに、そっと戸を開いた。

 灯りの筋が外の闇に漏れる。

 アウリスが小屋に入ると、猫じゃらしは寝台の上で身を起こしていた。ロウソクが枕元に灯っている。彼は、白い、薄地のシャツを着て、下半身はベッドシーツのなかだった。その右腕が、包帯と、奇妙な針金の束で巻かれている。針金の束は寝台の柱にくくられ、腕を吊り上げていた。あれだと寝にくいだろう。

 顔の包帯に、嫌でも目がいく。

 猫じゃらしの目は完全に覆われていた。額から鼻の半分くらいまで、がっしりと分厚く巻いてある。薄い唇は乾燥していた。切り傷が目立つ。裂傷や、内出血の痕が顔を変色させていたが、もう腫れは退いているようだ。

 アウリスは黙ったままで、猫じゃらしの寝台の傍に行き、そっと椅子に腰下ろした。気づいたら勝手に目が熱くなっている。堪える為に両手で顔を抑えようとすると、猫じゃらしの手が伸びてきた。

「よお、可愛いお嬢さん」

 猫じゃらしの声はやけに掠れていた。

「おい」

「……」

「何黙ってんだ。不親切だぞあんた。どこにいるかわからねえだろ」

 ふらふらと猫じゃらしの左手が宙を搔いた。その手も、手首の方まで包帯まみれになっていた。

 ……こっちも手を伸ばして、握りしめたらいいのだろうか。

 アウリスは猫じゃらしの手をジッと睨んだ。睨んでいると、どんどん目の前が滲んできた。

「あー……」

 気配を察したのか、猫じゃらしは手をぶらつかせるのを止めた。膝元に手を休めたかと思うと、彼は、大きく、重たく息を吐く。

「ラーナから話は聞いた。七課はジークリンデ領で落ち合うんだろ」

「……はい」

「ふざけんなあんた。ようやく返事しやがって。ちっと見た目が変わったら上司への礼儀も忘れちまうのか、ああ?」

「……」

「まあいい。俺はちょっと回復待ってからここを起つ。そんときはラーナとフェゼルの二人だけ連れていく」

「え」

「俺はジークリンデには行かねえ」

 驚いて、ほんとうに驚いて、アウリスは猫じゃらしの顔を見た。

 そのときになって漸く、アウリスは気づいた。この部屋に入ってから、まるで、じぶんが猫じゃらしの顔を直視していなかったことに。まるで、じぶんまで目がなくなってしまったみたいに、アウリスは猫じゃらしとまっすぐに見合うことを避けていたのだ。

 そうして初めて彼を見上げたのだが、猫じゃらしの方はふいと顔を背けてしまった。ロウソクの明かりが、包帯と、頬にかかる彼の髪を茜色に輝かせている。

「俺とあんたは狙われてる。それを言やあ黒炭七課は全員指名手配中だが。ラファエアートが探索に力を入れるとしたら俺ら二人のことだろ。だったらバラバラになった方がいい」

 猫じゃらしは何を言ってるのだろう。何を言おうとしてるのか。アウリスは耳を覆いたくなった。

 聞きたくない。さっきから、声が上手に出ない。怪我を負って、一生治らない体になって、弱っているこのひとを前にして。なのに、じぶんは。

 もうだいじょうぶだよ、と。

 会えてうれしいと。

 そんな、気の利いた励ましの言葉の、ひとつ、すら。

「お別れだ、アウリス」

 猫じゃらしの衰弱した声が、けれど、きっぱりと、アウリスの心に斬り込んだ。

「あんたは好きにしたらいい。ジークリンデに行くってのも悪い案じゃねえよ。ただ、……あんた、ちゃんと俺の手紙読んだんだろーな。ラーナは渡したっつってたぞ」

「だ」

「あ?」

「やだ」

 沈黙が降りる。押し黙り、両手で口を押えるアウリスの方を、猫じゃらしはゆっくりと振り返った。ごつい包帯で目を覆われているのに、その顔は、はっきりと表情が読めた。困惑している顔だ。

「何がだ」

 アウリスは口を押える手をぎゅっと拳にする。アウリスの仕草が見えないから、猫じゃらしは何が何だか全くわかってないだろう。案の定、彼はイラついたように唸った。

「何だんまりやってんだ。あんたは。ああ? 何が嫌だって俺は聞いてんだろうが。ちゃんとしゃべれよ。おい」

「……」

「面倒くせえないい加減にしろ!」

 しゃがれ声なのに、鼓膜が破れるみたいな物凄い怒鳴り声だった。アウリスは椅子の上で飛び上がった。

「ふざけんなクソッ! こっちは体痛くて気がたってんだよ!」

「なっうっ」

「なんだその声。あんた泣いてんのか。あーそーか泣け泣け。泣きてえのは俺なんだよ。ったく何でここにいんだよあんたは! 俺は逃げろっつったよな? 壇上で跪いたら合図だって言ったろ? ラーナにも逃げろって言われただろうが。あ? それを勝手なことしやがって! 俺はてっきりなあ、あんたは王都からとうにいなくなってるとばかり思ってたんだよ!」

「でっでも……わた、わたしはただ、猫じゃらしのことが心配で」

「あんたがいなくてもどうとでもなったんだよ!」

 がつん、と拳みたいな怒鳴り声がアウリスを殴った瞬間、アウリスの頭はまっしろになった。

「なってないじゃない!」

 があん、と物理的な音が上がった。聴覚だけの存在にはきつかったのか、猫じゃらしの肩が微かに跳ねたのが見える。でも、知るものか。

 立ち上がりついでに後ろに倒れた椅子を蹴っ飛ばして、アウリスは立ちはだかった。

「うそつき! どうとでもなってないわ! わたしがいたらどうとでもなったの間違いでしょう!」

「はあ?」

「あなたはわたしが生き延びさえしたらそれでよかったんでしょう! じぶんのことなんて考えてなかったでしょう? でも、わたしはそんなの、ちっとも嬉しくないわ! 猫じゃらしはさっき上司だって言った。でもちがうわ、あなたにとって、わたしはあなたの傭兵じゃない! レオナートの娘。それだけよ。いつまで経っても、……それだけなんだわ!」

 ちがう。

 こんなことが言いたかったのじゃない。アウリスは開いたままの口を両手で強く押さえつけた。

 だから。だからしゃべりたくなかったんだ。アウリスはじぶんにそう言い聞かせようとする。言いたいことはべつにあったはず。もっと何かあったはず。

 なのに、今こうして、怪我を負って、一生治らない体になって、弱っているこのひとを、前にして。

 ――どうしてまた、置いてこうとするの。

 じぶんのなかに、無い。

 じぶんの想いを言葉にするだけの、理性が。

「アウリス。あんたさっきから何言ってんだ?」

 暫く押し黙っていた猫じゃらしが、案の定、困惑に掠れた声を出した。

「アウリス」

「ううっ」

「おい」

 猫じゃらしの手がのろのろと伸びてくる。今は寝台の近くにいたから、手は安易にアウリスの腕を見つけて、そのまま引き寄せた。

 自然と寝台の端に腰を下ろし、アウリスは猫じゃらしを睨む。彼も、包帯の下でしかめっ面をしていた。

 その表情は変わらないまま、猫じゃらしの手が離れて、手探りで、頬に、目元に、唇に触れてくる。落ち着かせる為のゆっくりした動作だ。

「なんなんだよ、あんた……」

 そして、ガサガサする包帯の感触がアウリスの顎を捕えて、そのまま、彼の顔が近づき――。

「ごまかさないで!」

「痛っ」

 ばちん、と乾いた音と共にアウリスは怪我人の顔をぶった。

 当然ながら強くしなかったはずだが、猫じゃらしは寝台の背にどん、と身を投げ出された。

「ってエ、……このクソガキ」

「うう」

「泣くなオイ! いいか。あのな、……こういうこと言ってる状況じゃねえだろ。あんただってわかんだろ。俺よか教養あって頭いいんだろ? いっつも自分でそう言ってんじゃねえか」

「ふ……っう……っ」

「……あー、めんどくせえ」

 ひどすぎる。

 感情がもともと昂っていたアウリスは蒼褪める。ひ、と喉から嗚咽が漏れた。

「ひ、って。あんたな」

 呆気に取られたような声で言いながら、猫じゃらしはしかし、少し考え込んだ。

「あー、……だから。なあ。あんた、なんか勘違いしてねえか。俺は聖人君子じゃねえんだよ。レオナートは確かに恩人だよ。だが、それだけで何年も気に入らねえガキの面倒なんぞ見ねえ。気に入らなかったらとっくに追い出してるよ」

 にい、とあの油断ならない笑みを猫じゃらしは浮かべた。

「あんたを王室に突き出したらいい金になっただろうしな」

「……」

「だからそういうんじゃ、ねえよ」

 猫じゃらしがアウリスの言葉に真剣に返してくれようとしたのが感じられたので、アウリスは少し落ち着いた。口を押えていた両手を下ろし、そっと目線を上げる。

 ほんとうは、アウリスも解っていた。

 アウリスはレオナートの娘だ。それは変えられない事実だった。でも、猫じゃらしはアウリスを彼の傭兵にした。だから、猫じゃらしにとって、アウリスはどっちもであり、どっちかひとつには、成りえないのだ。

 アウリスが怒ったのは、たぶん、猫じゃらしがじぶんを特別扱いしたからじゃ、なかった。

 猫じゃらしは自分を曲げないからだ。こんなになっても、彼は自分の選択を後悔していないからだ。その姿勢を、彼は変えることはないと、わかったからだ。

 だから、アウリスは気づいてしまった。

 『お別れだ』。

 ジークリンデには行かないと、彼が断言したとき、その意思を覆すことができないのだとアウリスは直感したのだ。

 顔を背けて、見えない目を背けていたその姿は、完全に、アウリスを拒絶していた。

 呆れるほどに、彼は自由人だった。

 そして、それを――自由を、アウリスにも教えてくれたひとだった。

 その男の自由を、アウリスが曲げられるはずも、ない。

「ひどいね」

 ラーナや、アウリスを傷つけておいて、なお、いっそ冷徹なほどに、猫じゃらしは自分の考えを貫いている。

「ごめんな」

 ギョッとして、アウリスは顔を上げた。 

「今空耳がしたんですけど」

「あんたほんと可愛げがねえな」

 結局、猫じゃらしがその、多分アウリスが初めて彼から聞く言葉を繰り返すことはなかった。多分、これから二度と聞く機会はないだろう。

 ぐず、とアウリスは涙をぬぐう。彼女の気も知らないで、猫じゃらしは呑気にため息などついている。

「で? あんたはこれからどうすんだ。ラーナはあんたが七課と一緒にジークリンデ領に行くって思ってたみてえだが。手紙読んだんだろ?」

「手紙?」

「俺がラーナに渡してたやつだ」

「え? なんの」

 なんのこと、と言いかけて、奇跡的にアウリスは思い出した。

 たしかに、アウリスは猫じゃらしから手紙をもらっていた。もうずっと昔のことに思えるが、猫じゃらしが捕まった当日、ラーナを通じて渡されていたのだった。

「あんた、まさか読んでねえのか」

 アウリスの沈黙を猫じゃらしは正しく解釈した。けれど、彼の口調が、何やらものすごい呆れた感じだったので、アウリスは思わずムッとする。

「捨てたわ」

「は」

「捨てた。崖から」

 ぶ、と猫じゃらしが吹き出した。しかしそれだけにとどまらず、彼は何故か、乾いた声を上げて、苦しそうに笑い始めた。なんら脈絡のないその反応に、アウリスは目を白黒させる。

「な、なによ」

「あ、あんた」

「笑うことないじゃない! 悪かったとは思ってるわよ! ごめんなさい! でもちゃんと話は聞くつもりだったわ! あなたに会ったときに! あなたが悪いのよ、大事なことならちゃんと口で伝えたらいいのに! しないから!」

「あんた……わ、笑わせるな……いてえ……」

「ふざけてるのは猫じゃらしでしょう!」

 気づいたら拳をぶるぶるさせてアウリスは噛みついていた。猫じゃらしははあはあ言いながら息を整えている。

「あんたらしいな」

 笑いながら、猫じゃらしは囁いた。

「それでいいよ。あんたは」

「なにが。何か大事な話があるなら教えてよ」

「いやいい」

「……なんなのよ」

 あれだけ笑っておいて、理由も教えてくれないつもりらしい。憮然とするアウリスの頭を、猫じゃらしはそっと手探りで見つけた。

「あんたも、好きにしろ、アウリス」

 額にかかっていた髪をくしゃっと撫で上げられる。アウリスは僅かに目を見開いた。その手が思いのほか、心地よく感じたからだ。そしてふと、アウリスは気づいた。

 そういえば、猫じゃらしにこんな風に撫でられるのって初めてではないだろうか。

「猫じゃらし?」

 ぼろ、と、指のあいまを零れた髪がアウリスの頬を打つ。

「あんた、もう行け」

「は?」

「疲れたんだよ。体がまだ本調子じゃねえんだ」

「あ」

「もう下がれ。上官命令」

 まだ笑いが残った震える口調で、猫じゃらしは左手をひらひらさせた。そして彼は、ほんとうに疲れたように寝台の背に身を凭れて、微かな風が吹きこむ窓の方へと顔を向けた。

 アウリスはそれを見て、一拍おいて寝台から腰を上げた。

 ――……ちょっと、待ってよ。

 踏みだした足がきしりと床を軋ませる。

 ――でも、ここでわたしが出てったら、もう……。

 腰に提げる剣が何かにぶつかる。やたらごちゃごちゃと医療器具が散らかったままの部屋を、アウリスは歩み去った。

 アウリスが戸口のところで立ち止まり、猫じゃらしの方を振り向くと、彼は相変わらず窓の方を仰いでいた。

 茜色の、暖かな光に照らされる横顔を眺めながら、喉に詰まっていた言葉が再び熱を持った。しゃっくりが出てきた。目の前が滲み、胸やけまでした。

 ――行かないで。

 行かないで。

 行かないで。置いてかないで。

「猫じゃらし」

 目が見えなくても人間は条件反射で動くのか。猫じゃらしは、声のする方を振り向いた。

「あの」

 アウリスは息を詰める。

「……さっき二人で逃げたら危ないって。言ってた。だったらわたしが、もしこのまま七課といたら、七課も危ないと思う?」

 猫じゃらしはそれを聞いて、微かに首を傾げ、また窓の方をぼんやりと向いた。

「それは自分で考えろ。アウリス」

「っ」

 衝動的に、彼女は剣を抜き、目の前の床板に突き刺した。

 乾いた音をさせて木が破裂する。

「馬を」

「あ?」

「……一頭、借りていきます」

「ああ」

 言葉にならない気持ちが胸を締めつける。アウリスは跪く体勢からすぐに立ち上がると、剣をほっぽって、ずんずんと寝台の方に戻った。

 わかっていた。

 なにか変だと思っていたのだ。最初に小屋に入ってきたとき、いつものように彼はアウリスを呼ばなかったから。

 アウリス、ここへ来い。

 そう、いつもみたいに、じぶんを、近づけてくれなかったから。

 アウリスは乱暴に襟首をはだけた。

 そこに回る革紐に頭をくぐらせると、首飾りをいちど拳のなかに握り、拳を開いて、シーツのなかに落ちている彼の手に握らせた。

 『今日だけは、おまえに譲る』。

 ラーナが言ったのはこういうことだったのだろうか。

 そんなことを考えながら、猫じゃらしの後ろの壁に手を添えて、アウリスは彼に口づけした。

 軽く唇を啄む。すると、傷だらけの唇はとても自然に開いてアウリスを招き入れた。後頭部には、包帯のかさばりが回る。猫じゃらしはアウリスの頭の形を覚えておこうとか思ってるのだろうか。

 目が見えない故の仕草なのかもしれない。けれど、こうやって頭を撫でる手は、やっぱり、何とも言えない気持ちよさなのだった。

 行かないでほしい。

 一緒にいてほしかった。

 ――でも、あなたの好きにしたらいい。猫じゃらし。

 猫じゃらしはいつもそう言ってくれたではないか。それがときどき、怖くて、辛くて、とてつもなく世界を広げることだと、教えてくれたではないか。

 だから、お互いに、二人の自由を奪わない。

 アウリスは引き留めない。

 猫じゃらしがどんなに傷だらけになっても。どちらが、どんなに傷だらけになっても。

「……あんたな。目の見えねえ奴を襲うな。びっくりするだろ」

 猫じゃらしが何ごとか背後で文句を言う。みなまで聞くより先に、アウリスは剣を引っ掴んで戸から飛び出した。

 表に出ると、柵の近くにラーナがいた。ちょうど馬の散歩をしていたらしい。青毛のたてがみを撫でていた彼女は、アウリスの猛進してくるのを見てギョッとした顔になる。

「あ、アウリス?」

「馬いただきます」

「えっ」

 剣を腰に提げなおし、同時に馬に乗り上げる。手綱を引いたときにズキリと肩に痛みが走った。

 危うくバランスを崩しかけ、けれど持ちなおすと、アウリスは一目散に駆け去った。

 いつしか辺りは群青色だ。日の出が近い。小屋へ来る道で3時間以上食ったせいだ。もう、朝が来てしまう。

 ラーナが追いかけてくることはなかった。

 アウリスは猛然と馬を駆けた。

 一人になって、また後から後から、あふれてきた。峠を降りながら、振動で舌を嚙んでしまうから、奥歯をしっかりと噛み合わせていた。

 そうして、声もなく、堪え続けていた声を吐き出した。

 たくさんの言葉を吐き出した。

 小屋で言えなかった想いすべて。言わせてくれなかった想いすべて。

 群青色に薄れていく夜霧のなかで、じぶんの周りで、見えない檻が、ぱらぱらと崩れ去っていく。じぶんを守っていた物が壊れていく。それが感じられる気がした。 

 猫じゃらしは、アウリスに一言も告げずに去る事だって出来た。

 でも、そうしなかった。

 わざわざ呼び出して別れ話。そうしてまた、アウリスにゆだねてくれたのだ。

 それは、あまりに残酷で、暖かい、あのひとの信頼だった。

 それがアウリスには解る。

 解るだけに、いつまでも涙は止まらない。


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