36.
猫じゃらしは王城の地下牢へ連行された。
頭の袋はずっとしたままだった。不便で仕方ない。目が見えないせいで所々に体をぶつけ、そのたびに殴られた。
ラファエの存在が緊張を生んでいるせいか、殆ど誰も口を利くことがない。石壁に響く足音がやけに大きい。他に、ぱちぱちと火の粉が舞う音と、それから、なにか、……匂いがする。篝火に使う油が溶けるにおいだ。きっと、たくさんの数の火が焚かれている。
ツンとする強烈な油臭のせいか、ちっとも他の匂いがわからない。それとも、脳が情報を遮断しているのだろうか。自己防衛というやつか。
ここは牢獄だ。もっと異臭がしていてもおかしくない。静寂も相まって、まるで、深い森のなかを、篝火を焚く行列で行進しているような錯覚さえする。
頭の袋を外された。
地下牢は、意外と広かった。ひとことでいうと、洞窟だ。ただ、石で出来た壁も天井も床も、何の用途か、粗末な板が張りつけてある。
出入り口は鉄格子がひとつだけ。猫じゃらしは、その鉄格子の手前で立たされていた。
牢内はまっくらだ。石の回廊は所々で篝火が照らしていて、かなりの数の兵士たちがいた。二十人くらいか。男たちは、国家騎士か、警備兵か、看守だろう。
ラファエは火を持つ看守の隣に立っていた。
その彼がふと、そのへんの鉄格子を顎で示した。
「ヴァルトール王国の誕生からあったと言われる地下牢だ。そのような大昔から国の大罪人を収容している。全部で七つの牢があり、一つ一つに、だいたい五人を上限として入れている」
兵士たちの手で辺りの鉄格子が全て開かれて、なかに入った兵士たちがぞろぞろと再び通路に現れるあいだ、ラファエはそんな説明をした。
猫じゃらしは目線だけでそちらを見た。出てきた兵士たちはもちろん手ぶらではない。牢の中にいたのだろう罪人を連れ立っていた。
ボサボサの鳥の巣みたいな髪の毛。腰布一枚を纏った体。罪人どもは、どれもこれも一目でそうと解る薄汚いナリをしている。
「……さて! 聞け、罪人どもよ!」
一層狭苦しくなった通路内で、ラファエが声を張り上げた。
「私は国王ラファエアートである。この善き日に、おまたちにひとつ温情をくれてやろうと思って参った。……よいか! 私はこれから、おまえたちの誰が無罪になるかを選ぶ! 私に選ばれた罪人は、今日より八日後、この忌まわしき地底を出て、陽射しの下で自由の身となり、再び世を闊歩するであろう!」
罪人たちがざわめいた。恐らく彼らは混乱している。どれほど長いあいだ地底で繋がれていたのか。闇に慣れた、疲れた顔で、罪人どもは戸惑っているように見えた。
「ただし!」
篝火が揺らめく。
「……ひとりだけだ。私はおまえたちのなかでたった一人だけを、無罪とする。この美しい男は」
ラファエはいきなり猫じゃらしを指さした。
「我が温情の女神である! よく聞け! これより八日のあいだ、この者を死なせぬ程度に甚振れ。何をしてもかまわん。ほどよく虫の息だなあ、くらいでちょうどよい。絶対に殺すな。一番上手にこれが出来た者を、私の温情の価値ありと判断し、そこに無罪とす!」
それは大声ではなかったが、ここにきて、闇のなかの無数の光が、一斉に猫じゃらしの方を向いた。
様々な色あいの目が、一様に、ぎらぎらと輝く。
飢餓している。獲物を見つけて悦ぶ。獣じみた眼光。
「……へえ」
ラファエの意図がわかり、猫じゃらしは短く息を吐いた。笑ったつもりだったのか。
恐怖はあまりなかった。いや、あったかもしれないが、それを凌駕し、グツグツと内臓が煮えるような怒りが湧いてくる。
――コケに、しやがって。こいつ。どこまでも……!
猫じゃらしが鋭く睨む先、ラファエも彼を見ていた。猫じゃらし自身とひどく似た形相をしている。敵意を剥き出しにした、ゾッとするほどに醒めた眼差し。
「――お待ちください!」
今まさに振り降ろされようとしていた、ラファエの腕が、止まった。
猫じゃらしもラファエが振り向く方を見る。ガチャガチャとやたら甲冑の音を鳴らしながら、ひとりの兵士が、ラファエの前で跪いた。
「私はロウ=レイ=ラキス。国王陛下のお慈悲をいただきたく申し上げます」
その兜が外されると、さらりと亜麻色の髪が零れた。
「レイ=ラキス? 第三師団の」
「はい。レイ=ラキス侯爵家はヴァルトールの剣。私は、今世の戦士であり、ラファエアート国王陛下の忠実な騎士であります」
ロウの、左胸にあてた手が拳を握る。
「しかし、……この者もまた、戦士です。主が為に数多の血で身を汚してきたもの。本望は戦場で果てること。ですが、この者はそれが叶いません。ならば、せめてこの者に、名誉ある最期を慈悲として与えてはくださいませんか」
顔を上げたロウは必死の形相だった。僅かにラファエが眉をひそめる。
だが、猫じゃらしは既に動いていた。
「ぁガッ」
猫じゃらしの背後にいた警備兵が、突如、異様な悲鳴を上げた。
その首の付け根に深々と針が刺さっていた。片手で握り込める太さの、針型の凶器。
猫じゃらしはそれを素早く引き抜いた。甲冑のあいまを縫っての一撃だった。たぶん致命傷だ。
一番近くにいた警備兵が剣を抜いた。
さすがに近衛騎士は速い。判断力も瞬発力も絶品。
空気を裂くような唸りをあげて、刃が迫る。猫じゃらしはそれを避け、スピードが乗った体で騎士の体に体当たりをする。針を振り上げる。
狙うのは……甲冑の隙間に覗く、前腕。乱闘中はここが一番刺しやすい。
苦痛の呻きが上がった。
猫じゃらしは相手ともつれるようにして倒れた。急いで身を起こし、そのへんの篝火を力任せに引き倒した。
「貴様!」
通路は塞がれている。
出口は階段だけ。
猫じゃらしの進行先では、騎士たちが鮮やかな金属音を重ねるようにしながら、抜刀した。
だが、彼らは動きを止めた。
ラファエが、騎士たちの前に腕を出していた。
「罪人ども!」
火の粉を散らして漆黒の袖が舞う。
号令はそれで充分だった。王の命により……いや、王の慈悲らしいが、罪人たちは猫じゃらしに殺到した。彼らが撒き散らす怒声は、もはや人間のものではなかった。獣の雄叫びとも違う。同じにしたらたぶん、獣に失礼だ。
甲冑を着てない分だけまだましな相手かと猫じゃらしも一瞬思ったが、それは間違いだった。
これだけ多勢に無勢では装備など関係なかった。周りのやつを殴り飛ばしているあいだにも、奇声を上げて飛びかかってきた一人が、猫じゃらしの左腕を封じてきた。両腕で、巻きつくように。
ごり、と体内で、してはいけない音がした。
猫じゃらしは呻き声を噛み殺した。
ここで痛がったら男がすたる。
針を持った左手で、そいつをぶん殴る。突進してきた禿げ男を、針でやたらめったらに刺し、膝をついたそいつのむこうの、別のやつをぶっ刺して、ついでに、真反対から飛び出してきたやつに蹴りをぶちかました。
そこまではよかった。
だれかが、背後から被さってくる。生意気にも、不覚にも、顎と首のあいだに腕を入れられた。
窒息決定だ。喉を圧迫されて、猫じゃらしは頭が逸れる。一緒に体勢が崩れる。その隙を罪人たちは逃がさなかった。野犬のように次から次へと飛びかかってきた。
「……っ猫じゃらし!」
猫じゃらしの揺れる視野に、亜麻色の髪をした男が見えた。
――バカが。信じられねえバカ。名前なんか呼んでんじゃねえよ。
こいつは忘れてしまったのだろうか。セラザーレの広場で倒れた騎士のことは、まだ記憶に新しいはずなのに。あの場で誰もが確信したはずなのに。あれは、ラファエに逆らった騎士の末路だと。
鋭く息を吐いて、猫じゃらしは、渾身の力でだれかのホールドから抜け出すと、片手の針を振りしきった。
「……っ」
ロウが息を呑む。
半ば反射的に手を出したのだろう、ロウの手のひらが、ぱっと血の花を咲かせた。
わざと浅く切り込んだのだ。ありがたく思え、と頭のなかで悪態をついた。
それが、本当に最後の一撃になった。
罪人たちが猛然と殺到する。勢いは止まらない。押されて、押されて、猫じゃらしは宛がわれた洞窟みたいな牢屋のなかへ押し込まれて、あっけなく転がった。
針がどっかに飛ばされた。
ずっと簪のなかに仕込んでいた針だった。もっと様子見てから使おうと思っていたのに。ロウのバカのせいで無駄撃ちした。……どこまで需要があったかは、まあ、疑問だが。
猫じゃらしは、しばらくむなしい抵抗を続けた。痛みとケンカの興奮で、まるで冷静さがなくなっているのがわかる。
目の前の床はやけに汚い。黒ずんだシミだらけだった。松明の明かりが近づいてくるまでもなく、それが何なのか察しはついた。
血痕。
おびただしい数の、血痕だ。
暴れ続けているのは、恐怖のせいも、あったかもしれない。
「顔が見たいのだ。ちゃんと押さえよ」
正面に立ったラファエが、屈むでもなく、仁王立ちのままで見下ろしてきた。
ムカついたが、気づいたら猫じゃらしは体を押さえられ、動けなくなっていた。後ろ髪を掴まれると、ろくな抵抗も出来ないまま頭が逸れる。
「妙なものだな。もう少し胸がすくかと思っていた」
ラファエは猫じゃらしの顔を見下ろしている。じっと、食い入るように。
「こうして七年ぶりに会って気づいたことがある。なあ、おまえ、猫じゃらし。おまえと私はまるで背丈が同じなのだ。あたかも双子のようである。気づいていたか? 私とおまえの目線がまっすぐに合うことに」
「……なに、が、言いてえんだよ」
「おまえは打たれ強いのだな。ちゃんと覚えておこう。だが、そうだな」
ゆったりと、ラファエは猫じゃらしの目の前に腰を低くする。
「それ故というわけではないのだが。私はずっと気に食わなかったのだ。おまえの、その、親の仇を見るような目が」
ラファエの指が、そろりと猫じゃらしの瞼を撫でる。
ゾクリと、体内に寒気が走る。
押し黙る猫じゃらしの瞼をラファエはもう一度撫でた。猫じゃらしの右の瞼は腫れていた。目の前の男にさんざん殴られたせいだ。
それを触られて、当然痛みが走り、ゾクゾクと再び身に寒気が走る。
「――怖いか?」
非情に不愉快だが、ラファエが見透かしたような言葉をかけてくる。
「ではしゃべれ。最後だよ。私に教えてくれ。おまえが知っていることを全て」
ここまで来て、まだそんなことを聞くのか。
猫じゃらしは思わず無事な方の目を見開き、ラファエの顔を注視する。
だが、その戸惑いも、一瞬のあとに理解に変わった。
そして、理解は、猫じゃらしのなかで、なんとも奇妙な感情に直結した。
――そうか。まだ終わりじゃねえのか。
猫じゃらしは呆然とした。胸に広がる想いがなんなのか、はっきりと自覚したからだ。
あの夜。
炎と死体と死神と熊がいた、荒野の夜。あそこで自分を掬いあげてくれた人間はもう、いなかった。誰も残ってない。死神は死んだのだ。主も死んだ。
その喪失感は二度と埋まらない。猫じゃらしはそれを知っていた。
けれど、まだ終わりじゃなかった。
ラファエが知りたいのはまず第一にセルジュのことだろう。二番目くらいに、円卓の七人のことだろうか。
だが、ラファエは必ず、黒炭七課も、アウリスも視野に入れている。こんな、クソみたいな場所に袋叩きにするつもりで転がしておきながら。ラファエはまだ知りたいのだ。まだ執着しているのだ。アウリスたちのことに。
だったら、何も終わってなどない。
あっちがどう思ってようが知ったこっちゃない。これはけじめだ。拾ったモンは最後まで面倒を見るものだ。それが筋というものだ。
……グレン国王だって、そうしたのだから。
「教えねえよ」
猫じゃらしはラファエの顔を睨みつけた。ラファエは眉をしかめる。
「そう言うな。教えよ、猫じゃらし」
「教えねえ」
「セルジュはどこだ」
「知らねえ」
「エッタはどこだ」
「知らねえ」
「教えよ。エッタはどこだ、猫じゃらし、うん? セルジュはどこだ。エッタは? どこに隠した、エッタをどこへやった、どこに」
何度も何度も何度もしつこく繰り返してラファエは聞いてきた。その穏やかな口調の裏で、どす黒いものが軋みを上げるのが、今にも聞こえてくる気がする。
「なあ、猫じゃらし……」
猫じゃらしは押し黙る。何の答えも返って来なくなると、ラファエは諦めたようにため息をついて、つかの間、瞑目した。
「……かわいそうなばけもの」
「んだと?」
何を言われたのか、このとき、猫じゃらしはさっぱりわからなかった。
前触れもなく、ラファエはあぐらをかいた。
これには騎士たちの間に動揺が走った。猫じゃらしを押さえつける手の持ち主たちですら、息を呑んだようだった。座ったのだ。ラファエは。この、建立何百年とかいう昔から血と汚物に塗れてきた、床に。漆黒のウープランドゥを下敷きにして。
「おまえは正しいよ。猫じゃらし。おまえがしゃべろうがしゃべるまいが、私はおまえとエッタを殺す。黒炭七課は一人も漏らすことなく殺す。後始末くらい自分でするよ」
「……七課はあんたじゃ手に負えねえよ」
後始末、という言葉が気になったが、猫じゃらしは鼻で笑うだけにした。それが不快だったのか。ラファエは眉をひそめ、一度押し黙った。
「私の罪は、……あの日、情に流されてエッタを見逃したことだ」
乾いた口調。
けれど、いつもの口調では、なかった。
「だが、もう二度と間違わない。あれが最初で最後の、……私の、たったひとつの、罪だ」
ラファエの睫毛が上がる。異彩の、黒い睫毛の下に現れた瞳は、一転して静かだった。
そしてラファエは、猫じゃらしの顔に息があたるくらいに顔を近づけてきた。
「おまえは正しい」
そのまま、悪戯っぽく、頭を傾げて、
「可哀想な化け物。グレン国王の最期の言葉だ。死ぬ間際に、いや、私に、首を斬り落とされる間際に。……あの父君は、私を、化け物だと罵ったんだよ」
静かな口調で、内緒話のようにこっそりと吹きこまれたその瞬間、猫じゃらしの頭がまっしろになった。
動くことが、出来なかった。
何故か、このとき、まったく同時に、猫じゃらしは別の人間の言葉を思い出してしまっていた。
『ラファエさまは国王さまを殺したりしない。ラファエさまはお父さまが大好きなのよ』。
――信じて、いたのだろうか。
アウリスの言葉が真実であってほしかった。アウリスは甘い。現実はきっとそうじゃない。自分はそれが理解出来ているはずだった。
にも関わらず、自分は縋ったというのか。あのガキの言葉に惑わされたというのか。
――惑わされた自分が、クソ過ぎる。
石牢に絶叫が響いた。聞いているだけで身の毛がよだつような絶叫だ。それは、怒りと苦痛の、悲鳴だった。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。
猫じゃらし自身の口から、迸っていた。
――殺せばよかった。もっと早く殺せばよかった。今はこのざまだ。殺せたかもしれねえ、痛え痛え体が動かねえ……殺してやる……でも、誰を。
油断していたのは自分じゃないのか。もっと頼ってほしいと思った。思っていた。なのに油断した。傍にいなかった。誰でもない、自分が。
怒りと殺意の矛先が定まらない。
「黙らせろ」
正面にいたラファエの唇が、そう動いたようだった。
王の慈悲だか命だかで、罪人たちが我先にと手を伸ばしてきた。猫じゃらしの口を塞いだ。猫じゃらしの頭を、胴体を、腕を、顔を、ところかまわず殴り、引っ掻き、足で蹴りつける。
全身を襲う痛みが殺意を昂らせる。
「ってエな……どけコラァア!」
猫じゃらしは怒り狂ってそのへんのものを殴った。
それは殴り返してきた。転がり回る猫じゃらしを、大勢で床に押さえつけ、甚振りながら、男たちは笑っていた。声を上げて笑っている。
もがく猫じゃらしの前髪を、だれかが掴んだ。
触れた細い指の感触はあまりにも意外で、猫じゃらしも一瞬動きを止めたほどだった。そのときになって漸く、彼は正面に膝を折る人間に気づいた。女だ。白衣を着た女。
何をされるか悟ったとたん、脂汗が全身から吹き出してきた。猫じゃらしは死に物狂いで暴れた。だが、大勢の男たちが相手ではちっとも抵抗にならない。
猫じゃらし自身が自力で開くことが出来なかった彼の右目を、女の指は押し開く。いとも容易く、器用に。
――ふざけんなクソアマぶっ殺す……離せ……離せ離せ離せ離してくれ離せ!
奇妙な形をした刃が、チカチカと光りながら、視野一杯に迫ってくる。先っぽは鉤爪だ。鋭利な光が網膜を占める面積が、だんだん大きくなっていく。
次の瞬間、痛みと共に開かれていた瞼の下で、猫じゃらしの目が動いた。
あえて目を逸らした。
視線の先には、ラファエ。
まだいた。
女の隣で立ち上がって、一見気怠そうにしながら、ラファエも猫じゃらしを見ていた。にこりともしない。つまらなそうでも、嬉しそうでもない。その顔は、陶器の仮面のような無表情だった。
ゾクリとするほどの嘲りの目だった。
見えたのはそこまでだ。
石牢に、異様な唸り声が迸った。
痛いのか。熱いのか。冷たいのか。わからない。激痛。それは眼孔から脳天までを一直線に焼いた。じわじわ、ぶつぶつ、神経網が、まとめて何本も焼ききれていくのがわかる。
涎でぐちゃぐちゃになった口から、もはや人間のものとは思えないものすごい叫びが上がった。
猫じゃらしはのたうち回った。爪をたてて、床を引っ掻きながら、彼はラファエを睨みつけていた。見つめていた。その姿を。
どろどろと流れ出していく網膜に、焼きつけた。
これでいい。
こうしてればいい。
これで命乞いをしない。悪態もつかない。痛みに負けることはない。ラファエが見えている限り。
我慢してやる。
女の手が刃をくるりと反転させた。
――……ああ、けど。
顔のなかが、血管と神経網のかたまりが、ブヅブヅと引っ張られる。
――……痛ぇなあ……
『わたし、朝までかかってもいいよ』
次第に弱弱しくなっていた心臓の音がひとつ、跳ねた。
咳込みながら、呻きながら、猫じゃらしは血塗れの床に肘を立てた。全身の力を掻き集めて体を持ち上げようとした。
腹を殴られた。
重い拳だったのか、悪戯だったのか。体を打つ衝撃からはもはや判断できなくなっていた。
糸が切れたように猫じゃらしはあっけなく転がった。どろどろになった髪を引っ張り上げられる。もう片方の手に握られたナイフが次に向かったのは……もちろん、左目。
――……あーあ。
自分は今どんなすごい顔になってるのだろう。
考えたくもなかった。だけど、見上げた先で、目があったラファエは微かに息を呑んだ。
息を呑んで、そして、凄まじい怒りと憎悪のこもった目でこちらを睨みつけてきた。猫じゃらしの表情のなにかが気に入らなかったらしい。
猫じゃらしは、もう、気にならなかった。
睨む気力は失せた。もうどうでもよかった。
今だけ、彼はべつの場所にいたからだ。
『最低! か、体が臭いとは何だ! レモンは香油にもなるんだからー……!』
二人ぶんの体で沈んだ柔らかいシーツ。香木の甘い匂い。
漂うロウソクの明かり。
――あの夜抱いときゃよかった。
猫じゃらしは笑った。
こんなときにまで後悔させるなんぞ、やっぱり貴族女は嫌いだ。




