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35.


 猫じゃらしの計画はいたってシンプルだ。

 城内には猫じゃらししか知らない秘密の抜け道がある。それで、リシェールを外に逃がす。

 もっと濃密な計画を練るにはあまりに王城内のことを知らなかった。現に、猫じゃらしは己の予想がことごとく裏切られているのを感じていた。

 サラン王妃の不在。

 そして、円卓での毒殺。 

 まさか、王室が招いた客を城内で殺すとは思っていなかった。だから、正直、まあ、油断していた。即位式までの数日は大丈夫だろうと踏んでいたのだ。即位式の当日になると……また、話が違うだろうが。

 サラン王妃ならばしなかったとも思う。王子の名の下で、国の重役たちがあっさりと殺されてしまうと、王子の威厳にも体面にも傷がつく。政界の方も大騒ぎになる。あの女狐ならば、そういった政界の変動を危惧し、息子の即位式の直前に大波を立てることはしなかったはずだ。

 だが、相手はサラン王妃ではなかった。

 そこあたりの事情はまだ今一わからない。だが時間もなく、そして、猫じゃらしがすることは変わらない。

 猫じゃらしがラファエの呼び出しに応じた理由はふたつ。

 ひとつは、グレン国王の死の謎についてを突き留める事。

 もうひとつは、不穏な空気の巻く王城から、リシェールを逃がすこと。今後、ここは大嵐になると猫じゃらしは思っていたから。

 当面の問題は、リシェールをいかにして秘密の抜け道に誘導するかだった。この計画はすべて猫じゃらし一人でこなすつもりだった。だが、今は少し、事情が違う。

 朝もやがうっすらとかかった北の庭を見下ろす自室で、猫じゃらしは、イデルに一枚の羊皮の書を手渡した。この女とは昨日丸一日、顔を合わせていない。

「……『芸人手形』? ですか?」

「ああ。良く出来てるだろ?」

 驚くイデルの両手を取り、猫じゃらしは書を握らせた。

 もちろん偽物だ。が、これで、北の庭へ入ることが出来る。

 城の寵姫たちはよほどのことが無ければ外出しない。というか許されてないのだろう。ここ七年で集めていた情報によると、暇を持て余す寵姫たちのために、芸人や商人の類が頻繁に城を出入りしているとのことだった。手形はその芸人や商人に発行されている。

 猫じゃらしは荷物を漁ると、一本のヒョウタン型の弦楽器をイデルの方にやった。

「ついでにこれも持ってけ。なんとなくそれっぽいから。芸人っぽい服着てな」

「わたし弦なんて弾けませんけれど!」

「フリだけでいいじゃねえか」

「というか今日が何の日か解ってらっしゃいますか!?」

 落ち着きのないイデルの口調に、猫じゃらしは振り向く。

「今日は、お披露目の当日でございますよ!」

 通路の方まで聞こえないようにと小声だが――、イデルは、そのほそっこい全身を震わせて、鋭く声を放った。

「北のお庭に入り、リシェール様と接触する。それはわかります! でも、こんな切り札を持ってらっしゃるのでしたら、どうしてもっと早く教えてくださらなかったの!」

「あー、昨日は王子の宴席だなんだ忙しかったんだよ」

「それでお部屋にいらっしゃらなかったのですか! 昨日あなたを探して何度わたしがここを訪れたと思って!」

「あんたふざけんな。そんな近辺をウロウロされたら怪しまれんだろ」

「ご安心を! あなたが毒殺事件の黒幕かもしれないと噂をたててから、侍女のひとっこ一人たりともこの部屋へは近づきません!」

「何してくれてんだオイ」

「そのお蔭で、初日はここのお部屋付きの侍女二人とお仕事を変わってもらえたのです! ご心配なく! 彼女たちは口を閉ざしておりますよ! 仮病を使ってお仕事を変わってもらったのがバレたら罰されますので!」

 はあっ、と大きくイデルは息を吐いた。腰に手をあて偉そうな貴族女を見て、猫じゃらしもため息を吐く。

「何カリカリしてんだ。仕方ねえだろ。そもそも芸人手形は今日の日付で作ってたんだ」

「何故わざわざギリギリの日付で」

「俺はよく祝い事に遅刻するんだよ。当日なら間違いねえかと思ってな。それよりもあんただ。北の庭の人間は、あんたの顔を知らないっつったな。あれは確かだな?」

「……猫じゃらし、わたしは不安になってきました」

「は?」

「北の庭は閉鎖された箱庭です。住人も警備もわたしの顔は知らないでしょう。でも、……わたしは芸人に化けたことなんてないのです。嘘をついたこともあまりありません。北の庭だって行ったこともない場所です。それに、ああ、聞けばリシェール様はたいそう美しいとか。それはそれはわたしなんかと違って美しく気高い方なのでしょうね。何しろラファエアート殿下の寵姫のお一人に選ばれた方ですもの、同じに御家の後ろ盾を失ったとはいえ、リシェール様は、こんな、わたしとは……」

「何言ってんだ」

 何やらよく解らない話になってきた、と思い猫じゃらしが中腰から立ち上がるのと、イデルの目がどばあと決壊したのが同時だった。

「のわぁ!?」

「……猫じゃらし、わたし、前に言われたことがあるのですけれど」

 ゆっくりと、もろにゼンマイ仕掛けの人形のようにイデルの頭が振り返る。猫じゃらしはあまりに前触れもない展開に棒立ちになっていた。

「意地の悪い侍女頭に虐められていた頃に言われたのです。おまえは不幸の女だ。と」

「……」

「父が死に、夫も死に、残った家族もバラバラになり、おまえは一人ぼっちでこの城に残り、洗濯係なんかしている。おまえは周りを不幸にする、不幸の女だ。……そんな風に言われたのです。でも今は、わたし、それがちょっと本当だと思うかもしれない。わたしが携わったことでこの計画が失敗するかもしれない」

「しねえよ」

「ほんとうに? わたしは周りを不幸にする女ですよ。わたしが愛した人間は死ぬ運命にあるのかも」 

 それきり、イデルはしくしくと泣きだした。

 どうやら、過度のストレスにより溜まりに溜まっていた鬱憤が爆発したようだった。過去への負のスパイラルを始めた女の顔は、初日に見たときよりもずっと、青白い。

 猫じゃらしは一度押し黙った。

「……上等じゃねえか」

「え」

「だったら殺してやりてえと思う奴に惚れろよ」

 猫じゃらしはぼろぼろと涙を流すイデルから目線を外して、窓枠に腰を下ろした。

「あのな。俺はもともと一人で動くつもりだったよ。でもな、あんたがいる方が助かるんだ」

「たっ、ひっ、助か、る?」

「ああ」

「ひっ、ひっほ、っほんっと?」

「ああ」

 不幸おん……ないしイデルが寄ってき、泣き顔でジッと猫じゃらしを見つめてくる。優しい声を作ってみたのにこれだ。女は泣きだすと泣き止まない。泣かれるのはいいが、何を言っても泣かれ続けるのはさすがに面倒くさい、というのが猫じゃらしの本音だった。

 この女は、城に来た当日に猫じゃらしの元に転がり込んできた。それが棚から落ちてきた牡丹餅なのか。地雷なのか。は、まだ完全に猫じゃらしには判断つかない。

 だが、イデルは少なくとも、猫じゃらしを止めようとはしない。

 少し考えて、猫じゃらしはもう少し計画の話をして聞かせた。イデルは不安なのだろう。失敗を怖がり、失敗した後を恐怖している。それはそうだ。王城から寵姫をひとり攫うなんて、正気の沙汰ではない。

「イデル。俺がなんで、城と外を繋ぐ隠し通路のことを知ってると思う?」

「ひっ、えっ……?」

「俺自身がいつも使ってたからだ。俺はグレン国王とは円卓の七人が出来る前から多分、会ってた。だが、俺は、一度も正門を潜らせてもらったことはなかったんだ。当然だな。国王が庶民と二人きりで会ってちゃマズいだろ」

 だから、この城には「そういう奴」の為の隠し通路があった。

 正門を潜れない、人間の為の、通路が。

「グレン国王は、俺以外にもそういう奴に会ってたかもしれねえ。知らねえけどな。……グレン国王は、そうやってコソコソ懐に入れた俺を、決して自分の隣に立たせることは無かったよ」

 朝もやを揺らめかせて吹く風が猫じゃらしの銀髪を舞わせた。ぼんやりと猫じゃらしはそれを目で追う。

「俺だけじゃねえ。レオナートも。あんたの父親も。グレン国王の隣には立てなかった。後ろについてくだけだ。王ってそうだろ。……でもな。俺は、最後までそれがよく解らなかったよ」

 はじめてこの城に連れて来られたのは、猫じゃらしが旅の一座を失い、生きる糧を失くした夜のことだった。

 あれからもう、二十年以上経っている。バカでかい城門は、今日も変わらずに建っている。立ち塞がっている。猫じゃらしが遠くから眺めたり、石を投げつけるフリをしていた子供の頃からずっと、そこにある。王が死んでもそこにある。

 だが、猫じゃらしは二日前、あれを潜ったのだ。ここからは見えない、あのバカ高い石壁の塀にぐるりと囲まれた、立派な岩削りの門構えを。

 グレン国王が死んで、ようやっと、正門は猫じゃらしの為に開かれた。皮肉なことかもしれなかった。

 猫じゃらしはひとつ息をつく。目線をやると、窓辺でイデルは物言わぬ人形みたいに立っていた。いつの間にか泣き止んでもいる。

「猫じゃらし」

「なんだよ」

「わたし、ぜったいにリシェール様を隠し通路にお連れします」

「……ああ」

 イデルがもじもじと出した両手に、猫じゃらしは弦楽器を乗せた。

「隠し通路の方はちゃんとまだあったんで大丈夫。今朝確認したんでな」

「今朝!? またギリギリじゃないですかぁ!」

「泣くなよいちいち!」

「なんだか不安になってきました……」

「振り出しに戻るからやめろ。いいか。あんたは芸人に化けてリシェールに接触し、リシェールに退路の場所と撤退の時間を教える。あんたが北の庭でするのは、それだけでいい」

「はい」

「頼んだぞ」

「はい」

 ふと猫じゃらしはイデルの顔を見る。

 相変わらず眉根の下がった幸薄い顔だ。だが、さっきより生気が戻った、いい顔をしていた。満足して、猫じゃらしは、イデルの手のなかの手形と楽器を放した。

「そのあとは、もう、戻って来なくていい」

「……え? それはどういう……」

 突然、通路の方が騒がしくなった。猫じゃらしは何か言いかけたイデルの顔の前に手を翳して制止する。

「誰か来た」

「えっ地獄耳ですね!」

 驚いた小声を出し、一転、イデルは心配げな表情になる。

「ど、どうしましょう。わたしは南塔の洗濯係です。こんなところにいたら、ああ、侍女たちが仮病を使っていることがバレて、彼女たちは罰されてしまう……」

 イデルの心配事を猫じゃらしは少し意外に思う。自分の身を嘆く女でも、自分より先に人の心配をすることがあるらしかった。

 だが、こんな早朝に誰だか知らないが、イデルの姿を見られるのはまずい。イデルは存在が薄いのが長所みたいな女なので、顔見知りは少ないかもしれない。が、万が一、何年か前に殺された公爵の娘だと判別されたら、相手によっては少々ややこしくなるかもしれない。

「隠れろ」

「えっ」

 猫じゃらしの判断は早かった。ぐるりと見回した部屋は、寝台と、日の出とともにイデル本人がその手で湯を張ってくれた湯船しかない。

「脱げ」

「えっあっえっ」

「楽器持ってこの中に隠れろ」

 その言葉の元、猫じゃらしが暖炉の掛け網を開けると、イデルはギョッとしたような顔になった。

 だが、他に方法はないと思ったのだろう。二日前の夜よりも三倍くらい色気の無い動きで下着姿になったイデルが、ごそごそと暖炉のなかに身を潜める。猫じゃらしは彼女の服が床に散る傍から掻き集めて、寝台の敷き板と布団のあいまに押し込んだ。

 手形と楽器はイデルが持っている。

 窓辺を幾度か見回して不審な物がないか確認していると、扉が外側からノックされた。と思ったら開いた。訪問者は、猫じゃらしの返事を待たなかった。

「おはよう! 猫じゃらし。昨夜はだいぶん呑んだな! 体調はだいじょうぶか?」

 ラファエだった。

 後ろには二人の騎士が通路側で控えている。彼らが跪く戸口を開けたまま、ラファエは窓辺で礼を取る猫じゃらしの方に歩み寄った。

 今朝のラファエは、さらりとした質感のローブを纏っている。色は濃紺。初対面でのことは思い出すだけで目が痛くなりそうだ。昨日の宴でも相変わらず色の曲芸会みたいになっていたが、今朝はずいぶんと大人しい。

「おはようございます。王子殿下においてはご機嫌麗しく」

「は、ないのだ! 二日酔いでな」

 ラファエはどかどかと大股で来て、「顔を上げよ」と爽快に声を響かせる。二日酔いとは思えない。けっこう飲んではいたな、と猫じゃらしは昨夜の宴会をちらっと思い出した。若いのはまったく羨ましい。

「私も羽目を外し過ぎたらしい。で? 猫じゃらし。今日は私の即位式とセラザーレの広場でのお披露目に出てくれるのだろう?」

「はい、身に余る光栄でございます」

「ああ、まったくだな」

 立ち上がりかける猫じゃらしの腕を、ラファエの手が、掴む。引き寄せる。服越しに、皮膚に痣がつくほどの力だった。

 そのとき、何がどうだったとは言えない。

 ただ、ここ二日で見ていた、完璧に計算された、大輪の花火のような笑みの奥に、「何か」が見えた。それを隠すことを放棄したラファエの顔を、一瞬、まっすぐに猫じゃらしも見返した。

 ――ああ。

 やっぱり、背ぇ伸びたな。

 同じだ。一寸も違うことなく、まっすぐに、この青より青い目と、目線が合う。

「このあいだ、おまえにもらった簪な。あれはリシェールにやったよ」

 猫じゃらしの顔に大きく笑みが浮かんだ。

「リシェール様? どなたですか?」

「うん、私の寵姫だ。この芽出度い行事に呼びつけた傭兵の色男からもらったと言ったら、とても喜んでいた。あれは最近不機嫌なので手を焼いていたのだ。とても助かったぞ! 猫じゃらし!」

「それはそれは! お役に立てて光栄です」

「ああ。だから」

 するりと隙を突くようにしてラファエの手が伸びた。

「私用にもう一本もらう。私の今日の祝辞の為である。よいな、猫じゃらし」

 手は猫じゃらしの頬を撫でて、まるで女にするように、ゆっくりと、脅かさないように注意した仕草で、簪を一本、抜いていった。

 今朝はまだ寝起きの恰好だった。一本しかつけていなかった簪を失い、猫じゃらしの色素の薄い髪は、ゆるく重ねた襟の方に毛先を落としてきた。

「――光栄です」

 じぶんの髪が、触れる傍から皮膚が斬れる。そんな感じがした。

 淡く輝く髪に視野を半分を覆われたまま、猫じゃらしは笑んだ。ぱん、とラファエも両手を打って笑う。

「さて、今日の式だが。おまえ、猫じゃらし、黒炭の戦闘服は持ってきているのであろう?」

「ええ、それは一式」

「ではそれを着ろ! おまえが黒炭七課であることが一目瞭然であるように!」

「……あー、それはいいですが。あの服はあまり祭事用には向きませんよ?」

 黒炭の戦闘服は、黒に灰色の裏打ちをした上下だった。シンプルで、布そのものも安物だ。装飾等は一切ない。

 不審がる猫じゃらしにラファエはにやりと笑う。

「案ずるな! おまえには今日の為に羽織を用意させた。見よ!」

 ラファエが通路の方へ大手を振る。すると、まるで見えていたかのように新たに兵士が戸口に現れた。その広げられた二腕には分厚い絹がかかっている。足元で引きずりそうに大きなローブだ。色は、ゾッとするほどに鮮やかな翠。

「これを着るがいい。遠慮することはないぞ。おまえは見栄えが良いし、ふふっ、きっと一際目立つであろう! その髪も、あとで髪結い師をおまえの部屋に送ろう。きれいにすると良いぞ」

「はい。ありがとうございます」

 猫じゃらしは素直に頭を下げた。服をもらうのも、髪を他人に触らせるのも猫じゃらしは好まなかったが、相手が相手なので、断る言葉はなかった。

「では即位式でな! すぐに会おう。猫じゃらし」

「はい、王子。楽しみにしております」

 にっこりと笑顔を交わしあい、この場はお帰りになった。

 朝早くに訪ねてきたかと思えば、このハイテンションだ。客人が騎士たちを従えて帰ると、猫じゃらしは窓辺に寄り、ひっそりと息をついた。だが、心拍が上がっているのはラファエのテンションにやられたからというだけではない。神経が、砂で擦られたようにささくれ立っている。

 キセルを懐から取り出しながら、もうひとつ息をつく。

「もういいぞ」

 小さく猫じゃらしが声をかけると、僅かな間をおいて、きい、と暖炉の掛網が開いた。のそのそと、のろのろと、イデルが這い出てくる。

 猫じゃらしは部屋の中央の湯船を顎で示した。

「それ使え」

 イデルの顔はまっくろだ。当然ながら。侍女服を着たままだったら洗うのがかなり大変だったろう。彼女は洗濯係、らしいが。

 下着姿を気にしているのか、前傾の微妙な体勢になりながら、イデルがそろりと湯船の方を見る。

「あ、あの」

「こっち向いてる。見ねえよ」

 二日前にもっと近くで見たというのにまだ気にしているらしい。貞淑な未亡人を、今はけれどからかう気にはなれなかった。

 窓枠に横掛けになり、猫じゃらしはふいと目線を外へと逸らす。五秒ほどして、ようやく、ひたり、と足音が聞こえる。

「さっきの話だが」

 話題を戻すついでに、キセルに火をつけた。

「隠し通路の方には人を手配してある。あんたはリシェールと決めた時刻に通路へ入れ」

「……わたしも、ですか?」

「そうだ。あんたにはまだやってもらいたいことがあるんだよ」

 しとしとと、背後で水を両手に掬う音がする。

 今回のリシェールの逃亡を助ける為の伝手は、もちろん、猫じゃらしが知っている「もうひとりの円卓の七人」に手を借りていた。それが誰かを猫じゃらしは言うつもりはなかったし、イデルも聞く気はないだろう。イデルは黙って、聞き耳をたてている。

「……隠し通路から先はそいつらに案内してもらえ。ひとたび外へ出たら馬車がある。外には十人の助っ人が待ってる。まず、リシェールを馬車に乗せろ」

「はい」

「で、あんたは馬車に乗らずに、助っ人の二人と一緒に馬車と同じ行路を行け。セルマの町についたら夜中まで待機しろ」

「セルマの町……城下町に近いですね」

「ああ。あっこから後は一本道なんでな。あんたは保険だよ」

「保険?」

 猫じゃらしは甘い匂いのする煙を、ふっと息を吹きつけて散らした。

「リシェールは途中で戻って来ようとするかもしれねえ。そうなったらリシェールをかっ攫え。そのために、あんたはセルマの町で待機するんだ」

「……ええと、リシェール様が、一度逃げた城へと戻ろうとする?」

「言うこと聞かねえ跳ねっ返りのお嬢さんかもしれねえだろ」

 なにしろ、アウリスの姉君だからな。

 猫じゃらしは声なく笑う。たった今ラファエと対峙していて浮かんだばかりの案だった。でも、あり得そうだと思うのだ。

「でも、かっさらう、って。具体的にどうしたら」

「体張れってんじゃねえ。あんたと一緒にいる助っ人に頼めばいい」

「そ、そうですか」

 背中にかかるイデルの声がホッと安堵したようだった。彼女を振り向かずに、猫じゃらしは懐を漁る。

「イデル。あんたに、もうひとつ頼みがある」

「え?」

 猫じゃらしは、相手にも見えるよう、朝日に一枚の書を翳した。

「この密書をとある人間に届けてほしい」

 それを聞いて、背後の気配が緊張したのがわかる。断続的に上がっていた水飛沫が止んで、静かになった部屋で、イデルがジッと猫じゃらしの方を見ている。その真剣な視線が感じられる。

「北へ、馬の足で五時間ほど行ったところに、タズナって小さい田舎町がある。解らなきゃそのへんの奴に聞け。千年樹って呼ばれてるデカい裸の木が有名なんだ。……あんたに頼みたいのは、その木の下にいる奴にこれを届けることだ。リシェールが夜中までに現れようが、現れまいが。あんたは日の出一番にタズナに向けて走れ」

「タズナの……町」

 イデルが口のなかで呟くように繰り返す。

「ああ。頼んだぞ。国の為だ」

 念を押すと、僅かな沈黙のあと、背後で水音がした。ひたりと足音が床に落ちて、すぐに背中から女の体温が近づいてくる。

「わかりました」

 腕にずぶ濡れの手が触れた。

 猫じゃらしはイデルを横目に見る。身を拭く布をくるりと巻いたイデルが、じっと猫じゃらしを見上げている。

「お国の為であれば。わたしは、この城を出て、タズナの木の下の待ち人に、必ずや、その密書をお届けしましょう」

 その瞳には使命感が、生命力が輝いていた。

 猫じゃらしは片手で密書をイデルに握らせる。

「封は開けるなよ。封の開いた密書を誰も信用しねえからな」

「はい」

「お嬢さん」

「はい」

「わりと着痩せするよな」

「は……、っきゃあ!?」

「服はここだよ」

 窓辺で飛び上がるイデルと入れ替わるように、猫じゃらしは寝台に近づくと、布団を上げて見せる。

 両手に握らされた羊皮の書を見下ろしながら、何か言いたげだったイデルの顔が僅かに歪んだ。だが、彼女は何も言わなかった。

 キセルの火はいつの間にか消えていた。イデルが出ていった後の部屋で、猫じゃらしはひとりになり、戸口の隅に置かれている、濃翠のローブを拾い上げる。

 やはり絹だった。あと、金糸。しかも縁には、水晶玉の縫い飾り。

 黒幕に送られた塩でも、案外、悪くないと思った。





 不幸の女は朝もやの中へと姿を消した。もう二度とこの城に現れることはないだろう。

 猫じゃらしはつるつるに磨かれた壇上への階段を登っていた。

 踏みつけるのを躊躇うような、美しい黒漆に塗られた高価な石の段だ。宝玉の値打ちがあるらしい。同じ段を登っていく貴族の男からそう聞いている。そんな物が、日頃どでんと公園に置かれているとは考えにくいので、今日のお披露目のために城内から運び入れたにちがいない。まったく、血税を無駄遣いしている。

 くるぶしから床へと引きずる羽目になったローブの長さは、体の前に折った腕に引っ掛けている。正直暑かった。が、見事に結い上げられた髪のおかげで、首の周りはまだましだ。

 前の奴について、壇上へと一歩、踏み上げる。

 そこで、猫じゃらしの足は止まりかけた。急に、ほんとうに急に、陽射しがじぶんの上に降り注いだように感じられたからだ。

 熱気と喝采のなか、猫じゃらしの体は、予行演習のとおりに壇上のじぶんの位置へと進んでいく。貴族たちが石像のように立っている。彼らは、とうぜん、二日前の円卓会議を生き残った人間達だった。猫じゃらしもそれに混じる。

 ラファエが壇上に現れた。

 そのとたん、拍手喝さいがひときわ大きくなった。雷が絶え間なく落ちて、耳がやられそうだ。

 だが、観衆は、どんなに熱狂していても、ラファエの袖の一振りに黙り込んだ。

 陽射しの暖かさに、猫じゃらしは目を眇める。

 ここは、世界のてっぺんの、視野だった。

 まるで、現実ではないようだ。眼下には人がいた。人。人、人。ひとつひとつの顔を判別することが出来ないくらいに大勢がいた。ヴァルトール国民ぜんいんが集まったのではないかと思えるほどだ。

 なにかに似てる気がする。そうだ。腸詰めだ。ブタの腸をぱんぱんにして詰められて、やがて、何かの拍子に、ぱちん、と弾け飛ぶ。

 でも、彼らは肉ではなく、周りは腸ではない。見渡す限りを照りつける、まぶしくて明るい陽射しのなかで、巨大な青銅のオブジェと化した建物群が、どこまでもどこまでもひしめいている。そのあいまに、喜び称える人々の姿が無尽に広がっている。

 ――壮観、だった。

 これが、国王が見ていた景色なのだろうか。

 じわじわと興奮が体を蝕む。猫じゃらしは知らずと握っていた拳が汗ばむのを感じた。

 ――……熊。

 やたらと飾りつけられた結い髪の周りで、シャラシャラとかんざしの羽根が舞う。優雅な音色のなか、猫じゃらしは、ゆったりと、セラザーレの広場を見回した。

 主はいない。グレン国王はもう、いないのだ。

 けれど、想像するのは自由だから。

 ――熊。……俺はな、ほんとは、あんたの隣に立ちたかったよ。

 あんたと同じものが、見たかったんだ。






 ぱちん。

 と、何かが弾けた。景色が弾けた。青銅のオブジェのあいまにぎゅうぎゅう詰めにされた幻が、小さなきっかけで、ばつんと、簡単に、弾けた。

「反逆者だ!」

 誰かの――国王の、澄んだ声が響く。

 兵士が二人、素早く階段を駆けあがってきた。猫じゃらしは抵抗らしいことはしていないつもりだが、二人がかりで取り押さえられてしまった。

 王室の勅命で呼び出されたときから、こうなることは決まっていた。素性を隠して暮らしているわけでもあるまいし。猫じゃらしは、そこそこ有名な娼館と、国内一の武力を持つ傭兵団だといわれる黒炭に、身を置いている。逃げるには、あまりに深く、この国に根を張りすぎていた。

 こうなることは決まっていたのだ。

 あとは周りがやるだろう。

 黒炭の連中も、今回手を借りた他の連中も、血の気が多いが、頼りになる。

 結い上げた髪を鷲掴みにされる。

 ――ああ。見てるか、アウリス。

 顎が上がり、猫じゃらしは熱狂する人びとをぐるりと見回した。

 ――言うこと聞けよ。いい子だから。頼むから。教えただろう。

 猫じゃらしの片膝の後ろに向けて、棍棒が振り下ろされた。みぢ、と肉が啼いた。膝から下が発熱し、次の一秒で、力が抜ける。


『いいか、よーく聞け』

『はい』

『俺が跪いたら』

『えっ猫じゃらしが誰かに跪くの? それは見たいな。いたっ』

『黙って聞けよ』

『すぐ叩かないでよ! ほら、あーん』

『何してんだあんた』

『レモン攻撃だ』

『……』

『……気持ち悪い。どうして笑っているの?』



 ――逃げろ。



 痛みと、歓声の熱気と、人の多さでおかしいくらいの蒸し暑さと、そして、まっすぐに自分に注ぐ敵意とのせいで、猫じゃらしもかなり昂っていた。

 そのせいか、一度笑うと止まらなくなった。

 笑いながら、猫じゃらしは壇上から引きずり降ろされた。誰かがすぐに近寄ってくる。漆黒のウープランドゥ。ラファエだ。

「……何か、可笑しいか」

 警備兵の二人のうちのどちらかが顎を掴んできた。目線を上げた先に、ひどく沈痛な面持ちをしたラファエが立っている。

「私は悲しい。哀しいよ、猫じゃらし。旧来の友だったおまえが、まさか、この芽出度き日に、こんなことを私にさせるとは思わなかった」

 よろよろと、ラファエが歩いてくる。

「……おまえはリシェールに会いたがっていたのではないか。なあ、猫じゃらし。私はおまえの友だ、おまえの願いを叶えてやりたかったさ。だけど出来なかったのだ。大罪人を、私のリシェールには会わせられなかった」

 何故急にそんな話をするのだろう、と頭の隅で不思議に思う。だが、まともな思考が出来る状態ではなかった。アドレナリンが脳を蹂躙している。また、猫じゃらしは可笑しさが込み上げてきた。

「いいよ」

 汚れたローブの首口を掴まれて、猫じゃらしは笑った。

「俺のアウリエッタの方がいい女だから」

 目の前が爆発した。

 殴られた。深窓の坊ちゃんにしては良いパンチだった。脳みそがグラついた感じがして、猫じゃらしは体の力が抜ける。

「そうか?」

 ほぼ同時に伸びてきた手が、前髪を凄まじい力で掴む。

 感情を押し殺したラファエの声。

 かろうじて猫じゃらしは笑う。それが気に障ったらしい。逆上した向こうがまた殴りつけてきた。そのあとはもう、一方的なことになった。

 見え透いた嘘をつくのはお互いさまだ、とラファエは前に言っていた。

 もう、そうする必要も、ない。

「家畜……家畜家畜家畜家畜、おまえだけは絶対に許さない、調子に乗るなよ、おまえが、おまえの所業一つとして私がないと成り立たないくせに、おまえのような者が指一本、触れていいはずがない、許さない、おまえなど、おまえだけは、おまえなんか、……エッタをエッタでなくしなければ、エッタの名を盗まなければ己の元に繋ぎ止めることすら出来なかったくせに!」

 笑いが止まらない。

 耳が熱でおかしくなっていた。様々な音が鼓膜を撫でる。肉が拳で潰れる音。頭上ではためく国旗群。壇の向こう側の、ひとびとの声援。 

 気味がいい。ラファエの顔にはこんなときでさえ寒々しくて爽やかな笑みが張りついている。その仮面の裏で、こいつが歪んでいくのが、今なら手に取るようにわかる。

 ――ああ、そうだ。

 あんたが言う通りだ。……あいつはずっと、あんたを待ってた。あんたが一度だって、ちょろっとでも顔を見せてりゃあ、あいつはホイホイとあんたについて行ったよ。俺の元を、離れて行った。あいつ、バカだからな。

 でも、あんたは来なかった。

 だから今は俺のものだ。俺のアウリスだ。

 今更それを返せだと? ……ふざけんな。遅えよ。

 がつん、とラファエの最後の拳が降って、辺りは静かになった。

 肩を上下するラファエの荒い息が聞こえている。その音は、耳は聞こえるが、鼓膜がかっかしている。それに、目がおかしい。右の瞼が半分落ちている。

 いきなり髪を掴まれたので、猫じゃらしは、ぷ、と口のなかに溜まっていたものを吐きつけた。

「こ、国王陛下!」

「貴様!」

 ざわめき立つ兵士と貴族たちが、一斉に殺気立った目を向けてくる。

「……いや、いい」

「国王陛下!」

 誰かに手渡されたハンカチで、ラファエが顔と、ちゃっかり拳も拭う。すぐに白い布は赤く汚れていく。

「猫じゃらし」

 呼ばれて、猫じゃらしは目を眇める。

「……ここ二日、私を待たせたな。せっかく挽回する機会をやったのに残念だ。おまえは楽には殺さんぞ」

 霞む視野に浮かんだ顔は、口を横に、にい、と広げた。

 青より青い目の。

 この国に巣食う、化け物の顔が。

「この者を連行せよ」

 一転、落ち着き払った動作でラファエが身を翻した。

「私も共に行く」

「は? 恐れながら、地下牢は陛下がお越しいただくような場所では」

「弓、これを」

 ラファエが微かに放ったその言葉の元、たった今発言したばかりだった兵士の喉に、まっすぐに矢じりが消えていった。鮮血が散った。砂地が点々と赤く濡れて、兵士が重たい音をたてて転がった。

 猫じゃらしですら、思わず見入った。いや、その瞬間、その場にいた全員が、異様な緊張に動くことすら出来なかった。

「さあ、参ろう」

 たったひとり、歩きだしたのは、ラファエそのひとだった。相変わらず、澄んだ、琴楽器を鳴らすようによく響く声だ。

 我に返った貴族たちがぞろぞろと壇の陰を後にした。兵士たちが続き、猫じゃらしも後ろ手で捕えられたまま歩かされた。

 遅れて、思い出したように誰かが猫じゃらしの頭に布を被せる。

 殴られた顔は見目が悪いからだろう。セラザーレの広場では、いや、国中では、まだ人々が祝いに集まっている。

 軍楽隊が高らかに行進曲を奏でていく。壇の表の世界では、民衆が沸く。じぶんたちで放つ熱と活気と喝采に、ひとびとが尋常でなく高まっている。

 それは、暗い布のなかの猫じゃらしの元まで反響していた。

 ――ああ。

 アウリス、聞こえるか。


 ここに、ラファエアート国王陛下の御代がくる。


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