34.
自室に戻る頃にはとっくに夕方になっていた。
ここから見える空も朱色に暮れている。その隅っこにぽつんと建つ塔に気づいて、猫じゃらしは雨戸を閉じようとしていた手を止める。
遠く、一本のロウソクのように聳えている。とっぷりと広がる夕焼けを浴びて、塔はまっくろだった。北の庭はここからも見えたのかと猫じゃらしは反芻する。あそこは、なんでも、サラン王妃が療養している場所らしい。
背後で扉がノックされた。
「お客人、要り様の物はありませんか」
猫じゃらしが返事をすると、黒いエプロンを着た使用人が現れ、お辞儀をする。猫じゃらしが今しがた部屋に戻ってきたのをどこかで見ていたのだろう。そんな速やかなタイミングだった。
「……ああ、風呂をもう一回使わせてもらえますか」
昼に一回入ったので、湯船はまだ部屋に置きっぱなしになっている。湯も入ったままのようだが、流石にもう冷たくなっているだろう。
そう思い、声をかけた猫じゃらしの言葉をみなまで聞くことなく、使用人が立ち上がり、入室時に開けた背後の扉を閉じた。そして、あたかも自然な動作で、後ろ手で持っていたらしい棒きれを取り出すと、扉の取っ手のつっかえにする。
僅かに顔色を変える猫じゃらしの方を、使用人がゆっくりと振り返る。
鍵をかけた密室状態になった部屋で、朱色の陽射しを浴びながら、使用人はもう一度お辞儀をした。その顔は昼間ここにいた二人の使用人のどちらでもないことにも、遅れて猫じゃらしは気づいた。
「……なんだ、あんた。夜伽の命でもされたのか?」
「はい」
「え、まじで?」
「ラファエアート王子殿下の計らいにより参りました。失礼いたします」
冗談のつもりで言った言葉だったのに肯定され、猫じゃらしは素直に面食らった顔をしたが、使用人はそれを気に留める風もなく近づいてくる。
猫じゃらしはラファエの名を出されたことで警戒心があった。薄暗い部屋のなかを近づく小柄な女を、隙無く観察する。その視線が、一瞬だけ品定めをするような下品なものになったのは自覚したが、まあ、脊髄反射のようなものだろう。
「昼の円卓会議におきまして、翠の傭兵どのは災難でございましたね。消耗されたことでしょう。わたくしめはそのささくれ立った御心を癒すようにと仰せつかっております故」
呪文みたいにすらすらと使用人が猫じゃらしにはあまり耳慣れない丁寧な言葉で説明してくる。猫じゃらしは黙って聞いていたが、目の前に立った女がエプロンを外すのを見て、ふっと表情を緩めた。
「翠の傭兵どのは」
ちらりと使用人が猫じゃらしの顔色を窺う。猫じゃらしが何も言わないでいると、彼女は顔を伏せ、白いプリーツワンピースを脱ぎ、膝までの黒い靴下を脱ぐ。見上げてきた一瞬の間は、まるで猫じゃらしに止めてもらいたがっているような感じもした。
「ラファエアート殿下とずいぶん親しい御仲なのですね。円卓会議の直後に、お一人で、殿下の自室へ御招待いただいたとか」
「ああ」
「古いご友人同士だとお聞きしております。積もる話もあったのでしょう。円卓会議のあと、おふたりきりで、何を話されたのですか?」
みなまで聞くより早く、猫じゃらしは動いていた。
女の左手の手首を掴んで封じ、包帯を巻いたもう片方の手で、女の腰を引き寄せる。何か勘違いした女が猫じゃらしの首に自由な方の手を回して体重を預けてくると、それを利用して、くるりと場所を入れ替えた。
女のすぐ背後になった寝台に彼女を組み伏せる。と、一瞬だけ、女の体が強張ったのが腕のなかに感じられたそのとき、猫じゃらしは我慢できなくなって大声で笑った。
「……へ? あ、あの、御方様?」
女がギョッとした顔になる。笑いが治まらない猫じゃらしは声を震わせながら彼女を見下ろした。
「大根」
「はっ?」
「あんた演技ド下手くそだな」
全く誰に習ってきたんだかと、猫じゃらしは半ば呆れていた。それは呆れだけではなかったが、今怯えるような顔をする女の前で、猫じゃらしは他の仄暗い物思いは抑えることにして、努めて優しい表情になる。
「お嬢さん。俺はそこそこでかい娼館の主やってんだ。わりと有名なんだがな、この話。手慣れた商売女はあんたくらいの歳から近くで見てる。……あんた生娘だろ?」
下品な言葉で率直に聞かれて、娘の顔に血が上る。下品だと思ったのだろうから、つまり、女は手慣れていないということだ。
猫じゃらしは喉の奥で笑う。
「いや性格かねえ。俺んとこで初売りに出される生娘でもまだマシな演技するよ。向いてねえな、お嬢さんは」
「ぶ、無粋な」
「無粋? 誘ったのはあんただろ。ラファエアート殿下に言われて、ってのが本当ならな。そんなどんよりした陰気臭ぇ目つきで」
話す間にも、猫じゃらしは片手でぱたぱたと素早く女の体を叩いていた。女のドレス型をした下着は薄地だが絹のように柔らかい手触りがする。裾をまくり、手をその奥に忍ばせたとき、女の身が強張った。
「――近づかれても、バレバレなんだよ」
かち、と音がし、女の顔が蒼ざめる。それを感情の籠もらない笑みで眺めながら、猫じゃらしは手に触れたものを握り、取り出してきた。それは短剣だった。
「……あー、太腿のベルトに装着たぁ、またベタな。このクソ素人が」
「だ、黙りなさい! これ以上の無礼は」
短剣を眺めていた猫じゃらしの目線が女の顔の方に動くと、女が押し黙る。
――さて、どうすっか。
笑みを張りつける裏側で、猫じゃらしはしばし躊躇した。女が何か隠し事をしていることは彼女にも言ったように解っていたのだが、それが何なのかまで解っていたわけではなかったのだ。
今、下着のなかから出てきたのは、凶器だった。
「あんた」
猫じゃらしはそれを女の頬に押しつける。
「……殺す気だったのか」
「……」
「俺を殺す気だったのか、あ? お嬢さん」
今じぶんはどんな顔をしているのだろうと考えながら、震える女の肩を力いっぱい押さえた。逆の手にある短剣を、親指で押しあげるようにして柄を外すと、女の顔が引き攣る。
「っひ」
「俺もな、誰か来るかもしれねえとは思ってたよ。だってそうだろ。呼び出し食らうのはずいぶん久しぶりだったからな。俺とお話してえと思ってる人間が、王城にいるはずだと思ってた」
女が暴れ出した。その口を、手の包帯を突っ込むみたいにして押さえた。悲鳴など上げられたら堪らないので。
「なあ、あんたはラファエアート殿下と俺が何話したのかって聞いたな。ってことは、殿下の差し金じゃあねえはずだ。……だがなあ。俺は他に狙われる理由が思いつかねんだよ。この城で、ここで、襲われる理由が」
暖かい暖炉。わりと小奇麗に整頓された、何かわからない本の数々。通路に出れば、誰か常にそこにいて、たわいない世間話でバカ笑いをしていた。国の重役どもがだ。こんなんで大丈夫かと思うくらい、ゆるーく弛んだ、のんびりした、居城。
それが、猫じゃらしが覚えている王城だった。
グレン国王の、城だった。
女が何か言いたそうにしている。猫じゃらしはそっと手をどけた。さっきから包帯と板の下で左手が熱を持っている。
「あんたの飼い主は誰だ?」
沈黙。
女の目がまっすぐに睨み返している。意外に度胸があるらしい。
一瞬だけ迷って、猫じゃらしは女の腹を蹴りつけた。今度こそ悲鳴を上げかけた女の口を素早く手で塞ぎ、身を折ろうとする女をもう一度、じぶんの下に組み伏せる。
「じゃあ質問を変える。答えな。今度答えなかったら殺す」
「うっうっ」
女がすすり泣きをはじめた。こいつの飼い主が誰であろうと信用できないと猫じゃらしは思う。こんな、まだ15、6の若い女に、命がけで体を張らせるような奴を、信用できない。
「なあ」
短剣の切っ先で、猫じゃらしは女の顎を持ち上げた。
「グレン国王を殺ったのは、誰だ?」
女は驚いたような顔をした。何故そんな表情をするのか解らないが、これは心当たりがあるということか。
女を睨んだまま、手の中の短剣を猫じゃらしが微かに動かすと、慌てて女が小声を出した。
「ぁ、あ、知らない、知りません、怒らないで」
「あ?」
「グレン国王のことはわたしは知りません、飼い主もいません、わたしは飼い主がいません、でも、ただ、わたしが知っていることは」
前触れもなく、女のハシバミ色の瞳からぼろぼろと涙が溢れだした。
「わたしの父君は円卓の七人だったこと、そして、父君と夫は、サラン王妃に殺されたと言うことです」
―――――
二年前か、三年前か。
ずぼらな本質が祟って正確な日付けは思い出せない。ただ、グレン国王に、最後に書斎に招かれた夜だった。
「円卓の七人?」
聞き慣れない単語を猫じゃらしはオウム返しにする。
「そう」
グレン国王は深刻げな顔でうなずいた。
「君も知っている通り、この国は今とても不安定な状態だ。そこで私は考えた」
「嘘つけ、このヘチマ頭が」
「話を折らないでおくれよ。私は考えた。私が最も信頼する七人の部下に、国の今後を託すことにしたんだ。これを『円卓の七人』と呼ぶ。私は君をこの円卓の七人のひとりに任命する」
「おい待て」
「円卓の七人は、それぞれ、七つの秘密を抱えている。国の秘密をね」
「待てって」
「決して、王妃に知られてはいけない秘密だ。七つに分けたのはそのためだよ。仮にひとりが王妃に捕まっても、他の人間が持っている秘密の内容は知らないようにしているんだ。七人はじぶん以外の全員の名前を知ることもない。……君にも今まで黙っていた」
「待てって。さっきからあんた何言ってんだよ」
「だから、私が死んだ後の話だよ。猫じゃらし」
じわりと襟首が冷たくなった。
グレン国王は少し遠くを見る目になり、けれどすぐ、押し黙る猫じゃらしに視線を戻した。
「私が死んだら、たぶん、すぐ戦になる。それは君もわかっているよね」
「熊」
「こういう真剣な話のときに私を熊と呼ぶのは君くらいだね。ともかく、君は円卓の七人なんだ。君たち七人の目的、存在意義は、私が死んだあとに起こるであろう、数多の戦を防ぐことだ」
猫じゃらしは瞑目した。そうして暫く考えを纏めると、そっと白木の椅子を立ち、上座の方角にやたら真剣そうに座っている熊の頭をはたいた。
「いたっ」
「痛いかそーかよ」
「いたっ」
グレン国王のこめかみに平手打ちする。次いで、がしっと襟を掴み、引き寄せてくると、グレン国王はハッと息を呑んだ。
「おいコラ熊。今なんつった? あ? 何勝手によくわかんねー名簿に俺の名前ぶっこんでんだよ」
「ね、猫じゃらし、でもこれ、円卓の七人というのは、とても大切な名簿でね」
「知らねーよ! 勝手に人の仕事増やすんじゃねえこのヘタレが!」
「ひいいい! ごめん! ごめんよ! 君の許可を取らなくてごめんなさいい」
「そういう話じゃねえだろコラ! 仕事増えんのはいつものことだろーが! べつにいいんだよ! あんたは許可取らなくていいんだ! 使いてえ時に俺を使やいいんだ! いちいちいちいち謝りやがって、この万年抜け作が!」
「ひいいごめんなさいい」
縮こまる熊男を上から怒鳴りつけている間に、頭が冷静になってきた。
猫じゃらしはグレン国王の服を放した。これだと支離滅裂だと自覚したのだ。
「……いや、俺は何が言いてえんだ」
「えっ」
猫じゃらしはむっつりと黙って、拳を握る。それを睨みつける。じぶんが何故こんなに腹が立っているのか考えようとした。だが、頭のなかがグツグツと煮えている。
「……猫じゃらし」
おずおずとグレン国王が椅子を立ってきた。
「ごめん。こんな急な話、びっくりしたよね。でも大切なことだから」
「そうじゃねえよ」
猫じゃらしはゴソゴソと懐からキセルを取り出す。落ち着く為のいつもの癖だ。だが、火をつけようと再度懐に手を突っ込んでも、なかなか火石が見当たらない。イライラと猫じゃらしは手を動かす。
「あんたよ。いつからこんなこと考えてたんだ?」
「え」
「いつから自分が死んだあとのことなんか考えてたんだよ。なあ。死ぬことなんて、いつから……」
いつから?
そんなの決まってんじゃねえか。
頭の隅で嘲笑する声がする。
猫じゃらしは、指のあいだで回転するキセルの管に見入った。でも目に入っていない。管がぐにゃぐにゃになって見える。
痛い。火石がない。クソ。いらいらする。頭が、割れそうだ。
「……五年前からだろ」
グレン国王が、主が、おどおどと見つめてくる。
「レオナートが死んで、あんたもじぶんの死なんてモンを考えるようになったんだろ。頼れるあいつがいなくなったから」
「猫じゃらし」
「そんな縮こまっちまうのかよ。あ? あんた、ヴァルトールの国の王様だろ。死ぬことなんて考えねーでいい立場じゃねえのかよ!」
キセルを、潰れるくらい握りしめた。握りしめないと、テーブルに叩きつけて本格的に壊してしまっただろうから。
「――なによりなあ!」
俺が、いるじゃねえか。
寸でで、そんな言葉を猫じゃらしは呑みこんだ。あんまりに女々しいと思ったし、ガキのように癇癪を起こしてしまった後だったので、自重した。もう充分、じぶんが情けなかったから。
……まだ、俺があんたのそばにいるじゃねえか。
あんたはでも、ずっと不安だったんだな。
俺だけじゃだめか。俺だけじゃ頼りねぇのかよ。
どれかひとつ。不満を口にしてしまえば、そう続けてしまう。止まらなくなる。そんな気がして、猫じゃらしは、結局、言葉を継ぐ代わりに漸く見つけた火石を打った。
キセルがもったりと煙を巻く。
深く、大きくその煙を吐き出す。それをぼんやりと天井の方まで猫じゃらしは目で追った。
「……その円卓の七人とやらな」
「うん」
「俺は降りるぞ」
目を見張った熊が何か言い返して来るより前に、猫じゃらしは続けた。
「熊。俺はあんたに命を拾われたときから、あんたが主になった。あんたが言うことなら何でもやった。でもな、あんたが死んだらそこで終わりなんだ。あんたがいなくなったら、もう俺には国の為に働く理由なんてねえ。だから、俺は、円卓の七人にはなれねえよ」
沈黙が降りる。気怠く紫煙をくゆらせる猫じゃらしを、グレン国王はジッと真顔で見つめた。
「違うよ」
「ああ?」
「レオナートも円卓の七人のひとりだったんだ。円卓の七人はもうずっと昔に始まっていた。レオナートが死んでしまって不安だから、というわけではないんだ」
のそりと、巨体が、猫じゃらしの正面に回り込んでくる。
「国ではないんだね」
その顔はなぜか、微笑んでいた。
「あ?」
「君だけは違うんだ。君が大切なのは国ではないんだね。君が忠誠を誓っているのは、ヴァルトール王国ではない」
「たりめーだろ」
「そうか。はは、けれどね、猫じゃらし、だからこそ、私は君にこのお願いをしたいと思ったんだよ。私も、君が大好きだから」
ぶん殴った。
グレン国王は見事にたたらを踏んだ。テーブルの上に突っ伏してしまった。テーブルの脚がぎしりと軋む。
すぐグレン国王は起き上がるのかと思えば、じぶんが倒れたテーブルの表面に両腕を回し、しがみつく格好で動かなくなってしまった。
「私は拗ねた」
「やめろ気持ち悪ィな!」
「うう」
「巨大な図体でメソメソしてんじゃねえ。高価そーな家具がぶっ潰れんだろ」
「うう、ひどいな、猫じゃらし。殴り飛ばしたのは君なのに……」
恨めしそうな顔でグレン国王が見上げてくるのを猫じゃらしが無視すると、彼ははあ、とため息をついて身を起こした。
「猫じゃらし。もう一回聞いて、いい?」
「やだね」
猫じゃらしは片眉を上げるが、グレン国王のまっすぐな目線は逸れなかった。
「君さ、もしも本当に、この国に君にとって大切な物が私以外に何一つ無いと言うのだったら」
「誰がそんなこと言ったよ」
「もしそうなら、私はもう、君にお願いしない。円卓の七人のことだけではない。これからはもう、何も君にお願いしない。……私は、もう、君に何も言わないよ」
頭を殴られたような衝撃だった。
思わず猫じゃらしが注視すると、グレン国王が形相を崩す。
「でも、そうじゃないと思う。君はさ、冷たくて女癖が悪くて礼儀がなってなくて私に対してひとっつも敬うところがない無精者だけれど」
「ケンカ売ってんのか?」
「でも、優しいよね。猫じゃらしは優しいよ。さっきの言葉、嬉しかった。ありがとう。私も君が大好きだよ」
殴ろうかと思ったが、グレン国王がぼろぼろ泣きながら今の言葉を言ったので、タイミングを逃してしまった。
そのあと、猫じゃらしはのらりくらりとグレン国王の席に再びつかされてしまった。いつものことだ。この熊王は、暴力をかえしてきたことがない。猫じゃらしがどんなに殴っても、詰っても、ひたすら大きい古い樹木みたいに、どっしりとしているだけだった。
やり返す、という概念が、この男にはないのかもしれない。暴力ではない交渉をここまで上手に出来る人間も、猫じゃらしの周りでは珍しかった。
その夜は、結局、熊を殴らずじまいになった。
――大好きだよ。猫じゃらし。
生涯、一発貸しているままになった。
―――――
大根女優で陰気臭いその女は、イデル=ミオバーヌと名乗った。
旧姓はラモンドです、とも言った。ラモンド公爵の一人娘で、三年くらい前に結婚して姓がミオバーヌに変わった。だが、その結婚もたった四か月で終わった。父のラモンド公爵と旦那のミオバーヌ公爵は、同時期に、同じ罪のもと、処刑された。そのあと、イデルの実家は実質上、取り潰しになり、身寄りの無い彼女は慈悲として城での奉公を続けることを許された。
三年前というと、ちょうどグレン国王が倒れたあたりだ。熊が病の床でうんうん唸っている間に、王室でサラン王妃とその一派が力を広大させていたことは猫じゃらしも知っている。
円卓の七人だったという、イデルの父親。彼の処刑は偶然だったのだろうか。わりと大きい事件だったので、猫じゃらしもうっすらと覚えてはいた。
イデルによると、父と旦那は冤罪だったらしい。彼女の言葉が真実かどうか猫じゃらしに図る術はないが、ただ、その話をするイデルの口調は、静かで、――なのに、すさまじい憎悪がこもっていた。
「円卓の七人はそれぞれ別の知識を持っています。わたしはそれを父君から受け継いだ。同時に、あなたを含め、二人の同志の名も知りました。円卓の七人は他の全員の素性を知ることは無い。けれど、それぞれが、自分以外の同志の名をふたつだけ、知っている。何かあれば、助けを求め、協力できるようにという計らいでしょう」
イデルはどんよりとした眼差しを伏せた。
「わたしが知っていた、もうひとつの名前――リヴァ=オーネル候です。彼も、円卓の七人のひとりでした」
「そうそう知ってる奴の名前をバラ撒いてもいいのか?」
「ええ。もういいかな、と思いました。オーネル候は今日の会議で殺されたので」
けろりとした言葉に反して、口調は沈んでいた。確かに聞いた名前だったと猫じゃらしも思い出していた。
「父君、ヨナカ=ラモンド候、そして、リヴァ=オーネル候も亡くなった。わたしが知っているだけで、すでに、円卓の七人は、五人となってしまった」
ぽつぽつと語るイデルを猫じゃらしは眺める。こうして寝台の端に座り、跪くイデルがいそいそと包帯を左手に巻いてくれるのに預けていると、彼女が初めて部屋に入ってきたときと同じような感想を猫じゃらしは彼女に対して持つ。
ハシバミ色の瞳。春の稲穂のように乾いた色の金髪。いそいそと服を着なおしたその体は痩せ細り、いかにも幸薄そうな顔をしている。
今年で19歳。処女、ではなかったらしい。
けれど、ひょろひょろしているからか、低背だからか、イデルはまるで幼女のようだった。デカい猫目のせいかもしれない。だが、その猫目は、ずっと、陰鬱な光を宿している。
「四人だよ」
「え?」
「レオナート=ジークリンデもその円卓なんちゃらの一人だったらしいよ。俺とあんたが知ってる数を合わせて、現時点で生き残ってるのは四人ってことだな。けど、……ふうん。あいつ、オーネル候、だっけ? 確かに今日の会議で会ったよ。味方だったのか。知らなかった」
円卓の七人は、同志の名前を二つだけ、知っている。
その言葉を反芻する猫じゃらしに、イデルは首を傾げる。
「オーネル候は、あなたが知っている二つの名前ではなかったのですね」
「ああ」
ひとりは、レオナートだった。
そして、もうひとりは――多分、二度と口にすることはない。猫じゃらしは、そのもう一人の名前を、今日まで、たった一人にだけ打ち明けている。
「……王妃と、そしてラファエアート王子は何か勘付いているのかもしれません。円卓の七人の存在を知っているかも。今日の毒殺はそういうことでしょうか」
イデルの声音に恐怖は含まれていないのを聞いて、猫じゃらしは苦笑する。
じぶんが秘密を持つ者として狙われてもおかしくない。そんな立場で、けれど、彼女は逃げることをせず、この城に留まり続けてきた。この三年、父を亡くし、夫を亡くし、庇護してくれる存在のいなくなった敵地で、ひとり。
……意外に肝の据わった貴族女かもしれない、と猫じゃらしは思う。
「で?」
「え?」
「なんで俺を襲ったんだ?」
隙の無い目でイデルを見つめると、イデルがしょんぼりとうつむく。
「申し訳ありませんでした。あなたが、ラファエアート殿下、ひいてはサラン王妃に寝返ったかもしれないと疑ったのです」
「寝返る?」
「あなたと王子が古い友人だと聞いたから。それに、円卓会議のあとに、二人で長く話していたようだったから」
「ああ」
宛がわれた部屋に来るのが遅れたのはラファエと話し込んでいたせいではない。ラファエの部屋には半刻といなかったはずだ。ロウとの決闘が終わったあと、猫じゃらしは北の庭の居場所を突き留めて向かったのだった。
だが結局、庭には入れずじまいだった。もともと何の装備も無しに出入りできるとは思っていなかった。ただ偵察したかったのだ。
「……じゃあ」
猫じゃらしはふと思い立って懐からキセルを取り出す。
「あんたの俺への疑いは晴れたのか? お嬢さん」
「それは、さきほど」
「へえ」
「……翠の傭兵どのは女癖がとてつもなく悪くって同時に女人にはとかく優しいと噂聞いております。そのあなたが目的の為に女人をその足でけっとばしたのですから。これぞグレン国王への忠誠と解釈いたしました」
「確かに寝返ってねえが、ふざけんな」
「うふふふ。もうしわけありません」
笑う幸薄女がちょっと気持ち悪い。
今でも彼女の腹を抉ったときの感触が残っているような気がして、猫じゃらしは落ち着きなく片足を撫でた。イデルがそれを見て少し笑い、「できましたよ」と手を放す。
包帯をきれいに巻き直された左手を見下ろしながら、猫じゃらしは僅かな間、黙考する。
円卓の七人。
その存在を猫じゃらしが知ったのは最後にグレン国王に呼び出されたときだった。じぶんがそんなもんに勝手に名をぶっこまれていたことを聞いたときは面倒くささに思わず王をぶん殴った。それでも結局、猫じゃらしは、王の最後の願いを受け入れることにしたのだった。
円卓の七人は、べつべつの知識を持っている。
そして、その知識は、ひとつひとつが、サラン王妃に知られてはならない、秘密だった。
――いや。
最初はそうだったはずだ。国の秘密を、国を、守るべきは、サラン王妃からだった。猫じゃらしもそう思っていた。敵はサラン王妃なのだと考えていたのだ。
だが、今日この城へやってきて、それが少し変わってきているかもしれないことに猫じゃらしは気づいていた。
「……あー、よくわからねえな」
鋭く煙を吐き、猫じゃらしはがしがしと頭の横を搔く。
庶民の猫じゃらしにこれは、まさしく異世界の話である。
王宮の問題に直接口を出せるはずもないし。猫じゃらしは彼自身が手の届く範囲の土を固めてきた、それだけだ。今も、昔も。
円卓の七人だとかも、正直、ややこしい。そういった大役柄はレオナートの本分だった。こんな、さもしい娼館の主、兼、庶民的暴力団のガキんちょのお守りである猫じゃらしに、一体何をやらせようというのか。
「で、イデル、だったか」
「はい」
「なんで俺の前に現れた?」
けれど、目の前には、父と夫を殺されたという貴族女がいる。
先代により定められた、忠誠の仕組みの先に、猫じゃらしの前に現れた。
「そうですね」
猫じゃらしの前に跪いていたイデルは、彼の問いに、いずまいを正した。
「……あなたはさっき、わたしの飼い主は誰かと聞きました。わたしはいないと答えました。なぜなら、父君は死んだからです。夫のアートルトも死んだ」
イデルは黒いエプロンの縁を掴んだ。
「そして今、オーネル候も死んだ。では、わたしの飼い主はあなたです。わたしにはもう、父君に残されたこの知識しか残っていない。だから、わたしはそのために生きる。国のために、わたしはあなたの助けになりたい。それで参りました」
その言葉に嘘が無かったら。
俺の願いは、もしかして、ふたつとも、叶うかもしれない。
「……ふうん」
そう思って、猫じゃらしは頬を歪めた。
哀しいかな、猫じゃらしには、女が吐いた言葉が嘘だと解ったからだ。国のために生きると言った女の目に、けれど、ずっと灯り続けている暗い恨み。ずっと気づいていた。それは、国のためなんかではない。私怨に他ならなかった。
けれど、その方がいいかもしれない、とも思う。
猫じゃらしは国の重役ではないから、「お国の為に」と言われるよりも「王妃をぶち殺したい」と言われる方が、信用できる気がした。
猫じゃらし自身はべつに王妃をどうこうしたいとは思っていない。それで解決するなら、もっと昔に試したかもしれないが。
ただ、私情で動く奴の方が、じぶんと同類の方が解りやすいと思ったのだ。
「サラン王妃を暗殺してほしいとか言われても出来ねえが」
キセルを指の間に弄びながら、猫じゃらしは頬杖をついた。イデルの顔を上目遣いに見つめると、ハシバミ色の瞳は、ひっそりと見返してくる。
「手始めに、囚われのお姫様を二人、解放することは出来る」
「おひめさま」
「ああ。王妃か、王子か。黒幕が誰であれ、一泡吹かせてやることくらいは出来る。俺はそのためにここに来たからな」
「それが国の為になるならば」
そう言ってイデルは頭を下げた。その姿を猫じゃらしは一瞬だけ、痛々しいと感じた。復讐の為に城に棲みついた亡霊。イデルは猫じゃらしにはそんな風に見えた。
でも、彼女はじぶんをそうだと認めない。何か肩書きが無いと動けないのかもしれない。
誰かのきまぐれで皆殺しにあう旅芸人の生もたいがいだ。けれど、貴族というのも案外生き苦しい生き物かもしれない、と、幸薄げな女の顔を眺めながら、猫じゃらしは思った。




