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33.


 微かな呼び声が耳に入る。

 怪訝と猫じゃらしは顔を向ける。外回廊に聳え立つ支柱のあいまに、駆けてくる相手の姿が見えた。

「翠の傭兵殿!」

 男は軽快な足取りで猫じゃらしに近づいてくる。

 そのなりは軽装だったが警備兵とは一風違った騎士の装いだったので、猫じゃらしは跪いた。誰だか知らないが貴族だ。

「いや、楽にしてくれ! 翠の傭兵殿」

「……」

 というか誰だよ。

 言われた通りに立ち上がり、そっと目線を上げる猫じゃらしに、相手の男はにかっと笑った。

「初めまして。私の名前はロウ。レイ=ラキス公爵家の人間だ」

「……黒炭の猫じゃらしです」

 レイ=ラキス家?

 聞いたことがある。ヴァルトール王国の創立当時という遥か遠い昔から王と共にあったと言われる、由緒正しい貴族家。そのひとつ。レイ=ラキス家は、確か国の防衛が仕事だったはずだ。お家代々、有能な騎士や軍師を出してきたという。今日の円卓でも彼らの席があっただろう。たぶん。

「それで、どのようなご用件で?」

「ん?」

 脳内で情報を掘り起こしながら猫じゃらしが聞き返すと、黙って彼を見ていた男――ロウが我に返ったような顔になる。

「いや、君はそれが本名なんだなと思ってね。猫じゃらしって異名だと思ってたんで驚いた」

「名前つーか、そう呼ばれてます」

「へえ。翠の傭兵もよくよく考えると異名だよね。二つも異名があるというのは、それだけ腕が立つと言うことなのかな?」

 どう答えるべきかわからない。身に余るお言葉です、と当り障りなく猫じゃらしが返すと、ロウは爽やかな笑みを浮かべる。

「いきなりだけど、私と手合わせをしてくれないか?」

 まじでいきなりだ。

「あっちに訓練所があるんだ。そこで今、太刀のけいこをしていてね。うちの第三師団にお手本を見せてやってくれないかな?」

 猫じゃらしはロウの片手に握られた木刀を見る。

 うちの第三師団、というからにはこいつは師団長格なのだろう。隙の無い立ち姿からもそれは察せたし、何より、半袖と半ズボンというガキ大将みたいな服装に似合わないくらいに屈強な体つきをしている。

 力では絶対猫じゃらしの方が負ける。腕力に自信があるわけではないのだ。グレウや肉だんごのような脳筋武闘派でもない。

 その猫じゃらしを見て、ロウが手合わせしてほしい、というのはつまり、負けて欲しい、ということだろう、と猫じゃらしは解釈する。そもそも師団長がみんなの前で負けるのは恰好が悪いはずだ。

「……いいですよ。いや、俺に勤まるかわかりませんが」

 ちょうど腹の虫の居所が悪かったし、と猫じゃらしはほくそ笑む。

「……へえ。君って謙虚な人だな、猫じゃらし」

「は?」

「いや。ありがとう。私の挑戦を受けてくれて嬉しいよ。噂の「黒炭」の傭兵殿が城に来てると聞いて、実は居ても立ってもいられなかったんだ。なんとしても一回手合わせしてみたかった。稽古を言い訳に城のなかをうろついててよかったよ!」

「……はあ」

「とはいえ、私も負けるつもりはないけどね」

 ロウが悪戯っぽく片目を瞑る。それを見て、猫じゃらしは自分のさっきの結論が間違っていたらしいと何となく気づいた。 

 単に部下に良い所見せてえって下心じゃねえのか。

 ロウ=レイ=ラキス。

 国家騎士団第三師団の、師団長。らしい。亜麻色の髪が鮮やかな、自分と歳が近そうな男。

 ――変なやつだ。

「さあ行こうか、こっちだ」

 ロウが意気揚々と猫じゃらしを誘ったのは砂場の空き地だった。コの字型の建築物のちょうど中庭になる。

「ところで君はあそこで何をしてたんだい?」

 訓練所は既に半袖半ズボンで埋まっている。だいたい20人くらいだろうか。集まっている第三師団の騎士たちの顔ぶれを猫じゃらしが見回していると、ロウがそう聞いてきた。

「円卓会議があったんだろう? あの先は城門しかないが、……もしかして帰ろうとしてたのかい?」

「ああ、いや。俺は部屋を宛がわれてるらしいんですが、どこにあるのか解らなかったんで」

「そうか。教えてくれてないとは不親切だな」

 裏も何もない率直な言葉をかけてられて猫じゃらしはまた面食らう。ロウが木刀をひとつ手に取り、こちらに放ってくる。

「案内人を探していたのなら後で手伝うよ」

「はあ、すみません」

 受け取った木刀はわりかし重かった。

 質の良い木を使っているのだろう。

 猫じゃらしは手に慣らすように幾度か握りなおし、横に構える。

 待っていたように目が合ったロウは、一転、生真面目な顔をしている。薄茶色の瞳が澄んだ闘志を漲らせているのを見て、猫じゃらしは己の顔に笑みを張りつける。

「……猫じゃらし、これは決闘のやり方を手ほどきしてるんだ。初めから通してもいいかい?」

「はい」

 ロウがうなずき、騎士たちの方を仰ぐ。

「誰か立会人を!」

「私にその名誉を。副師団長のアゼル=エウバーンです」

「いいだろうか?」

 ひとりの騎士が出てきて、猫じゃらしはロウが口にした確認にうなずく。

 一瞬だけ目線をやった副師団長は、上背のあるひょろりとした男である。見たところ、ロウより少し年上のようだ。

 新しい騎士団のメンバーに教える為だろう、ロウが片手に剣を翳した。

「我が名はロウ=レイ=ラキス。国家騎士団第三師団の師団長である。貴殿に決闘を申し込む。決闘は三本勝負にしたい。ヴァルトールの王に祝福されし騎士として、我は国の盾となり、剣となり、……」

 ロウの名乗りは途中で猫じゃらしの集中欲が失せるくらいにたっぷりと三十秒ほど続き、次にようやく、猫じゃらしの番になる。

「黒炭審議会役員の猫じゃらしです。三本勝負の決闘、受けます」

 沈黙が降りる。

 周囲で遠巻きになった騎士の輪の中から笑いが漏れた。気にする素振りもなく猫じゃらしはロウを見つめる。

 三十秒の尺を埋められる名乗りがないのがそんなにおかしいのか。猫じゃらしの決闘相手ですら一瞬怪訝とした顔をしたが、すぐにうなずいた。

「それでは、三本勝負!」

 副師団長が片手を振り下ろす。

「はじめ!」

 号令の元、ロウが飛び出した。

 猫じゃらしは動かない。イノシシのように突進してくるロウの両手が頭上に剣を翳す。

 真上からの攻撃。

 動きもイノシシだが攻撃もイノシシだ。単純猛進。

 僅かに笑みを刻んだ猫じゃらしが剣を斜めに構える。

 ガチヂ、と木刀が噛み合う。

 瞬間、猫じゃらしの目が見開く。

 衝撃が、妙に軽かった気がしたのだ。

 猫じゃらしが違和感を覚える間に、ロウの第二撃が炸裂した。直線攻撃から一転して、しなやかな軌道で斜めに打ってきた。

 猫じゃらし自身の剣の内側に入ってきたそれに、猫じゃらしが反応する暇はない。

 みぢ、と嫌な音が上がる。

 右手首に激痛。

 よろめく猫じゃらしの顔面めがけて、今度こそまっすぐに木刀の鋭い先が迫る。

 人だかりが息を呑む。

 ざあ、と砂煙が巻き、突然開いた二人の戦士たちの距離に流れた。

 ロウは何が起こったか解らないような顔をしている。対する猫じゃらしは、彼から大きく距離をあけて立っていた。その片手が、襟ぐりに仕込んであった紐を片手でしゅるしゅるとほどいていく。

 ……あー、あぶねえ。

 最初の一撃はフェイントだった。

 次に、変則的な動きで右手を弾き、そうして出来た隙を突いて、まっすぐに顔面、というか、顎を狙ってきた。

 一瞬猫じゃらしの視界の右側は髪で隠れていた。その死角を見事狙ってきた。怖ろしい瞬発力だ。

 最初の一本で落とされるところだった。

 ――冗談じゃねえ。開始十秒でおっ倒されるとか、さすがにカッコ悪すぎだろ。

「い、一本!」

 遅れて副師団長の声が上がる。

 観衆がどっと沸く。

 彼らの声援を受けながら、ロウが木刀を両手に構えなおして、腰を落とした。

 本気でかかってこい。まっすぐに睨むその眼差しはそう言っているようだ。

 猫じゃらしは目を細めた。

 おもむろに彼は木刀を口に咥える。それを見てロウが構えを緩める。

 ロウを警戒しながら、猫じゃらしは二つの手に襟紐を束ねると手早く髪を縛った。片面を覆っていた銀髪が頬を滑り、うなじの方へ流れる。

「……ふうん。こういうときは待ってくれんのか」

 咥えていた木刀を口から放して、猫じゃらしは微笑む。

「さすがにお優しい騎士様だ」

「はは、視野が半分効かない相手を倒しても栄誉にはならないからね。それが相手自身の怠慢だったとしても」

「言うねぇ」

 猫じゃらしが含み笑う。真剣な表情を変えないまま、ロウがうなずく。

「この身一寸一寸が、わがヴァルトール王国のつるぎだから」

 腰を落とした一瞬の踏み込みで、距離を詰めてきた。

 猫じゃらしも飛び出す。

 こっちからも突進するとは思わなかったのだろう、ロウの目が僅かに揺れる。その次の一秒で、激しく木刀が鳴りあう。

 観衆が息を呑む。

 剣先がやっと触れるくらいの間合いで木刀が絶え間なく打ち合う。互いの攻撃をかわし合い、攻め入り、巧みに立ち位置を変えながら、つかず離れずの攻防をくり広げる。その激しさは周りの熱気をも巻き込んでいた。もはや本物の決闘そのものだ。

 ザザアッ――。

 一際鋭く地面を裂いてロウがまっすぐに蹴った。腰を落とした体勢から、低く、相手の脛を狙った。

 足はけれど、宙を搔く。

 猫じゃらしはつま先で降り立ったのだ。ロウの足の、膝のあたりに。

 驚いた顔をしたロウが見上げる。

 だがすぐに彼は唇をかみしめる。一度猫じゃらしを感嘆させたその瞬発力で、ロウが木刀を薙いだその瞬間、猫じゃらしの木刀がまっすぐにその軌道の中に突っ込んだ。

 打撃は浅かった。

 猫じゃらしの一撃は木刀を外側へいなし、尚も伸びた。木刀を握るロウの腕を、掠める。

 それと同時に、ロウの片足に乗り上げたまま、猫じゃらしは渾身の蹴りをロウの胴体に叩きこんだ。

 ロウが吹っ飛んだ。 

 騎士たちが奇声を上げ、地面に仰向けに倒れたロウの元に駆け寄る。

「……師団長に一本! 猫じゃらしに一本! 二対一!」

 副師団長の声が響き渡る。 

 歓声が上がる。ロウはきょとんとしていたが、騎士たちが寄って来ると、それを片手で制し、ゆっくりと立ち上がった。

「だ、大丈夫ですか師団長!」

「いや、うん。びっくりした」

 ロウの汚れた背中からボロボロと砂が落ちる。

 満身創痍の恰好だったがロウの顔には笑みが浮かんでいる。戦意を削がれるどころか、まるで新しい玩具を見つけた子供のように、きらきらと目が輝いている。

 ――びっくりした、っすか。

 加減無しに思いっきり蹴ったつもりなのだが。あの至近距離で。鳩尾に入れられて立ってやがる。

 騎士と言う生き物はやっぱり苦手だと猫じゃらしは思う。メンタルと身体が丈夫過ぎだ。

 ――こっちはもう、全く使えねえんだけどな。右手。

「すごい」

「あ?」

 観衆が沸いている。今や当初の目的すら忘れて、騎士たちはひたすら戦いの行方に興奮を覚えている。そこに小さく落ちた呟きを聞いて、猫じゃらしは目線を上げた。

「すごい、君はすごいよ……!」

 ロウは感激した口調でもう一度呟いた。

「君となら、永遠に戦っていたい気がする!」

 下心もなにもない。

 楽しげな声だった。

 猫じゃらしは一瞬虚を突かれる。そして笑った。やっぱりタフな野郎だと猫じゃらしは思う。

 そして、そういう図太く鈍感な野郎が、猫じゃらしは嫌いじゃない。 

「はじめ!」

 副師団長の号令と共に、ロウが突進する。

 毎度同じパターンだ。

 だが猫じゃらしはもう解っている。ロウは、直線攻撃だけではない。刀身の軌道を巧みに変化させて、様々な型の攻撃を混ぜて、打ってくる。剣だけに囚われることもなく、時には足技や拳も臨機応変に混ぜる。

 素晴らしい技術だ。体が興奮してくるくらいに。

 緊張と高揚の入り混じる、複雑な笑みが猫じゃらしの顔を彩る。

 一方のこっちは片手だけ。

 さあ、どうすっか。

 頭のなかで戦術を組み立てている間に、ロウが間合いから突きを出してきた。横面を狙ったそれを猫じゃらしは紙一重で受ける。

 そのタイミングで、左手のなかの木刀をひっくり返した。

 半回転させた木刀を逆手にする。そのまま構えると、木刀の刃の側が、猫じゃらし自身の方に向く。

 ロウの眉がしかめられる。

 こちらの動きに不審なものを覚えたのか、ロウは後退しようとする。察しの良い奴だ。だが、もう遅い。

 一踏みに猫じゃらしは距離を縮めた。

 一転して、鍔競り合いの距離だ。いや、それより近い。

 ゼロ距離。

 いきなりロウが打ってきた。木刀が爆ぜる。気を抜くと、刃どころか刃を持つ手が打ち合う距離だ。そんな近さで、全身が痺れるくらいの重い打撃をロウは放ってくる。

 ロウは全く負けるつもりがない。

 それが感じられる。

 もう二度と後退しない足に、息を止めたままで渾身の力で振ってくる一撃、一撃に。物凄い威圧感だ。

 ゾクゾクとしたものが猫じゃらしの背筋を駆けた。

 固唾を飲み、猫じゃらしはロウの突きをすれすれで避けた。

 その下から、木刀を薙ぐ。

 避けようとしたロウの動きが、ふいに止まる。

 その両手が、木刀を構えなおしかけて、凍ったのだ。ほんの一瞬のことだったが、猫じゃらしにはロウの目が見開いたのが見えた。

 ロウはその直後に木刀を反転させた。

 だが遅れは取り戻せない。

 猫じゃらしの刃は、ロウの顎をまっすぐ上に弾きあげた。

 よろめくロウが、しかし最後の反撃を試みる。刃を振りきってがら空きになった猫じゃらしの横面に、木刀を叩きこんできた。

 寸でで翳された猫じゃらしの右腕が、バキッと嫌な音をさせる。刃は、幸いなことに猫じゃらしの肩の外側に入った。手首だったら今度こそ折れただろう。

 頭に、かっと血が上る。

 尻もちをつくようにしてロウが地面に倒れた。それを見て、猫じゃらしはことさらゆっくりと近づくと、左手の木刀を突きつける。慌てて目線を上げるロウと、猫じゃらしの目が合う。

「猫じゃらし、一本! 師団長、一本!」

 そのとき、副師団長の採点が響いた。

「三対二! 勝負あり!」

 その手が五指を開く。

「――勝者、師団長!」

 どお、と観客の騎士たちが沸いた。

 当のロウは、顎に手をあてて茫然としていたが、ふと目の前の木刀が退くと追うように見上げた。

 まだあまり目の焦点が合っていない。あれだけ強く顎を打たれたのだから当然だ。

 彼を一拍ほど見返し、猫じゃらしは木刀を副師団長の方に投げ寄越した。

 その空いた手をロウに伸べる。

「いてっ」

 何を思ったか、突然ロウが猫じゃらしの逆の手を握った。しかも立ち上がる勢いで、ぎゅっと、強く。

「痛え! 痛ぇって言ってんだよオイ!」

 思わず猫じゃらしは立ち上がったばかりのロウのこめかみをはたいていた。騎士たちがそれを見て一斉に目を剝く。

「し、しし師団長!」

「貴様! 師団長に何をする!」

「ァア!?」

 沸き立つ騎士たちが、猫じゃらしの一睨みに黙り込む。

 猫じゃらしはイラついているわけではない。決して、負けてムカつくとかじゃない。右手の激痛に耐えるのがそろそろ限界になっている、それだけだ。

 しかし、その元凶はと言えば、猫じゃらしの両手をしげしげと眺めてこう言い放った。

「やはり。もともと私に勝ち目は無かったな」

「は?」

「最後の一太刀だよ。もともと速度で私が君にかなうはずがなかった」

 そう断言したロウの目は、すでに元通りの彼だった。その「一太刀」で今まさに脳みそを揺らされた人間のものと思えない。

 まったく、どんだけタフだよ、こいつ。

「すごいよ」

 そして、彼は目を輝かせ、猫じゃらしの両手を握りしめて。

「……君、すごい!」

「だあ痛ぇつってんだろ殺すぞ!」

 猫じゃらしの本気の拳の前に、再び沈んだのだった。





 幸い、手はどこも折れてなかった。その場で診てくれた医療騎士によって簡単な処置を済まされた。今は包帯と、手首を補綴する板をつけている。まあ大丈夫だろう。

 決闘(のお手本)を終えたあと、猫じゃらしはロウに連れられて井戸場に出た。

 中庭の裏手に洗濯をしに集まっていた侍女たちが黄色い声を上げて逃げていく。とはいえ、物陰に隠れただけで、こっそりと顔を覗かせている。

「どうしたんだい? 猫じゃらし」

「いや、いい女どもですね。さすがお城だ」

「そんなことばかり言って。君は」

「はあ」

 ――リシェールはいねえか。

 苦笑して振り向くロウを無視し、井戸の横のベンチに掛ける。ロウが寄ってきて手拭いを渡してきた。

「そういえば君は部屋を探してたんだったね。あとで案内人を呼んで来させようか?」

「ああ、お願いします」

 猫じゃらしの探し物は、客室と、北の庭だ。後者は使用人たちより上等な女がいるという話。

 両方とも、ロウなら何も考えずに教えてくれそうな気がする。

 ロウがばさりと一息に半袖を脱ぐ。

 物陰で感嘆の声が漏れた。ロウは正しく女性の感嘆に値するガタイをしている。姿かたちも派手な方だった。陽射しに輝く亜麻色の髪は特によく女の目につくだろう。

 なんとなく競争心が刺激されて上着に手をかけた猫じゃらしだったが、隣で、ぎしりとベンチが軋む。

「……」

「なんだい? 猫じゃらし」

 建物の影が息を潜めている。

 砂地には、井戸を挟んでベンチが二つある。猫じゃらしの常識では、これはつまり、野郎のひとりがあっち側のベンチにつき、野郎のもうひとりがこっち側のベンチにつく暗黙のシグナルだった。そのうえで、お互い目が合わないよう背を向けあって水を浴びるのだ。

「あ、待って、猫じゃらし」

 そうか。

 これは俺に動けと言ってんだな、と猫じゃらしが腰を上げると、ロウがそれを止めた。

「私が背中を流してあげるよ」

「まじで」

「えっ?」

「いや大丈夫です充分です一人でしますから」

「そう? でも自分だと後ろ洗いにくいだろう?」

 思わず動きを止め、しげしげと猫じゃらしはロウの顔を見る。

「なあ」

「うん?」

「それ本気で言ってんなら相当変だぞ第三師団」

「えっ?」

 小鹿みたいに澄んだ目の大の男に驚いた顔をされ、猫じゃらしは無言でベンチに沈んだ。説明する気も失せた。

「じゃあ背中を」

「ほんっとそれだけは勘弁してください」

「うっ? うん、わかったよ、君がそんなに嫌なら……」

 心なしかしょげた後ろ姿でロウが体を洗いはじめる。

 猫じゃらしはそれを見届け、自分も気を取り直す為に息を吐いた。周りを見ると井戸水を入れた桶が幾つかある。だが、猫じゃらしはあえて桶を引っかけ、井戸から水を持ち上げることにした。今汲んだばかりの水の方が冷たくて気持ちがいいだろうと思ったのだ。

「レイ=ラキスの家には騎士が二人いてね」

 汗と砂まみれで汚れた顔と髪を拭っていると、ロウが再び話しかけてきた。

「レイ=ラキスの本家は一人っ子だからさ。二人といっても分家の従妹なんだ。従妹の名はメーテル=レイ=ラキスという。歯痒いことに、私は彼女に勝てたことがなくてね」

「まさか」

「ほんとうさ。133戦中133敗なんだ」

 こいつに一本も取らせないのか。どんな女ゴリラだ。

「彼女は今回のセラザーレのお披露目で王子殿下の護衛を任されている。お披露目が終わったら二人で手合わせをする約束をしてるんだ。私とメーテルは管轄が違う。だから最近顔を合わせることも少なくなった。昔はよく会ってたんだよ、剣塾も同じところでさ」

 残念そうな声音。何気なく猫じゃらしが仰いだロウの横顔は優しげに睫毛を伏せていた。

「……最後の斬り返し」

 ふとロウの口調が変わる。

「見事だった。元々そのつもりで左手に構えたんだろう? 君はあのとき逆手だった。初めは危ない持ち方だな、と思ったけれど、でも違った。君は私の攻撃を受け流したその一太刀で斬り返してきた。刃が、君自身の側に向いてたからこそ出来たことだ」

「ああ……」

 気の無い風に猫じゃらしは答えるが、内心感心していた。

 剣を構えるときは通常、片刃の方――つまり斬れる側が敵の方に向くようにする。当たり前だが、その状態で、相手の剣を受け流し、次に攻撃に移ろうとすると、自然と一度剣を構えなおさなければならない。

 しかし、逆手で剣を持っていると、この時間を短縮できるのだ。 

 ロウはあの一瞬にそれに気づいたのだった。猫じゃらしが斬り返してくるのを見て、自分が剣を持ち直さなければならなかった、あの半秒に。あの土壇場で。

「アゼル……副師団長も感銘を受けていたよ。あれは返し打ちをするときに最も効果が顕れる構え方だろう、とね」

 その副師団長も、猫じゃらしの剣の特異な長所を、あの短時間で見破ったということだ。

 ――国家騎士団三番師団ってなあ、化け物の巣窟かよ。

 猫じゃらしは含み笑う。

「ねえ、猫じゃらし」

 怖い怖い、と実際他人事だが他人事のように猫じゃらしが頭のなかで呟いていると、ふいにロウがにじり寄ってきた。半裸の野郎が顔を近づけてくる。なんだかはったおしそうだと猫じゃらしは思ったが、ロウは真剣そのものの表情だ。

「な、なんですか師団長」

「私にあの剣筋を教えてくれないか?」

「は?」

「この城に滞在してる間だけでもいい。私に稽古をつけて欲しい。あの反則みたいな奇抜な太刀筋! あれが修得できたら、私はメーテルに勝てるかもしれない!」

 猫じゃらしはロウの顔をまじまじと見た。ロウの本気さは鋭い目つきを見ればわかる。その目つきは、木刀を打ちあっていたときと酷似した、戦士の貌だったから。

「やだ」

「えっ? 猫じゃらし?」

 猫じゃらしはぽいと手拭いを宙に放った。べちゃ、とそれがキャッチした手のなかで潰れる。

「あんたもさっき言ったろ。斬り返しの為の太刀だって」

「言ったけど」

「そりゃつまり殺す為の太刀だろ。従妹相手にそんなもん使ってどうすんだよ」

 ようやくロウが閃いた顔をする。

「そう、か」

 深く思案するようにロウが呟く。それきり会話という会話もなくなり、猫じゃらしもそれ以上何も説明することはなかった。

 ……実は、逆手の構えは、殺傷用ではない。

 猫じゃらしがその為に使っている。というだけだ。

 そして、猫じゃらしがこの技を伝授したのは、猫じゃらしの子分というか弟子とうか養子というか。とにかく数いた育成所の子供たちのなかで、たった一人だった。

 アウリエッタ=ジークリンデ。

 七課の女傭兵は唯一、猫じゃらしと同じ剣筋をしている。ただ、あれはバカなので剣筋の恐るべき本領に気づかない。気づかないで、その特殊な殺傷力をいそいそと研磨し続けている。何年も、何年もだ。

 そして、アウリスは、自分なりに技を発展させてもいる。ゼロ距離内に入ったあとは、柄の裏で相手の鼻面をぶっ叩いたり。相手の鳩尾を斬れない側で抉ったり。ちまちまやっている。つまり、相手を殺さないようやっている。

 猫じゃらしが伝授した、彼と同じ技に、彼女は真逆の用途を見出したのだ。

 剣筋には人なりが現れるものだ。

 剣は主があってこそ、とはよく言ったものである。だが、だからこそ、猫じゃらしはこの目の前の男に教える気にならない。

 そもそも貴族野郎で商売敵にわざわざ手取り足取り指南するか阿呆、というのもあるが、仮にそんな大人の事情を抜きにしても、猫じゃらしの直感は、この男の危険性に気づいている。

 ロウは多分、猫じゃらしと同じだ。

 戦いの興奮を、我を忘れて楽しむ人種。それで後で我に返っても遅い。猫じゃらしが普段この逆手を使ったりしないのはそのためだ。相当な事態にならないと出さないと決めている。

 黙々と身を清めるロウの姿に、ふと猫じゃらしの唇が綻ぶ。

「猫じゃらし?」

 何か察したようにロウが振り向く。猫じゃらしは笑みを浮かべたままで立ち上がり、一息に上着を脱いだ。

 片手で桶を逆さにして水を被る。

 その一瞬にロウが動きを止めたが猫じゃらしにも気配で解った。

 水が体に弾けてキラキラと輝く。物陰に潜む女たちが息を呑んだ。声を飲みきれずに悲鳴を上げて逃げ出していく女もいるようだ。

 ――そういやあ、見せられる体でもないんだっけ。

 隣の騎士殿と張り合える物でもない。猫じゃらしの体は絵本の死体を継ぎ接ぎにした怪物みたいに醜かった。細切れの体は、今も昔もこれからもずっとこのままだ。十七の火傷と、鞭の跡は、体がいくら大きくなっても消えたりすることは無かった。 

 猫じゃらし本人はそれを特に何とも思ってない。流石に女を抱くときはアレなので自重して裸は見せないようにしているが。随分昔にそれで怖がられたのが記憶に残ってしまったせいで、今は、行きつけの娼婦にせがまれたりしても、猫じゃらしは寝台の上で一切脱ぐことがない。まあ、その程度に醜悪な自覚はあるということだ。

 猫じゃらしの体を見て、目を逸らさなかった「目上の人間」は、生涯三人だけだった。

 一人は先代グレン国王だ。それと死神、レオナート。

 あともうひとりは、メスガキだった。今物陰から逃げていく使用人女たちと同じ、貴族女だった。猫じゃらしに指をつきつけて「わたしをおうちに返しなさい王子様の命令よ庶民」と言ったクソガキ。そのあとガキと猫じゃらしはこれ以上なく間近で体を見せ合う展開になったのだが、まあ、ガキの方の命がかかっていたし、思春期に差し掛かったばかりの難しいお年頃だったりもしたので、それどころではなかったらしかった。というかガキは酷くお怒りであった。真っ赤な顔で猫じゃらしの体をガン見していた。目は、逸らさなかった。

「猫じゃらし」

 楽しい思い出を振り返りかけていた猫じゃらしの前に、白い手拭いが差しだされた。未使用のものだ。

「体を拭くのに使っていいよ。まだ何枚もあるから」

 ロウが言い淀む。

「ごめん」

「は?」

「さっき背中を流そうと私は何度も主張したよね。無神経だったかもしれないと気づいた。悪かった」

 そう言ってロウはまっすぐに猫じゃらしを見つめた。

 すぐに何を言われているのかわらかなかった。

「ん、いやそういうんじゃねえんだが」

 言いかけ、猫じゃらしはやめた。唐突に気がついたのだ。

 ああ、そうか。

 ――こいつ、このバカっぽいところがアウリスに似てんだ。

「猫じゃらし?」

「……あ、ああ」

 とりあえず手拭いを受け取り、くすくすと笑う猫じゃらしをロウがきょとんと見る。それが可笑しくて、猫じゃらしは彼の頭をぽんぽん、と撫でた。自然に手が出たのだった。

 ますますロウは不思議そうな顔をした。

「あなたは強いですよ。師団長。……これからも強くなる」

「猫じゃらし」

「あんたが従妹に勝てねえのは多分他に理由があるからだろ」

 怪訝とまばたきをしたロウの顔が、一拍のあとに赤くなる。

「……話を逸らすなよ」

 そっちこそ目線を逸らしてロウがぼそりと言う。

「あ?」

「その体、どうしたのか聞いてもいいかい?」

 こういうバカっぽさがやはりアウリスに似ている。

 猫じゃらしは体を拭きながらロウの方を一瞥した。からかいや侮蔑のつもりで聞かれたのなら猫じゃらしはロウをまたはたいていたかもしれない。だが、ロウの目は真摯だった。相手を知ろうとする好奇心だけがそこにある。

「猫じゃらしと手合わせをしてて気づいたんだが。君の身のこなしは変則的だよね」

「そうか?」

「あっごめん。悪い意味じゃなくて、なんというか……今まで戦ってきた剣士たちと違う。曲芸か、踊りを生業にしていたことがあった?」

 さすがに驚いて、猫じゃらしは手が止まってしまった。だがすぐににやりと笑う。

「ああ。俺は孤児だが曲芸団で育ってね。ガキの頃は大陸回って芸やってました。俺は空中演舞が得意でねえ」

「やっぱり。上手だったんだね」 

「あんまり上手だったんで貴族女に気に入られて問答無用で襲われました。まあガキの頃なんでよくわかんなかった。貴族女を抱いたのは最初で最後だったのに残念です」

「……」

「それが貴族女の旦那にバレて一座皆殺しにされました。これはそのときの拷問の傷ですよ」

「そんな……」

 何しゃべっちゃってるのだろう、自分は。

 猫じゃらしは着服し、懐からキセルを取り出した。大立ち回りのあいだ心配だったがキセルは無事だ。さすがちょっと奮発して買った管は丈夫だった。

 猫じゃらしが火をつけるあいだ、ロウは上裸のまんまで黙っていたが、やがて彼はぽつりと言った。

「君はやっぱりすごいな。猫じゃらし」

 何かに見入るようにロウは猫じゃらしの顔をじっと見ている。

「私は……多分無理だ。だって、私は狭い世界しか知らない。騎士の家に生まれ、騎士となるために育てられた。それ以外のことを知らないんだ」

「立派じゃねえですか。先人たちの意思を継いだんだ」

「ああ、それを誇りに思っているよ。けれど、私には君のような力はないと思う。自分で自分がしたいことを選びとっていく、そんな自由と生命力は、私の人生にはきっと、この先もないものだ。だから、私は君のことをすごいと思う」

 ロウは我に返ったように息を呑んだ。

「……こんなことを言うのは失礼かな」

「いや」

 猫じゃらしはゆっくりと煙を吐き出す。

 実際、じぶんでもどう感じているのかよくわからなかった。

 この、じぶんと同じくらいの歳の、じぶんとは正反対に全てを与えられてきた高価な男が、猫じゃらしの話に共感するというのは妙な話だった。見下されているとは感じない。嫌な気分ではない。ただ、妙な気分だった。

 そのあと、猫じゃらしは一言、二言かわして井戸場を出た。ロウを待ってもよかったのだが、あまりに水浴びが遅いので痺れを切らしたのだった。ロウは多分口と手を一緒に動かせない類だ。

「もう行くのかい?」

「はい。部屋を探して戻ります。湯船とかちゃっかりついてそうだし、後はそっちで」

「そうかい?」

 とたんに残念そうにするロウの方を猫じゃらしは見やる。

「……ああ、そういやあ」

 あたかも今思い出した素振りで聞いた。

「北の庭ってなあ、どこか知ってますか? 案内人がその方角に行くのを見たって使用人がいるんですが」

「北の庭かい?」

 あそこは王子の寵姫たちが住んでいるんだ、と前置きをしてから、ロウは場所を教えてくれた。

 ついでにひとつ、聞き捨てならない新たな情報を猫じゃらしは得る。

「王妃の住居が?」

「うん。そこにある石の塔で、ご療養されていると聞いている。最近お体を悪くされたらしくてね。それもあるから、北の庭は管轄外の者は立ち入り禁止なんだ。案内人も北の庭にはいないだろう。手前の棟の方じゃないかな」

「そうですか。ありがとうございます」

「一緒に行こうか? 道案内するよ」

「いや大丈夫です」 

 城内の案内なんてカッタルイだろうに、ロウは心底から落胆した顔をしている。猫じゃらしは少々気が咎めないでもなかったが、軽く手を振って彼と別れた。

「猫じゃらし!」

 砂場を行く猫じゃらしの背中に、ロウの呼び声がかかった。

「私は先三日城にいる! また手合わせをしよう! いつでも待ってるよ! 楽しかった!」

「あー、はい、そっすね」

 などと言いながら、猫じゃらしにその気は全くなかった。今日で懲りたし、金にならないのに剣を振るう高尚な剣士様でもないのである。

 そう思ったが、何故か表情が緩むのを感じる。

「……俺も楽しかったです。師団長」

 それは本心だった。

 振り向いて言ったでもないのだが、相手には聞こえたらしい。肩越しに猫じゃらしが目線をやると、ロウは、まるで子犬が尾を振るようにして、そのゴツい腕をずっと振り続けていた。

 


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