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32.


 自室に戻った王子は早々に脱衣をはじめた。

 扉の前に跪いたまま、猫じゃらしは、ゆっくりと目線を巡らせる。

 豪華な、けれど使い古された家具。隅の、今は使われている形跡の無い暖炉。

 王が死んで、この部屋は王子に宛がわれることになったようだ。王が指示したのか、王子の方が勝手にやっているのかは知らないが。見知った部屋に、絵の具をぶっちゃけるような塩梅で衣服が脱ぎ散らされていくのを見ているのは、あまり良い気分ではない。

「……ああ」

 大袈裟な息をついてラファエがソファにかけた。

 からり、と漆黒の珠を繋いだ首飾りが揺れる。裸の上半身を見下ろして、それすら億劫そうにラファエはかなぐり捨てる。そうしてズボン一丁になると、靴も靴下も脱いだ白い素足をゆったりと組んだ。

「ようやっと一息つける。会議は息が詰まる。なあ、猫じゃらし」

 猫じゃらしは頭を低くする。

「このたびは不幸な事故でありました。心中お察しいたします」

「ん? おまえは変なことを言うな。不幸ではない、毒を盛ったのは私なのだからな」

 何でもないことのような笑みでラファエが猫じゃらしを見下ろした。

 やはり、こいつだったのか。

 下向く猫じゃらしのうなじに冷や汗が滲む。流石に嫌な寒気を覚えている。

 さあ、ここはどう答えるべきか。

「あなただったんですか」

 僅かな沈黙。

 やがて、猫じゃらしは顔を上げる。唇で薄く笑みながら。

「そうだろうとは思ってました。……けど、どうやって?」

「ん? なんだ。おまえ、わからなかったのか?」

 猫じゃらしが素直に首を横に振ると、ラファエは不思議そうな顔をした。

「黒炭の諜報官殿は毒物で遊ぶのが好きだと聞いているぞ。そのおまえでもわからないということは、なんだ、私はずいぶんと上手くやったのだな」

 からかうでもない、純粋に嬉しそうな笑顔。

「全員分の料理の皿に毒が入っていたのだ。おまえが食べた分も。私が食べた分もな。で、ワインの方に解毒剤が入っていた」

「ワインに?」

「結果、ワインを飲まなかった人間だけが勝手に自滅するようになっていたのだ」

 猫じゃらしの顔が漸く強張った。

 ――これは、北方のジークリンデ領より取り寄せたものなのだ。

 円卓でのラファエの言葉が蘇る。

 ワインは城のパントリーで数日ほど保管されていた。その期間中にワインに細工した者がいてもおかしくないわけだ。そして、その事実を知っている人間は、あの場でワインを飲まず、飲むふりだけをしただろう。

「なるほど。ワインに毒が入ってると解っていて、事前に別の物とすり替えたんですか」

「毒入りなのは解っていたよ。円卓の誰かが私を殺そうとしていたのを解っていた。ただ、……誰が誰とグルになってそんな画策をしていたのかはわからなかった。そこで、別のワインとすり替えてみた」

「じゃあ、あなたが俺にワインを手ずから飲ませたのもそのためですか」

 あのとき、ラファエが猫じゃらしに異様に親しく近づいてきたことで少々円卓が荒れ気味になった。あの、一見意味のないデモンストレーションの裏には意図があった、ということか。

「おまえが警戒して飲まなかったりしたら困るからな」

 猫じゃらしがまっすぐな眼差しでラファエを射抜く。それを心地よさそうな笑みでラファエは受けていた。

「私が困るんだ。私はおまえのことが好きだし、それに、おまえにはまだ少し聞きたいことがあるだろう?」

 その口が、にい、と横に広がる。

 猫じゃらしは目を細めた。

「……しかし、そりゃ完全な計画じゃねえでしょう。毒を仕込むのに関わってなかった奴でもワインを飲まないかもしれない。警戒してたかもしれないし、酒が飲めないだけかもしれない」

「それはそうだ」

 ラファエが指を鳴らす。

「では、その者らは不敬罪で死んだことになる。王族が進めた酒を拒むのは罪だろう? まあ、ほんとうにそういった無駄死にがあったとしたら、という話だが」

 ことさら明るい口調。それに相反して、全く笑わない目が、人の温度というものをごっそりと削げ落とした醒めた眼差しを猫じゃらしに寄せている。

 国の重役を、罪の無い者まで巻き込んで殺戮した。

 二十一、二歳の青年の、その残忍なまでの冷徹さは得体の知れないものを猫じゃらしに覚えさせる。

 猫じゃらしが笑みを張りつけたままでいると、ラファエが唐突に立ち上がった。

「さて、本題に入ろう。おまえはこれを見たことがあるか? あるだろう。おまえは父君のお気に入りだったからな」

 ラファエがそう言って手に取ったのは、壁際に無造作に立てかけられた剣だった。

 猫じゃらしは内心首を捻る。剣なんてものは見た目はだいたい同じだ。

 見たことがあるかないか、猫じゃらしが判断をつけられないでいると、ラファエは彼の方に向けて柄を引いた。

 微かな摩擦音が空気を裂く。

 吹き抜けの窓から差し込む陽射しが、抜身の剣を白く輝かせた。

「美しいだろう?」

 動くことこそない猫じゃらしの眼差しが、隙の無い物へと変化する。

 きしり、と足音をたててラファエが振り向いた。

「これは祭事用の剣でな。王は、この剣で、数多の騎士たちにその称号と名誉を冠してきた。ほら。片刃だろう。こちら側で騎士の肩を叩くのだ。彼を称えながら」

「ああ、……見たことがあるかもしれません」

「だろう? 由緒正しき伝統だらかな。かの、レオナート=ジークリンデも、七年戦争の功績をこうして父王に褒められたことだろうよ。ああ、楽にせよ」

 漸く許しが出たところで、猫じゃらしはけれど動くことが出来ない。彼の肩には、歩み寄ってきたラファエが翳す剣が乗っている。

「猫じゃらし。私は、おまえに騎士の称号を授けたいと思う」

 は、と思わず漏れそうになった声を猫じゃらしは呑みこむ。

「その為に、三つ約束してほしい。……誓いの言葉というやつだ。ひとつ、私に、アウリエッタの居場所を教えること。ふたつ、私に、おまえが先代に抱いていたものと同等の、もしくはそれを上回る忠誠心を預けること」

 猫じゃらしの目は硝子玉のように透明な輝きを放っている。目上の人間が近づいてきたことで一度伏せられていたはずの目線は、けれど、相手を敬うことを欠片まで放棄していた。

 その挑戦的なほどにまっすぐな表情を見下ろして、ラファエはにっこりと笑む。

「そして、みっつめ。俺に、レオナート=ジークリンデの片親の息子……セルジュ=ジークリンデの居場所を教えることだ」

 僅かだけ、心拍が跳ねる。

 表情は変わらないまま、床についた片膝の傍で、猫じゃらしは拳を握る。

 ……あーあ。

 やはりラファエは気づいているのだ。どこまで知ってるかは解らないが気づいてはいる。猫じゃらし本人も、ここ二、三年ほどで漸く知らされることになった、事実の「全貌」を。

 ――猫じゃらし。猫じゃらし。ごめんね。君に、またひとつお願いがあるんだ。

 グレン先王の言葉が蘇る。この部屋に、最後に彼に招かれたとき、猫じゃらしは彼から最後の願いを受け取った。死神が死んで数年経った頃のこと、猫じゃらしが覚えている、グレン国王の最後の表情になった。

 ――ありがとう。猫じゃらし。

 大好きだよ。

「恐れながら」

 猫じゃらしは吐き捨てた。

「あんたはまだ王じゃない。ラファエアート殿下、王子が騎士の称号を庶民に与えるなんてこたあ、出来ないんじゃねえですか?」

「そうだなあ。それは、おまえは誓えない、誓いたくないということか?」

 ラファエの笑みは崩れない。何やら気が削がれて猫じゃらしは目を逸らす。

「二個目の誓いはともかく、一個目と三個目は意味がわからねえ。そもそもセルジュって貴族様のことは何も知りませんし。……アウリエッタお嬢様の方は」

 頭上に影を落とす男を見上げる。

「死んだでしょう。もう何年も前に」

「死んだ?」

「毒矢です。覚えてないんですか? あのとき、あなたも森にいたんだ」

「おまえが射た毒矢でエッタは死んだと? おまえが持ち歩いていた解毒剤をもってしても助からなかったとおまえは言うのか」

「どうなるかは解らねえっつったでしょう。あの毒は致死性だった。10そこらのガキの体が耐えられるようなモンじゃなかったんですよ」

 猫じゃらしは肩を竦める。ついでのように、片手の手の甲で、そっと剣の刃を肩から外した。ラファエはどこか呆気に取られたように彼を見ている。

「……もしかして、ラファエアート殿下が俺をお招きくださったのはこういう用件だったんですか。だったら宛が外れましたねえ。その件はもう、随分と昔に片付いた後だ」

「ふむ。アウリエッタは死んだと」

「はい」

 猫じゃらしの目が本物の猫のようにゆったりと弧を描く。ラファエは憮然とした表情で彼のにやけ顔を見下ろしている。

「そうか?」

 その一言の元、ラファエは剣を下ろした。

 己の腕の長さほどある剣をひょいと一回転させたラファエがソファの方に戻っていく。猫じゃらしは頭を下げる。

「デルゼニア領の山賊」

 目線が思わず揺れた。

「……つい最近のことだよなあ。地元の者が喜んでいたそうだ。数か月も山賊の暴行に耐えていたらしいが、黒炭七課が現れたとたん、綺麗さっぱり面倒事が片付いた。特に、七課の女傭兵は気立てが良いらしい。孤児の群れに残飯を配っていたところが目撃されているぞ」

 ラファエがゆったりとソファに身を沈める。

「月日が飛んで二年前。ローベストアルトの詐欺師軍団の話がある。用心棒になってやると言って、地元の酒屋やら宿屋やらに無断で留まり、タダメシを食ったり酒を浴びたり。相当困った連中だったようだ。これが地元の悪徳金貸しと繋がっていたから一層ややこしかった。しかし、それも七課が片付けた。そのときいた七課の女傭兵が依頼金の受け取りに来ていたらしい。薄汚いナリに似合わぬ高潔とした身のこなしであったとか。ああ、同じ年には似たような依頼をアッザムの片田舎でもこなしているな。他には」

 ラファエがにやにやと続けている。詩を朗読するように滑らかなその口調に、猫じゃらしは一瞬動揺が顔に出たのではないかとヒヤヒヤさせられる。

「……なぜ私が知っているのか、知りたいか。何のことはない。地元の人間達が、黒炭を、いや、七課を絶賛する手紙を役所の方に持ち込んだのだ。そのなかでも、七課の紅一点はひどく評判が良い。戦場では男に引けも劣らぬ活躍をし、孤児に優しく、地元の庶民に礼儀正しく、飯が上手い。話を聞いているだけで私は惚れてしまいそうだ。良い女ではないか。なあ、猫じゃらし」

「はあ」

 猫じゃらしは音もなく喉を上下させる。ラファエの愉快げな眼差しが蛇のように全身に絡みつくのを感じ、心拍を落ち着かせるために、ゆっくりと唇を歪める。

「確かに七課にゃあ女がいますが。誤解してるようですが、それはアウリエッタ様じゃありません」

「ほう? では誰だ」

 猫じゃらしは笑む。

「俺の女です」

 沈黙が降りる。

 猫じゃらしは顔を上げた。少し前に出た許しに添って立ち上がった。王子は、ソファに腰下ろし、穏やかでない雰囲気で押し黙っている。

 じぶんは嘘は言ってない。

「それより、妙ですねえ。ラファエアート殿下。……俺の七課はねえ、少々特殊なんですよ。黒炭の他のどの師団とも仕事内容が違ってね。だから、奴らは派遣先で、地元の人間と殆ど癒着しない。依頼金をもらいに行くときもそうです。あいつらは標的の師団番号を言うんですよ」

「標的? の?」

「そうです。だからデルゼニア領の場合は、既にそこにいた十二課の名義で依頼金を受け取ってるはずだ。そうやってきた。七課がいつどこに派遣されているのか。黒炭の外部の人間が知ってるわけがないんですよ」

「なるほど!」

 ラファエが唐突に閃いた顔で手を打った。

「おもしろい! それはつまり隠蔽工作だな! 七課は黒炭内部の掃除係りだ。黒炭が犯罪者を出してしまった場合に内輪で処理してしまうための存在。そうやって内部で面倒なことは揉み消してしまう。だから、黒炭は後ろ暗い噂が立たない。市井の信用を失わないようになっているのだ。そうだな?」

「……はあ、さすが頭の回転がお速い」

 まあ、それはその通りだがよ、と猫じゃらしは考察する。

 七課は掃除係の七課。

 それを、けれど猫じゃらしはラファエとの会話のなかで明言しなかったはずだ。なのに、ラファエはそれを知っている様子をしている。

 ――だとすると、やはり結論はひとつ。

 舌打ちしたくなる心境だ。それを乾いた賛辞を投げつけることに留めたものの、今や、猫じゃらしの内には強烈な違和感が渦巻いていた。

「まあ、そーいうわけで、地元の依頼人が七課の動向を知ることはねえ。あなたが役所に届いた手紙で七課のことを知ったってのは、ありえない」

「見え透いた嘘を見え透いているとわかっていてつくのはお互いさまだろう?」

「それは身に覚えはありませんが。殿下がどうやって七課の情報を集めたかは気になりますねえ」

「また嘘ばっかり。おまえは俺がどうやったと思う?」

 ラファエが頬杖をつく。まるでゲームの謎解きを一緒にやっているかのような屈託の無い笑みがその顔に張りついているのを見つめながら、猫じゃらしは素直に考察してみることにする。

「……そうですねえ。可能性は二つか。七課のなかに、殿下に情報を漏らしている人間がいる。または、七課の動向をとても近い所で見張ってる野郎がいる」

「ふうん。おまえはどっちだと思う?」

 猫じゃらしは肩を竦める。

「わかりません。どっちもありえる」

 それは猫じゃらしの本音だ。 

 七課の半数は、ジークリンデ領の養育施設で育った幼馴染同士だ。そこを思うと、七課内に犯人がいる可能性は低い。

 だが、人間は条件さえ揃えば、誰もが裏切る素質を持っている。

 それを猫じゃらしは理解していたし、憤りを覚えるより、当然の事実としてそれを受け止めていた。

「へえ?」

 一方のラファエは意外なことを聞いたように目を瞬いた。

「そんなものか。しかし、おまえにとっては幸運なことに、私の諜報係は七課の人間ではない。おまえの黒炭は関係がないよ」

「じゃあ外部の人間が?」

「そう。雇ったのは七年前……おまえにエッタを預けたその年のことだったかな」

 猫じゃらしの声音に警戒が混じる。それを耳ざとく聞きつけたのか、笑みを浮かべたまま、ラファエが片方の眉を吊り上げる。

「偶然良い拾い物をしたのだ。私にとっても外部……というか野生の獣みたいなものであった。ただ、はなっからの跳ね馬でな。加えて浮気者ときた。意地が悪いのだ、私のことを愛していると言ったくせ、ここ七年のあいだ、定期的な連絡なんぞ寄越してきやしなかったよ。ひどいときは一年に一報あるくらいのものだ。……まあ、私はそれでも十分な情報を得ることが出来ていたわけだが」

「へえ。で、その外部の人間は、今もまだ七課に張りついてんですか?」

「知りたいか?」

 猫じゃらしは押し黙る。

 すぐに答えなかったのはラファエに動揺を見透かされるような気がしたからだ。実際、ラファエの言う密告者の存在を、このとき初めて知ったのだから。

 ――俺が知らねえって。なんだよ、それ。

 アウリスのことは上手く隠してきたつもりだ。

 表に出ない七課に入れたのはそのため。七課に敷く幾つかのルールはアウリスの為にあると言ってよかった。七課の師団名を巷に出さないこともだ。

 アウリスは、黒炭内部の、猫じゃらしが完全に手が届く範囲。そのなかに置いていた。そのつもりだ。そこから一歩も出ることを許さなかった。傍から見るとひどく狭い世界だが、それは、アウリスにとって、安全を約束された世界だったはずだ。

 ――誰だ。

 脂汗が滲むのを感じ、猫じゃらしは目を伏せる。そうして呼吸を落ち着ける。

 アウリスは今、王都にいる。

 仮に、その密告者がアウリスの傍をうろついていればラーナたちが気づくはずだ。その人間がアウリスの危害になるより早く排斥してくれるだろう。

 猫じゃらしが静かに考えを巡らせていると、ラファエが小さく喉を鳴らした。

「……呼吸の音が変わったな」

「は?」

「それを必死に隠すおまえというのも珍しい物を見た。……まあ、そう気を落とすなよ。世界は広い。すべてがおまえの思惑通りに行くわけではないということだ、猫じゃらし」

 意気揚々と大手を振るラファエを見て、猫じゃらしは唇を歪める。

「そりゃお互いさまでしょう。その密告者は跳ね馬だと言ったじゃねえですか。そいつが本当にあんたの味方なら、俺に聞くまでもねえ。そいつに、意中の女をここまで連れて来させりゃいいじゃねえか」

 突然だった。

 硝子の砕ける物凄い音が爆発する。

 猫じゃらしは口を噤んだ。観察するような目線を向けている先、ラファエの片手が肘掛けの上で拳を作っている。手前の床上では、ナイトテーブルの上にあったはずの硝子細工の蝋燭立てが、粉々に砕け散っていた。

「……まあ、さっきも言ったように、アウリエッタ=ジークリンデ嬢なんていませんが。この世界のどこにも」

 猫じゃらしは何事もなかったかに続けながら、意外だな、と考える。

 得意げになったかと思ったら次の一瞬には激昂している。この男は、素直な、いっそ子供さながらに真っ直ぐな感情表現をする男だ。

 それが、現時点での猫じゃらしのラファエに対する印象だった。

 だが、周りを振り回すラファエのその奔放さは、甘やかされて育った王族特有のものなのか。それとも、別のなにか、もっと正体の知れないものなのか。

 もちろん、ラファエは子供っぽいだけの相手ではなかった。密告者を七年前に雇ったと言うし、今回の円卓での周到さを見る限りでも、この男は抜け目がない。隙を見せられない相手だ。

 密告者を雇った目的は何だったのか。

 アウリスの、七課の情報を集めていたようだが。途中で目的が変わった、という場合もある。猫じゃらしも身に覚えがあることだ。例えば、とりあえず懐のなかに隠しておこうとか思っていたのが、気づくと思いっきり傭兵教育を叩きこんでいてしまったりとか。

「……味方に決まっているだろう」

 握る拳を眺めるラファエから掠れた声が漏れる。硝子で傷つけたらしく、血の筋が白い肌を滴り落ちている。

「……ひとたび、私の懐に入った人間はな。私に根本からの敬愛を注ぐのだ。君主とはそういうものだからな」

 そっちかよ、と猫じゃらしは呆気に取られる。

「はあ、そうですか」

「うん。……まあ、よい。話を戻そう」

 彼独特のタイミングでラファエが膝元に置いていた剣を握った。

「私はおまえに三つのことを誓えと言った。一つ目はエッタの行方だが。おまえはエッタは死んだと言う。二つ目の誓いは、私に、先代の王に抱いたものと同じか、それ以上の忠誠心を誓うこと。……しかし残念ながら、この二つ目は、一つ目と三つ目を誓えなければ、ありえない。では、三つ目はどうだ? おまえはセルジュのことを何か知らないか?」

 片手で抜き晒した剣を取り、ゆっくりとラファエが首を傾げる。その目つきは、初めにこの部屋の扉を潜ったときの形相に戻っていた。国の重役達が血反吐を吐いて倒れていくのを見ていたのと同じ、一対だった。

「さあ?」

 ささやかな笑みで、猫じゃらしは目を伏せる。

「さっきも言いましたが、セルジュ様の方は面識すらありません」

「ではセルジュの行方を知っている人間でもいいぞ。誰か知らないか?」

 まるで、誰か特定の人物たちが、セルジュの事情を知っていることを確信しているかのような口調。 

「セルジュは、二、三年程前まで、ムズ領という北東の地にいた。家を出た当時から騎士団に所属しており、国境警備の一端を任されていたようだ。だが、ここ数年で行方がぽっくりと解らなくなった。何か知らないか? ん? 猫じゃらし。騎士になると便利だぞ。欲しくないのか? 騎士の称号が。おまえがいつも妬んでいた貴族の仲間になれるのだぞ。さあ、どうだ?」

 ラファエの掌が促すように猫じゃらしの方へ開く。

 表情こそ変えないまま、猫じゃらしは目を細めた。

「……ふうん」

 ラファエが首を傾げる。

 膝元に寝かされていた剣がゆっくりと宙を斜めに切り、ラファエが逆の手に取った鞘のなかに収められた。かち、と僅かな音で剣が嵌まる。

 ラファエの眼差しが再び猫じゃらしの方へ向けられる。

「まあ、おまえも考えるところがあるのだろう」

 一転、明るい声でラファエはそう告げた。

「だったらゆっくりと考えれば良い。即位式はまだ二日後だ。市井への披露目もな。それまでおまえはこの城にいるのだし、暫くは自由にしていればいい。考えが纏まったら私の元に来てくれよ」

「はい。知らねえモンを知ってるたあ言えませんが」

「ふふ。そうだな! ではもう下がってよいぞ」

 ラファエの顔に爽やかな笑みが浮かぶ。それを見て猫じゃらしは一礼した。

「ああ、そうだ。猫じゃらし」

「はい?」

「どこへ行ってもいいが、北の庭には出るなよ。私の寵姫たちが住む塔があるんだ。なので絶対に北の庭に出てはならない。私はやきもち焼きだからな!」

 猫じゃらしが振り向くと、ソファから立ち上がったラファエが耳から耳まで笑っていた。それを見て、猫じゃらしもからりと笑う。

「そりゃあまた! わかりました、もちろん、肝に銘じておきます」

「ああ。では滞在を愉しめよ!」

「はい! ありがうございます」

 こうして二人は笑顔で別れた。

 木造の巨大な扉を出た猫じゃらしは、そこにいた見張りの兵士たちに会釈すると、長い通路を歩き始める。

 吹き抜けの窓からそよぐ風が、簪を失った猫じゃらしの銀色の髪を揺らす。それを掻き上げ、じぶん一人だけの足音が響く回廊を歩きながら、猫じゃらしはひとつ息をついた。

「……あー、肩凝っちまった」

 片側に倒した首から、こきり、と音が鳴る。

 で。

 北の庭はどこにあんのかな?



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