31.
二年前か、三年前か。
ずぼらな本質が祟って正確な日付けは思い出せないが、冬だった。暖炉の炎が暖かい私室。王の私室にしてはあまりごたごたしていない。生活感のある家具だけが置かれていて、事務的ではないが、どこか書斎のようなイメージがある。
「猫じゃらし、猫じゃらし」
深刻げな顔で、グレン国王が切り出した。
珍しくオツムを使っている顔だ。
「ごめんね。君に、またひとつお願いがあるんだ」
猫じゃらしは、目を細め、キセルの煙を吐き出した。
死神が死んだ。
レオナートが死んだあと、こうして、猫じゃらしの元に積み上がっていくものの重さと速度はずいぶんと増した。二人が一人になったのだから、ごく自然なことだ。
すう、と細く煙を吐き、猫じゃらしはうなずいた。
一見気怠そうで、表情も動いていない。
しかし、国王は感じることがあったのか、ひどく嬉しそうに破顔した。
「ありがとう、猫じゃらし。大好きだよ」
「うっせえ」
「でもほんとうだよ」
「解ったっつってんだろうっせぇな! 用はなんだよ!」
「そんなに怒鳴らなくても」
「俺はあんたが嫌いだ」
「…………」
「え、お、おい、……な、泣くこたねぇだろ……」
そろそろ歩くのも億劫になってきた頃、猫じゃらしと案内人の進行方向に、派手な色彩が弾けた。
まず目を焼いたのは真紅。ローブだ。同じにまっかっかの腰紐が回っている。が、回っているだけというのか、わざとか何なのか、ギョッとするほどに肌蹴けていた。おかげで、胸元はすっかりと開いている。
髪の色を意識したのか、漆黒という珍しい色の珠を繋いだ首飾りが、白い地肌に光っていた。肩には、極細の金糸を編んだような眩ゆい黄金の肩掛けが、ギラギラと存在を主張している。
下は、意外にあっさりとしたシャープな型のズボン。だが色は最悪だ。まったく均一性の無い濃藍色。こちらは瞳の色を意識してのことかもしれない。しかも、白鳥の翼の如くまっしろな膝丈ブーツを履いている。ついでに腰にはプリーツベルトも回っていた。巻きスカートにも見えるような斜めにかかっている。こちらは、黒と赤のチェカード模様。
当然、その漆黒の髪にも装飾があった。白金の鎖だ。そして、水晶珠が、精微な編みこみになって短い髪を飾っている。
「猫じゃらし!」
さすがの猫じゃらしも二の句を告げなかった。
傍で甲冑が擦れあう音がして、正気に返り、半ば反射的に跪く。
ブーツが石畳を打って、冷たい音が反響した。ずんずんと色は近づいてくる。まだまだ危険なほどに近づいて、その、よく解らないヘビみたいな型の純金の手輪を嵌めた、はだかの腕が伸びて――。
「久しいな! 会いたかったぞ、猫じゃらし!」
――声低いな。
それが、服装以外のことで漸く捻りだした感想だった。
育成所のガキが男に成熟していく過程を猫じゃらしは見飽きるくらい見てきた。一瞬、そのときと同じような感慨が猫じゃらしのなかに奔った。
だが、その暖かさは一瞬のことだ。
どん、と背中を叩かれて、抱擁はとけた。
ずいぶん鍛えた腕だ。仕草がいちいち力強い。
……割れたハラも丸見えだが、いいのかそれ。
「ここからは私が案内する。レ―ゼル候、さがってろ」
「御意」
そうだ、そんな名前だった。
主が平民の前で腰を低くしたことには何ひとつ触れず、黙ってレ―ゼル候は礼を取り、甲冑の靴の足音を響かせて歩み去る。
目の前の気配が立ち上がる。
そのときになり、猫じゃらしは口上した。
あまり呆気にとられるとか、虚を突かれるとかいうことが猫じゃらしにはない。いや、あるかもしれないが、殆どの場合、表に出ない。
だが、このときばかりは、少しばかり出遅れた感が否めなかった。
「王子殿下におかれてはご機嫌麗しく」
「……ああ、おまえも元気そうで何よりだ」
ラファエが答えた。だが、まだ何か続けたそうな感じがする。敬礼のまま、猫じゃらしは待つ。
「急な呼び出しに応じてくれて、ありがとう。嬉しく思う」
「光栄です」
「他の者はもう揃っている。なに、そんな堅苦しいものではない。昼食を交えての雑談会だと思えばいい」
なんだ、またビリケツか。時間より早く来たのに。
「お待たせして申し訳ありません」
「おまえは遅れてはいないよ。諸侯らは以前より呼びつけてあったのだ。二週間ほど前か」
二週間前。
グレン国王はそんな前に死んでいたのか。一瞬そう思ったが、そうとも限らないと考えた。国の重役たちはグレン国王の病の床に集っていたのかもしれない。
「おまえも堅苦しくしなくていい、ん、猫じゃらし?」
……顔が見えないせいか、以前との声の変化がより顕著だ。
七年。猫じゃらしはその月日をほんの少しだけ想う。
喉と、声帯が造り替えられるにはじゅうぶんな時間。
「身に余る光栄です」
――だが、「忘れる」には、足りない時間。
「堅苦しくするなって言っただろうに……顔を上げよ。猫じゃらし」
猫じゃらしは目線を最後まで床に残したあと、顔を上げた。この程度の作法はわかっている。
ラファエは少し苦笑した。
その顔つきは面影がある。
そう思った。濃藍の瞳は無邪気だった。
「すまんな。こんな恰好で。それがな、諸侯らに贈り物をされていたのだ」
「贈り物、ですか」
「そうだ。ああ、立ってくれ」
猫じゃらしは言われた通りにする。
「この絹の夜着は、軍部知財長官のシュナイダーという男の贈り物でな。彼はナカールの領主でもある。こっちは防衛省のガンナル候がくれたもの。このベルトは、どうやら私用というわけでもなかったようだが、南の厚生労働部の長官、ヘンゼル候に渡されて……」
低く、よく通るおおらかな声だ。それが、聞く傍から忘れそうな難儀な単語ばかり、淀みなく並べていく。猫じゃらしは黙って聞いていた。今回の国会に出席する面子なのだろうと猫じゃらしは理解した。でなければ、こうしてラファエが説く理由がない。
「誰か一人の贈り物を纏って会議に出れば角が立ってしまうし、……だが、諸侯たちの私に対する印象はそれぞれで少しばかり違っているようだ」
ラファエはまた小さく苦笑して見せた。
ちぐはぐの自覚はあったのか。というか、贈り物はぜんぶ着ないといけないのか。重役に気を回してやるのか。忠義? 王子とはそんなものか。
「で、おまえは私に何をくれるのだ」
え、そこに繋ぐのか。
「恐れながら、何も持ってきてません」
「そうか。ふうん、正直な奴だ。急な使いだったからな。仕方ない」
特に残念がった風はなくラファエは猫じゃらしを見る。
猫じゃらしも微笑む。
王宮に招かれて、何か手土産を持って……もとい、献上品を用意するべきだと思わなかったわけではない。思った上でのことだ。詰問するなら別にそれでいい。
だが、次にラファエが取った行動は、少々猫じゃらしの予想を超えた。
「では」
二度目に抱きつかれた。
ように感じた。野郎に、しかも半裸の野郎に密着されるのはいい気分ではない。相手が相手なので、猫じゃらしは軽く身を強張らせただけに耐えた。
ゆっくりとラファエの手が猫じゃらしの頭を触る。
――背も、伸びた。
じぶんとあまり変わらなくなった。いや、まったく変わらない。計ったら微塵の差異なく一致する背丈かもしれない。
おかげで、まっすぐ目線があう。
ラファエの目は、透明感を放って、あの、七年前の森のなかと変わらない、澄んだ輝きに満ちていた。それが一層力強い。眼力というのか、そういうものの厚みが増した。月日に蓄積した貫禄と、自信に裏打ちされた、男の目だった。
ちっちぇえ、それこそ、あのアウリスと変わらないガキだった。いくつだっけ。アウリスより上だったはず。で、リシェールより年下で……。
「これをいただこう」
ひやり。
何かが頬を撫でる。
ついで、はらりと己の髪が猫じゃらしの半面を覆った。遅れて目線をやると、王子は猫じゃらしの髪かざりをローブの襟に添えた。
「美しい。嬉しいぞ、これで国会議の全員から贈り物をもらった。どう思う? 私に似合うか」
――げ、わりと気に入ってるやつじゃねえか。
それは、黒漆の一本だった。雛菊と、水晶のような翠の珠の飾り。
「はあ」
「そうか! 姿見があったらよかった、母君にも見せたい、きっと喜んでくださるだろう!」
ラファエは朗らかに笑い、唐突に猫じゃらしの肩を抱いた。
「さあ、参ろう! 今日は祝いだ、おまえ、猫じゃらし、酒は飲むか? 会議などといって結局酒を浴びながらほうほうが自慢話をするだけだろう、そんなものだ。なあ?」
「……はい」
……こいつバカか?
ただのバカのマザコンか。
豪気な大股で。飾らない表情で。ラファエは口を大きくあけて笑う。その彼に猫じゃらしは半ば引きずられるようにして歩いた。
元々、知った仲ではなかった。
言葉を交わしたのも一度きりのこと、彼がもっと少年で、そして、じぶんがもっと優柔不断で愚かな若さを持っていた頃のこと。そのときのイメージと少々違う。それもある。
だが、どう取り繕っても、これは、二日後に即位式を控えた国の第一子の風体ではない。
短い再会。
五分にも満たなかった。
だが、その短いなかで、猫じゃらしは、ラファエという一人の男が、一気によくわからなくなった。
円卓会議は、文字通り、円卓を囲む部屋だった。
椅子がぐるりと並んでおり、そのものにはすでに白いテーブルクロスがかかっている。諸侯たちは各々壁沿いに佇んでいた。石造りの間取りはなんとなく円いようだ。
「ワインは!」
ラファエが痺れを切らしたように命じた。苛立ってはいないが、どこかソワソワしているようだ。楽しんでいる、という風でもある。
王子の登場を待っていたのかと思ったが、今なお誰一人座ろうとしないので、猫じゃらしはそのへんに突っ立った。
どこかでいい匂いがしている。そういえば昼食が出るのか。あまり食い意地が張っている方ではないと思うが、少しばかり儲けた気分になる。王城の飯って何が出るのだろう。
「みなみな、集まってくれて嬉しく思う」
ラファエが始めると、諸侯たちの姿勢が見るからに凛とした。
諸侯はぜんぶで十五人。どれも見知らぬ顔だが、おそらく、いや確実に、猫じゃらし以外、全員貴族だろう。
しかし、と猫じゃらしはこっそりと視線を走らせる。
……いねえじゃねえか、化け猫女。
ラファエの「母君」はいらっしゃらないらしい。サラン王妃は国会議には出ないようだ。
グレン国王が死去した今、王妃はこういった格式に姿を見せるものと思っていた。特に、今回は王子の、つまり彼女の息子の即位式を控えた直前の、大切な会議のはず。
女の身では表立って動けないのかもしれない。
諸侯らも特に気にしている様子はない。このあたりは一介庶民の猫じゃらしには計り知れないことだ。一方で、彼女が政治に聡いことを理解している身としてはやはり、少しばかり不自然とも思える。
気を逸らしているあいだにラファエの挨拶は終わっていたらしい。
「では盃を!」
給仕たちが忙しく動き回る。
上座の方で、ラファエはワインの瓶を頭上に翳した。
「このことを知らぬ者もいるであろうが」
そういって、猫じゃらしの方をまっすぐ見た。猫じゃらし以外は既に知った話らしい。だが、嫌味ではない。むしろ、その瞳の輝きは澄んで、贈り物が嬉しくて見せびらかす子供のような気配が伝わってくる。
「これは北方のジークリンデ領より取り寄せたものなのだ。あそこはここ十年近くレ―ゼル候が繋ぎとなって治めている。ジークリンデの家が没落したのち、哀しい事だが、なかなか領主が決まらなくてな。先の領主が万人を逸する有能な男であったのがひとつ大きく原因である。どうにも……レオナート=ジークリンデ候ほどの男はいなくてな。少なくとも、父王……グレン国王にとってはそうだったらしい」
心臓が冷たくなるのを感じる。
レ―ゼル候。あの案内人。
これはラファエの画策か? それとも偶然そんな曰くつきの貴族を案内人に任命したというのか。
「まあ、そんなことは今はよいか。国会議においては西方の二―ゼル領の葡萄酒を嗜むのが恒例なのだ。だが、残念なことに今回はそれが出来なかった。二―ゼル領の当主、アルベルト=二―ゼルの汚職が明るみに出たことが原因だ。候は八日前に王の謁見の間にて処刑された。そのような経緯があり、これは今私の手の中にある」
ラファエは酒瓶を手繰り寄せて眺めた。
「ジークリンデ領から取り寄せて、ここ六日、城の地下のパンテリーで丁重に保管されていた。よく冷えている。此度の国会議では古き酒ではなく、こちらの、新しい酒を振る舞おうと思う」
蛇の手輪がちかりと光った。
ラファエは、テーブルの上に一列に並んだグラスに、手づから酒を注いでいく。
部屋は静まり返っていた。諸侯らにとっては初耳ではないだろうし、その二―ゼルなんちゃらが処刑されたことも既に知っていたにちがいない。表情も変わっていない。
だが、明らかに緊迫している。
二―ゼルの処刑の話が出たせいか。それとも、「古き酒」と「新しい酒」の言葉の裏を図っているのか。それとも、何か別のもののせいか。
「さあ、どれでも好きなグラスを取ってくれ」
猫じゃらしは、平静を偽り、他と同じに食卓の方へ近づいた。諸侯らのように、ここ数日、この城に滞在していたわけでもない。いろいろ勘ぐったって今はまだ何も見えない。
「猫じゃらし」
手のなかのグラスから目線を上げた。
一瞬で周りの視線が猫じゃらしの元に集まっていた。
嫌悪。好奇心。困惑。懐疑心。
そんな様々な、不愉快な心の揺れが諸侯らの目に宿っているのがわかる。猫じゃらしは一度悟られない程度に息をつく。そして、まっすぐに上座の方へ歩いた。ラファエは悪戯げに笑んだままだ。
「そんな隅っこで何をしている。みな、まだ紹介していなかった。この者は私の古き友人でな。ヴァルトール王国の傭兵団黒炭の幹部なのだ。翠の傭兵の名を知る者も多いかもしれない。それか、ラーケンブラの娼館の主、と言った方が解るか」
王子の冗談に誰かが笑う。ラファエは歩み寄り、猫じゃらしが少し風下に立ち止まっていた手前で佇んだ。
「急な呼び出しに応えてくれてありがとう。こんな場まで……無理を言った」
「いえ」
更に数歩、ラファエが近づく。その盃を持つ手が伸びて、猫じゃらしの盃を持つ手と交差するように腕を絡めた。
思わず微かに息を呑む。
ぐい、と、唇に固い物が押しつけられたからだ。ラファエは彼自身の盃を猫じゃらしの唇にあて、猫じゃらしの目を覗いた。笑っている。
「さあ、みんな、乾杯しよう!」
おお、と歓声が上がる。
高らかな宣言に、一同が同時に酒を煽った。あちこちでグラスを打ち合う音が上がる。葡萄酒の甘ったるい香りが満ちる。
躊躇う暇はなかった。
猫じゃらしは己の手のグラスを持ち上げて、ラファエに呑ませた。同時にじぶんも呑んだ。
ツンとした酸味。
木樽の香り。
葡萄酒の、まだ新しい味付けはサラサラと喉を越していった。
盃をすぐに置き、ラファエは、ぱんぱん、と頭上で二度手を叩いた。
「料理を!」
え、もう食べるのか。
円卓会議が始まってからまだひとつも何も話していない。
思わず周囲を見回すと、諸侯たちのなかには少しばかり戸惑いが見えた。だが皆黙ったままだ。猫じゃらしを見る彼らの目には少し険を感じた。ラファエが今よくわからないことをしたせいだろう。
ラファエはもう上座の方で席についていた。満足げに腕を組んで、開いた扉から数人の女たちが料理を運び入れる方を、黙って鑑賞している。
猫じゃらしは少しのあいだラファエに視線を留めたが、やがて逸らした。
こんなものか、と思う。
だが、今はなにか重要な課題が山積みのはず。知らないが。人をわざわざ遠い南の領土から呼び出しといて、ただの顔合わせ? ラファエが言ったとおり酒の肴か? じゃあ何の為にやるんだ。
料理が、白いテーブルのうえに一つ、一つ、丁寧に並んだ。皿は、どれも違った料理で、あたかも飯屋に行ってそれぞれが好きに別々のものを頼んだかのよう。これもまた猫じゃらしには不思議だった。
なにげなく給仕の方を見て、猫じゃらしは思わず目を見開く。
料理を運ぶ女たちはみな当然のように粒ぞろいだ。長袖の慎ましいドレスを着ていた。ついでに襟ぐりもレースで詰めてある。猫じゃらしにとって少々面白くなかったが、だが、そのなかの一人に、猫じゃらしの視線は釘付けになった。
すぐ我に返り、さりげなさを装って料理の方を見つめる。
こめかみが熱い。
――見つけた。
目の奥で、その姿はまだ見えている。
噂で聞いていただけの姿。見たことも会ったことも当然なかったが、母親と同じ、花緑青の色の瞳と、ブルネットの髪だと知っていた。それに、まるで会ったことがあるかのようだ。
笑えるくれぇ似てやしねえ、面白ぇ……。
リシェール=ジークリンデ。
あの女だ。まちがいない。六つ年上の、アウリスの姉。
まったくアウリスに似てない。だがどこか似ているのかもしれない。そうでなければ、こうして一目見て確信しなかったはずだ。
猫じゃらしは静かに息をついた。
胸に、安堵が満ちる。
とりあえず、無事だった。
召使い同様に料理を運んでいることは謎だが、生きてはいた。ここ数年、王宮の情報は入りにくくなっていたので、女の方のこともふわふわしたままになっていたのだ。
女たちは料理を並べ終え、何故か壁際で突っ立った。
ラファエが椅子を立って、テーブルの上に大手を振った。
「では冷める前にいただこう。諸侯の口に合うようにと様々なディッシュを用意した。好きなものを選んでくれ」
「……ラファエアート殿下」
「なんだ」
一人の諸侯が遠慮がちに声をかけた。
「殿下、……失礼ですが、円卓会議の手前、先に人払いをなさった方がよろしいのでは」
「人払い? ああ、あれらのことか?」
ラファエは壁際の方へちらりと目をやった。
「べつにいてもいいだろう。女がいなければ誰が諸侯の口を拭ってくれるのだ、それとも、私にそれをしろと?」
「そ、そういうわけでは」
「はは、仰る通りですな!」
諸侯が怯み、別の誰かが横やりをさした。
「それとも何か? 民草の耳に入れられぬような事をここで討議するつもりであったのか。トアード候?」
「ガンナル候」
「それはか弱い女子供に聞かされぬような話ですかな?」
「……そのような意味はない。国会議は、王と、その重役の内輪で行うことが通例であろう」
「まあまあ、お二人とも。よいではないですか。さあさ、料理が醒めてしまいます」
また別の諸侯が割り入る。二人の男は僅かに睨み合ったが、そこに澄んだ声がかかった。
「面白いことを言う、二人とも」
「殿下」
ゆったりと椅子に腰下ろして、ラファエはくくっと楽しげに笑った。
「王と、その重役で行う会議か。だが「王」は今日ここにはいない。ちがうか、トアード候?」
「……仰る通りです、殿下」
「ああ。それに、ガンナル候。民草の耳に入れてはならぬ、と言ったが、どうだろう、あれらは私の寵姫である。後宮の設計を引き受けてくれる予定のおまえだ、知らぬはずないだろう。ただの民草ではない。あれらは私に次ぐ身分だよ。今のところはな」
「……も、申し訳、ありませんでした、迂闊な発言をいたしました」
見る見る蒼褪めて男は口早に謝罪する。もう一人は頭を下げている。
猫じゃらしはさりげなくそちらを盗み見た。
興味深いものを見た気分だ。媚びへつらい。また誰かは眉をひそめ。誰かは仲介し。思ったよりもバラバラの面子ではないか。最初に部屋に入ったときは部屋は一貫していたように思えたが、水面下ではなかなか底知れないもの。
……しかし、後宮か。
そんなものは今現在ここにはない。たぶん。グレン国王はそういったことをしなかったのだ。ラファエが王になると一から建てるのか。なんて羨まし……もとい、血税の無駄遣いか。
リシェールもそこに入る予定か。
ずきりとこめかみが脈動する。
猫じゃらしは、ひとつの皿の方を見て、他の諸侯らも料理を選びにかかっているなかで、フォークを手に取った。先程、たぶんリシェールが運んできたものだ。
出来れば今すぐに彼女の元へ行きたい。
だが今はまだだ。方法は考えてこなかったわけではない。
今後機会を作る。
猫じゃらしは深く息をついた。
食事は静かに進んだ。時折雑談が交じったが、出鼻のことがあったせいか、誰もがどこかギクシャクして、遠慮がちに口を閉ざしているように見える。
「食事はどうか?」
王子が問いかけ、諸侯が口々に賛美する。
国の重役の会食だから厳粛に、といった感じとも違う。やはり何かが引っかかる。
グレン国王が生きていた頃はどうだっただろう。
猫じゃらしはふと思った。こうしてみんなで食べたのか。この面子でよく食卓を囲んだのだろうか。
グレン国王はずいぶんと気質の穏やかな男だった。彼は「人徳の王」だった。この場もまた、彼の喪失をいかな形であれど、感じているはずだ。
彼との国会はどんなものだったろう。
「その梨のラーゼと一緒にワインはいかがか?」
「あ? いえ」
声をかけられて少し驚きつつ、隣の諸侯に首を横に振る。諸侯は事務的にうなずいて、すぐに食事に戻った。
猫じゃらしもフォークを進めた。料理は素直に満足な質だった。子豚の甘煮も梨のラーゼもなかなかおいしかった。というか今まで食べたなかで一品かもしれない。だが、まあ、王城だしな、という感想しかない。
そういえば、最近デルゼニア領でもラーゼを出された。
思わず猫じゃらしは唇が緩む。
そうだ。
あれだ。レモンラーゼ。猫じゃらしはレモンなどというゲテモノは当然口にしなかったが、あれはきっと、彼女の報復だった。解っているので当然食べなかったが。
なんとなく、あの酸っぱ甘ったらしい独特の香りを思い出して、少しばかり胸が締めつけられた。
「……ですか、ではサラン王妃は御健壮のことで」
その単語が猫じゃらしの回想を切り上げた。
猫じゃらしは目線を上げた。諸侯の誰かが王子と雑談している。
「ああ、そうか。……まだ、おまえには話してなかったか」
じぶんだけではない、食卓の注意がラファエの方へ向いた。何か考えるようにラファエは皿を見た。こんがりと焼けた肉が彼の前にある。牛、ではない。似た色だ。羊肉だろうか。
「そうだな。ヘンゼル候、エドニア星座の神話を知っているか?」
「は、神話ですか? それは、有名な話です」
「そう、エドニア姫は、自国を侵略され、父と母を火あぶりにされて殺された。あまつさえ、その美しさが祟り、敵国の王に目を付けられて、彼の元に嫁がされることとなる。……敵の王はエドニア姫を愛した。だが、二人の結婚には問題があった。エドニア姫は何を見ても笑わないのだ。王はどうすれば笑ってくれるのかと彼女に聞く。すると、彼女は言った。遠い彼方に棲む魔物が見たい。そして、……王は、国の資源全てを費やして魔物を捕えた」
誰かが身じろぎした。居心地の悪さに流石の猫じゃらしも目を逸らした。食卓は静まり返り、カトラリーも止まっている。
そんななか、ラファエは雑談相手の諸侯をじっと見た。責めるようでもない。脅すようでもない。ただ、何か底知れない意図を孕んだ笑み。
「知っているか」
「は、はい?」
「一説に、エドニア姫が手元に置いた魔物は猫の化け物だったというのがある。王妃は化け猫の子をその身に宿したのだ。化け猫と人の混血だ、どんな姿か。どんな醜いものか。私には見当もつかないが」
「はい、私にも、まったく……」
「そうだな。少し喋り過ぎた。おまえは何を聞いたのだったか、ああ、母君だ、そうだ、母君は最近体を壊されてな。療治の為に少し離れた搭に入っていただいている。まったく痛ましいことだ」
「……療治」
「そうだよ、なんだ、ヘンゼル候」
ラファエは首を傾げた。
一瞬。
その目の温度は零下を覗いた。
「サラン王妃は化け猫女ではなかったということだ。おかしいか?」
変化は、猫じゃらしにもすぐに知覚できなかった。
次の瞬間、王子が見えなくなった。
ヘンゼル候が立ち上がったのだ。
ヘンゼル候は、二、三歩とたたらを踏んで後退した。ラファエが彼の方を見上げている。
猫じゃらしが見たのはそこまでだ。
食器がけたたましい音をたてて割れる。どこかで女の悲鳴が上がる。猫じゃらしのすぐ隣に座っていた男が、テーブルの上でナプキンを握りしめて荒く呼吸した。強く。ナプキンに皺が寄る。
目が血走り、唇が紫色に変色していて、わななく。
ただ事でない様子に猫じゃらしは素早く席を立った。
手は反射的に腰を探る。愛剣は無い。正門に置いてこさせられた。
目の前で、男が吐いた。
血。
顎が砕けたように、口はおおきく開いた。そこからは大量に血が迸った。白いテーブルクロスが真紅に染まる。
猫じゃらしは鋭く振り返った。
なぜかはわからない。だが、何より早く、まるで当然のように女の無事か否かを確認した。
リシェールはこちらを見ていた。いや、目は合わない。見ているのは横の男の方。周りで騒がしく女が悲鳴を上げたりうずくまったり、走ったり、卒倒したりとしていた。そんななか、リシェールはまっすぐに、惨事を見つめていた。
長い睫毛が慄く。
彼女は、猫じゃらしを見た。
まっすぐ視線が合う。その瞬間、頭のなかで何かが弾けた。
――何の為の会議だ。
己の言葉が頭の中で警告音を鳴らした。
今までの違和感がはっきりと形をとる。
猫じゃらしは視線を走らせた。ぼろぼろと人が倒れている。一人や二人という数ではなかった。その、目の前を赤く染める大惨事の主犯を、彼は振り返った。
ラファエは立ち上がっていた。
食卓のあちらこちらで呻き声が上がっていた。彼は、その一人の元に歩いて跪いた。彼の一番近くにいたヘンゼル候はすでに床上で仰向けになっていた。顔中が血の泡だ。もう絶命した後だ。
「……王、子」
ラファエに片腕で支えられて、その男は、息も絶え絶えに、彼の方を見た。その目は充血し、今にも赤く溶けだしそうになっている。
「……ミハネ、王国、に、ヴァルトールを明け渡す、おつもりか」
「まだそのような迷妄を口にするのか」
背を向けるラファエの表情は見えない。悲しげな口調で言い、血が服を汚すのを構わずに男の体を抱えた。
「オーネル候、……何という事だ。……すまない、あなたは勇敢な、そして聡明な男だった。七年戦争時代より父を支えてくれていた。あなたのその知財を私の国にも貢献していただきたかった。あなたのお蔭でこの国の今がある、ありがとう、オーネル候……」
ありがとう。
言葉が尽きる頃にはもう男は絶えていた。
彼が最後だった。室内は静まり返って、すすり泣く女たちの声だけがしんしんと積もっている。
やがて、ラファエは男を冷たい床に横たえた。
「……不祥事が起こってしまったようだ。この私の城で……、この円卓で」
ゆっくりと頭を振る。そして、一転、立ち上がり、厳しい声で扉を振りかえった。
「誰かおらぬか!」
「は」
扉が開き、警備兵が数人現れて、膝をつく。
今までずっとそこにいたのだ。
だが現れなかった。このときまで。
それに気づいたのは恐らく猫じゃらしだけではなかったろう。
「見たとおりだ。これはおそらく毒物。何者かの計画的な反逆行為、それ以外に考えられぬ。女たちをただちに部屋の外へ。厨房の者を集めよ。いや、此度の会議に関与した人間すべてだ。一人も漏らすな」
警備兵たちは誰一人声を発しないまま速やかに行動に移った。
猫じゃらしは背を押されるようにして連れ出される女たちの方を見た。なかには気絶したまま甲冑の腕に抱えられている女もいる。リシェールは振り返らなかった。
凍てつく沈黙のなか、ふと衣擦れの音をさせ、ラファエは開いたままの扉の方へ向かおうと踏みだした。
唐突に、時計の針が動く。
「殿下! お待ちください!」
「そ、そうです! 供もつけずに出歩いてはなりません!」
「これは殿下を狙った画策やもしれません。危険です、殿下!」
諸侯らが我に返って、ラファエを引き留めようとする。
我先にと競うように。忠義の為に。証明の為に。
彼らは、部屋で起こったすべてのことに、目を瞑った。
保身の為に。
ラファエは、振り返り、彼らにひとつ首を振る。
「惜しい者らを亡くした。……少し、疲れたのだ。部屋へ戻る」
「しかし、殿下!」
「それに一人ではないよ。猫じゃらし」
「……はい」
唐突に声をかけられ、一瞬身が強張るのを隠す。
「一緒に来てくれないか」
ラファエは猫じゃらしの肘のあたりに触れた。黒い睫毛が少し上向く。その瞳は獣のように大きくなり、猫じゃらしの像を捕えていた。
「おまえに……貸していたものがあった。私のものだ、あれを、そろそろ返してもらおうと思う」
ひやりとしたものが伝染した。
かろうじて猫じゃらしは彼を見返す。
――毒殺はこいつだ。
まちがいない。特定の人間を狙ったのだ。
だが、どうやって? これでは辻褄があわない。毒は一応得意分野だが、頭のなかで何度再生しても、その方法が浮かばない。
血濡れた部屋は、すでに嫌な匂いを染み出しはじめていた。死体は汚物のように転がされたままだ。十人となった諸侯たちは初めラファエを止めようと縋ったが、やがて諦め、意気消沈したように黙りこくった。
延々とした静けさだった。
その激しい違和感を抱いたまま、猫じゃらしはラファエの先導に続き、場を後にした。




