30.
きつい陽射しに黒い髪が透けていた。
陽射しのせいか、髪の煌めきのせいか、ひどくまぶしい。頭上には葉が覆い茂っている。色が透けているのか、陽射しと黒い髪は、少しばかり翠がかって見えていた。
「俺は生まれながらの次代の王だ」
白い手袋をした手のひらを青空の方にやって、少年は笑った。
「そして、俺はこの大陸を治める覇者になる」
最初は何の匂いだかわからなかった。
苦い。ツンと鼻の奥が痛む。薬草だろうとわかったが、何の薬草かは解らない。様々なものを調合したのかもしれない。でも懐かしいような匂いだ。
うっすらと目が開く。
赤い灯り。
焚き火だ。めらめらと燃えている。火の粉がバチバチとうるさい音をたてている。よく音が響くのは閉めきった場所にいるせいか。
炎に、くっきりと、黒い人影が映し出されていた。ゆらゆらと壁いっぱいに揺れている。
壁は岩肌。
薄暗い。屋内かと思ったけれど、ちがうのか。ここはどこだろう。
「おはよう、アウリス」
火の傍で、名無しはあぐらをかいていた。こちらを見ていない。火を頼りに、右手の短刀で、膝のあいだに置いたすり鉢のなかを掻き回している。その両手は包帯が巻いてあった。アウリスは目を凝らしたが、他には特に外傷はないようだ。
「声、出る? あ、体は起こさない方がいいよ。動けないと思うから」
ずりり、と包帯の手が止まる。
アウリスは睫毛を持ち上げようとした。
ひどくだるい。さっきから体に違和感があった。感覚はあるのだが、手足がどうにも動かないのだ。
重たい。そういう気分になっているのか、体がなにか物理的な拘束をほどこされているのか、それすらわからない。
「……ここ、は?」
「定番の洞窟だよ」
「ど……」
アウリスは、ん、ん、と苦労して小さく喉を鳴らした。声がおかしい。じぶんの声ではないみたいだ。
「猫じゃらし、は?」
「人のことより自分の心配したら? もう半日以上寝てたんだよ」
「……寝てた?」
「うん。そのあいだに矢抜いといた。ちょっと時間が経っちゃってたから毒が回ったみたい。一応処置しといたよ」
「しょち」
「傷口吸っといた。毒が残ったらだめでしょ」
名無しの返答を理解するのに妙にラグがあった。思考がおぼつかない。
「……あぶないよ、そんなことしたら」
アウリスがやっとそういうと、名無しは少しばかりキョトンとする。
「怒らないの? アウリス」
「……? なんで?」
「ふうん」
名無しは作業に戻った。
ごーり、ごーり、と薬が潰される音が洞窟のなかに響く。アウリスはぼんやりと視線を動かしていく。光源は、小さな焚き火ひとつなので、洞窟のなかはほとんど暗闇だった。だが、なんとなく屋外で、なんとなくまるい空間という感じがした。
やがて、目が疲れてきた。
「猫じゃらしは?」
そっと、睫毛を下向ける。
「なあに」
「猫じゃらしは?」
声は、押して、押してしないと出てこない。
ん、ん、とアウリスは喉を鳴らした。
大地は、岩肌だ。ゴツゴツしていて、冷たい。でも、じぶんとのあいだには何か挟まっていた。それで少しばかり柔らかい。寝ているあいだに体温が移ったせいかもしれないが、冷たさも感じられなかった。
「ありがとう、助けてくれて」
アウリスはそれだけ言って目を閉じた。今は会話をするのが辛い。というか、ボンヤリしてよく理解できない。
ラーナたちはどうなったんだろうか。
猫じゃらしは……。
体がずんずんと真っ暗な微睡の重さに沈んでいく。アウリスはふと身じろぎした。何かの気配を感じた気がした。
ガンッ!
全く唐突に、耳元が爆発した。
ついでに頭上に影が差し、アウリスはほんの微かに眉を寄せる。とても大きい音だったし、いつの間にか傍に来ていた気配にもようやく気づいたけれど、でも、とにかくだるかったのだ。
「アウリス」
名無しは、アウリスの枕元に刺さった短刀を握った。
ギギ、と耳障りな音。そして短刀の切っ先が抜けた。
ぶちぶちぶちっ、と一緒に髪がかなり引っこ抜けたようだ。
「どういうつもり?」
ヒヤリとさせる声音だった。名無しがこんなに冷たいのは初めてかもしれない。ケムリモノの夜のときだって、こんな、一瞬で身が凍てつくような声はかけてこなかった。
アウリスは瞼を慄かせ、ゆっくりと持ち上げた。
驚くほど近くに、彼は見返していた。彼がしゃべると寝転がるアウリスのこめかみに彼の吐息があたった。
「君は死にたくなったの? 死にたいの? このあいだはあんたに俺を拒絶したくせに。今は死にたいの? じゃあ」
ちかっと、霞む視野になにかが光った。
アウリスはさすがに驚いて身を起こそうとした。それを阻んだのは、彼女の喉にあてられた、黒い短刀。
「体動かないでしょ?」
思わず息を呑んだアウリスを見て、くすくすと名無しは笑った。
「これ、見えるでしょ。意識があるまま、感覚が繋がったまま体が動かないってどういう感じ? 怖い?」
刃が思わせぶりに首筋を撫でていく。
愉快げに笑い、一転、深く、細くため息をついた。
「アウリス。君が俺を嫌いでもいいよ。俺から逃げたくてもいいよ。俺を許さなくたっていいよ。でも、俺のものなのに勝手に死ぬのは許さない。そういう逃げは許さない。言ったじゃない。君は俺が殺すって。だから、君が今日死にたいんだったら、俺が殺してあげる」
刃は音もなく喉の上を滑った。
「言いなよ。アウリス。君は死にたい?」
一瞬だけ。
名無しの口調は懇願していた。
「ねえ。アウリス……? 死にたい?」
アウリスの首に痛みが走った。
痛い。それに、冷たい。皮膚がちょっと切れた。それか、刀身一点に集中した殺意がそんな感覚を生んだのか。
アウリスは目を逸らすことはなかった。体はまだ動かない。でも、その違和感はすでにアウリスのなかで薄れつつあった。だからといって、落ち着いていたわけではない。
ただ、なんだかすべてが、遠い。
昔よくみた夢を思い出す。
陽射しの夢。まっしろな陽射しのなかで、みどり色の若葉の茂りがさわさわと揺れている、それだけ。
そんなだった。たぶん。施設より前のことで、つまりジークリンデの家にいたときにみていた夢だったのだろうけれど、今思うとかなり退屈な夢。
その夢と今は似ていた。
じぶんの体も、今ここにいる名無しも、突きつけられた短刀、流れ出る痛みと血、時間の流れ、名無しがかけてくる言葉のひとつひとつ、そんなぜんぶがひどく、途方もなく、遠いところにあるのだった。
幾ばかりが時間がたって、やがて、名無しがひとつ息をついた。
「アウリスは王様が好きなの?」
どっと、心臓が脈打つ。
アウリスは首を振ろうとした。でも体が動かないのを思い出させられた。けれど顔に出ていたのだろうか。
「ふうん」
目の前の顔がにい、と口を裂いた。
「それだったら悲しいね。王様はアウリスの大切なひとを傷つけた。君が見てる前で殺そうとした。それだけじゃない。君にも毒の矢を放ったね」
どくどくと耳の後ろに血が集まる。
名無しの声はいやに鮮やかだ。アウリスは耳を塞ぎたかった。身はこわばっている。一気に汗ばんでいる。
やめてほしい。
しゃべらないで。言わないで。
「王様は君を殺そうとしたんだ。今も、きっと、アウリスのことなんか、いなくなっちゃえばいいと思ってる」
アウリスは天井を見上げていた。
焚き火の陽炎で暗がりが赤っぽく染まり上がっている。その暗がりが揺れ立つ。涙は暫く止まらなかった。
「……ラファエさまは」
半ば無意識にアウリスは応えていた。
「見てた。こっち見てた。わたしがわかってた。……笑ってた」
その、黒い髪と濃紺の瞳をした面影が浮かぶ。
目の奥が痛い。
喉が痛い。叫び出しそうで、でも、その一千の言葉を、たくさんの声を、ひとつだって、どう言ったらいいかわからない。
届かない。
「ラファエさまは、わたしと猫じゃらしを切り捨てたんだ……」
わかっているのは、これだけ。
アウリスはラファエの七年間を知らない。彼の頭のなかは読めない。
ただ、ラファエが築く世界に、彼の世界に、アウリスと猫じゃらしは「いらない」。
それだけ。
「うん」
名無しは表情を動かさずにうなずいた。
「アウリス。君はかわいそう」
ようやくアウリスは目線を下らせた。名無しの手が布の奥に入ったからだ。その体温に、無造作にかけられた毛布代わりの上衣以外、じぶんが素っ裸だということに気づいた。
「ここ、アウリスの心臓」
名無しは目を細めた。
「鳴ってる。音がする。ねえ、アウリス」
「やめて」
「このまま破裂しそうだね」
手は意外にゆっくりと体の曲線を撫でた。包帯越しに、人肌の柔らかさを楽しんでいた。
逆に、その手はアウリスの心を冷やした。
……この男は、人の不幸に欲情している。
人の泣き顔に、人の剥きだしの感情の叫びに、興奮しているのだ。
彼自身のなかには無いものだからだ。
「――どいて」
悲しみに透きとおり冷えきっていた意識が、熱さに揺れうごく。
その手を止めて、名無しはアウリスを見下ろした。何を考えているのか、何を感じているのか、さっぱり解らない薄ら笑みを浮かべて。
アウリスは彼を睨み返した。
「どけ、名無し」
こんなやつに弱味を見せたりするものか。
ふつふつと怒りが湧きあがる。ついでに蹴っとばしてやりたかったが、体はまだ動かず、仕方なくアウリスは断念することにして、唯一動く瞼を閉ざした。
ぽろりと拍子に涙が零れでる。
ふと頭上が陰り、体に触れていた包帯が離れた。一拍おいて、同じ感触はアウリスの目尻を拭った。
「やっぱり放っとくんだった」
ごわごわと布が涙の跡をこする。アウリスがますます眉をしかめると、名無しの笑う声がした。
「毒、放っておけばよかった。わりと迷ったんだよ。だってアウリスはきっと全身不随とかになってた。一人じゃ何も出来なくなって」
「それのどこがいいんですか」
「いいよ。そしたら俺がぜんぶしてあげられる。どこへも行けなくなって一人ぼっちになったアウリスを、俺は、ずっと一生見ててあげるのに」
――粉屋の娘は、どうしてゆっくりと時間をかけて体を失っていくんだろう。
愉しげに言った名無しの口調は冗談か本気かわからなかったが、アウリスは寒気を覚える。全身不随になっていたかもしれないのだと気づいたからだ。
一度目を閉じたら当然のように襲ってきた、ひどい眠気のなかで、アウリスの瞼の裏にはいくつもの顔が浮かび上がった。
あの後どうなっただろう。広場はどうなったのか。ラーナたちはちゃんと逃げられただろうか。肉だんご、アルヴィーンも、小姓も。
「猫ちゃんは無事だよ」
目をうっすらと開けた。
瞼が冗談でなく重い。飛び起きたはずだったが、意識はまだ朦朧としているのか、アウリスにはじぶんの動作がひどく鈍く感じられた。すぐに頭も靄がかかってくる。名無しの顔もぼんやりなる。
「安心しなよ。そんなに心配しなくても、明日になったら俺が連れてってあげる」
彼は、枕元に手をついたままで、そっと短刀をアウリスのからだの上に休めた。
薬草のせいかもしれない。
感情の振れ幅がたいへんなことになっている。眠いし、辛いし、気づくとアウリスはまた泣けてきたらしかった。
名無しの親指がそろりと睫毛を撫でる。
抵抗する気力もなく、瞼は降りる。
「眠りなよ」
最後に見た、名無しの顔は、うっとりしているような、嬉しそうな、ひどく傷ついたような、微かな笑みを浮かべた顔だった。
「眠りなよ。明日起きたら、覚めない悪い夢が君を待ってる」
名無しがなにか続けかけた。
唇が触れ合う。
そのまま真っ暗になった。
願いごと。
そんなもの、ほんとうの願い事なんか、自覚している人間はほんとうは一人もいないのかもしれない。
珍しく時間より早く到着した。
王城には巨大な正門がある。それを潜ると、長く広く敷き詰められた、くたびれる石畳みの道を歩いていって、ようやっと建物の門まで来た。
そこで案内人の貴族が交代。
どちらも見ない顔だったので特にしゃべったりしなかったが、少し不思議には思った。
「ホルド候はお見えでないんですか?」
軽い感じで声をかけた猫じゃらしの方を、新しい案内人がちらっと見た。もう一人はすでに正門の方に逆戻りを始めている。今日は客が多そうだし、忙しいだろう。
「円卓の間までは、この私、レ―ゼル=エラキエル=アンソンがお連れする」
一瞬で名前は忘れたが、やはり会ったことがないことはわかった。
「ありがとうございます。お目にかかれて光栄です。……いえ、何度かここへお邪魔したことがあるんですが」
「お邪魔?」
「あ、失礼」
おじゃまって貴族語で何だ。お邪魔って敬語だと思ってた。ちがうのか。めんどくさい。
「……案内は常にホルド候が勤めてくださってたんですよ。ホルド候はご健壮か?」
猫じゃらしはさりげなく視線を周囲に巡らせる。
レーなんちゃらと連れたって歩いていると、他にもそこそこ異変が目についた。回廊には要所に警護人らしき騎士が控えている。それ自体は特に不思議ではない。今日は大事な円卓会議で、他所からの来客も多いはず。
だが、静かだった。
レなんちゃらに言ったように、王の居城に来るのはこれが初めてではない。というか、けっこうな数お邪魔していた。
以前は、あちこちに貴族らが雑談する姿があった。
笑い声すら時折聞こえていた。城の主の人柄のせいか、ここはいつも、人が集まっていて、活気があったはずだ。
ここ数日で何かが変わった。
グレン国王が死に、その後釜として、ラファエアートが玉座につくことになった。自然な流れだ。でも唐突だ。王宮はここのところ目まぐるしいことになっていたはずだ。それは解る。
だが、なにかが違う。
後からなら何とでも言えるが、猫じゃらしは、手前の正門で挨拶をされたときから、何かが気に障って仕方がなかった。ここにいる理由が理由だからそう感じるのもあるかもしれない。
七年の沈黙。
そこにきての、ラファエアート直々の国会議への誘い。
即位式の前のたいへんな時に、だ。
じぶんがカリカリしているだけならいい。警戒心がそうさせているだけなら。
「その名の男はもうここには居らぬ」
一瞬、何の話かわからなかった。
猫じゃらしが振り向くと、案内人は少しばかり考え込む様子をした。いかつい兜を被ってはいるが、目元の部分はあいていて、皺くちゃの眉のあいだに一層皺が寄っていた。
「ホルド候の名を出す者は、もう、この王宮にはいない。陛下の前でも口に出さぬのが身の為かと」
全身が粟立つ。
やはり勘違いではなかった。
ホルド候に何かあったのだ。本人は気のいい田舎モンのじいさんだが、グレン国王の代に国王に気に入られて、彼自身の居城の警備の要の指揮を任されていた。腹心と言ってよかった男。
その彼は今ここにいない。
そして。
猫じゃらしは微かに笑む。
「“陛下”……ねえ? ラファエアート殿下の即位式は二日後っつー話ですが?」
案内人からの返事はない。
だが機嫌を悪くしたのが早足になったのに伝わった。
グレン国王は死去した。それがいつだったかはわからない。王宮内の情報はもともと集めにくいが、今回はそんな重要な話に対して、お手上げ状態だった。
――王になる前から王気取りか、あのガキは。
むしろ、グレン国王がいなくなってからといわず、ここ数年、彼が病の床につき、猫じゃらし自身の足も遠のいていた、そんなずっと以前からのことだったかもしれない。
『何よそれ。ありえないわ』
ふと、なにげなくアウリスの言葉が浮かんだ。
『ラファエさまは国王さまを殺したりしない。ラファエさまはお父さまが大好きなのよ。そんなことするはずないじゃない』
くく、と喉が震えた。案内人が、胡散臭そうに猫じゃらしの方を見る。だが、猫じゃらしが軽く睨むとそそくさと彼は目線を逸らした。
――あんたが言ったとおりならいいがな、アウリス。
石の回廊を足音だけが冷やす。黙り込んで歩く二人のもとに、どこかで、何か大きな扉が開く音が筒抜けになって響いた。




