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2.


 肉だんごは本来、美男子の素質は備わっていた。

 冬の朝の薄くて透明な陽射しを極細の糸にしたかのような浅金の髪。アウリス自身は見たことがないけれど夢物語に聞く、涼やかな夏の海に似た青い瞳。奇怪な新陳代謝のメカニズムによって夏には頬の肉がごっそり削げて、綺麗な逆三角形の輪郭を露にさせる。

 返り血を半身に浴びた今なんか一層、漢が上がって見える。

「だいじょうぶ、アウリス」

 心配げに碧眼を揺らして聞いてくれるけれど、逆に少し退いてしまいそうだ。奇襲をかけられたことは過去に何度もある。なかなか場数を踏んで慣れるというものではない。自分がそういう性分だからかもしれないが、人の血を見るのは今でも苦手だった。香油を塗りかけていた手元まで凍ってしまっている。

 アウリスは肉だんごの正面に突っ伏した男の姿を見つめ、じぶんを落ち着かせる為に周りに解らない程度の小さな深呼吸をした。

 倒れているのは昼時に絡んできた男の一人だった。

 今朝、派遣先に到着してすぐ賊の一団を吊るし上げたあと、アウリスたち七課はひとまず現場に留まり、事の運びを見守ることになった。まだ賊の組織全てを潰せたわけではないし、先住民からの報告によれば賊に捕まった女子供がまだいるようなのだ。その人間たちを探す目処も立てなければならない。

 そこで、既に敷かれていた十二課の陣にお邪魔することになった。彼らは半年も前からこの界隈に駐留しているのだ。

 アウリスたち七課は派遣専門だ。長旅には慣れているし、自給自足する程度の物資は持っているが、何しろ今朝の賊との乱闘で疲れていた。人に世話になれそうならば断る理由もなく、即興の陣なので野宿とあまり変わり栄えしないが、自らで木を組み立てたり包み屋根を被せたりする必要がないだけでも大助かりしていたのだ。

 もちろん、それだけが理由ではなかった。

 じぶんたちに派遣の話がきた頃には既に、十二課には疑いがかかっていた。

 現場に出て半年で何の功績も挙げられないというのはおかしな話だったからだ。同じ黒炭の傭兵としてありえない。ただでさえ、巷の揉め事を解決したいときにだけ呼ばれるような荒々しい連中が、そのたった一つ自慢で磨いてきた腕で役に立てないなんて、変ではないか。

 だとしたら、答えはひとつ。

 十二課は賊に取り込まれたのだ。彼らは望んで仕事をしなかった。

「てめえら、……」

 弱弱しい声にアウリスは相手を見つめる瞳を細めた。

 地に伏せ、肉だんごに裂かれた手を逆の手で抱いて、男は解らないという顔をしている。

 そうだろう。酒に毒が入っているのを知ったときはアウリスだって驚いた。十二課は、夕食後に体の疲れが取れるとかなんとか言って七課が泊まっている陣まで差し入れをしにきたのだ。アウリスたちは喜んでそれを受け取ったが、結局呑まなかったのだった。

「七課は旅先で他人に施しを受けることもあるが、食うことはまずねえ」

 そんな言葉と共にふとアウリスの背後で包み小屋の布が揺れ、グレウが姿を現した。

 グレウは外の様子にずっと気づいていたのだろう。アウリスの手前には彼女と一緒に見張り番に立っていた肉だんご、その抜き晒された剣の先には腕を血まみれにして転がる十二課の男がひとり。そして、周囲には二十人以上の十二課の傭兵たちがいる。

 殺気だった彼らの目的は一目瞭然だった。十二課は全員集合して今夜ここで決着をつけるつもりだったのだ。

 次々に剣が腰から抜かれて金属特有の摩擦音が重なっていく。見えない糸が張り詰めていくような緊迫感の中を、グレウはそよ風でも受けているような気のない顔で歩み出た。

「十二課の皆さんよぉ、毒を盛るたあ芸のねえことしてくれたな。知らねえか? このヴァルトール王国には昔、大陸南方の騎馬民族が攻め入ってきたことがあったんだ。オツムは空っぽだが腕っ節は冗談じゃねえ化け物みてえな一族だったんだと。それでだ、そのときの国主は騎士を一人も犠牲にすることなく騎馬民族を追っ払った。……その頃、国内でひでえ疫病が流行っててな、その疫病で死んだ庶民の服や布団やらを剥いで、降伏の印だ何だ言って敵の猿脳に送りつけたんだよ。それで化け物の集団は全滅。……そういう教訓があんだ、戦地じゃあ毒に気をつけねえとならねえ事くらい、ヴァルトールの人間なら誰でも解ってんじゃねえの?」

(グレウ師団長……、その話、わたしの受け売りじゃないの)

 思わず内で呟くアウリスの頭の上に、土の詰まった枕みたいな重さがのしかかる。

「特に俺らは疑り深くてよ、自分らで作ったもんしか食わねえ。幸い料理しすぎて気づいたら毒通になってたこいつもいるんで。万が一何か盛られてもすぐに解んだよ」

「……人の頭を肘掛け代わりにしないでください、グレウ師団長」 

 アウリスはぶすっと文句を言うがグレウに無視された。グレウの横顔にはうっすら微笑が、邪鬼の化身みたいな、ど迫力の表情が浮かんでいる。それに圧されてか、十二課の人間たちはすぐに動くことをしない。

「いつから気づいてた?」

 十二課の師団長のライオンの鬣だけが冷静に聞いた。彼だけは余裕っぽい笑みを浮かべていた。この状況では己がまだ有利なのを理解しているのだ。

 七課は七人、対して相手は確か、二十二人。陣の北角のこの場には寝所がすぐ裏手にあったグレウ師団長、それに見張りの傭兵二人しかいない。明らかに人数で分が悪いのはこちらのように見える。

 グレウはアウリスの頭に肘をもたれたまま、一度鋭く薄暗がりを見回した。

「七課が何で派遣専門なのか解るか?」

 ライオンの鬣は閃いた顔になった。思案するように目を細めたあと笑みを浮かべる。侮蔑するような表情だった。

「ふん、審議会は元から俺らを疑ってたってことか。黒炭内部には叩きゃあ埃の出そうな課を潰して回ってる掃除専門の課があるっつー話を聞いたことがある。ただの噂だろうと思ってたが、それがてめえらなわけだ」

「かもな」

 グレウは相手の言葉に取り合わず静かに切り返した。

「んなことより今朝の騒ぎはありゃ何だ? 初日に賊の皆さんとご対面ってのはあまりに出来すぎじゃねえか。てめえらは賊が待ち伏せしてる場所まで俺らを誘い込んだ。そうだろ? 元々高飛びする算段だったのか?」 

(高飛びって……わたしたちを殺したあとにとんずらする気だったのか)

 アウリスは冷静に見せかけながら密かに動揺していた。

 アウリスはそこまで考えていなかった。今朝の一件では待ち伏せされていた節はあったが、まさか、あれも十二課の仕業だったというのか。だが、そう考えると辻褄は合う。

 じぶんたちは、黒炭の傭兵同士で完全に敵なのだ。十二課が賊と一緒になってきな臭い商売に足を突っ込んでいるのならば、自分たち七課を潰したいと思う。派遣二号は商売の邪魔にしかならないし、事実を暴露されれば己の身が危険だ。

 そこで彼らは、賊たちに襲われ七課は全滅したというシナリオを用意したかった。もちろん、黒炭は新たな派遣を寄越したはずだが、その前に姿を眩ます時間くらいはあったはずだ。もしかすると今日までに高飛びの準備を整えていたのかもしれない。アウリスは一拍おいて口を開いた。

「本当なんですか?」

 ライオンの鬣は初めてアウリスを見た。

「どうして賊と組んだりなんかしたんですか? 十二課だって今まではふつうに仕事してたんでしょう。何か、あったんですか?」

 アウリスには初めてのことではなかった。七課が「掃除係」なのは本当の話で、十三歳で育成施設を出てからはずっと同じようなことばかりやっていた。同じ面子で、黒炭内部で問題が起こるたびに仕事に出た。それが嫌な役回りだと思ったことはない。ないけれど、それでも迷うことはある。

「どうだろうな」

 ライオンの鬣が素早く目配せした。十二課の傭兵たちがアウリスたちを囲むように大胆に距離を詰めていく。

「もうわからねえよ、おまえらには」

 傭兵たちが一斉に斬りかかってきたのと同時に、薄闇から矢が放たれていた。

 味方の攻撃はかまいたちのような音をたて、鬱蒼とした木々のあいまや、包み屋根の上から降り注ぐ。矢じりは空へ弧を描くようにしながらかがり火の陰を過ぎっていき、十七課の男たちの腕や足首を砕き、動きを止める。

「な、なんだ……?」

 当然ながら予想していなかった十二課はひるんでいる。アウリスは香油に少し湿った手で剣を抜いた。

「言ったじゃないですか。土地の神様がいるって」

 神頼みではなくて、裏師団頼みだが。

 七課の裏師団はこれまでずっと、物陰に潜んでこっそり経過を見守ってくれていた。だが、この場でこれ以上情報は得られないと踏んだのだろう。戦闘になることは初めから解っているようなものだし、現実問題、アウリスたちだけだったら正面衝突は分が悪すぎた。

 相手が怯むこの隙を突いて、アウリスたちも剣を手に躍り出る。矢の雨はもう止んでいるが、ハリネズミ状態になった地面とそこに倒れた人間の数を飛び越えすり抜けで、相当混沌となっている。

「七課ァア!」

「はい師団長ォ!」

「抜刀を許す! 抜け! 「罪人」に情けはいらねえ! 叩き潰せ!」

「ヤー!」

 真っ先に嬉々として飛び込んでいったグレウが大胆な上凪ぎでかがり火の一つを叩き落とした。

 夏場とはいえ乾燥した大地は若い草もすぐ燃える。あたりはたちまち火の海になった。そこへ、木々や屋根の高見から幽霊みたいに降ってきた裏師団も参戦し、慄く十七課の前で揚々と弓を捨てて接近戦になだれこんでいく。

 今朝の賊相手と変わらない激しさだった。

 じぶんも負けてはいられない。

 アウリスは逆手に持った剣で向かってくる男の一撃を受け止めた。一方の男はまったく微動だにせずより深く踏み込まれてしまう。剣が交わるときの反動すら吸収しているようだ。さすがにガタイと丈夫さが取り柄の傭兵だけはある。

 あいにく、アウリスの方にはそんなものはない。鍛錬で磨いた技があるのみ。持って生まれたスペックは人によって違う。性別や、体の造りにオオカミとウサギ程度の差があることなどは変えられない。

 もともと正面衝突はやや苦手なアウリスだが、どうにか数歩下がって持ち直す間を作った。どこからか肉だんごの焦った声がかかる。

「アウリス!」 

「肉だんご!」

 思わず叫び返してしまった。じぶんも焦っているからかもしれない。

「おまえ、その持ち方やめろよ! 見てたらこっちが怖くなるよ!」

(……そっちこそ、何余所見なんてしてるんですか)

 男が再び斬り込んできたのでアウリスは言い返す余裕を失った。敵の中にはアウリスが女だから手心をかけようとする輩もいるが、この相手はそうではないらしい。そんな期待はアウリスもしてない。

 ただ、やはり接近戦では体格差が顕れやすい。はじめに気づくのが遅れて慌てたせいで、攻撃を真っ向から受け止めてしまったのもまずかった。

 両手の痺れが引かない。剣を持つ感触が薄い。

(あんまり長引かせないほうがいいな)

 腕を伝う、静電気のような嫌な違和感を堪えてしっかりと柄を握り、アウリスはまっすぐに飛び込んだ。既に剣先と剣先の交じる近さだったから完全に男の懐に入る。男は警戒して下がろうとする。かまわずにアウリスは男の鳩尾を目がけて柄を打ち込む。

 しかし惜しくも弾かれた。

「昼といいワンパターンな奴だな。真剣勝負に柄って何よ? 逆手で叩きにきやがって。おまえなめてんのか? ん、お嬢ちゃん」

(そっか、昼間に落としてやったひと……)

 アウリスはやっと思い出した。

 鳩尾への一撃を今回は優雅に避けた彼だが、もう軽口は叩けていない。その懐に食らいつかんばかりにアウリスは後退する彼を追う。相手にも、じぶんにも息のつけない速打で見合う。

 剣を逆手に持つのは既に習慣のようなものだ。べつに相手を侮っているとかではない。そんな余裕はないし。

 ただ、アウリスの剣は片刃だから、こうして持っていれば刃の背が相手の方へ、つまり斬れる側の方はじぶんの方へ晒されていることになって、相手の攻撃を受けるたびに己の刃が己に向かってくるという、やや危ない綱渡りになるのである。

 アウリスは昔、真剣を持つのが怖かった。

 そこで、猫じゃらしに言われたのだ。逆手に持ってやってみろ、と。

 逆手に持つことは、逆手で構えることとは違う。片刃の剣を逆手で握り、ふつうに構えた場合に刃が自分の方に向くのだ。

 猫じゃらしの有難い助言を受けてからは、アウリスは真剣勝負が怖ろしくなくなった……、のかどうかはわからない。ただ、一日の最後に額に赤い印がついていることは多くなった。

 真剣と木刀は言うまでもなく違う。アウリスも、ずっと幼い頃に剣の稽古をしたりちゃんばら遊びをしたことはあったが、本物を握らせてもらう機会はまずなかった。

 そんな自分にしてみれば、真剣はひたすら重かった。人を殺める為の術と護身術が感覚的に違うのと同じかもしれない。

 人を傷つけることが怖かったのかもしれない。なりふりかまわずそれを振るって、うっかり周りの物を壊したり関係のない人間を傷つけたりするのが怖かったのかもしれない。そこに、傷つくのは己だけという具体性がついたから制御できるようになったのかもしれない。

 いや、ただのこじつけだろうか。逆手=真剣が怖くない、という方程式は実際どうなのだろうとも思う。

 だが、アウリスは馬鹿の一つ覚えみたいに逆手を続けた。職場での上官の言葉は絶対だったからだ。猫じゃらしがそう指示を出したから、アウリスは従った。結局、それだけだったのかもしれない。

 ひとつだけ確かなのは、アウリスはお陰で人並み以上に攻撃を受け流すのが上手くなった、ということだ。

 グレウやアルヴィーンの剣なんかまともに受けられない。一日の訓練の最後に赤い印がついてしまうし、割る為の額がいくつあっても足りやしない。だから、アウリスも必死になったのだ。そうして、じぶんより大きく、力が強い相手の剣を受け流すことが得意になっていった。

 体勢を崩さず、退くことなく、同じ間合いを保ったまま剣のみで相手の攻撃の軌道を逸らす。

 アウリスはひそかに思っているのだ。受けの技術だけを見たら、わたしは実は師団一なんじゃないかと。

 目の前の男にしても先手業で怯まされたが、もう二度はない。足の踏み合いになりそうな間合いで、素早く小さく打ち込むのを繰り返す。小手の連打に相手の方は面食らっている。ゼロ距離の接近戦に慣れていないのか、受けはからっきしだ。これは踏み込んで正解だった。

 不安定に向かってきた切っ先を横っちょへ凪ぎ、がら空きになった相手の鳩尾に一発。

 アウリスの正面で男の体はくの字になって落ちた。

 直後に別の男が炎に明るんだ視野に飛び込んできたが、振り向きざまに似た要領で受け流し、男の手首に柄を打ち込んだ。その手が武器を放す。それを見て鼻面を叩く。

 二つ目の体が地面を打った。

 アウリスはそれを待つことなく駆け出した。一度止まったら一気に疲れが押し寄せてきそうで、止まれない。それに、やっと調子も出てきた。

 アウリスは勢いに乗って、それからは鳥を捌くときのようななめらかさで次々と敵を倒していった。

 かがり火の熱気。足元に響く振動。絶えず鼓膜に響く、誰かの息遣いと剣の交わる音が、じぶんが一人ではないことを教えてくれる。

 アウリスは襟を掴んで額の汗を拭いた。

 ふと気づき、徐々に静かになった場で辺りを見回した。

 敵はもう殆ど残っていない。七課の裏表師団が揃えばこんなものだろう。

 煌々と燃えていた炎もいつしか下火になっていた。風のきつい日だったら後始末が大変だったが、幸い足元が裸の地面になっただけだ。

「グレウさま! 助太刀に参りました!」

 野原から荒野に変わった景色を眺めていたら、やたら元気な声が聞こえてきた。セル=ヴェーラだ。

 裏師団の一人から縄を投げ渡されながら、グレウは振り返る。

「……おまえ何でここに」

「グレウさま、お怪我は?」

 セル=ヴェーラはドブネズミ色の衣を翻して駆け寄っていく。それに続く医療団の女性たちの中にチエルの姿が見えて、アウリスは慌てて剣を収めた。な、なぜチエルがここにいるのだ。今夜は荒れそうだったからセル=ヴェーラたちに預かってもらった。この場所から遠ざけるつもりだったのに。

 アウリスは急いで歩み寄ろうとしたが、それより先にチエルは他所へ走っていった。自然とその姿を目で追い、アウリスはどきりとした。フードを目深く被る青年の姿がある。裏師団の一人のアルヴィーンだ。

「にぃ」

 駆けてきた子供の方に手を伸ばして頭をひとつ撫でると、アルヴィーンはその場に屈んだ。そのまま正面に伸びている男の体を手早く縛る。その腰にはまだ幾つも縄が下がっていた。手頃な長さで輪状に束ねられていて、どうやら裏師団の団員たち全員が常に装備しているようだ。

 アルヴィーンが立ち上がって次の標的を見つけに歩き出したら、その後ろにチエルが跳ねていく。アルヴィーンはチエルの恩人のようなもので、だからなのか、チエルは未だに彼が一番お気に入りみたいだった。

(アルヴィーンの傍にいるなら安心かな?)

 考えている傍から、アウリスの手元にもどさりと縄が落とされた。

「そのへんの適当な奴しめてこい」

 いつの間にかすぐ背後に佇んでいたグレウからそんな言葉がかかる。アウリスがふりかえると何故か急に眉をしかめ、世にも怖ろしいその形相を近づけてきた。

「……アウリス。おまえ顔に赤い印ついてんぞ」

「……」

 気づかなかった。最初のひとりから先手を取られたときに切ってしまったのだろう。戦っている間は脳内が麻薬カクテルになるから痛みに気づかなかったりもする。

(でも、さも当たり前に人の口掴むのやめてくれないかな)

 アウリスが何か言いたいようにもごもごすると、やっとグレウは気づいたようで手を放してくれた。その影からひょこりと輝かしい面立ちが覗く。相変わらず、聖堂に飾ってある天使像みたいな優しげな面立ちだ。

「大丈夫? 見たところ浅いみたいだけど止血しましょうか?」

 心配されて、とっさにアウリスは首を横に振っていた。

(セル=ヴェーラさんに診てもらうのはうれしい。うれしい、けど……)

 彼女はチエルを戦場に連れてきた。一応一段落ついた後に現れたけれど、まだ安全だとは言い難いのだ。それを言ったら常にそうなのかもしれないが。

「とっとと済ませて来い。消毒はちゃんとしとけよ」

「わたし役に立ちましたか? じゃあ約束どおりグレウさまの小屋で添い寝させてくだフェィアブ!」

「んな約束した覚えねぇよ!」

 絶世の美女への憧れとチエルの一件がアウリスの頭の中で天秤にかけられている間に、セル=ヴェーラは投げられていなくなってしまった。

「てめえもさっさとしめてこいや!」

「は、はい!」

 グレウに鬼みたいな八つ当たりをされたアウリスはすたこらその場を後にした。

「あ、アウリス! これ一緒にやろうぜ。俺、縄は苦手だし」

 平地で仕事をしていると、今度は同じように縄を持った肉だんごが通りかかった。

「訓練のときにさぼって縛られる役しかしなかったからでしょう」

「俺を実験台にしてたのはアウリスだろ!」

 文句を言いながらもアウリスは肉だんごと協力する。もう少し体が大きかったらこうも苦労しないかもしれない。けれど、お互いに一人でするより自分への負担が軽いし時間もかからないのだ。

 アウリスは手を動かしながら注意深く周囲に気を向けていた。焼けた大地に「縄」と呼ぶ声があちこちで行きかう。合戦に決着がつき、七課は速やかに捕縛に移っている。

 敵を鎮圧し、捕縛し、情報を聞き出す。それから上層部に引き渡す。

 それが一連の任務の流れだった。まだ仕事は終わらない。賊たちが攫った女性や子供がまだいるらしいし、その辺りの話も知っているのならば聞き出したいところである。

「あれっアウリス、額に赤いのついてるぞ」

 これからの作業について考えていたら、肉だんごがやけに平和な話題をふってきた。

「それ、じぶんで切ったんじゃないのか? 馬鹿だな。構え方が危ないっていつも言ってるのに」

「肉だんごこそ人の方チラチラ見ないでください。戦闘中に気が散る」

「話逸らすなよ、アウリス!」

 肉だんごは彼らしくもない説教調だった。アウリスは珍しいなと思いつつ、聞こえていないふりをして縄目を結び終える。アウリスは顔を上げて近くを通りかかった仲間を呼んだ。

「縄、ください」

 裏師団からそれを投げ与えられ、立ち上がって新しい相手を探す。しかし、既に殆ど捕縛されているようだ。七課は小慣れたものだった。

 少し歩いてやっと一人失神している十二課を見つけたので、傍に膝をつき、肉だんごと一緒にお縄にかけた。アウリスは視線を感じて顔を上げる。肉だんごは目が合うと口を開いた。

「アウリスはさ、じぶんに馴染んだ構えでやりやすいのかもしれないけど、まあ、訓練のときなんかはそれでいいのかもしれないけど。でもな、仕事のときは危ないよ。顔を切ったら血で目が見えなくなったりもするし。……それに、アウリスは女の子だろ?」

 アウリスは思わず肉だんごの顔を見つめた。あまりに意外な言葉で驚いたからだ。冗談かとも思ったが、肉だんごは真面目くさった顔をしていた。

 アウリスは面食らった。性別が違う分、アウリスは七課では常に少し浮いた存在だ。けれど、誰もそんなことを気にしたりはしないはずだし、こんな風に言われたことも多分初めてだ。肉だんごは一体どういう気持ちで言ったんだろう。

「まあ、ばい菌とか入ったら困るしな」

 そう言って、アウリスの胡散臭そうな眼差しから逃げるように肉だんごは視線を逸らした。

「セル=ヴェーラの姉ちゃんところで消毒してもらったら?」

「……んー、べつにそこまでする傷じゃないし」

「えっ?」

 言葉を濁したら、肉だんごが驚いた顔をする。

「どうしたんだよアウリス? いつもなら事あるごとに真っ先にセル=ヴェーラのお世話になろうとするだろ?」

(そう……だっけ?)

 アウリスは確かにセル=ヴェーラに憧れている。仕事場でその姿を見ることがあったら、理屈抜きでいい気分になる。何やら意味なく得した気分になるのだ。白衣の天使団はアウリスにとってそういう存在だった。

「なんだよアウリス、黙り込んで」

 アウリスはまごついた。セル=ヴェーラの話題になると先ほどの微妙な気持ちを思い出たのだ。アウリスは少しだけ迷い、肉だんごに先程の一件について話すことにした。

 てっきりうなずいてくれるかと思っていたが、肉だんごは非常に難しそうな顔で眉をひそめた。

「チエルがついて来てよかったんじゃないのか? 一人で残していく方が危ないだろ?」

「というか、子供を預かってるときに危ない場所に出てこなくてもいいじゃないですか。セル=ヴェーラさん達と居る方が安全だから預けたのに」

「うーん、うーん、……まあ、そうかもしれないけどさ」

 肉だんごは人差し指で頬を掻いた。何故もじもじするのだ。

「たっ大切なひとが危険な目にあってたら、居ても立ってもいられなくなる。とか。そーいうもんじゃないかな?」

「……そうですか?」

 大切なひと、というのはグレウのことだろう。あの顔面凶器の師団長のどこに恋愛的興奮を覚えられるのかはさっぱり解らないが、セル=ヴェーラはどんなに遠い地でも七課の派遣先には現れる。そうやって、グレウや七課の役に立ちたいのだろう。

(考えてみたらすごいな)

 一途で、並ならず執念深い。いや、それが惚れた弱味というやつなのか。

「そうですか。……わたしはあまりピンとこないけど」

 アウリスはそう言って肉だんごとの会話を切り上げると立ち上がった。視野の隅に駆けてくる子供の姿が見えたのだ。

 チエルは両手を大きく振って走ってきた。あまりの威勢の良さにまさかこのまま突進されるのではとアウリスは心配したが、それはあたっていた。子供一人分の体重がどすんとアウリスの腹に響く。い、痛い。子供で体は小さいが、子供なので手加減という言葉を知らない。

 アウリスはややよたつきながら、チエルの背中の方へ手を回した。

「アウリス、怪我はないか?」

 台詞の先を越されてしまった。アウリスは思わず小さく笑う。

「わたしは丈夫だからかすり傷ひとつありませんよ。チエルは怪我してませんか?」

「うそだ。おでこに踊り子みたいな赤い線があるもん」

「……」

 子供にまで心配されるなんて、これは真面目に戦い方を変えることを考えるべきかもしれない。チエルはアウリスの腹にくっつき、頭だけを逸らすようにして見上げてきた。アウリスは首を捻る。子供ながらの相対的に大きな瞳は何やら期待に輝いていた。

「アウリス、にぃが呼んでるよ」

「にぃ……アルヴィーンが?」

「うん」

 俺も一緒に行っていいかとチエルは聞いた。アウリスはチエルの興奮して赤くなった顔を見つめた。ジッと目を見ながら、「にぃは何て言ってた?」と聞くとチエルがきょとんと首を傾げた。んんー、と思い出せないフリをしている。これは絶対にとぼけているときの表情だ。

(だめって言われたな)

 アウリスは小さく息をついた。まだ用件は知らないが相手側の判断を信じることにして、アウリスはチエルの前髪をそっと梳いた。チエルはアウリスの頭の中を読んだかのように仏頂面だ。

「小屋の方に戻っててください。にぃもすぐ帰りますから」

 子供にはもう遅い時刻だし、にぃを待っている間に眠りに落ちてくれるだろうとアウリスは思った。

「明日はにぃも陣にいるから遊んでもらおうね」

 だから、今夜はちゃんとよく寝るんですよ。

 チエルはアウリスの言葉にまだ不満そうな顔をしたが、どうにか納得してくれたようで掌の下で小さくうなずいた。彼の頭をアウリスはもう一度撫でた。それから傍らの青年を仰ぐ。

「じゃあお願いします」

「うん、さあ、行くよチエル!」

 肉だんごはことさら明るくチエルの肩を押した。チエルは歩きだしながら近くの小石を小さく蹴った。アウリスはそれを見て少しばかり罪悪感を覚える。子供の小さな主張程胸にくるものはない。しかし、危険な現場から連れ出してもらえたことには安堵しているのだ。アウリスは暫く二人を見送っていたが、やがて気持ちを入れ替える為に頭を振った。そうして合戦の跡の残った地を歩きだした。

 進む先には十二課の男たちが剣先で脅されながら一箇所に集められて、ぎゅうぎゅう詰めに囲われていた。彼らはどれもこれも疲れた顔だった。既に負けを確信した顔だ。失神したままの者もいる。

 アルヴィーンはその包囲に混じって立っていた。アウリスの視線に気づいたのか彼がふりむく。その肩には思わずギクリとするようないかつい型の弓が担がれていた。特注の武器で、一度に三本の矢をつがえるのだ。アウリスは自然と体が硬くなるのを感じた。

「ぜ、全員ですか?」

 アウリスが聞くと、アルヴィーンはうなずいた。同時に弓を脇へ降ろす。アウリスはアルヴィーンの隣に来て彼を仰いだ。黒い外套のフードに隠れていてアルヴィーンの顔は見えない。目元は不気味な陰になっていて、それでどうやって外の世界を見ているのだろうとアウリスは不思議になった。

「逃げ出そうとした者もいたが全て捕らえた。先ほど名簿で確認したのでこれから支部の方へ向かう」

「十二課が駐在してた支部ですか?」

「地下に牢がある。あそこに収容する」

「ああ、なるほど……」

 アウリスはお縄にかかった連中を眺めた。この短い間にアルヴィーンは支部の名簿と頭数分の素性を聞き出して比べたようだ。相変わらず仕事が速い。

 支部の牢屋は当然ながら罪人を収容しておく設備だ。国家騎士団が罪人を回収にくるまでの期間に使う。普段は格子の外側にいる十二課の人間たちを中に閉じ込めるというのも、なんだか皮肉なものだった。

「残りの賊や、行方不明の住人たちは?」

 アルヴィーンはその言葉に考え込む間を置いた。

「今朝の一軒の直後に付近の賊はみな逃げ出した形跡がある。足取りは掴めているが数が多すぎる。八方に逃げられているから、七課の人材だけでは追跡の範囲が足らない」

「近くの支部に連絡を?」

「それが最善かと。逃亡の経路を予測してその付近の支部に声をかける」

 アルヴィーンは今夜中に使者を飛ばすつもりらしかった。まだまだ仕事は山積みだ。アウリスたち表師団は多分この界隈に残って審議会を迎えるのと、行方不明の人間達の探索にあたる。

「おい」

 聞き覚えのある声がしてアウリスは振り向いた。十二課の男のひとりがこちらを睨んでいた。縄で手足の自由を奪われ、集められた男達の中央に近いところで、ふてぶてしくあぐらを掻きながら、ライオンの鬣はやたらにやにや笑っていた。

 ちっとも参っていない風をしているが、彼らにはもう後がない。これから審議会の前に引っ立てられて処罰を受けることになるのだ。ライオンの鬣は師団長だから特に罰が重いはずだった。

 アウリスは警戒して腰に収めた剣に触れながら、彼の前に立った。

「お嬢ちゃん、ずいぶん薄汚れたねえ」

 ライオンは獰猛な獣らしい凄みのある笑い声を漏らした。

「お嬢ちゃんはさっき、なんで賊に手を貸したのかって聞いただろ?」

「はい。どうしてですか?」

「おまえはそうやっていちいち掃除するゴミ相手に聞くのか?」

 自嘲の混じった声で聞き返され、アウリスは眉をひそめた。べつにゴミだとかは思わないが、アウリスはじぶんの中で答えを探した。

「わたしは、……こういうことはなくなればいいと思っています。あなたたちと話したら、少しは原因がわかるかもしれないじゃないですか」

「ははっ」

 ライオンは声を上げて笑った。

「ムリだな、そういうこと言ってるうちは解らねえよ」

 そうかもしれない。

 今夜この場にいる人間はみんな、黒炭の為に剣を握ると誓った人間達だった。黒炭だけが身内で、家族で、暴れて一緒に血まみれになって、そうして日々の糧を得ている。アウリスにはそれを裏切る気持ちがわからない。だから、単純に知りたい。

 どうして寝返るのか。

 どうして裏切るのか。

 誓いを、約束を破るのか。

 解ったところで何の足しにもならないかもしれないが、解決策があればいいとは思う。そうすれば、仕事のときに感じる胸の痛みも少しはなくなるかもしれないとも思う。こういうのは自己満足なのだろう。

 アウリスは囚人らの元を離れると、いつの間にか木立の手前まで移動していたアルヴィーンの元へ向かった。彼には用件があったはずだ。

「少し外すが時間はあるか」

 アルヴィーンはすぐに歩き出しながら聞いた。アウリスは慌てて隣に並ぶ。

「はい、どこへ行くんですか?」

「少し前に使者が来た。今は包み小屋の一つに通している。審議会からで、おまえと直接話がしたいと言っている」

「わたしと? じゃあ猫じゃらしからかな」

「そう」

 少し変だなとアウリスは思った。猫じゃらしは表に顔を出さないが一応七課の司令塔で、アウリスたちが泥まみれになって仕事を終えた後の現場に優雅に現れてくれたりする。だが、先に使者を送ってきたことはないし、自分宛てだというのも釈然としない。後片づけや新しい任務の話ならばグレウに言うだろうし。

「何か言ってました?」

「いや、おまえを連れてくれば話すと言った。会えばわかるだろう」 

 それもそうだ。アウリスはまだ気にかかっていたが、隣を歩く相手を見上げていたらふと他のことを思い出した。

「アルヴィーン、そういえばチエルに変なこと言ったでしょう」

 振り返ったアルヴィーンの表情は布に隠れていて解らなかった。口を閉ざしているのは身に覚えがあるからか?

「半殺しはだめだとか、敵は生かすか殺すかとか、チエルに言ったでしょう?」

「言ってない」

「え? ほんとうに?」

 アウリスの戸惑う顔を多分布の下から見ているのだろう、アルヴィーンの薄い唇がそっと動いた。

「俺が他と話しているのを聞いたのかもしれない」

(やっぱり犯人だった!)

「アルヴィーン……」

 アウリスは思わず責めるような声を出した。フードの軽い布を揺らしてアルヴィーンが首を傾げた。鮮やかな亜麻色の髪が一房フードの外へ零れる。

「チエルには聞かせないようにしているつもりだった。以後は注意する」

「そ、そうですね」

 そうしてくれるとありがたい。この青年のことをチエルは崇拝しているようだから一層変な影響を受けやすいはずだ。

(けど、どういう状況でそんな言葉を言ったのかな……)

 アウリスは不穏な言葉が気になり、そっと相手の方を盗み見てドキリとした。布越しに見返す目を感じる。その端麗な顔はフードで隠されていて見えないのだが、その琥珀色の瞳の眼差しを確かに注がれるのを感じられた。アウリスの体温はそれに急上昇する。

「な、なに?」

 アウリスがおずおず聞くと、フードの際で薄い唇が動いた。

「額に赤いしるしがついている」

 そこか。

 アウリスはなんだか脱力してじぶんの額を手で隠す。

 暗いのによく見えるものだった。そんなに目立つのだろうか。気恥ずかしいような気持ちになってアウリスが下を向いたら、アルヴィーンの方も黙りこんだままそっぽを向いてしまう。それからはしばらく黙って歩いた。

 かがり火に照らされた陣を後にして暗い雑木林を抜けていく。どうやら使者は今は空の十二課の陣の方に押し込まれているらしい。この林を出た先でケアルトの町側に彼らの陣はある。

「毒見をしたらしいが、その様子だと平気だったのか」

「え? あ、はい。べつに……」

 アウリスは前触れもない問いに一瞬何のことかわからなかった。慌てて答える。十二課が差し入れにきた酒のことだ。アウリスは何も言わないアルヴィーンを見上げるが、アルヴィーンは振り返らない。さして興味がなかったかのような素振りに、アウリスも遠慮して前を向いた。

 でも、今のは心配してくれて……いたのだろう。

 アルヴィーンは昔から言葉が少ないし、表情だってお世辞にも豊かとは言えない。フードで顔を隠すようになってそれが悪化したようだ。時々アルヴィーンの心の動きが完全にわからなくなることがアウリスにはある。一緒に仕事をしてきて、未だにこれだけ掴めないのはアルヴィーンくらいだった。

(昔とぜんぜん変わってないな……)

 いつも、この距離だ。

 表と裏の師団に別れ、顔を合わせること自体が少なくなった。顔を合わせても仕事の話しかしなくなった。チエルが来てからは少しばかり話題が豊富になったのだけれど、やはり大半は事務的な感じがした。

 アウリスは考えていると落ち込んできた。

 こういうことを寂しく思うのだって、きっとじぶんだけなんだろう。

 あまり状況に関係ないところでアウリスが沈んでいるうちに、雑木林の景色は背後になり、目前に静かな包み小屋の群が現れた。

 アルヴィーンは勝手知ったる足取りで陣の奥を目指した。今はこのあたりは空っぽなのだ。包み屋根や戸口の布だけが風に鳴っているのが取り残された感じがして少々不気味で、アウリスはアルヴィーンから離れないように早足に行く。

 やがて、他となんら変わらない包み小屋の一つの前でアルヴィーンは足を止めた。

「ここだ」

 アウリスは確認するように辺りを見回した。かがり火は焚いてないようだ。この分だと中も火はついてなさそうだが、目の前で揺れる布の向こう側には確かに人の気配がしていた。

 アルヴィーンに静かに目で合図されて、アウリスは彼の伸ばした腕が玄関の布を捲る下へ入った。

 中は思ったほど暗くはなかった。先に暗がりに目が慣れていたのもあるし、即興とは思えない複雑な造りで窓まである。月明かりがそこへ差し込んでいるのだ。窓の空洞は壁を組むときに長さの違う丸太を巧みに合わせて作られていた。

 アウリスは早くも反応に困っていた。審議会の使者というのは窓の真下であぐらを組む人物のことらしい。が、なぜか縛られていた。アウリスはいちおう部屋を見回すが、他に人はいない。

 アウリスが固まっていると、ふと僅かなうめき声が聞こえた。

 うめき声、というか寝起きの唸り声……?

 アウリスは戸惑いながらも近寄ろうとしたが、それまで動かなかった相手が急にこちらを見たかと思うと飛び上がった。

「うわあ!?」

「っ」

 驚くのはこっちだ。女の黒い瞳は月明かりに艶々輝いていた。やはりさっきまで目が閉じていたらしい。寝てらしたようだ。

「えっ、何? 今何時!? つかなんだっけ? え、あんた誰?」

「アウリスです」

 最後の問いにだけアウリスが答えると、女は大袈裟なくらい目を大きくした。

「へえ、あんたが……」

 女は意味深なことを言ったきり、黙り込んだ。こちらを警戒しているのかもしれない。アウリスは女の傍らに立ち、彼女のこげ茶色の短髪の旋毛を見下ろすようにして膝をついた。用件は解らないが面倒くさそうな気がした。というか、この使者本人がだ。

「どうして縛られてるんですか?」

 アウリスはさっさと用件を聞きたかったが、何より相手が拘束されているのでそうもいかない。アウリスは戸口のアルヴィーンに問う視線を向けるが、使者の方がくらいついてきた。

「そうだよ。何してくれるんだよ。乱闘の直前だったのは解るけどな、わたしは審議会の猫じゃらしの使者なんだぞ? 猫じゃらし直筆の書も見せてやったろうが!」

「あ、あの落ち着いて」

「しかも十二課の陣のど真ん中に置いていきやがってーっ! もし奴らが帰ってきたらわたしはどうなったと思ってるんだ! 犯されて姦されて殺されてるだろー!」

 アウリスは吠え立てる使者に困ってアルヴィーンの方へ助けを乞うが、アルヴィーンは鉄の無言を貫いている。きっとフードの奥には「そうならないよう対処した」と言わんばかりの表情が浮かんでいるのだ。 

「じゃあ、ひとまず縄は外してもいいんですね?」

 アルヴィーンは黙ったままうなずく。アウリスはそれを見て剣を抜いた。アルヴィーンは多分一時的に女を拘束したのだ。合戦が始まると言うときで時間もなく、また怪しい人間にうろちょろされても困ったからだろう。しかし、犯されて姦されて殺されるかもしれないときに寝落ちしたのか。女の肝の据わりっぷりにもいっそ感心する。

「いててて、痛い……」

 アウリスが手早く縄を切ると、使者は後ろ手に縛られていた両手をさすり合わせて、きっと睨んだ。

「言っとくけどな、わざと捕まってやったんだぞ。猫じゃらしの直系の裏師団のわたしがおまえ達のようなガキに捕まるわけないだろう」

「俺もさっさと縄抜けをして待っているのだろうと思っていたので驚いた」

「きっ、貴様あああア!」

 使者は怒り心頭である。どうしよう。ますます面倒くさくなってきた。

 アウリスは茶々を入れたアルヴィーンの方を見て少しばかり厳しい視線で訴えた。アルヴィーンは壁にもたれ、腕を組む。大人しくするという意思表示だろうか。よくわからなかったので、アウリスはあえて使者の正面に移動して座る。これで彼女からはアルヴィーンの姿が見えなくなったはずだ。

「失礼しました。あの、何のご用達なんですか?」

「ああ」

 使者はやっと本来の目的を思い出した顔をした。まだ寝起きでボンヤリしているのか、頭を軽く振る。次いで、光の差した黒い瞳でアウリスを見た。

「猫じゃらしからの伝言だ。ヴァルトール国王が急死した」

 事もなげに言われた言葉の意味が、アウリスにはわからなかった。

「グレン=ヴァルトール国王陛下がお亡くなりになった。目下、死因や亡くなられた日付については調査中だ。近日、全国で公式に告知されるだろう。そして、次期国王の、代替わりの話についても公表されるはずだ」

 文書から朗読しているような淀みない口調で使者は語った。その目はどこか探るようにじぶんを見ていた気がする。

「信じなくても勝手だ。どうせあと何日かしたら吟遊詩人らが大手を振って宣伝してるだろうしな。先代の王室に、王座の後継者は一人しかいなかった。ヴァルトール王国は新しい時代に入るんだ。この国に、新しい王の、ラファエアート国王陛下の御世がくる」

 使者の言葉は一言一言が重い衝撃になってアウリスに襲いかかった。鳩尾を撃ち抜かれたときみたいだ。息が苦しい。

 アウリスは気づくと胸のまんなかを押さえていた。そこに回った首飾りの牙を、紐が千切れる程に握る。

 そのとき、洪水みたいに流れ出した感情はなんだったのか。

 ただ、どこかで見たような夕焼けに染まった景色の中、川の向こう側に一頭の白馬が現れる幻が、見えたような気がした。


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