28.
シェアレアとニナエスカの決着がついた、次の日。
昼下がり、外のリンゴの木の下で剣を振り回していたら、肉だんごが姿を現した。
「素振りしてるの?」
「はい」
「こんなとこで?」
「はい」
アウリスは、少々軽いそれを掲げた。
粉を降り、布で拭い、白石と井戸水に通した。
それは、今も三分の一だけ、短い。
「なおさなかったんだ」
「なおす時間がないもん」
「でも捨てなかったんだ」
「七課に入ってもらったものだもん。そう思ったら、捨てられないです」
アウリスは笑った。
「肉だんご、わたしたちが七課で最初にやった仕事ってなんだったか覚えてますか?」
「うん」
「思い出してたんです、なんか。あれも、このあいだの仕事と似たような感じでしたよね」
このあいだの仕事。
今となると、最後の仕事、ということになるのかもしれない。
最初の仕事は麻薬の取り締まりだった。
どこかの課の、誰か数人かが、罪人とつるんで麻薬を流していた。それを掃除する為に派遣されたのだ。
「町の町内会とかって機関のおじいさんの依頼で」
「そうそう。あの髭の長いじいちゃんだろ」
「はい。それで、解決したときに依頼金もらいに行くの、ついていってたんです。そしたらみんな、すごい感謝してくれて」
「覚えてるそれ! グレウがじいちゃんに抱きつかれて物凄い困ってたよな!」
「あのとき肉だんごもいたっけ?」
「いたよ。つーか、みんないただろ。裏師団も表師団も、みんな」
そうだったかもしれない。
最近では、依頼の報酬金をもらいにいくのは師団長のグレウと、二、三人くらいになっている。でも、初めての依頼のときは、みんなで行ったかもしれない。
「嬉しかった」
アウリスは剣を翳し見た。
空いっぱいの陽射しは、葉の茂りを透かして、降り注いでいた。刀身はそれにきらきらと輝いていた。
「嬉しかった。あのとき、あんな感謝されてびっくりした。おじいさんとか泣いてて、なんか、他のひとも凄くよくしてくれた」
「たくさん芋ももらったしな」
「うん」
アウリスは眩しさに目を細める。
「そういうの、忘れたくないと思ったんです」
嬉しかったこと。
猫じゃらしに教わったこと。
彼の元で、この剣を振るってきて、習ったこと。この剣で、与えたものがあったこと。
忘れたくない。
汚したくない。
「わたしは殺しません」
アウリスは、そっと剣を地に横たえた。
「……でも、それで仲間やじぶんが危ない目にあったら。そう思うと怖いんです。中途半端ですね」
「俺は持ってかないよ」
隣に、肉だんごが腰かけてきた。
「明日は木刀だけ持ってく。剣は置いていく。でも、それでもし仲間とか俺とか死んじゃったらと思うと怖いんだ。中途半端だね」
「うん」
「うん」
「……うん」
でも、それが、わたしたちだ。
アウリスは膝を抱えた。
肉だんごも膝を抱えた。
暫くそのまま二人で陽射しを浴びていた。暖かな風が葉を揺らしていくのを追うようにアウリスは肉だんごの横顔を振り向く。
「肉だんご」
「ん?」
アウリスは、言い淀み、彼の顔を見つめた。
――僕は罪人じゃない。
そう言った。そのときの彼の姿は強烈にアウリスの記憶に刻みつけられている。肉だんごは、あの直後にラーナたちに拾われたといっていた。あのあと悩み、考えて、彼はきっとここにいる。
「踊り子」
「え?」
いきなり目の前が陰った。肉だんごが手を伸ばしてきて、指で、アウリスの額をつん、と押したのだ。
「または第三の目」
「……何かと思ったら額の傷のことですか」
「かまえが危ない人の相。またはシェアレア用の的のマーク」
アウリスは脱力した。脱力ついでに肉だんごの額を手のひらの全面積で押し返した。
肉だんごはぎゃあ、といって転がった。
「と見せかけて墓場からドスッ!」
「縁起が悪い! と見せかけて隙あり!」
アウリスはそのへんの木枝を拾って肉だんごの腹をぶすぶすした。肉だんごは苦しんでばったりとなった。アウリスもつきあいで転がって、二人で空を見上げた。
大きい入道雲だ。
アウリスと肉だんごはなんとなくあぐらをかくと、笑った。
王都に来てから、一週間余り。
猫じゃらしの公開処刑を明日に控えた、そんな日の一区切りだった。
その日は、鈴の音のような笑い声で目を覚ました。
朝……といっても既に正午は過ぎた時刻だ。この館の朝は遅い。
だが、最近、姉分は早起きだった。今朝も、きっと弟の容態を見に行って、そこでまた喧嘩して、ついでに女傭兵にひたすらどーどーされて、帰ってきたのだろう。
今日はとりわけ感謝し倒されたかもしれない。
当然だ。恩は着せるものだ。決して水に流すものではない。
小姓は、くあ、と欠伸をした。
まだまだ寝ていたい時間だったが、姉分の声が襖のむこうでしていた。何か、小姓部屋に、じぶんに用事なのだろう。
それに、今日は大事な話もある。
仕方なしに、のっそりと寝具の上に起き上がった。
だが、寝着の襟口をぼんやりと揃えていたところで、ぱあん、と襖が開いた。
「おはよう」
小姓は目をぱちくりとさせた。
シンフェが寝床に入ってくるのは珍しい。
更に、シンフェは両手に盆を持っていて、それを、がたん、と小姓の枕元に置いた。
盆の上には、朝飯。
エビフライの山盛り。
卵サラダ。
里芋の甘煮。
じゅるり、と小姓の口の端によだれが引いた。
だが、同時に小姓は戸惑った。
シンフェは、小姓の好物ばっかりを寝起きの小姓の前に広げて、正座をすると、にっこりと笑った。
「さあ、召し上がって。明日はとっても大事な日ですもの、体力をつけなくてはね?」
眠気が吹っ飛んだ。
小姓は、今や、穴が開くようにシンフェを注視していた。
シンフェは笑っている。
いつものように。
花のように。蝶のように。夜の帳のむこうに浮かぶ、提灯みたいに。
すべてを理解して笑っている。
ぐ、と布団に皺が寄った。
小姓は、じぶんの拳を見つめた。
シンフェ姐さんには感謝している。
ここまで面倒見てくれた。優しくしてくれた。かっぱらいの腕を見染められて、この館の主に拾われた。そのあとも、少々他の小姓とはちがった、訓練をさせられていた。
でも、いつも思っていた。
いつかは。
いつかは、シンフェ姐さんみたいな娼婦になりたい。
艶やかな、きらびやかな、館一番の女になりたい。
そう、思っていた。
でも。
「……行っても、ええですか」
明日。
彼らにとって大切なその日に、あなたの大切なひとの隣に、おってもええですか。
それが、どんな結果になんのかわからなくても、ええですか。
ぼろぼろと涙が零れた。
目の前が滲む。憎々しい。地下水路のドブのなかで暮らしていたときでさえ泣いたことなんてなかったのに。
ぐしぐしと袖で顔を擦る小姓を、シンフェは見つめた。
「馬鹿ねえ。おまえはおまえの好きにしたらいいのよ」
――さようなら、姉様。
「あい」
そのときシンフェが小姓に向けた笑みは、やっぱり、館一の大輪だった。
小姓は泣きながらエビフライを食べた。
シンフェは朝飯のあいだずっといて、そのあと小姓を鏡の前で座らせると、小姓の髪を結った。
「これがええです」
「はいはい」
姐さまの手を煩わせていることは心苦しかったが、折角だと思い小姓は注文を出した。
鏡のなかで、ちかり、と貝殻模様の髪飾りが光る。
そろそろ店開きだ。
シンフェがいなくなった部屋で、小姓はひとり、立ち上がって伸びをした。
さて、もうひと働き。
今夜もまた、館は、女の香と酒の香で目を覚ます。
夕方ごろにアウリスが様子を見に行くと、アルヴィーンは、チエルを膝に寝かせて、ぼんやりと弓矢の手入れしていた。
「あ、ごめん」
チエルが起きたらかわいそうだ。慌てて引き返そうとしたが、アルヴィーンは、手でこいこい、と招いてきた。
「昼寝のときは何をやっても起きない」
「え?」
「ほんとうに起きない」
アルヴィーンが、チエルの頬を摘んだ。ふにい、と伸ばして……子供のほっぺたはお餅みたいだ。
「う、うん、でも……」
アウリスが言い濁すと、アルヴィーンは目を細め、じぶんの膝元を見下ろした。
「チエルの話か」
アウリスは、おずおずと顔の前で横に振っていた手を下ろした。
アルヴィーンの言う通りだった。チエルが起きてしまうかもしれない。起きなくても、チエルの前で話すのは気が引けた。
「チエルはシンフェに預けようと思う」
「アルヴィーン……」
「ほんとうに起きない」
だが、アルヴィーンは話を止める気はないようだ。彼が片手で掴むもので、チエルの顔はナスビみたいに変形する。
「起きない。シンフェの元も一時限りだ。里親を探してもらうよう頼む」
「……確かに、お婆の施設に戻すのは今は危険かもと思うけど」
「七課の息がかかった場所は危険だ。同じ理由で、俺たちと共に来ることは危険かと」
アウリスは、堪忍して、そろりと部屋に踏み込んだ。アルヴィーンは少し離れたところに腰を低くするアウリスの方を見る。
「おまえはどう思う」
「うん。……」
アウリスはチエルの寝顔を見ていた。
夕暮れの陽射しが吹き抜けの窓に溜まっていて、それが、ややきつくチエルの方に差している。タマゴ色のふわふわした髪は燃え盛っているようだ。
セツなら、一緒に連れて行こうというかもしれない。仲間意識が強い彼ならば。
グレウなら、置いていけというかもしれない。セル=ヴェーラを拒絶した彼ならば。
「……わたしは、アルヴィーンに賛成だよ。色々あって、チエルはここに連れてこられちゃいました。でも、わたしたちと一緒にいることは、今は危険だと思う」
「俺たちも子供を連れて逃げることは危険だ」
「うん」
ここ数日、また一緒に過ごせた。初めは、施設に置き去りにしたアウリスたちのことを凄く怒っていたけれど、半日もすると、チエルはすっかりと元気を取り戻した。子供らしい単純さで環境にも上手く順応しているみたいだった。
シンフェや、小姓も、チエルのことを気にかけてくれている。
でも、やっぱりアルヴィーンが一番のお気に入りみたいで、彼が寝たきりのあいだはよく一緒に布団に潜り込んだりしていたようだった。
けれど、この生活はずっと続くわけではない。
館の人間達はチエルに親切だ。折り紙を教えたり、文字を教えたりしてくれている。
ずっととはいかないけれど、暫くはここにいて大丈夫だろう。そのあいだに里親を見つけてもらう。
でも、そう思うとアウリスは胸が痛かった。
一度ならず、二度も、チエルはアウリスたちとお別れしなければならない。この館の人間達とも、近いうちにお別れしなければならない。
そのとき彼が負う胸の傷を思うと、いっそ連れて行けたらと、アウリスはやはり何度でも迷う。
でも、彼のことを思うと、それは出来ない。
「……難しいね」
ぽつりと言うと、アルヴィーンが顔を上げた。
「明日の処刑場の話か」
「うん、それもあるよね」
チエルとは反対側には、例のごとく敷物が敷かれていて、武器が並んでいた。アウリスはアルヴィーンの手元を見る。
「矢、新しいの仕入れたってニナエスカさんが言ってた。それも?」
「言わないのか」
「え?」
「俺には殺すなと言わないのか」
アウリスは少しばかり驚いた。
「ううん、肉だんごにもそう言ったわけじゃないよ」
わかっている、という風にアルヴィーンはうなずいたが、目線の先で、矢を指と指のあいだに一回転させ、その鏃にぼんやりと見入った。
なにか考え込んでいる様子だ。
アウリスも、少し考えた。
「……わたしは、わたしのしたいようにすると、思う。でも、他のひとにそれを押しつけない。そうするのは間違っていたと、思う」
考えを纏める為に目を伏せる。
「人にじぶんの考えを押しつけるなら、そのうえで、そのひとを守ったりとか、責任が取れるだけの強さがないと、いけなかったんだと、思う」
例えば、ニナエスカなら、そんな力があるかもしれない。
アウリスは監獄解放では間違っていた。
殺すな。武器はこれだけ。そんな理屈をみんなに押しつけた。でも、ほんとうは、みんなを守れる保証なんかなかったのだ。
なのに、みんな、ついてきてくれた。ライラも。小姓も。名無しも。
それは、彼らの強さだ。
アウリスの強さではない。
マグレで勝っても意味がない。他人頼りもだめだ。次はどうなるかわからない。
だから、明日の装備のことはアウリスは誰とも何も話し合っていなかった。
ニナエスカの王都の裏勢力とも。
ラーナの裏師団とも。
シェアレアの騎馬民族とも。
みんな、人それぞれが考えて、じぶんにとって納得のいく形を選ぶ。アウリスも、そうしている。
「だから、アルヴィーンは、アルヴィーンがやりたいようにやったらいいと、思う」
アルヴィーンは少しのあいだ黙っていた。
かすかな風が吹き込む。カタカタと雨戸が鳴り、アルヴィーンの膝元で、チエルの髪がゆらゆらと揺らめく。
アルヴィーンが矢を床に置いた。
その手が伸びて、チエルの目元をそろりと覆った。
「……アルヴィーン」
あまりに沈黙が長いから、アウリスは少しだけ心配になった。
「アルヴィーン、……セツ先輩が、心配なの?」
アルヴィーンの伏せた目線がアウリスの方に向けられた。
「いや」
「……そう」
「ただ、ラーナに聞かされたあいつのことを少し考えていた」
「うん」
「俺が初めて人殺しをしたのは育成所でだ。おまえが武器倉庫に閉じこもっていた、あの夜」
護送中の罪人が逃げ出した夜。
子供の頃、名無しに出会った夜、七年前のことだ。
「次に殺したのは、七課に入って直後だった。初仕事のときだ」
「七課……で?」
初耳だ。
目を見張るアウリスの方へ、アルヴィーンは静かに目線をやった。
「おまえが気を病む必要はない。俺は感じたことがない。ひとを殺すことに抵抗を覚えたことがない。一度も。仕事だと思うだけだ。怖ろしいと思ったことはない。多分、猫じゃらしも適材適所で選んだんだろう」
育成所で。
一緒に育ったなかで、裏師団に入団したのは、アルヴィーン一人だった。
それは故意だったのだろうか。
裏師団とはそもそも裏方を任される部隊だ。適材適所、猫じゃらしは、アルヴィーンのこういう性質を理解していたのだろうか。
アウリスは少し迷ったが、結局聞いた。
「怖くないって、……それは、どうして?」
アルヴィーンは表情を変えずに答えた。
「仕事だから」
その答えは、アウリスには理解できなかった。
アウリスは、いつの間にか正座していた膝元に、ぼんやりと俯く。アルヴィーンは、ここ王都でも人殺しをした。騎士団に追い詰められていたからだ。
彼には、迷いがなかった、ように見えた。
だから薄々、彼がじぶんたちとは違う訓練と仕事を受けてきたんじゃないかなとは思っていた。
アウリスは、それを寂しいと感じていた。
じぶんとアルヴィーンとのあいだには、漠然とした、でも確かな距離が開いてしまったかのような気がしていた。
「じゃあ」
アウリスは小さく息を吐く。
「人それぞれだね」
それは、寂しかった。
でも、当然のことだった。
適材適所。その通りかもしれない。猫じゃらしだって、人それぞれの長所と短所を見て、そして、それを全て許容して、選んだのかもしれない。
……名無しにも、こんな風に言えてたらよかったのだろうか。
なんとなくアウリスが思い返していると、アルヴィーンが首を傾げ、アウリスの伏せられた睫毛から変なタイミングで目線を逸らした。
「そうだな」
アウリスは怪訝と顔を上げる。彼の声音は少しだけ安堵していたように聞こえたのだ。
「そうだといい」
「アルヴィーン」
「だが、俺は吐かなかった。だから、セツの気持ちはおまえの方がよく解るかもしれない」
アウリスは茫然とアルヴィーンに見入った。
人それぞれだ。
でも、解り合えないと、ちょっと、寂しい。
アルヴィーンもそうなのだろうか。鋼鉄で出来たみたいに感情を表に出さない男でも、寂しいと、思うのだろうか。
ずっと、こんなことを考えてたのだろうか。
アウリスはすっくと立ちあがった。そのまま、てくてくと歩いていって、アルヴィーンの傍で正座をすると、両手を膝の上に乗せて、体を傾いだ。
ぽすっと耳元で音がする。
とたんに、感じる。
相手の肩の広さ。力強さ。体温も。呼吸の音や、心臓の音さえ聞こえるような気がする。
「……」
アウリスは完全に固まっていた。
なにか、なにか言おうと思うのだが、血液がどんどん顔に集まってきて、なんだか全身が強張っていた。
岩になるアウリスの方をアルヴィーンは見下ろした。虚を突かれた表情だった。
琥珀色の瞳が、――無事な方も、ぎりぎりまで刃跡を負った方も、微かに細められる。
それから、アルヴィーンはアウリスが凭れる方の腕を外して、その腕で彼女の肩を寄せた。
頬がシャツに擦れる。
ますます密着度が高くなって、ますますアウリスは息を詰めた。
アルヴィーンの手が、アウリスの肩の方まで伸びた髪に触れて、頬に触れて、前髪をそっと避ける。
そして、こめかみに彼の唇が触れた。
一拍、強く脈が打った。
でも、その仕草はあんまりに心地よかったから、アウリスは目を閉じた。
静かな部屋で、夕日の朱色がだんだんと薄れていく。
そうして、気づくと、アウリスたちは三人でうとうととしていた。
二日前のことだ。
いつも通りに夕食の準備を待って、適当に時間を潰していたら、ふと窓辺に風を感じた。
換気しろ、といつもライラに口酸っぱく言われている窓だった。
でもじぶんは開けていない。いつもみたいに忘れて、閉じてあったはずだ。
「まったく、……おまえはふつうにドアから入ってこれないのかい」
カーテンの緋色が視野の隅に揺れている。
億劫そうにニナエスカは視線をやった。男の影だ。ひどく高丈の影は、壁際の薄暗がりで、前かがみにぼうっと立っていた。
腕を垂らしているだけの、立ち姿。
だが、その手の四本の短刀はどれも血塗れだ。
また誰かやってきたらしい。
やれやれ、と不気味なその姿から書類へと目線を戻しかけたが、そのタイミングで、声がかかった。
「……なんか、はぐらかしてるってアウリスに言われた」
「はあ?」
何の話か。
ニナエスカは眉をひそめる。
この部屋にはニナエスカと影しかいない。だが、まるで通路の方で誰かがしゃべったかのようだった。それほどに、小さく、そしてこの男には珍しい、声音だった。
「なんだい、今更。一体おまえのどこらへんに誠実さが詰まってるって言うんだい。え? その綺麗なお顔も。負け上手な体も。おまえは存在自体はぐらかしみたいなもんだろ」
「そっか」
「ああ、そうだよ。そうだ」
ふう、とニナエスカは煙を吐いた。
沈黙が降りた。
室内の気配は立ち去っていない。それを了解しながら、振り向くことなく、椅子の髙い背もたれにゆったりと体重を預けた。
そのまま暫く、静けさに任せていた。
紫煙がゆらゆらと天井を覆っていく。くらくら、ふわふわ。音もなく、形もなく。まるで、この館そのもののようだ、ひっそりと、蠢いている。
二十分ほどした頃だろうか。
ばさり、とカーテンが翻る。
「……行くのかい」
ニナエスカは遅れて声をかけた。やはり振り向くことなく。
「うん」
「そうかい。今回は早かったねえ。次はいつ戻る?」
返事はない。
もしかしたら、もう戻らないかもしれない。
いつものことだ、とニナエスカは思う。
生と死のきわどい狭間でしか、「生きていること」を感じられない。こいつはそんな男だ。きっとどっかで何の変哲もないケンカに巻き込まれちまって、そして、ころっとドブ死体にでもなるのだろう。
「……ねえ、赤毛のヌイ・マルカや」
そう思っていたので、ニナエスカは、じぶんが何故このとき呼び止めたのかよくわからなかった。
ただ、今夜は胸が騒ぐからかもしれない。
相手がガラにもなく落ち込んでいたからかもしれない。
今日、二十年ぶりに久しぶり過ぎる顔を見たからかもしれない。
「おまえはさあ、昔からあたしを喜ばせるのが上手かったんだ。おまえが初めてケムリモノに出たときのことだよ。あの日、ご褒美にって表通りで氷菓子を買ってやったろう? 覚えてるかい? くくっ。おまえ、……あたしに何ていったと思う?」
「忘れた」
「忘れたかそうか、ははっ」
天井に、もったりとした煙を吐いて笑う。
「駄犬め! ここぞってときに嘘がつけないんだから。そんなだから逃げられちまうのさ、生涯一人の花嫁ってやつにねえ!」
くっく、と喉が震える。
くらくら。
紫煙が、喉の動きに合わせて小刻みに立ちのぼる。
次の瞬間。
きしり、と微かな重力が椅子の背もたれにかかって、そのまま、背後から、ニナエスカの耳元に――
思わずニナエスカは瞼を閉じた。
次に目を開くとき、部屋にはもう、なんの気配もなかった。
ふう、とひとつ息をついて、ニナエスカは、頬杖をつき、窓の方を眺めた。部屋はとんと静かになっていた。まるで初めからニナエスカしかいなかったかのようだ。ガランとしている。
ただ、緋色のカーテンだけが、いつまでもいつまでも揺れていた。
そんなものだった。
夏の陽射しと。はためく屋台の旗、氷菓子の甘い涼しい香り。
――ありがとう、ニーナ姉様。
耳の底に残る、幼い声。
今となっては、もう、そんな思い出が残るばかりだ。
陽射しが陰っていくのが床に朱色の筋を引いている。
それを追うように、ニナエスカは馴染んだ書斎の馴染んだ椅子の方へとゆっくりと進んだ。
今日は少し疲れていた。
偽物の左足がいつもより重い音をたてる。
ふと、ニナエスカは立ち止まった。あまり座りたい気分ではなかったことに気づいたのだ。
今日は何も吸っていない、比較的に空気の良い部屋を見回した。
やがて、ニナエスカは窓辺の方へ歩くと、窓板を片手でがらがらと押し上げた。
ふうわりとした夕暮れの風。
ニナエスカは、窓辺に佇み、なにげなく暮れゆく空を眺めた。彼の纏うフリルを風がかさかさと揺らしている。
久しぶりのでかい戦だ。
ニナエスカは思った。
大立ち回りだ。これは、じぶんにとって希少な転機だ。そんなときに、アレがいなくなっちまったのは少々、都合が悪い。
だが、そんなものだ、とニナエスカは思う。
正直、少しばかり呆気にとられた。逃げ出すのならば、女の方だと思っていたからだ。だが、ニナエスカの元には、今、肝心の男はおらず、女の方だけ、残っている。
それだけのこと。
ニナエスカは紫色の唇で笑んだ。
今は辛気臭いことはなしだ。
そうだろう?
明日は、あたしの晴れ舞台なんだから。
空に夕焼けが滲み、溶けていって、群青色が広がり、やがて漆黒の帳が降りる。そんな時間まで、ニナエスカは、ただ窓辺に佇み、薄灰の瞳で空を睨んでいた。




