27.
ケムリモノの闘技場に来るのはこれで二回目だった。
だが、今は観客がいない。一千のロウソクだけが、煌々と、円型に段を作る観客席を照らしあげていた。
今は昼だが、地下には当然陽射しは届かない。
外は曇っていたはずだ。たしか。雨が心配だったが、ニナエスカがお気に入りの占い師によると明日は快晴なのらしい。
今日の天気を、アウリスはなんとなく思い出そうとした。
目の前の女から気を逸らそうとしていたのかもしれない。
「何故だ」
シェアレアは、ぶるぶるしていた。
その顔は、青い塗料を塗りたくっていなくても血色が悪い。怒りで蒼褪めていた。
「何故おまえが出てくるのだ、黒炭七課!」
「そっそれはわたしも未だに疑問なのですが!」
思わず同意してしまう。
事の起こりはこうだ。
昨夜、ラーナとニナエスカとのあいだで共闘の話し合いがあった。猫じゃらしの公開処刑を阻止するという目的の前に、二者の勢力を合わせようというのだ。
結果からいうと、話し合いは成功した。
だが、問題がひとつあった。
ニナエスカは、アーブラ騎馬民族が今回の作戦に参加しないことを、協力の条件とした。
現在、王都にいるアーブラ騎馬民族は総勢45名。
シェアレアが南の保留地から連れてきた者達。
この数は戦力になる。アーブラの人間達は、誰もが馬を駆け、剣を振るえる戦闘員だ。戦場ではさぞかし頼れる仲間になるだろう。
それをついぞと切り捨てるのも惜しい。
それに、問題は他にもあった。
「シェアレアとは既に話し合いを終えていてな。シェアレアは……あなたが協力することを条件としてわたしに協定を提示した」
ラーナによると、つまり、現状は板挟み。
ニナエスカは、シェアレアがいなければ力を貸してやる、という。
シェアレアは、ニナエスカがいれば力を貸してやる、といっている。
一見、どうにも相容れないふたつの条件だった。だが、ニナエスカはそれを鼻で笑った。
「つまり、あたしとおまえが手を組む為には、あの女が邪魔だってこった。あたし達が共闘すると知ってあいつが飛び入ってくるというなら、あたしは抜ける。それだけさ」
ニナエスカの勢力は。
罪人、用心棒総合わせ、120人。
名無しとの金銭を巡った契約の手前、ニナエスカはアウリスに助力することが既に決まっていた。名無しが姿を消したからといって、ニナエスカはそれを反故にする様子はなかった。契約を重んじるビジネスマンなのだ。
ただ、それは、ラーナと共闘することとは違う、と彼はいう。
「おまえと手を組むことはなくなっても、あたしは何も変わりゃしない。あたしはあたしの契約を果たすだけだ」
ニナエスカの言葉どおり、二者が協力しない場合、二日後の処刑場では、ふたつの勢力がまったく別々のルートを辿って、処刑をめちゃくちゃにするだけだ。
だが、それでは効率が悪い。
第一、処刑場がそんな渾沌としたことになれば、猫じゃらしを救出する計画のリスクも上がる。処刑をめちゃくちゃにするどころか、アウリスらの目的達成すらめちゃくちゃになってしまう。
「悩むことはない。おまえ達が取るべき最善の道はひとつさ。あたしの前からあの女を消せばいい。あの女が身を退くなら、あたしはおまえと仲良く隣同士で戦ってやろう」
ニナエスカは、そう言って、にやりと紫色の唇を歪めた。
黒炭は、その夜、ロウソクの下で長いあいだ相談して、ひとつの結論を出した。
そして今朝、アウリスはラーナの言葉をニナエスカに伝えた。
「黒炭はニナエスカさんと手を組みたいです」
その為ならば、シェアレアの、アーブラ部族の願いごとを切り捨てることになろうとも。
「それがラーナの答えかい?」
「はい。でも」
少し迷ったあと、アウリスは、彼女自身の言葉でこう伝えた。
「話し合えるなら話し合う方がいいと思う。黒炭には関係ないことだから、わたしたちは手を出しません。でも、今日シェアレアさんが会いに来ることになってるんでしょう? だったら、そのとき一度話してみたらいいと思う。そのときに手伝えることがあれば、わたしも手伝います」
アウリスの一存だから、「わたしたち」とは言わなかった。
でも、ニナエスカはそれを聞いて、妙に満足したような、なんだか信用ならないような、含んだ笑いを浮かべた。
……で、現在に至る。
「あなたはわたしを見くびっているのか!」
シェアレアが一喝した。
凛と背筋を伸ばした立ち姿で、格子の手前に佇むニナエスカの方を睨む。
鳥籠のなかには、見合うアウリスとシェアレア、立ち合い人のラーナ、その背後に、肉だんごとアルヴィーン。アウリス側には、ニナエスカと、ニナエスカ師団が四人、いる。シェアレアの背後は空っぽだった。でも、格子を隔てたところには、騎馬民族十人前後がひしめいており、前方の者を押しつぶすようにして格子に齧りついている。
「それとも愚弄しているのか。わたしは、兄君様、あなたとの決闘を申し込んだはずだ。それをあなたは受理したはず」
「したよ」
「では何故戦わない!」
「おまえねえ。無茶言うんじゃないよ。こちとら何年、何十年って戦場に立っちゃいないんだ。もともと体も欠けちまってるし」
「それは七年戦争でのあなた自身の怠慢のせいだ!」
「あー、うるさい、うるさい。だから代打を出してんだろーが」
「代打!?」
しゃん。
いきなりシェアレアが抜いた。きらりと刀身が光る。
彼女の凶器は、一言で言うと斧もどきだった。ただ、刃渡りが異様に広い。斧の形をしてはいるが、持ち手の部分は剣のように長く、細身だった。重さも相当のもののはず。
その斧の刃を、ずん、とシェアレアはアウリスの方に向けた。
「このひょろひょろとした見るからに脆弱でどう見ても下っ端な娘ガキが、あなたの代打だと申すか!」
「……ひょ、ひょろひょろって」
「わたしの相手だと申すか!」
シェアレアが毅然と言い放つ。
アウリスは少しばかり不満だった。確かに、体格では他の傭兵に劣るかもしれない。でも、アウリスなりに剣筋を極めてきたし、腹筋も背筋も三角筋もほぼ毎日鍛えているし、持久力を上げる為の特訓だってしてきたし、何より仕事も百戦錬磨なのだ。よっぽど体は引き締まっているはず。
……もちろん、ライラやアンナには負けるけれども。目の前の、騎馬民族的遺伝子に恵まれた異民族の女の骨格とは、さすがに違うけれども。
ニナエスカが、ふう、とため息をついた。決戦の立ち合いで流石に水煙草を吸ってはいなかったが、文句なしに気怠い仕草だった。
「ったく文句の多いことだねえ。ああ、そうだ。あたしの代打をするはずだった駄犬がしっぽ巻いて逃げちまったんだよ。逃がしたのはそいつのせいだ。だから、そいつが引き継ぐのが筋なのさ」
ニナエスカはそういうつもりだったのか。
でも、常に腹に一物あるひとだから、よくわからない。そうとも限らないかもしれない。
思わず少しだけ振り向くアウリスの方へ、ニナエスカは大きく笑みを浮かべた。
「よそ見してるんじゃないよ。シェアレアを倒すのはおまえの役目。あたしを失望させるなよ、アウリス」
「ニナエスカさん……」
どこかで風が唸った。
ヴん、と、言われる傍から刃が迫る。
慌てて木刀を握る。
斜めに後ずさりして、踏ん張り、振り下ろされる斧を待ちぶせた。
ガツッ、と木工の部分が鳴り合う。
なんとか相手の持ち手の部分を受け止めることができた。刃には触れられない。木刀がまっぷたつになってしまう。
攻撃は重いが、スピードはあまりない。そういう武器なのか。
分析しているあいだにも、シェアレアが素早く足を後退させて、斧をかまえなおした。
「抜け、アウリス」
シェアレアの目は静かだった。
薄いグレーと薄い青が混ざり合ったような色の瞳。馬を駆けていく草原を覆う、乾いた空の色。その静かな、憤怒。
「おまえに恨みはないが致し方ない。これが兄君様のお心ならば従おう。わたしは、おまえを血祭りにあげ、この刃を兄君様に届かせるのみだ」
「……」
最初に攻撃を受けたとき、予感があった。スピードは速くない。でも、それは最初のうちだけだ。斧の重さをいつまでも木刀で受けきれるとは思えなかった。
アウリスは、ゆっくりと木刀を腰になおした。
そうして、隣の柄を握り、すらりと刃を抜いた。
ぴくりとラーナの気配が動く。
ラーナは、二者の公平な立会人としてここにいる。色々あってアウリスが代打を務めることになってしまったけれど、これは、まぎれもなく、ニナエスカとシェアレアの決闘だ。
近くにいたからラーナは気づいたかもしれない。
シェアレアの方は、一度困惑げに眉を動かした。
だが、すぐに、凍てつく眼差しに戻った。
「……それも、兄君様の意思か」
注意深くシェアレアとの間合いを測りながら、アウリスは、剣を両手に構えた。
「いいえ、これはわたしの勝手です」
一瞬。
シェアレアの顔が、泣きべそをかく子供みたいに歪んだ気がした。
耳をつんざく音。
斧の刃渡りが地面を削って、やってくる。
次の瞬間には、横に寝かせていたはずの刃をシェアレアはまっすぐに振りしきった。
刃と刃が鳴る。
最初の一撃のときは見る暇がなかった。これは、シェアレアの頭上を、そして足元を、掠めるように振り回しながら操る武器なのだ。そうして遠心力を高めて、一気に叩く。
重い。
ぎちぎちと刃が軋みあう。
アウリスは踏ん張った。
ずん、と重力がかかる。シェアレアが一度押して、アウリスが一度押し返して、そうして相殺された力のままに、互いに飛びずさった。
「なまくら刀を……」
シェアレアが、頭上で斧を大きく旋回した。ヴンン、と重力が薙ぐ。
「わたしに向けるな!」
打ってきた。
アウリスは前に出た。
最初の踏み込み。それを軸足にした。身の脇を固め、斧の左右から自在に吹きすさぶような攻撃をきわどいところで見極めながら、己の刃で徐々に前進していく。
……ニナエスカは。
ほんとうに、名無しを代打に出すつもりだったのだろうか。
彼はきっと殺した。
ケムリモノの三人のように、あっさりと。
もしくは、メーテルにしたときのように、苛めて殺した。
でも、そんなことはニナエスカもわかっていたはず。じぶんの血を分けた妹にそれをしただろうか。
アウリスにはそうは思えない。
でも、ほんとうはわからない。
『俺があれに返しておく』
そう言って、アルヴィーンは、金袋を手にシンフェの元に赴いた。朝早くのことだ。
二分くらい経ったあとで、激しい口論が聞こえて、アルヴィーンの体が、開いたままの戸から通路の向かいの壁まで吹っ飛んだ。
『どうしてもっていうのならもらってあげましょう』
様子が心配で待機していたアウリスと肉だんごの前で、シンフェは、用心棒らしい男と共に姿を現した。
彼女の髪はひどく乱れていた。昨夜客を迎えたときのままなのか、剥げかけたおしろいと化粧の跡が、朝日を浴びて、青白かった。
『返さないでいいっていったのに』
シンフェは一瞬だけアウリスの方を見た。その恨みのこもった眼差しがアウリスを飛び上がらせたが、すぐに彼女の目線は逸れた。
『ええ、わたしは年季明けを待つ身です。お金は多い方がいいに決まっている。でもね、弟にたかるほどに落ちぶれてはいないのよ。わかったら、もう、こんなものを持って会いに来ないで頂戴。というか、もう会いに来ないで。これが本当のほんとうに最後よ』
『年季があけたら』
アルヴィーンがシンフェを遮った。
『あんたの年季があけたら、もう持ってくるのをやめる』
アルヴィーンは、憮然とした顔で、壁にしたたか打ちつけた背中の方を気にして、こきり、と小さく肩を鳴らした。
そうして、二人は暫く見合った。アウリスと肉だんごはハラハラして見守っていたけれど、それは、とても短いあいだのことで、やがてシンフェが部屋の奥に引き返して、アルヴィーンも、何事もなかったかのように、閉じた扉の前を去っていった。
アウリスはシンフェの嘘を知っている。
そして、多分、アルヴィーンも嘘をついている。
方や、知らせないようにして。方や、知らないフリをして。
意地っ張りだ。
それだけのことかもしれない。
でも、お互いに嘘をつくことが、この沈黙こそが、二人のあいだでずっと通じてきた優しさと真心だというような気がした。
だから、今もわからなくていい。
そういう家族もある。
人それぞれなのだ。
アウリスがわかるのはじぶんの気持ちだけ。
「アウリス!」
肉だんごが悲鳴を上げる。
ぱん、と豆が弾けるような音だった。斧と、刀身が交わった瞬間、そんな音をたててアウリスの剣は折れた。
シェアレアのグレーの瞳が笑った。
「っ」
慌てて間合いをとる。
シェアレアは、余裕のある動作でゆっくりと斧を肩の上に寝かせた。その眼差しだけは鋭くアウリスを射ている。
「おまえの諸刃は完全に折れた。戦士たる者、一日たりとも刃の手入れを怠らぬことは当然だ。それを、……おまえたちはなんだ? 錆刀より尚悪い、そのように、軽く叩くと折れるほどに傷ついた刃で、戦場を踏もうとは」
「……そう、ですね。さっきも言いましたけど、ニナエスカさんの意思じゃありません」
「ではおまえの意思か? その怠慢が?」
怠慢……なのかもしれない。
アウリスは、剣の先端に目を向けた。鈍い色の刃渡りは、三分の一ほどのところで見事に潰れていた。先っぽは、相手の足元にぽろりと転がっている。
(すごい威力だな……)
剣が折れたのはシェアレアの一撃のせいだけではない。もともとアウリスが傷つけていたのだ。今朝、朝早くに中庭の木のところで、その巨大な幹を叩いた。刃がこぼれて切れ味がなくなっていたのは、何度もそうやったせいだ。
だが、幾ら傷ついていたとしても、黒炭の鍛冶屋が三日三晩火と戦って鍛えた刃を、そうやすやすと折ることはできない。
こうやって、折れたのを見ると、少し寂しい。
じぶんが了解していたことでも。
「降伏せよ」
シェアレアがそう言って、飛び出した。
両手に剣を構えなおして、アウリスも彼女を目指した。
アウリスは中途半端だ。
セツの話を聞いたときに思った。
姉を助けてくれてありがとう。
じぶんがセツの立場だったらきっと同じことをしただろう。殺しただろう。
そう思った。
……でも、したくなかった。
そんな究極の局面に立ったときに、じぶんが、じぶんでしたくないことをしてしまうことが、怖ろしくなった。
結局、そういうことなのだ。
アウリスは、それでも剣を捨てることが出来なかった。せいぜい、人を殺してしまわないように小細工した程度だ。
中途半端。
でも、これが、今のアウリスの天井だ。
背伸びしたって、名無しの強さはアウリスにはない。
背伸びしたって、リシェールの強さはアウリスにはない。
でも、強くありたいと思う。
アウリスは、そんな自分の在り方すら、ここ暫く見失っていたのだ。
「な」
ふいに、シェアレアの唇が動いた。
五歩という距離だった。彼女の両側に、人影が落ちた。
予想外のことにアウリスも息を呑む。
ライラが槍を横薙ぎにした。それを避ける為にシェアレアはバランスを崩して、そこに、逆側からアンナが鎖を躍らせた。
鎖がうなる。
膝の裏……甲冑と甲冑のきわどい隙間だ。そこを抉り、さらに、足首の方へと勢いよく駆けた。
バチッと嫌な音。
足を掬われるようにしてシェアレアは尻もちをついた。
彼女はすぐさま立ち上がろうとしたようだ。
だが、遅かった。
ライラと、そしてアンナが、左右で抜刀して、シェアレアの動きを封じた。
「勝負あり!」
ラーナの声が高らかに響いた。
シェアレアが驚いた顔でアウリスの方を見た。アウリスも、きっと何が起こったのかわからない顔をしていたはずだ。
二人が唖然とする間にも、格子の扉が開いて、外の騎馬民族たちがなだれ込んできた。
「シェアレア様!」
「お怪我は!?」
「……え、ま、待て!」
シェアレアはハッとした顔になって、歩み寄るラーナの方に叫んだ。
「待て! わたしはまだ戦える!」
「ん? 喉に刃突きつけられてるだろ。チェックメイトだ」
ラーナがのんびりと告げた。
「は! 何を言う! そもそもおかしいじゃないか! この者らは決闘の場に乱入したんだ! これは規則違反だ。いや、あのままならわたしが勝っていた。これは妨害行為だ。神聖な決闘を汚す行為だぞ! わたしは断じて負けてはいない!」
シェアレアの怒鳴り声が響く。
それに、耳障りな金属音が重なった。
騎馬民族が、シェアレアを囲い、一斉に抜刀したのだ。
刃がロウソクの灯りを反射する。
ライラとアンナは、じぶんの方に定められた刃に視線を向けた。だが、武器はしまわない。
戸惑うアウリスの方にも槍の切っ先が向けられたが、それはぱんっと弾かれた。
手前に、滑るように入り込んだ人影。
アルヴィーンと肉だんごだ。
彼らは、アウリスの左右に立って、腰の剣を抜いた。
――ガァアンッ!
「……やかましいねえ。あア? 小娘が」
と、そのときになり、格子が爆発した。
シェアレアが鋭い視線を向ける。
アウリスも目だけを動かして振り向く。
ガドン、ガドン、と不自然な足音が床を穿った。巨体をやや不安定に傾ぎながらやってきたニナエスカは、刃の囲いを無いもののように抜けて、アウリスの横を素通りして、シェアレアの前に立った。
「剣の腕だけじゃない。馬を駆ける足だけじゃない。こういう力の形もあるってことさ。それを見抜けなかった、おまえの負けだ」
「……な」
「ここはニナエスカさんの勝ちだ」
ニナエスカは宣言した。感情の籠もらない声だ。だが、言いえない重さと威圧感があった。
「……兄君様」
シェアレアは一瞬怯んだようだが、すぐに大きく首を打ち振る。
「ちがう! こんなの納得できない!」
「あア? 何言ってんだテメエは。サシで勝負だ、周りのモンは手ぇ出すな、だ、決闘のルールにそんなものがあったかい? あたしはなんにも聞いてないねえ」
「き、聞いてないって……ふつうはそうだろう!」
「知らん」
シェアレアは呆気にとられた風だった。
一方のニナエスカは、億劫そうに片手を小さく動かした。
それを見て、ライラとアンナが武器を引いた。そのまま立ち上がり、距離を取る。騎馬民族は刃の囲いを向けたままだ。
地面に膝をつくシェアレアの方を、ニナエスカは見た。シェアレアも彼の方を見上げた。立ち上がりこそしなかったが、その眼差しはまだ死んでいない。
「わかったかい? だったら、とっととおうちに帰りな。物騒な部下を連れて直ちに南に帰れ。ここには、この王都には、もう、おまえの居場所はない」
「……あ」
シェアレアは何か言いかけたようだった。
一度口をつぐみ、どこか茫然とした表情で彼女は俯く。
「……話も、聞かぬというのか。こんなの、へんだ。こんなことがあってたまるか、こんなおかしな決闘が、あるか、こんな……」
ぐ、と斧を握る。
「兄君様は、ほんとうにアーブラがどうなってもいいというのか!」
「そう言うおまえはアーブラを殺す気かい?」
シェアレアが閉口した。
「アーブラの旗を翳して国家の処刑場に乱入する。そいつは謀反だ。宣戦布告だよ。アーブラが、ヴァルトール王国に反旗を翻したっつーことになる。そうなると、ヴァルトールは必ずアーブラを潰す。一族全員皆殺しだ。ヴァルトールにとっちゃあいい口実程度かもしれない」
その言葉に、騎馬民族のあいだで動揺が走った。動くことこそしなかったが、彼らは、剣を握ったまま、顔を見合わせた。
「……そんなことはない」
そんななか、シェアレアの声はいやに弱く響いた。
彼女は、眉をひそめ、ニナエスカを見上げた。
「ちがう。なぜなら、アーブラはもうとっくに滅びの道を歩んでいる。アーブラはヴァルトールにゆっくりと殺されている」
「そうだ。だから」
「だから!」
ガッと地が割れる。
ニナエスカを遮るように、シェアレアの拳が地を叩いた。
「今こそ戦う! 今こそ仲間の為に起つ! でないと死が待つのみだ!」
「ここで起っても死ぬ。このまま何もしなくても死ぬ。おまえは本当にわからないのかい?」
「わたしは戦う!」
「……これは負け戦だ、シェアレア」
ニナエスカの静かな声に、空気が変わった。
アウリスにはそう感じられた。
信じられないものを見るように、シェアレアはニナエスカを見上げていた。その、激しい困惑か、怒りか、悔しさ、様々なものが入り混じった眼差しを、ニナエスカは真向に受けた。
ニナエスカは、静かだった。
彼は、相手と同じ色の瞳を細めた。
まるで、遠くを見るように。
「こうなることは、もう、とっくの昔に決まってたんだ。何十年も前、七年戦争でヴァルトールが王者になったときから、アーブラの負けは決まっていた。……それだけだ」
シェアレアは押し黙っていた。
彼女の周囲も緊迫した沈黙に包まれている。
やがて、ニナエスカは目線を逸らした。
急に興味が失せたかに、ニナエスカが踵を返して歩きだすと、二人の用心棒たちは顔を見合わせて、急ぎ足に彼の方を追った。
こうして、決闘は幕を閉じた。
アウリスは突っ立っていた。肉だんごが何か言いたげにシェアレアの方を見ている。アルヴィーンはアウリスを見ていた。
アウリスは、ニナエスカの代打だ。
今の顛末に、両者が、ニナエスカとシェアレアが納得しているのならば、それだけだ。誰も口出しすることはない。
「覚えていますか」
ふいに、ニナエスカが足を止めた。
アウリスは、その背中を見上げ、そして、シェアレアの方を見た。
シェアレアは地面に膝をついていた。もう誰も彼女の動きを拘束していない。だが、彼女はうなだれたままだった。
それは、ひどく、敗北感を纏わせる姿だった。
「……八歳くらいのとき、二人で、将軍の叔父君に挑んだ。兄君様は将軍の地位が欲しいといった。なので、わたしも欲しくなった。無論、あまり意味はわかっていなかったが、それでも欲しかった。我々は二人で戦った。無論、大人の叔父君にかなうはずはなく、わたしたちは完敗だった」
シェアレアはニナエスカを見上げた。でも、彼は振り向くことはなくて、彼女はまた目を伏せた。
ほんの微かに、笑いながら。
「……わかっていた」
ぱたぱたと。
地面に落ちていった。
「知ってたんだ、負け戦だと。わかっていたさ、……今も」
でも、とシェアレアは相手を睨んだ。
「それでも一緒に戦ってやると言って欲しかった……!」
大粒の涙がぼろぼろと溢れる。
草原を覆う、乾いた空の色。
それが止めどなく、溢れ出していく。
シェアレアが、青い塗料が滲んでぐちゃぐちゃになった顔を、乱暴に手の甲で拭う。
アウリスたちは固唾を呑んで見ていた。
背後を、無言でアンナが振り向く。ライラも、目だけを動かしてそちらを見て、そして、どこか不安げな顔で、ニナエスカの方を見上げた。
暫くの間があった。
やがて、ニナエスカが、大きく、唸るように、息を吐いた。
「……やかましいねえ」
ガン、と義足が鳴った。
ニナエスカは足のつま先を向けた。苦虫を潰したような表情とはこういうものを指すのだろう。
「なあんだ、そういうことなら話は別だ。ただでは負けない、負けるからには誰かを道連れにする。……あたしは、そういう狂犬は好きさ」
シェアレアは放心したように彼を見ていた。
ニナエスカは大袈裟に顔をしかめた。
「ただし!」
そして、ぱっと手のひらを上向けた。
ライラが速やかに懐の水煙草を出した。てきぱきと準備をして、どこからか火打石まで出して打ち、蝋を焦がして、葉を投げ入れた。
瞬く間に、濃い苦さが漂った。
「アーブラの名の元に戦うことは許さない。あたしの、王都のニナエスカさんの為に戦うんだ。旗なんて立派なもんは持っていやしないよ。……王都の泥水と肥溜ん中で生まれた罪人どもと同じ戦場を踏んでもらう。いや、同じになってもらう」
ニナエスカは、すう、と煙を大きく吸った。
「それでもよけりゃあ、使ってやる」
くらくらと紫煙が上がる。
シェアレアは岩のように動かず、茫然としてニナエスカの方を眺めていたが、やがて、目線を伏せた。
「それでいい」
シェアレアは静かな息をついた。
満足した、ため息。
「そもそも、わたしは決闘であなたに負けた。わたしはもうあなたの所有物だ。あなたの指示に従おう」
「いらんわ。おまえなんか。アウリスにでも嫁ぎな」
「そのひょろりんこは嫌だ」
シェアレアがびしりと斧を突きつけた。アウリスは思わずムッとする。
「兄ぎ……いや、旦那様」
シェアレアが、音もなく斧を地面に寝かせた。
ざ、と地面が揺れ立って、彼女の背後に控えていた騎馬民族たちが一斉に片膝をついた。その最後に、シェアレアが頭を下げた。
「ふん、お行儀のいいこった」
ち、とニナエスカが小さく舌打ちする。
そのまま、彼は踵を返して、ライラとアンナと共に鳥籠を出て行った。
シェアレアたちは、彼らが闘技場を出るまでずっと敬礼していた。その様子を見て、ラーナがのんびりと頭の後ろを搔く。
「つーか、嫁ぐのか? そういうのヴァルトールでは近親相姦っていうんだが」
「ラーナってば!」
思わずといった風に肉だんごがつっこむ。
「ヴァルトールの風習など知るか」
シェアレアは顔を上げ、そのまま立ち上がった。それを合図に、騎馬民族たちも呼吸を合わせて立ち上がった。まるで本物の軍隊だ。
シェアレアは、ラーナの方に歩いてきて、手を差し出した。
「おまえにも世話になったな、色々と」
「いや、お互い様だ」
「右も左もわからずいた我々を助けてくれた。ありがとう」
二人は固い握手を交わした。
アウリスは少しばかり取り残されていたが、ふいにシェアレアと目があって、彼女がすたすたと歩いてきた。
シェアレアが前屈みで斧を拾う。
そして、それをまっすぐに向けてきた。
「アウリス」
グレーの瞳は、相変わらず、草原の天を覆う空のような、清々しい色だった。
アウリスは、一拍おいて、右手にしていた剣を向けた。
「ありがとうございました、シェアレアさん」
カン、と。
刃と刃が一度混じった。
手合わせの相手は笑った。
それを最後に、シェアレアは、斧を背負って、騎馬民族たちを連れて出ていった。
「……アウリス」
ふと、見送るアウリスの隣にラーナが立った。
アウリスは、そちらに顔を向けようとして――
「いたっ」
頭が破裂した。
思わず両手で旋毛を押さえ、屈みこむアウリスを見て、ラーナが笑った。アウリスは涙目で彼女の方を見る。
か、甲冑の手袋をはめた手で、一体何を……。
「王都を出ろと言ったはずだ」
「……あっ」
一瞬。
表情が真剣だった。
次には、ラーナは大袈裟な仕草で両手を腰にあてた。
「と、他の二人にもやっておいたので、おまえにもやっておく」
アウリスは肉だんごとアルヴィーンの方を見た。肉だんごは苦笑いを、アルヴィーンは不機嫌そうな表情を、浮かべている。
おずおずとアウリスは立ち上がった。
「ラーナ、あの」
「馬鹿だな」
何か言おうとして、遮られた。
さっきと同じ甲冑の手は、いちど、アウリスの頭を撫でて、離れていった。
「――馬鹿だなあ、おまえら」
そばを、離れていくラーナは。
笑っているような。
困っているような。
嬉しいのか、腹立たしいのか、どっちともつかない表情だった。
だから、アウリスは笑った。




