25.
そう。
アウリスの願いごとは既に叶えられているのだ。
昼間、誰でもないこの男に「ニナエスカがいるじゃない」と言われた。どうして俺を見捨てないのかとも聞かれた。
裏を返すと、現時点で、アウリスはもうすべて与えられているのだ。
アルヴィーンも、火薬も、人材も、全て、アウリスの元に揃っている。
名無しの様子がおかしいのはそのせいか?
アウリスはそんな気がしていた。
今度は、じぶんが願いを叶えてもらう番。
名無しはそう思っているのではないか。
にも関わらず、彼はそれをしなかった。昨日の夜なんか絶好のチャンスだったはずなのに。
名無しは、アウリスの言葉にはっきりと目を見開いた。
アウリスに誘われて、用件はそこそこ察していたかもしれない。それでも、今、明らかに表情が変わった。
それで十分だった。
暫く沈黙があった。
やがて、アウリスは長く、大きく息を吐いた。
手綱を握る手のこわばりが溶けていく。
「よかった」
茫然となっていたので、思わずぽろっと本音が出てしまった。
――だって、ほら。
あなたは黙ってる。
「あなたは迷ってるんですね」
一瞬のことだったが、名無しの目に激しい感情が宿った。それが何なのかはわからない。
アウリスは馬を降りると、手綱を引きながら彼の元に歩いていった。
「……名無しの部屋で絵本を見つけたんです。ごめんなさい、勝手に見て。粉屋の娘の本です、あれ、名無しのでしょう?」
名無しは否定も肯定もしなかった。ただ、愉快そうに、彼がいつも貼りつけている甘ったるい笑みを浮かべた。
それは、作りものではない。
彼の微笑はいつだって本物だった。そのことに、アウリスはずいぶんと長い間、気づくことが出来なかった。
「……ねえ、名無し」
アウリスは、おのずと剣の柄に手をやった。
「……わたしはね、死ぬのは嫌です。あなたはわたしのことを殺したいと思っていますか? それが名無しの願いですか?」
ちりちりとうなじが粟立つ。
ほんとうは、こんなこと聞くつもりじゃなかった。
逃げるつもりだったからだ。こんなことを聞く状況になる前に、全力でとんずらするつもりだった。
アウリスには、この男の願いごとを叶えてあげる気なんて、これっぽっちもなかった。
酷い話だ。
言い訳していたのだ、アウリスは。
こいつに頼るしかない状況だから。仕方ないから。こいつは罪人だから。そう言いながら、一方で彼の強さを利用していた。
この男に心を開くことなんてありえないと思っていた。
「ちがう」
名無しはいきなり片手で顔を覆った。
「困ったなあ。君にはそう見えてるんだ。誤解だよ」
「誤解?」
「君がいってるのはケムリモノのときのことでしょ?」
「え? う、うん、昨日の夜のことも関係あるかもしれない、けど」
「うん、あのときはちょっと危なかった。自覚してる。ちょっと引きずられたというか、アウリスがあんまり可愛い事をするから勢い余って殺しそうになって」
「い、勢いあまってって」
「でも、時間が経ってちょっとずつマシになってきた。今はもう何もしないよ。殺したくなかった。本当なんだ、本当にあのときは、……そう思ったんだよ」
名無しは片手で強く顔を押さえていた。そのままくしゃりと前髪を掴む。何かを堪えているような仕草だった。
「アウリス、あのね、迷ってるんじゃないんだ。俺は我慢してる」
「がまん?」
「俺は毎日じぶんに言い聞かせてる。明日。明日殺せばいいって。ずっと我慢してる。……だって、我慢したら我慢するだけ殺したときに気持ちいいでしょ」
アウリスは言われている意味がわからなかった。
顔を覆っていた手を下ろして、名無しはぼんやりとアウリスの方へ目線を向けた。
「でも、君はどうしてなのか俺の神経を逆なでするのが上手だから、ときどき、ほんとうに殺しそうになってしまうんだ」
突然だった。
かあ、と熱い物が喉を込み上げてきた。
馬の手綱を放す。
ついでに剣に添えていた手も放して、アウリスは大きな動作でずんずんと歩いていくと、名無しの胸ぐらを掴んだ。
ぐい、と彼の襟を手繰る。
名無しはされるがままだった。でも、その眼差しだけはまっすぐだ。近いところで視線が合う。その瞬間に、彼の黒い瞳の異様な輝きにアウリスは気圧された。
でも、その恐怖も一瞬にして霧散する。
「我慢する? それが楽しい? だから一緒にいる?」
……ふざけるな!
もう片方の手が拳を握る。
それをアウリスは名無しの胸に打ちつけた。何度も、何度も。
「――あなたはずるい!」
声を叩きつけた。
アウリスは怒っていた。
じぶんでもよくわからなかったが、たぶん、アウリスは傷ついていた。
「そもそも質問に答えてない! それは迷ってるからでしょう! 答えがわからないからでしょう! どうしたらいいかわからなくて……だから、そうやってはぐらかしてるだけじゃない!」
「はぐらかす?」
「あなたはわたしを殺したくないんでしょう! そう思い始めたから、だから……わたしに何もしなかった」
「何かしてほしかったの?」
「えっ、……そ、そうじゃない」
怯むアウリスに、名無しは微かに眉をひそめた。困ったような笑み。
「……アウリス。君は俺にどう答えてほしいの?」
その困った表情で名無しが覗きこんでくる。
アウリスは言葉に詰まった。
どう答えて欲しいのか。
「……そうじゃ、ないよ」
ふと手の力が抜ける。
アウリスは半ば呆然と、頭上の高いところにある顔を見つめた。
「ちがう。何かしてほしいとか、願いを叶えるとか、そういうんじゃない。もうそういうんじゃないの。……わたしは名無しがわたしのことをそんな目で見るのが嫌なの。それだけなの。わたしは、名無しのことを仲間みたいに思い始めているから」
言葉にしたとたんにズキリと胸の痛みが加速した。
そうか。
ああ、だからじぶんはこんなに怒っているんだ。
アウリスはそっと名無しの服から手を離した。
「……仲間には真剣を向けないよ。脅したりしない。背中を預けて、信用する」
アウリスはまっすぐに名無しの顔を睨む。
「それでも、あなたは、わたしのことがただの殺したい花嫁なの?」
彼の願い事を聞く気になったのも、この為。
アウリスの心はいつからか変わっていたのだ。
それでも、言葉にしたとたんに、アウリスの胸いっぱいにはどす黒い感情が沸いた。
罪悪感かもしれない。
嫌悪感かもしれない。
メーテルの死に様が。彼女と一緒にいた騎士たちの死体の山が。昨日のケムリモノでの三人の姿が。名無しが息をするように無造作に積み上げてきた極悪非道が、じぶんにまで感染するような錯覚がした。
いや、錯覚じゃないのかもしれない。
でも、今の言葉に嘘はないのだ。
「わたしはあなたを信用し始めてる」
「んー、つまり、アウリスはこれからも俺と一緒にいたいの? アウリスの願いが叶った今も?」
アウリスは押し黙る。
そう言われると、すぐ答えがわからなかった。
その沈黙をどう取ったのか、名無しは「うーん」と考え込むように目を逸らした。馬を見上げて、その手でゆったりと胴体を撫でる。
「……よくわからないけど、どっちでもいいよ。アウリスが俺と一緒にいたくても、俺から逃げたくても、俺はどうでもいい」
「どうでも、いいって」
「だって、俺はアウリスより強いじゃない。君が俺のことをどう思っていたって、俺は君を好きにできる。なにも変わらないでしょ」
ぴしり、と、心臓がひび割れる。
そんな感じがした。
黙り込むアウリスの方を名無しが漸く振り向く。そのまま手を伸ばして、彼は彼女の頬に触れた。指の甲で、壊れ物に触るみたいに。
「俺はアウリスが好きだよ、愛してる」
そろりと、名無しの手がアウリスの目の周りを撫でた。
「今日じゃないかもしれない。……でも、君のことをずっと見ていたいと思ってる。君の一番傍にいたい。だからいつか我慢できなくなる。君の前で人を殺さないように我慢するのは好き。君が見てないところで人を殺すのは楽しい。君を想いながら他の子を切り刻んでるとゾクゾクする。君に知られて君が嫌な顔をしてくれたら、もっと嬉しい。……俺はまだまだ君といたいんだ。だから我慢してる。いつか限界まで我慢して、頭がおかしくなるくらい我慢して、それから、やっと君を殺す。たくさんの手間をかけて細かいかけらにしてゆっくり殺すんだ。……でも、そしたらもう、一緒にいられないよ」
アウリスは彼を睨んだ。
頭のなかが混乱している。
名無しは優しげな眼差しのままだった。いつだったか、雨音のなかで目を覚ましたときを思い出した。あのときと同じに、少しだけ寂しげだった。
「それでも、アウリスは今、俺と一緒にいたい?」
このひとは。
アウリス自身のことはどうだっていいのだ。
彼の笑みには、言葉には、偽りがない。
だから、アウリスも名無しの言葉通りに取るしかなかった。
彼の「好き」は絵本のなかの登場人物に恋慕するのと同じことだ。しょせん絵本相手でしかない。生身じゃない。
アウリスのことを、彼と同じ、人間だと思っていない。
じぶんの気持ちを持て余して遊んでいるだけ。内に潜む狂気に翻弄されて我慢しようとして出来なくて自分自身が壊れていく過程を楽しむ。それだけ。
そうなんだろう、とアウリスは理解した。漠然とだが。
それは、ひどく哀しいことだった。
「……ひどい」
堪えていたものが一瞬だけ頬を滑った。
じぶんのエゴなのはわかっている。それでも止められなかった。
「どうして? メーテルさんのこと許せない。殺しを許せないよ。でも、それでも、わたしは名無しのことがどうでもいいって思えなくなった。一緒にいて、何だか、いつのまにか信頼するようになって」
「ちがうよ」
遮るように名無しは笑った。
「アウリスは俺のことなんか見てない。君は俺の強さが好きなんだ。俺の力が好きなだけだよ」
思ってもみなかったことだった。
アウリスは困惑して黙り込む。
「もういい? 戻ろうよ」
やがて、名無しはそう言ってひとつ息をつき、大きく頭を巡らせた。
とん、と小さく地を蹴る。
アウリスが連れていた方の馬が嘶く。名無しはその上に軽々と身を躍らせた。もう一度、アウリスの方を見て、退屈しているような顔で丘の上を見回した。
「名無し」
夕暮れの青い闇が満ちていく。
暗い野原にアウリスは立ち尽くした。
ぴりぴりと、心臓のひび割れが広がっていく。
パラパラと心の欠片が零れだしていく。
錯覚とは思えなかった。
「……待って、名無し」
ざあ、と風が鳴いた。
「つまらない」
アウリスはハッとして顔を上げる。
蹴り上げられた草がばちばちと散る。
高々と蹄の音が遠ざかっていく。馬と、黒い衣を纏うその後ろ姿は、すぐに薄闇のむこうに見えなくなった。
居酒屋は裏通りにあった。
煉瓦造りの小さな店だった。薄暗い路地と一転して、ロウソクの灯りが隅々まで照らしあげているように明るい。カウンターの方はすでに人で埋まっていた。そこそこ繁盛しているようだ。
アウリスはどんよりと居酒屋に入った。重たい足取りで進みながら、きょろきょろとラーナの姿を探す。
「おい! アウリス!」
と、呼び声が聞こえる。
振り向いて、驚いた。
「ニナエスカさん? どうしてここに」
「あア? 聞こえないよ! こっちだ、こっち!」
こいこい、とニナエスカが手招きする。
喧騒のなか、アウリスは彼の座る席へと向かった。角の席。簾みたいなものが、アウリスの頭の少し上くらいまで垂れていた。簾の傍には、ライラとアンナ。
「肉だんごと一緒に来たのかい?」
「はい。肉だんごは今ラーナを呼びに行ってくれてます」
「そりゃいい。ったく、いつまで待たせるんだろうねえ。こっちゃあ忙しいんだよ」
「ニナエスカさんはラーナに会いにきたんですか?」
「ああ」
明日会うって言ってなかっただろうか。
でも、シェアレア――ニナエスカの妹も明日来る、と言っていた。それで予定を変えたのかもしれない。
アウリスはそろりとアンナの前を通って、簾を潜った。ニナエスカがちらりと薄いグレーの目を向けてきた。でも、すぐに目線は逸れた。
「おまえはアレと出掛けるたびに酷い顔になって帰ってくるねえ」
「あの、ニナエスカさん」
「あん?」
「名無しは……?」
「さあ」
ニナエスカは酒のジョッキを掲げた。
「どこに行くかは決めてないって言ってたよ」
「そう、……ですか」
バーカウンターでけたたましい音が響く。
食器の割れる音。次いで、野太い笑い声。
うるさい。
居酒屋の陽気さが今は白々しかった。アウリスは一度そちらを見たが、なんだか気が滅入って、すぐに俯いてしまった。
ここに来る前に、部屋でちょっと泣いた。「ひどい顔」というのはそういう意味だったのだろう。ラーナたちに気づかれたらいやだな、とぼんやりと思う。
名無しは、やはり去ったのだ。
彼はアウリスの元からいなくなったのだ。
今日一緒に野原に出たのを最後に。
なんとなく、そんな予感はしていた。
「……じぶんの言い分ばっか押しつけるからだ」
アウリスは顔を上げた。
ニナエスカが手の甲でジョッキを進めてくる。彼は依然外ばっかり見ていた。裏路地の、灯かりひとつともらない、退屈な薄暗がりを。
「……そう、かな」
「ああ、そうだ。いいかい。この世にはねえ、腹割って話したって解り合えない人種ってのはいるもんだ。そういう輩には何言ったって通じねえのさ。そんなもんだ」
「そう、かな」
「あんたがそれを知らなかったのは井戸の中の蛙だったからさ。そもそも」
ガシャン、とどこかでグラスが割れた。
「うっせえ黙れクソゴラァア!」
「うるさい!」
がごん、と見事にジョッキがテーブルを打つ音が重なった。怒鳴り声も。
麦酒が手元を濡らしてる。
アウリスとニナエスカは顔を見合わせる。
「……なんだか、ごめんなさい。こんな陽気な場所で」
「そういう所が辛気臭ぇってんだ!」
ばしっとニナエスカはアウリスの頭をはたく。ついでに、テーブルの下で義足ががあん、と脛を蹴った。
ものすごい痛い。
「ったく」
どすん、とニナエスカは腰下ろした。
「……脳ミソにウジの湧いたお人好しが。テメエはそうなるように育てられたんだろーが。そうなるようにって、誰かが手間暇かけて大切に大切に育てたんだ。だろ? だったら、テメエはそれでいいじゃないか。これからも、世界の綺麗なところだけを見て歩いていきゃあいいんだ。それは、決して悪い生き方じゃない」
「……そう、でしょうか……?」
「あア?」
「いえ、……なんか悪い生き方みたいに聞こえる。ニナエスカさんが進めるからかな」
「どういう意味だコラ」
ニナエスカがふんと鼻を鳴らした。
「まあ、気にするなってこった。そもそも、あいつが花嫁を簡単に諦めるわけがない。そのうちきっとどっかでフラッと現れんのさ」
まあ、どっかでしょーもない事に足突っ込んでおっ死ななきゃね。
ニナエスカは憮然とした顔で酒を呑んだ。片手で義足を持ち上げて、そうして足を組み、外を眺めるのに戻った。
ふいっと熱が醒めたかのようだった。
アウリスはあまりの痛みにずっと頭を押さえていたが、そろそろと両手を下ろしてきた。そうして、ぼんやりとジョッキを引き寄せる。
アウリスは正直、よくわからなかった。
ニナエスカが言うように、小さい世界しか知らないアウリスだから、わからないのかもしれなかった。
でも、もしも今度また、出会ったら。
きっとアウリスは聞いてしまう。
そんな気がするのだ。
どうして盗むのですか。
どうして殺すのですか。
どうして、わたしを殺したいのですか。
それはアウリスの自己満足だ。でも、今までもそうしていたように、聞きたくなるような気がした。解り合いたくなるような気がした。
ただ、それが、解りあおうとすることが、じぶんと相手との距離を一層広げてしまう、そうなのかもしれない。
そう思うと寂しい。
寂しくて、そして、ひどく打ちひしがれた気分になる。
それから数分のあいだ、二人は無言で酒のジョッキを啜った。周囲はとんと静かになっていて、お行儀よくカトラリーを動かす音だけが聞こえていた。
「おっ裏路地の王子! いたいた、待たせてすまなかったな! アウリスも!」
ばさり、と簾が翻り、ラーナが姿を現した。アウリスとニナエスカはほぼ同時に彼女の方を見上げた。
「ん? あれ、どうしたんだ、二人で黙りあって」
「こいつが赤毛のヌイ・マルカにフラれて落ち込んでるのさ」
「うっ」
「ぬいまるか? ああ、あの赤毛のストーカーのことか。夕方丘に出てたよな」
「なっなんでそんなあっさりと話題に追いつけるんですか!?」
「おまえなあ。わたしを誰だと思っているんだ。猫じゃらし直属の裏師団だぞ。王都でのおまえの護衛を任されてからはおまえの身辺は逐一調べていた」
「かかかっ! こりゃ酷い。ずいぶん過保護な父君だねえ、ええ、アウリス?」
「いえ父様じゃないんですが」
「というか男の趣味悪いな、アウリス」
「あなたにだけは言われたくないよ、ラーナ!」
ニナエスカとラーナは二人で盛大に笑っている。出だしから意気投合できて何よりだ。
「あっ、いたいた!」
むっすりとアウリスが頬杖をついていると、肉だんごとアルヴィーンが何やら両手いっぱいに皿を抱えてやってきた。
「アウリス、見ろよ! 鶏の手羽先だよ!」
「バーで大量に頼んだ」
頼んだのは肉だんごだろう、きっと。
アルヴィーンが一皿ごとに丁寧にテーブルに並べる。
「アウリス、先に少しいいか。他の席に移る」
「え?」
「そうなんだ、ラーナと話してて決めたんだけど……」
肉だんごがごく短く次いだ。ちらりとニナエスカの方を気にしたようだった。
身内の話ということだろうか。
少しピンとくるところもあったので、アウリスは大人しくのっそりと席を立った。
肉だんごが先頭になり、アウリス、そしてアルヴィーンで、三つほど離れた窓辺の席に移動した。
「ラーナは今夜中に話を纏めるつもりだろう」
「え?」
「ニナエスカとの共闘は今最も望ましいかと」
アルヴィーンがちらりと背後を気にする。
簾の方角をアウリスも伺ってみる。ラーナは席につくところだった。アウリスが飲んでいたジョッキを彼女が手繰り寄せたのが見える。
猫じゃらしの公開処刑は、三日後。
時間の猶予はもうあまりない。今後、同じ目的の元に動くのならば、出来るだけ早く、その段取りを進めなければならない。
アウリスも、いつまでも落ち込んではいられない。
アウリスは、目の前のことに集中するよう努めた。
四人掛けのテーブルだった。掛け椅子につくと、すぐさま給仕がやってきて、アウリスたちは一人ずつジョッキを頼む。
給仕が去り、改めてアウリスはテーブルに向きなおった。
「あの、……話って、あの金袋のことですか?」
「そう。あのときはびっくりさせてごめん。前もって話す暇がなくてさ」
「肉だんごが金袋を持ってきたの? セツ先輩がどうって」
「うん、そうなんだ。いや、俺じゃないんだけど、……ちょっと待って」
肉だんごが、おっとと、と皿をぐらつかせて、アウリスに手伝われながらそれをテーブルに乗せた。
直後に給仕がジョッキを手にやってきた。アウリスたちの目の前は、ほかほかの手羽先と泡麦の酒でいっぱいになった。
「えっと、とりあえずな、これを見て」
その食器をアウリスの前からアルヴィーンの手がずらした。
そこへ、肉だんごが何か置いた。ハンカチだ。そう見える。何の変哲もない白い布だが、何か入っている。
アウリスは開いてみた。
簪だ。
それに、首飾り。
見たとたんに、頭のなかが真っ白になった。
一瞬前までの出来事がぜんぶ吹き飛んだようだった。
最初に見覚えがあったのは簪の方だ。黒漆の一本。雛菊の花びらを模していた。真ん中には、水晶の如く無機質に輝く、翠の石。
猫じゃらしのだ。
すぐにわかった。彼のお気に入り。王都に行くときもしていたかもしれない。
「……どうして」
声は掠れた。アウリスは髪飾りを手に取ってみた。やっぱり、猫じゃらしの。
でも。
どうしてここにあるのだろう。
それに、こっちは……?
おそるおそる、首飾りを手に取る。指先が震えている。なんでなのかわからない。
次の瞬間、アウリスは食い入るようにそれに見入った。
いや、初めて見たときに見覚えがあったかもしれない。けれども、気づくことはなかった。まさか思いもよらなかったのだ。
首飾りは、石をひとつ嵌めていた。
これも、緑色。
でも、猫じゃらしが好んだものとは少し違った。猫じゃらしも翠が好きだったけれども、これは彼の趣味ではない。シンプル過ぎる。
これは、ジークリンデの旗色と同じなのだ。
随分と古い記憶。
いつも頭の高いところにあった。白いフリルか、金糸の入った三つ襟の、首元。そこに揺れていた。
花緑青の色。
アウリスは出会うことがなかった、亡き母の瞳と同じ色。父が愛した色。亡き父の纏っていた、首飾り。
「……リシェール、ねえさま」
ぼろりと零れた。
まるで、何年も封印し続けていた記憶の欠片が零れたかのようだった。




