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24.


 その後は一目散に退散した。

 囚人たちは、手分けして馬車に乗せたり、馬に二人乗りさせたりした。

 馬車も馬も当初の計画にはなかった贅沢だ。馬車の方は、石投器を移動させる為に必要だったが、いざ逃げるとなると遅すぎたはずだった。石投器は二匹の馬で引いてもまだまだ重たいのだ。

 その石投器を手早く降ろして、そして、余分に連れてきた馬を貸してくれたのは、例の謎の鳥遣い軍団だった。

 ラーナと彼らはどういう関係なのだろうか。

 二者が共闘していることはわかっていた。だが、いちいち立ち止まって聞く暇もない。

 アウリスたちはバラバラになってアルゴマ収監所から逃げた。

 徒歩だと辛かったはずの距離も短く感じられた。アウリスたちは、陽が傾くより早くにニナエスカの屋敷に集結した。

「アウリス、ずいぶん飛ばしたけど体は平気?」

 裏路地で馬を降りていると、肉だんごが同じにしながら聞いてきた。

 そういえば随分調子がいい。

 というか、アドレナリンのお蔭かもしれない。

 昨夜は一睡もしていない。体だって、顔だって、あちこちが痛いのに、まったく疲れを感じられなかった。

 だが、仕事の後はだいだいアウリスはこんな感じだ。

 七課で出動したあとには、不思議といつも、アウリスはみんなの飯炊きをするだけのエネルギーが残っていた。

 アウリスがそう言ったら、肉だんごはどこか嬉しそうに笑った。

「……ほんと無茶するんだから。凄い顔になっちゃって、もう」

「うん」

「刑吏の奴らもひどいよな。俺が牢屋にいたときもひどい奴いたよ。囚人殴ったりさ。女の子の、しかも顔を傷つけるなんて信じられないよ」

 怒った口調で言いながら、肉だんごは明らかにホッとしている。なのでアウリスは訂正しなかった。顔の痣はアルゴマ解放のときのものではないのだ。

 アウリスは辺りを見回した。

 馬の綱引きに場は騒然としていた。ラーナはここにはいない。別の場所で一度集まったあと、屋敷に来ると言っていた。

 馬がまた一頭、路地裏に入る。多分あれが最後だろう。

 アウリスは水筒の蓋を閉じた。

 肉だんごと別れて、馬から降りる名無しの方に歩いていった。

「お疲れさまでした。……すごい活躍でしたね」

「ん……?」

 名無しは服で顔の泥を拭った。頬がほんのりと赤い。表情こそあまり変わらなかったが、息も上がっているようだ。

「ニナエスカさんの集めた資料にあったんですけど、あの門ね、普段は刑吏が三人がかりで開けるそうなんです。名無しはそれを一人で開けたんですよ。……一緒に連れて行った一人はカラクリのある小屋の前に立たせてたんでしょう?」

 名無しは首を傾げた。二秒ほどして顔を拭う袖を下ろして、アウリスの方を見た。

「三人?」

「はい。だからもっと人連れて行ったら、って言ったの」

「……」

「でも名無し、わたしの話を聞かなかったじゃないですか」

 名無しがぼんやりとアウリスを見た。

 暫く二人は見つめあった。

 やがてアウリスは我慢が出来なくなり笑った。名無しは僅かに目を見張った。

「……でも、名無しだったらきっとどうにかするって思ってたんですよ」

 名無しはやはり少しばかり血色良すぎた。ほんのりと汗に湿っていて、呼吸は押し殺しているようだが、だいぶん上がっていて、暖かそうだった。

 そのせいか、少しだけ、いつもより血の通った人間に見えた。

「名無し、あのね。後でついてきてほしいところがあるんです。夕方時間ありますか?」

「ついてきてほしいとこ?」

「はい」

「俺とアウリスの二人だけで?」

「はい」

 少しだけ、頭の中が透明になった。

 アウリスはすれ違いざまにホウキを奪っていった。名無しは何も言わず、彼女に目線を向けられると小さくうなずいた。





 アーブラ部族、という騎馬民族がいる。

 彼らは、彼ら自身のことを「ユースゥリア」、四本角の馬、と呼ぶ。

 先の収監所解放で聞いた「四つ角」という言葉はそこからきている。四本の角を捻った犯罪者用語だったらしい。

 アーブラは、七年戦争に敗北した民族のひとつだった。

 騎馬民族の彼らには土地はなく、決戦後、彼らのことをどうするか国内で問題になった。

 そんななか、ひとつの妥協策が挙げられた。

 勝者であるヴァルトール王国は、己の土地の一部をアーブラ民族に与えたのだ。

 その土地は、領土ではなく、「保留地」と呼ばれる。アーブラは、他の領土とはちがって、ごく軽い税と穀物の奉公義務を与えられ、土地の執権を、自由を約束された。

 彼らの足と引き換えに。

 とどのつまり、そうすることで、もともと遊牧民だった彼らをひとつの土地に繋ぎ留めて、管理しやすいようにしたのだろう。

 それでも、条約は敗戦者にとって悪いものではなかったらしい。

 というか物凄い好条件だった。奴隷同然の扱いを受けたり、一族殲滅されたりする未来もあったのだ。実際、戦後はそういった勝者の暴力が横行していた時期もあったらしい。

 こうして、アーブラ民族は、ヴァルトールの隷属として保留地を与えられた。

 国境のすぐ外のあたり。比較的豊かな南の土地だ。

 二者の関係はまあまあ良好だったという。

 それに変化が起こり始めたのは、ここほんの二、三年のことなのだ。

 はじめは、税の引き上げだった。

 供物も嵩上げされた。もっといっぱい畑を耕して一杯穀物を献上せよ、といわれた。

 このあたりで最初の条約は書き換えられた。

 アーブラの男達は徴兵されて、国境警備に向かわされた。未だ物騒な国外との抗争に投下されたのだ。無論、殆どが死んだ。帰らなかった。

 そして、アーブラの女たちはヴァルトールに娶られていった。

 少し話はずれるが、ここのところがなかなか興味深い。アーブラ民族では、女は一騎打ちで負けると相手の武将のお嫁さんになることがならわしなのだという。

 ヴァルトール王国はこれを逆手に取った。祖国の誇る数多の騎士達をアーブラの元に差し向けて、まんまと嫁をさらっていったというわけだ。シンプルかつ民族の慣わしを冒涜する嫌味なやり方である。

 今世のアーブラの「長」――彼らは王のことをそう呼ぶらしい――には、七人の娘と息子がいた。しかし現在、息子ひとり、娘ひとりだけしかいない。二人しか生き残らなかったのだ。

 アーブラは、今や滅びの危機にある。

 そして、それは、ヴァルトールの陰謀だとしか思えない。

 アーブラの民はそう考えるようになった。

 圧政は、ここたった数年のことだ。グレン国王が病の床に伏してからのことだった。グレン国王の重役であり、彼の思想に好意的だった……つまり、穏やかでおっとりしていて平和体質の貴族たちは、ことごとく王宮権力を失っていた。それが原因かもしれない。

 そして、ある日ふと、アーブラは思い出した。

 条約が結ばれた当時のこと、たった一人、条約に反対して民族の元を去っていった皇子がいたことを。

 条約会議のあいだじゅう、戦で太腿から下を失い、ただの肉塊と化した左足に、静かに爪を立てていた彼のことを。

「もう二十年くらい前の話だ。……親父どのはまだ、グレン国王――先代と交わした盃を信じておられる。だから、これは娘である私の独断なんだ」

 女は、流暢なヴァルトールの言葉で話した。肩には、監獄で飛んでいた鷹のような異国の鳥を連れている。

 シェアレア=アーブラ。

 アーブラ民族の第五王女。

 にして、現在ただ一人の王女。

 歳は三十半ばか。砂のような灰がかった金の髪を二つの輪っかみたいにして結い上げている。戦闘には向かなそうな髪型だが、かちりと決まっていた。今も後れ毛ひとつ乱れていない。何か脂を使っているのかもしれない。

「グレン先代国王。ラファエアート現国王。そんな呼び名はわたしはどうでもいい。でも、わかった。王が変われば政治が変わる。わたしたちの生活が変わる。アーブラは、そんな、薄氷の上にずっとこれまで立っていた。それを変えなければならない」

 しっかりと人の目を見て話す女だった。

 外にいると、薄い灰にも薄い青にも見える瞳。それは、アウリスの知る別の人間と、同じ怒りを閉じ込めているように見えた。

「兄君様の消息はとっくの昔にわかっていた。わたしは兄君様に会う為に保留地を出て王都へやってきたんだ」

 その時点でラーナにお世話になったりしたらしい。そして、目先の「目的」のもとで手を組んだ。

「噂を聞いてね。兄君様は監獄解放とかいう遊びにかまけているというじゃないか」

「あ……、まあ、それはそうかもしれないんですけど。でも今日のはちょっと、その、彼は関係なかったっていうか、関係なく一人でやれって、言われたっていうか……」

「現王に反旗を翻した罪で処刑されることになった死刑囚を救うための作戦だろう」

「いや、一言でいうとそうなんですけど……」

「ならば善いではないか。わたしらは味方だ、黒炭七課。わたしは力を貸す為にいる。ついでに、わたしもおまえも、兄君様の王都での力を宛にしている」

 鳥がけたたましく鳴いた。

 シェアレアは指になにかの種を添えると、そっと鳥の方へやった。

「……アーブラは騎馬民族だ。馬と鳥と共にさすらう。わたしたちは土地に根を下ろすことに慣れていない。このままでは、徴兵で男衆を取られ、婚姻で女衆を取られ、あとは慣れない畑仕事ですり潰されていくのみだ。それでも間に合わずに穀物を取り上げられるたびに飢える。飢えはどんどん酷くなる。かさねて、税に苦しめられる」

「……シェアレアさん」

「兄君様はこうなることがわかっていたのかもしれない。当時は誰も耳を貸さなかったがね。それでヘソを曲げて出て行ってしまった。誰も、兄君様を追いかけることも、なかった。ここ二十年以上会いに行くこともなかった。忘れられていた」

「……そうだったんですか。あの、……それはどうして?」

 アウリスが遠慮がちに聞くと、シェアレアは、躊躇いひとつなく、教えてくれた。

「アーブラは騎馬民族だ。アーブラは、馬に乗れなくなったら家族ではない」

 七年戦争のあと。

 足を失ったのは、もう馬を駆けることができなくなったのは、みんな同じだったろうに。

 アウリスが関与するところではないはずだが、ぼんやりと、そんなことを思った。





 で、この食堂である。

 例の十人でいっぱいっぱいになってしまう食堂だ。

 ニナエスカは、食卓の上座にどっかりと腰かけていた。

 いつもの流れるようなドレス。その上に、今日は黒い長丈の革を纏っている。服装のせいもあるが、普段以上におっかない感じだ。

 ニナエスカの周りは屈強な女たちが囲んでいた。ライラを筆頭に、午後のアルゴマ解放のときの恰好のままだった。鎖帷子と甲冑。名前も、紋章もない、殺傷用の需要だけを考えられた、簡素でおどろおどろしい戦闘服である。

 なんとなく座ることも出来ず、アウリスは、同じ食卓の下座に突っ立っていた。

 丁度ニナエスカまで半分という距離には名無しがいる。彼は、横壁にもたれ、腕を組んでいる。

 彼の立ち位置はいまいちわからない。ニナエスカの「犬」としてここにいるのか。アウリスの「仲間」なのか。その表情は、いつものとろんとした甘ったるい微笑だった。

 アウリスの背後はすっぱりと別れていた。

 左には、ラーナが先頭に立っていた。

 肉だんごも、アルヴィーンもいる。

 その二人以外は、「黒炭」の軽い戦闘服だった。防衣ベストとズボン。長衣により隠れているが、その何より効率性を優先されたベルトの元には、剣がきらりと光っている。なかには堂々と弓矢を担いでいる者もいる。

 右には、騎馬民族。

 右は、とてもカラフルだった。なかでも、何人か青い塗料で変な模様を顔に塗りたくっていた。敵を威嚇するためだという。

 シェアレアは、彼らの先頭で片膝を折っていた。

「……暑苦しい」

 三十人はいるだろうか。

 今にも隣の人間と肘や肩があたり、一触即発、みたいな緊迫感。

 そんななか、三つの勢力がじりじりと睨み合っている。傍から見ると、シュールで息苦しい光景だろう。

 その長い、長すぎる沈黙を破ったのは、ニナエスカだった。

「誰だいあんたら」

「黒炭の裏師団だ」

 ラーナが答えた。

「わたしは師団長のラーナ。アウリスの友人だと思ってくれればいい。アウリスから話は聞いた。まず礼を言いたい」

「礼を言われるようなことはしてないよ」

「そうか」

「何故ここにいる。ありがとうございますと言いに来たのかい?」

 ラーナは肩をすくめた。

「わたしたちは同じ目的の元に動いている。それがわかった。少なくとも、一度話し合ってみようと思ったんだ。それで来た」

 ニナエスカは無言で先を促した。ラーナが懐を漁る。ライラ、アンナの二人がニナエスカの両側で槍をかまえたが、おかまいなしに、どすん、と食卓の上に何かの袋を投げた。

「シンフェという娼婦はどこにいる。まずは、アウリスが今回のアルゴマの作戦で借りることになった金を返すところから始めたい」

「ラーナ?」

 アウリスは驚いてラーナの方を見る。アルヴィーンもフードの奥で眼差しを向けたようだ。

「ラーナ。あの、ありがたいんですけど、だいじょうぶです。借りたお金はわたしが彼女に返します」

 ラーナは、アウリスではなく、ちらりと背後を見た。

「アウリス、それ、アウリスのお金だよ」 

「え?」

「セツ先輩が持ってきたんだ。アウリスのお金なんだよ」

 肉だんごがくりかえした。

「セツ先輩? え? どういう意味?」

 肉だんごはそれ以上説明する気はないようだった。アウリスは戸惑い、食卓に投げ出された袋を見る。

 ニナエスカが紫煙交じりにため息をついた。

「おまえたちはまず内輪で話し合った方がいいようだね。あたしはそれにゃ関係ない。シンフェが貸したんならシンフェに聞きな。あたしがアウリスとした契約は、ちがう。そうだね? アウリス」

 話の矛先が変わる。

 緊張が身を包む。アウリスは大きくうなずいた。

「はい」

「アルゴマを解放して無事に戻ってくる。そしたら話を聞いてやるといった」

 ニナエスカはもういちど、長く、深く煙を吐いた。水煙草の筒を翳すと、ライラが近寄りそれを受け取ったあとに、ゆっくりと立ち上がる。疲れているような、気怠い動作だった。

「ああ、何だろうねえ。今日は。こう大勢で押し寄せられちゃあ、人気者のニナエスカさんも少々目が回っちまう。……ラーナ、だったか。ひとつ言っておくよ。うちは宿屋でも金貸しでもない」

「わかっている。わたしたち黒炭はそういうつもりじゃない。金銭的な援助が欲しくてきているわけではないしな」

「そうかい。まあ、いいや。アウリス」

 くい、とニナエスカが顎の動きで戸口を示す。そのとき一瞬目があったが、ブルーグレイの瞳はすっかりと醒めていた。事務的、とでもいうのか。彼はこの状況をどんな風に捉えているのだろう。

「おまえとの契約が先だよ」

「はい」

「書斎に来な。約束通りにね。他の客人は、今日のところは帰っとくれ。ラーナ、あんたのとこへは明日遣いを寄越そう。遣いがこなければ縁がなかったってことさ。いいかい」

 ラーナは短い間を置いてうなずいた。ここで言い合うつもりはないようだ。

「わかった。あなたの意思に従おう。ただし、もうあまり時間がない」

「わかっているさ」

 公開処刑はもう三日後。

「我々の潜伏先は言えないが、今好きな時間を指定してくれ。明日その時間にこよう」

「おやおや。おまえたちがどこに隠れてるかくらい解ってるよ。あたしを誰だと思ってんだい」

「まじで? それは少し驚いたな。王都の裏路地の王様か」

 ラーナがにやりと笑った。初めてニナエスカもにやりとした。

 ラーナ、さすがだとアウリスは内心感服する。ひとによると中傷にとられかねない発言も、彼女がいうとなぜか嫌味がない。一瞬ひやりとさせられたが、なんとかまとまりそうだった。 

 ――こちらは、だが。

「お待ちください。わたしのことは無視ですか」

「あア?」

 ニナエスカの不機嫌な声が響く。

 シェアレアはゆっくりと立ち上がった。彼女はアルゴマ解放時の泥だらけの服のままだった。

「兄君様。お久しぶりです。まだ女装癖が治ってないんですね。昔はそういうのが奇抜でステキというそっちこそ奇抜な女性もいたものだが、完全に婚礼期を逃した様子ですね」 

「何言うとるの。ニナエスカ様は最高やよ」

「最高やよ」

 ライラとアンナが口々に反問する。彼女たちにはこの露骨に険悪な空気が感じられていないのだろうか。

 ひやひやしていたアウリスは、ふと壁際を振り向いた。

 気配を感じたのだ。

「ヌイ・マルカ」

 ニナエスカが呼ぶ。左足の義足がガタン、とひとつ床を叩いた。その事務的な表情はまるでさっきと変わってなく見えた。

「その女を摘まみだしな。殺してもかまわない」

 シェアレアが息を呑む。

「……話を聞く耳も無い、ということか」

 だが、すぐにそう呟く。確認するような口調だった。

 一斉に、騎馬民族は武器を構えた。

 槍が、剣が空を斬る。

 足音が響く。アウリスは名無しの方を見ていた。今やまっすぐに歩み寄りながら、彼はうっとりとした笑みを浮かべて、どこからか両手に短刀を出した。

 あの、鍔も切羽もないナイフだ。

 焚き火の傍で騎士団を殲滅したナイフ。

 メーテルを切り刻んだナイフ。

 その浅黒い一本線が、彼の十の指のあいまに踊る。

「……シェアレア様」

 誰かが警告した。

 アウリスは、思わず何か言いそうになっていた。

 剣を抜くことも、微塵も動く様子もなく、シェアレアは近づく名無しの方を見ていた。さっき、はっきりと驚いたような、傷ついたような表情になっていたが、今はまるで静かだった。

 名無しの方を、ニナエスカも醒めた目で見ている。

 ニナエスカの怒りを浅く見積もっていたのだろうか。静か過ぎて気づかなかっただけで、この館の戸を潜ったときから、シェアレアの運命は決まっていたのかもしれなかった。

 これはじぶんに関係のある問題ではない、とアウリスは思う。

 兄妹の。家族の問題だ。

 そこに水を注すことは出来ない。他の人間もそう思っているのか、誰も動かなかった。

 でも。

「名無し」

 不気味な笑みを張りつけて招かれざる客を見回していた名無しが、ふと足を止めた。

 赤い睫毛が下向く。ゆっくりと一度目を閉じて、目線がアウリスの方へ向けられる。

 ゾッとする高揚感と興奮がそこにある。

 アウリスはたじろぐが、シェアレアの前に立ちはだかるのをやめなかった。

「……名無し、ニナエスカさんの殺していいって命令を聞くってことは、もうわたしといるのをやめたということですか?」

 これはアウリスの問題でもある。

 名無しのことは今も怖い。

 だけど、アウリスと名無しの関係は、一晩で確かに変わっていたのだ。

 名無しは目線だけで問いでくる。

 アウリスはもう一度、はっきりと首を横に振った。

「あなたはわたしと約束した。殺さないと言った。次に約束を破ったら一緒にいられません」

 僅かな沈黙がある。

 室内は静かだった。命令した当人のニナエスカも黙り込み、傍のライラから水煙草を受け取って、それをゆるゆるとふかしていた。だが、眼差しは鋭い。何かを見極めようとしているかのようだ。

「退こう」

 沈黙を破ったのは今回は別の人間だった。

 名無しの強い眼差しを感じながらもアウリスは振り向く。

 シェアレアが軽く手を挙げる。すると、背後の騎馬民族たちは一斉に武器を腰にしまった。

 金属が打ち合う音が落ち着いていく。

 それと同時に、部屋の空気も幾ばかりか和らいだ。

 そんな中、シェアレアはまっすぐにニナエスカの方を見た。

「今日のところは退こう。だが、また明日来る。突然予告もなく来訪したことは謝ろう。……だが、明日までには兄君様も考えを纏めてほしい。話だけでも、あなたに聞いてほしいから」

 ニナエスカは無言だった。

 シェアレアは一瞬だけ、彼の反応を待つような仕草をしたが、すぐにきびきびした動きで踵を返した。騎馬民族たちと共に早足に去っていった。

「アウリス、後で落ち合おう」

 ラーナと肉だんごが素早くアウリスの元に来る。

「肉だんごをここに残していく。おまえ、昨日行った居酒屋の場所覚えてるか?」

「ええっ、あそこにするの? なんか感じ悪かったよ、道も暗いし!」

「おまえは指名手配されてるって自覚があるのか? 見つかりにくい所を選んでるんだ!」

 ラーナが呆れた様子で肉だんごの頭を叩いた。それからすぐにアウリスの方を向く。

「アウリス、おまえ、ニナエスカと話があるんだろう?」

「はい」

「じゃあその後でいいか?」

「え、と」

 ラーナが早口に畳みかける。

 アウリスは反応が遅れていた。ものすごく安堵していたからだ。最悪、死人の出る兄妹けんかにならなくて安堵していた。

 だが、問題は他にもある。

「……ニナエスカさんと話をした後は少し行くところがあって。あの、夜でもいいですか?」

 アウリスはちらりと食卓に行儀悪く腰下ろしている名無しの方を見る。

「もちろんだ。夜の方が外を出歩くのに目立たないからな。もとよりそのつもりだ」

 ラーナが、ぽん、とアウリスの背中を叩いた。

「金はここに残しておく」

「えっ」

 思わず食卓をもう一度振り返る。ラーナの放りだした金袋。あれを、肉だんごはアウリスのお金だと言っていた。

「え、でも」

「夜に話そう。……それよりあまり待たすとまずいんじゃないか」

 ラーナが少しばかり声を落として言う。その目線が動き、アウリスはニナエスカの方へ振り向いた。

「もういいのかい?」

「あっ、はい」

 ニナエスカは軽くうなずくと、水煙草を手に扉の方へ向かっていった。

 水煙草の容器を持つライラがぴたりと傍につき、名無しが遅れて腰を浮かす。

「じゃあ後でな! 俺そのへんぶらぶらしてるから。早く来いよ!」

 肉だんごはなんだか底抜けに明るかった。

 ニナエスカは多分今とても機嫌が悪いはずだ。

 今彼と話すのはちょっとおっかないなあ。

 そう思いながらアウリスはうなずいた。

 ひとまず裏師団と別れて、おっかなびっくりにずしりと重い金袋を回収し、ニナエスカの待つ書斎へと向かった。





 書斎での話し合いは楽に終わった。

 ニナエスカはやはり全開で機嫌が悪そうだった。一度も水煙草を口から離していなかった。このひとの癖が少し解ってきた気がする。

 でも、もともと左程怒ってはいなかったかもしれない。

 ニナエスカは本気でシェアレアを殺す気はなかったのだろう。

 アウリスはそんな風に思い始めていた。

 仮にも兄妹だから、というのではない。ニナエスカは内輪に情が深い。そんな気がアウリスはし始めていた。

 そして、ニナエスカにとって「内輪」は何も、血の繋がった家族だけではない。

 そんな気がする。

「おまえはやっぱり馬鹿だねえ」

 書類に署名をする二人を前に、ニナエスカが長く細く煙を吐く。

 アウリスに向けられた言葉ではない。

 名無しは何も答えず、にこにこして署名した。

 そういえば、彼は字の読み書きが出来ないはずだ。ちらりと見たが、署名欄は呪文か模様みたいになっていた。

 アウリスも署名なんて初めてだったが、「名前でいい」といわれたので素直に従った。もちろん、本名ではなく「アウリス」で。

 ひとまずこれで、アウリスと名無しがケムリモノで暴れたことは書類上、帳消しとなった。

 同時に、名無しに対するニナエスカの借金も白紙になったということだ。

「ガキの頃から今日まで稼いできた金をたった数日で全部使いきっちまうとはねえ。おまえのやることにはほとほと呆れるよ、この駄犬が」

 ニナエスカが両手でとんとん、と書類を纏める。

 アウリスはさっきちらりと金額を見てしまったが、未だかつて遭遇したことがない多額の金であった。それが返ってこないことになっても、名無しは特に顔色を変えていない。落胆してすらないように見える。

 それは異常だとアウリスは思った。

 金に執着がない。そう一言でいっても限度があるのではないか。

 それとも、近い将来、大金を稼ぐ目途がたっているのか。こんな大金、特に珍しくないような仕事をしているのか。名無しに初めて会ったとき、彼がパンを盗んで捕まっていたことを思うと、それもあまりなさそうな気がする。

 似たことを考えているのか、ニナエスカもかなり面食らった顔をしていた。

「で? 公開処刑の日までは三日だ、それまでは契約通り面倒見てやるさ。でも、その後はどうすんだい?」

 そのあと。

 そんな先のことをアウリスは考えていない。猫じゃらしを救出したあとは、身を隠しながら王都を逃亡、ジークリンデ領へ向かう。計画といっても大雑把なものなのだ。

 だが、そうなるともう、ここへは戻らない。

 ここの人間にも会うことはなくなるだろう。

 ニナエスカの言葉は、じぶんに向けられたものではなかったが、アウリスも少し考えさせられた。

 時間にして、二十分ほどの短い交渉だった。

 ニナエスカに礼を取り、部屋を出る。

「アウリス。これからどうする?」

「出来たら一回部屋に戻りたい。お風呂も入りたいです」

 アウリスはげっそりと言った。

 何しろ、アルゴマ収監所から一度も休憩していないのだ。アドレナリンも薄くなってきたようだった。体も頭も汚い。

 金袋も渡されてしまったし。ラーナに後で話を聞くにしても、ひとまず安全なところに保管しないといけない。

「じゃあ後で出掛ける?」

「それでもいいですか?」

「うん」

 名無しも体が気持ち悪かったのだろう、二つ返事でうなずいた。

 そうして一時間の休憩を挟んだあと、夕焼けの広がる時刻、二人は馬で屋敷を後にした。

 行き先は丘の野原だ。

 この時間、丘は橙色に染まっていた。瑞々しい草花が夕日にきらきらと輝いていた。

 先に馬を降りる名無しを、アウリスはなんとなく眺めた。濡れた赤い髪が後ろ姿で艶々している。 

「名無し、あの山、わたしたちがいた山だよ」

 指さすと、名無しは遠くの山の方を見た。

「……メーテルさんと他の騎士たちが眠ってる場所だよ。あのときは遺体を埋めてあげることが出来なくて、それがわたし、今も気になってるんです。でも、騎士団が嗅ぎつけてるかもしれないし、山に入るわけにもいかなくて」

「知ってるよ、いつも朝いちばんにここに来てる」

「そう」

 メーテルたちの消息が途絶えた今、騎士団の捜索の手はすでに山奥まで届いているかもしれない。

 なので、アウリスは毎朝墓参りにこの丘にきていた。名無しは見ていたのだろう。今まで何も言ってこなかったが、彼がそれを知っていても左程アウリスは驚かなかった。

 もちろん、愉快ではない。

 この男には行動が筒抜けだと思い知らされるのは何も今に始まったことではない。そのたび、複雑な気分になる。

「名無し」

 アウリスはいつまでも馬を降りなかった。名無しも異変を感じたのか怪訝としていた。

「あの山の中でした、わたしとの交換条件を覚えていますか? わたしは三つお願いしました。ひとつめが、アルヴィーンの命を助けてくれること。ふたつめが、火薬を調達してくれること。みっつめが、人材を揃えてくれること。そうでしたよね」

 ひとつめは騙されたけど、と頭の中でしっかりとアウリスは付け足した。そのことは今も根に持っているのだ。

「ん」

「うん。それで、あなたがわたしの願いを叶えてくれたら、今度は、わたしがあなたの願いを叶える。そういう話になってましたよね?」

 見上げてくる黒い瞳を、アウリスは見返す。

 手綱を握る手が力をこめる。

「名無し、あなたはもう、わたしの願いを全部叶えてくれた。だから次は、あなたの願いの番です。……あなたの願いごとをかなえたい」


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