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23.


 快晴だった。

 囚人語で「ヤード日和」というやつだ。小姓に聞いた。

 嫌味な小姓は何故か今回の監獄解放に付き合っている。

 場所は、アルゴマ収監所。ゲノマといい、刑務所の名前の最後に「マ」をつけるのは仕来たりなのだろうか。

 アウリスたちはまず、三手に別れていた。

 アルゴマ収監所はふきっさらしの高原にある。そのふもとで待機が二人。三頭馬の馬車だ。ふつうの箱馬車よりもずっと大きい荷台は、意味深な、いかにも怪しい膨れ幕が覆っている。

 第二部隊は同じく二人組みだった。ここも別の馬車で待機。

 アウリス、小姓、名無しを含め、他の七人は散らばって敷地に忍び込んだ。

 名無しは一人だけ供を連れて表門の方へ向かっていった。

「他のひととかいたら見つかりやすいし動きにくいし駄目。俺にはこのアウリスのホウキがついてるから大丈夫だよ」

 と、冗談か本気かわからないことを言いのけていたので、これでも彼は妥協していた。正直、ものすごく不安だ。それは、彼の担う「門開き」の役が重要だからで、他の人間でも、何人いてもどうせ不安だったかもしれないが。

 十一人。

 それがアウリス師団の全勢力だった。

 アウリスは結局ニナエスカの人材に頼るしかなかった。だが、人材を借りた訳ではない。買ったのだ、彼ら一人一人の元に回り、人手を買った。

 アウリスには他に誰を宛にすればいいかわからないし、じぶんで勧誘して労働分を払うのだから、ニナエスカに人手を借りているという事とはちがう。たぶん。

 ニナエスカもこのあたりまでは予想していたにちがいない。彼の眼下の館内や路地裏でせっせと動き回るアウリスを彼が止めることもなかった。

 お金は、シンフェに借りた。

 シンフェは「あげた」と思っているかもしれなかった。もちろん何回もちがうと言ったが、彼女はちょっと頑固なところがある。

 例の、アルヴィーンがここ十年近く贈呈し続けていたというお金は、そのほとんどを家具や宝石などの質に姿を変えている。安全な保管方法だ。

 その現金の余りで、なんとか8人分の時間を買った。当初の計画の三分の一にも満たない人数だったが、でも、シンフェのおかげで即興にしてこれだけ勢力が集まったのはむしろ上出来だとアウリスは思っていた。

 小姓、名無しにはお金を払っていない。小姓が「付き合ってくれている」というのはそういう意味だ。何故この嫌味な子が親身になってくれているのか、その片鱗は、作戦会議の直後にかいま見たような気がした。

 アウリスは物陰に身を潜めて合図を待った。

 アルゴマの敷地には木が一本も生えていない。樹木みたいに凛と背筋を伸ばした刑務官なら何人も立っている。彼らの目を誤魔化しながら、厠の壁を回り込んだり、武器庫の影に潜んだりするのは至難の業だ。

 周囲は千年木のように高背の壁がぐるりと囲っていた。しかも石だ。全体が、五万の石を敷き詰めた籠城のごとく頑丈な造りになっている。

 アウリスは今朝の会議でここを考え、外壁を強行突破することをすぐ諦めた。

 でも。

 いちど敷地内に入ると、囚人を収容する施設そのものは木工と石の混じった平凡な建築物なのだ。

 音がした。

 のんびりした雷のような。いや、あれでも当人たちは全力疾走しているのだろう。

 刑務官たちが色めき立った。

 車輪と蹄が派手な音で高原を登ってきて、彼らの定位置に到着するまでの何十秒か、アウリスは気が気でなかった。

 唐突に轟きが止まった。

 六秒のラグ。

 どうん、と黒い球体が青空のてっぺんに躍り上がった。

 アウリスは、頭のなかでアルヴィーンに感謝した。

 彼の知識がなかったら、お金に余裕のないアウリスが石投器なんて装備することは出来なかった。買うのではなく、みんなで作ることなんて。

 外の馬車が打ち上げた弾は、石畳の壁を優に超え、放射線を描きながら敷地内に落ちてきた。

 アウリスが見たのはそこまでだ。あとは目の前の建物の影になった。

 アウリスたちはそれぞれ隠れていた場所から飛び出した。刑務官は見当たらない。みんな、馬車の音を聞いて建物の反対側へ向かっていった。石投器隊は逆方角でスタンバイしたのだ。つまり陽動である。

「あらよっと!」

 小姓が大きなウスで戸を叩き破った。師団員たちはそこからドカドカとなだれこむ。

 厨房裏だ。

 食堂の裏手でもある。

 この通路は、主に食材を運び入れたりゴミを外へ廃棄しにいくのに使われるらしい。今は誰も見当たらなかったが、問題はこの先だった。この時間帯、この周辺はものすごく騒がしことになっているはずだ。

 午後一時。

 囚人たちはお昼ご飯に食堂に集まる。食事に許される時間は二十分。

 午後一時二十分。

 囚人たちは先一時間の「ヤード」に出る。一日一度の、外の空気を吸う機会である運動時間のことで、それには、囚人全員が参加義務なんてなくても参加したがるという。

 「ヤード」は外で行われる。

 だから手が出しやすいかというとそうでもない。その逆だ。囚人が運動に出される庭には、外と同じ石造りの壁が囲っているのだ。要所として見張りの数も多い。更に「搭」と呼ばれる高台まで張り出ていて、そこには重装備の刑務官が始終目を光らせているのだ。

「他の収監所を襲ったらどうだ」

 それは、アルヴィーンの提案だった。彼は参加こそしないものの、朝の作戦会議で一緒に頭を捻ってくれた。

「べつのところを?」

「そうだ。アルゴマというのは服役房だろう」

「ふくえきぼー?」

「罪人が裁判待ちで一回身柄を拘束されているのが、留置所。裁判も終わって刑期があけるのをひたすら待っているのが服役房だ」

「あ、そういう意味なら知ってますよ」

 その言葉でいうのなら、昨日のゲノマは留置所で、今日のアルゴマは服役房だ。

「服役房の方が基本的に警備体制が厳しいよ」

 名無しがアルヴィーンの言いたいことを察したようでそう付け足した。なるほど。

「それはわかっています。でもあえてアルゴマがいい。わたしたちは人数が少ないです。前みたいに、牢屋をひとつひとつ回ってドア格子を開いていくのだと時間がかかりすぎてしまいます。そこで、この午後一時から二時半までのあいだがいいんじゃないかなって。お昼ご飯と運動時間のときって、みんな牢屋の外に出ているんでしょう?」

「そこを一気にかっさらっていくと」

「はい。移動中の方が警備がまごまごしてそうだから、奇襲地点は、食堂から中庭へ移動している間の廊下。これだと思います」

「留置所には運動時間がないからな。食事時間を狙うには二十分という窓が短すぎる。……まあ、今更他の監獄の情報など集めていたら間に合わないな。どうしても今日実行したいなら、だが」

「はい。……今日がいいです」

 小姓がだるそうにあくびをする口を押さえた。アウリスはぎゅ、と力拳を握って見せた。

「ニナエスカさんも、作戦の後なら話を聞いてくれるといった。だったら、やっぱりこの最初から予定にしていたアルゴマ監獄所を解放するべきだと思います」

 ニナエスカとの約束を果たさないといけない。

 狭い通路を走り抜けていくと、すぐ目的のものが見えた。

 アウリスは背後に続く覆面団を振り返る。目で小姓を呼ぶと、小姓は彼女の顔より大きな断面のウスを構えて走っていき、扉を破壊した。

 アウリスは自分のウスで穴をもっと広げながら、向こう側の通路に立った。

 木工の、窓のない造りだった。ロウソクが細々と照らしあげる通路は塞がっている。囚人たちは二列になり中庭に向けて移動していた様子で、今は、刑務官といっしょに驚いていた。

「号令を!」

 アウリスは指示を出した。そうしながら数えた。

 刑務官は列の尻に三人。もっと多くが列に沿ってずらりと控えているようだった。十人はいるか。列の先頭も多そうだった。

「野郎どもよく聞けえ! ユースゥリアの四つ角で名前売ってもいいって奴ア付いてこい! 監獄解放だゴラァアアア!」

 おおおおおお!

 ライラの怒鳴り声に怒鳴り声がかえった。

 最後尾にいた囚人が最後尾を守っていた看守を殴り飛ばした。それが合図だった。

 あとはもう、乱闘だ。

 ユースゥリアの四つ角。アウリスは今朝の作戦会議で初めて聞いたが、どうやら前科のある感じの人種の中で通じる合い言葉らしかった。

「殺さないで! 殺した人は連れて行きません! 牢屋から逃げたかったら誰も殺さないでください!」

 アウリスは慌てて声を張り上げた。それに律儀に返ったのは、不満そうな声だ。

 ぶーぶーぶーぶー!

「テメエら聞いてんのかクソが殺したら殺すぞオラクソ野郎オ!」

 いきなり野次がやんだ。

 アウリスは、ライラに目でお礼をいう。ライラも目でうなずき返してきた。

 覆面の合間でいつもよりライラの目がきらきらしていた。アウリスは正直怯んでいたが、今は頼もしくもある。

 さて、問題はここからだ。

 囚人たちが纏まって外に出ている時間帯を狙い、彼らを発見した。ここまでは左程難しくはない。

 あとは脱走のみ。

 刑務所が最高警備体制に入るなか、大勢を引き連れていかにそれをなすか。

「みんなを誘導して裏通路を移動してください! 盾は最前列に!」

 ライラたちは木工の道具で刑務官たちを押しのけ……いや、砕波していく。流石ニナエスカのシマの用心棒だ。しぶしぶながらにアウリスの「殺さない」という指示にも従ってくれている。アウリスがお金を払っているから、言う事を聞いてくれていた。

 前金と後金にわけて払う。

 名無しの助言だった。

「おい、……一緒に来ぇへん囚人らがおるよ。なんやのあれ。逃げる気ないんかいな」

 飛びかかってくる大の男を逆に蹴っ飛ばしながら、小姓が聞いてきた。

 アウリスはちらりと背後を振り向く。ウスを振り回すあいまに、通路の遠いところに突っ立っている浅葱色の服がちらほらと見えた。

「いいんです」

「あん?」

「……全員来る必要はありません。逃げたいひとだけが逃げればいい。みんな、じぶんで選んでるんです」

 裏通路は来た時と同じに無人だった。厨房に続く戸の方で誰かがしゃがみこんでいる。恰好からして給仕か。刑務所で働く全員が武闘派要員というわけではないのかもしれない。

「盾、前へ! 他は矢印の陣で移動! 罪人達を包囲して! このまま正門まで突っ切ります!」

 ライラとシェイナが、指示を受けて外へ飛び出した。

 彼女たちは盾だ。

 矢印の陣というのは、人間が文字どおりに矢印の形になるように並んで作る陣形だった。まわりのものを押しのけるのにいい。守備力もいい。一方で、手が出ないし小回りが利かないのが弱点なのだが、この場合はあまり弱点にもならない。アウリスたちはひたすら外を目指すだけだからだ。

 アウリスと小姓も三秒ほど遅れて陽射しを浴びた。外はやっぱりいい天気だ。

 ロウソクの暗がりに慣れた目を眇める。

 その一瞬に聞こえた。

 ふしゅん、と。今一番聞きたくない音を。

「――あらよっと!」

 続いて、どおん、と小姓がアウリスを蹴っ飛ばした。アウリスは砂の中に転がって慌てて起き上がる。

 ライラが膝をついて、正面に構えたテーブルの天板に、かかか、と矢が刺さった。やっぱり弓矢だった。うってきたのか。

 ざわり、と脱走団が浮き足立つ。

「止まるな! 走って!」

 周囲は思い出したようにどたどたと走りだした。矢の雨のなか、先頭の盾の二人に必死に食いついていくようにも見える。アウリスは小姓にお礼を言い、立ち上がってそれに混じった。

「止まれええ!」

 そんな背後の声にふりかえると、ちょうど裏戸が騒がしくなっている。五人の刑務官が警棒を振るっている。囚人が何人か捕まったようだ。

 ――じぶんで、選んでもらった。

 望んでついてきてくれようとした、その何人かはゴールテープを切る事が出来ない。

 アウリスはそれを承知していた。圧倒的に人手が足りない。時間もない。残酷なようだけれど、いや、残酷だけれど、捕えられた人間を救いに戻っていたら全滅してしまう。

 進むのは、前だけでないといけない。

 眼前には、お金で買った仲間たちと、喚き立つ脱獄囚の群れが砂塵の中を走っていく。

 視線を四方にやる。

 地上には二十人近くの刑務官がいる。やっぱりすごく手際がいい。異変が起こってすぐに現れて、今は、脱走団を阻むために的確な配置を取っているように見える。

 囚人たちは即興の武力。

 数では勝っている。

 問題は装備だった。こちらを殺してもいい相手に、殺してはいけない装備でかかっていく。そんなのは無謀だ。アウリスもわかっている。

 だからこそ。

 作戦の要は、速度。

「止まるな! 矢印の陣で前進! カルルの実の二部隊は用意!」

 石造りの外壁のてっぺんに、ちらりほらりと人影が立っていた。思わず顔をしかめる。

 弓矢には対抗できない。こちらは弓は軽装備に向かないから持ってきてないし、一方、あちらさんの矢が雨礫みたいに降ってこられたら全部なんか防げない。

「ええー今かいな」

「今です! 砲撃用意―!」

 砲撃、という言葉に周りにいた刑務官たちは怯んだ、かもしれない。

 小姓がすらりと革袋を取り出した。

 ポーチバッグだ。持ち手が長くて細い、丈夫な素材。商店街でたくさん売っている。

 小姓は、腰に提げていたカルルの実を宙に放って――革袋で打った。

 一球。二球。三球。

 他の場所でも同じ現象が起こる。いくつものカルルの実がチカリと陽射しの中で光って、高々とそびえる外壁のてっぺんに降っていった。

 ぼふん、と緑色の煙が見張り台のあちこちに上がる。

 すごい命中率だった。アウリスは思わずポカンとしてしまった。彼女は遠距離攻撃系は全面的にてんでだめだ。持つべきものは仲間ということか。

 見張り台が騒々しくなったあとで、アウリスも場にカルルの実を投げ落とした。

 目くらましの煙が刑務官たちを巻く。

 地上はもちろんだが、仮にカルルの実が命中していなくても、高台の刑務官たちはこの煙の中で味方を穿ってしまうのを心配して矢を放てなくなるはずだ。

 視野は、ケムリ翠。

 呻き声や金属が激しくぶつかる音。剣が一本、宙を舞った。

 すぐそばで、囚人が負傷したのか跪いている。アウリスは彼に無理やり肩を貸して、二人で走った。

 煙が晴れていく。

 もう少し。

 額の汗を拭い、この角を曲がったら、正門まではもう一直線なのだ。

 ――角を、曲がった。

 思わずアウリスは立ち止まりかけた。

 ライラが怒鳴り散らしていた。ライラは先頭だ、刑務官たちが波のように押し寄せているのだ。

 待ち伏せされていたような数だった、かもしれなかった。

 でも。

 それより、何よりも。

「……アああクソ門閉まっとるわい! おい! 師団長はん、どないすんねん!」

 砂塵と熱気のうずまく蜃気楼のむこうで、落とし格子式の門は閉じたままだった。

 ぎり、と木柄を握る。   

 他に方法なんかない。

「作戦変更無しです! 矢印の陣で、正面門まで突っ走れ!」

「はア!?」

 ライラが怒鳴り返した。

 この時点で、既に完全な乱戦となっていた。アウリス師団は矢印の陣をかろうじて保ってはいたが、教務官らの前から後ろから現れる波に前進することも一苦労であった。ライラはそんな雑踏のなかをぐいぐいと力押ししてきた。

「ちょっ……持ち場離れてどうするんですか!」

「うるさいわ!」

 テーブルの天板……盾の方は別の誰かに譲ってきたようだった。アウリスはそのあいた両手で一息に襟を締められた。

「目ェかっぽじって見なさんせ! もう後があらへん! このまま正門まで行ったかて敵勢と閉じた門との間で挟み撃ちにじゃ! 袋小路やろ!」

「……じゃあどうしろと」

「失敗や。こうなったらほうほう死に物狂いで撤退しかあらへん」

「そんな無茶な」

「あア? 何が無茶なことがあるかい!」

 ギラギラと目を滾らせるライラに、アウリスは正直、怯んだ。

 ほうほうで逃げる。つまり、作戦は失敗。囚人は見捨てて、じぶんたちも指示などなかったことのように好きに暴れ、なにがなんでも逃げ切る。刑務官の武器を奪い。彼らを何人殺しても。

 そういうことか。

 アウリスは上着を大きく肌蹴けた。

 腰のベルトに様々なものが回っている。竹筒を手に取り、紐を引いた。

 ぱしゅっ、と閃光が真上に登り、そして、バキャバキャバキャ、と派手な音を上げて散った。

 一瞬の出来事。風のひと吹きが煙を持っていく。

 あとには苦い火薬の匂いだけが充満する。

「七課で使われている合図竹です。いつもは裏師団の加勢を呼ぶときとかに使うんですけど……今は厩に残している一人が馬を全部解放します。それで少しは場が騒然とします」

 馬を逃がしておけば刑務官たちが馬で後を追ってこられなくなるのもある。

「……おい、おまえ」

 ライラは一転、勢いが凪いでいた。慄いた表情のようにも見える。

「……そんなことより、なんやのそれ」

「えっ? ああ」

 アウリスはあたかも今気づいたように胸を張った。いや、腰を。

「これですか。火薬ですよ。ぜんぶ」

 火薬の竹筒詰め。導線の紐束。

 今、アウリスのベルトはぐるりと危険物でてんこもりなのだった。

「導線に火を点けたら一発でドカンです。いやさすがにとても怖いんです。でも刑務官たちの真ん中に突っ込んで行ってドカン! とかしたら注意が逸れそうです。みんなを逃がす為には必要なことかもしれません。あ、じぶんが花火になって屋根のてっぺんでドカン! というのもあると思うのですが」

 ライラの表情は明らかにギョッとしたものになっていた。

 小姓が、こほん、と咳をした。調子のんなと言われているようで、アウリスも、こほん、と言葉を切る。

「……ライラさん」

 ライラは押し黙ったまま、アウリスの目を見た。その目はもうきらきらとしていない。濁っている。ヒグマの如く巨体と凶暴な性格のライラに、どんびきされている……。

「みんなが捕まらない為の作戦はちゃんと、残っていますから。でも最後の手段なんです。誰でも命が惜しいので」

「お、おう」

「だからもうちょっと踏ん張りましょう」

「……そうか。あい、わかった。あい」

 そして、ライラはふらふらと先頭の持ち場に戻って行ってくれた。爆弾で脅したのに叫び声ひとつなかった。さすが魔王の用心棒。

 刑務官が剣で斬りかかってきた。

 小姓がウスでその剣を持つ手をぶったたいた。アウリスはその隙にしっかりと上着を閉じる。 

「ずいぶんハッタリがお上手なこっちゃで。どちらの旦那の入れ知恵かいな?」

「失礼な。わたしが考えました」

「ほーかへーふーん」

 小姓の黒い目はすっかり白けていた。

 アウリスも苦笑いをするしかない。

 そう、爆発なんか起きない。腰のは、爆発物に見せかけただけの、ただの竹筒の鎧だったのだ。そもそも火薬を買うお金なんかない。合図用の爆竹はもともと持っていただけだ。

 馬の嘶きが炸裂する。

 馬の声と蹄の音は不思議とよく響くものだった。がやがやと押し寄せていた刑務官らもアウリス師団も驚いたように一瞬立ち尽くしていた。

「厩の仲間はうまいことやったみたいやな」

 ふん、と小姓は年齢にそぐわない感じで鼻を鳴らすと、両手で、年齢にそぐわない感じでぐわん、と頭上にウスを回してアウリスの前に立った。

「そうは言っても状況はあんま変わりまへん。ぐだぐだやわ、ほんまにもう」

「……小姓」

「ええか、怪我すなや。怪我させんようにって、……こっちはアルさまに仰せつかっとんのよ」

 小姓の耳は桜色に染まっていた。

 アウリスは唇の端をちょっとだけ曲げて、ウスを構えた。

「小姓もね」

 そして、飛び出した。

 ……今日は、いろんなひとの事を知った。

 ライラさんが、ああして怒鳴りつけながらもギリギリまでアウリスを師団長として立てていてくれること。

 小姓が、出る直前にわざわざアウリスのところまで見せびらかしにやって来たこと。

「ずうっと昔にもろてんよ。ええやろ、ほなな」

 アウリスは、娼婦という職業のことがまだ今一よくわからない。小姓は将来シンフェの庇護下を出てじぶんも娼婦になるのだという。

 小姓の小さい手のひらには一本の簪があった。貝殻模様の髪飾り。値段の方はよくわからなかったが、小姓は高価だから大事にしているというわけでもなかったらしい。

 シンフェはアルヴィーンにその贈り物を突っ返そうとした。姉弟喧嘩の末に、隅っこにそろりと置物のように控えていた、小姓がそれを押しつけられたのだそうだ。五年前のことらしい。

 枕元のロウソクの灯りの下で。夜窓に浮かぶ月のおぼろの下で。

 そろりと幼い指は髪飾りをなぞる。

 いつか、一本の髪飾りなんて埋まってしまうくらいたくさんの贈り物に囲まれるようになっても、きっと小姓はそれがなんだったか覚えている。

 初めての、旦那様からの贈り物だから。

 そういう生き方もあるのだ。

 アウリスは同調も、否定もしない。

 だけど、そういう人それぞれな生き方を今日ここで終わらせてしまうわけにもいかなかった。

「看守のクソ共オォオオオ!」

 小姓がぎくりと動きを止めた。彼女が今まさに地面を打ち払ったウスの上に片足を乗せて、アウリスは吠えた。

「ははは! 血が騒ぎますね! この顔に見覚えがないでしょうか? 二年前に王都の看守連続殺人事件を起こした、あの一味のひとりの、この顔を!」

 といっても覆面だし見えっこない。

 はずだが、刑務官たちの目の色は一斉に変わっていた。

 仲間を殺したという、罪人を見つけて。

 この豆知識は名無しからのだ。傭兵団でも似たような身内意識みたいなものはあるのだが、それをこんな風に利用することはこのときまで考えつかなかった。

 などと呑気に顧みていられたのも、鋭い刀身が迫ってくるまでだ。アウリスは方向転換した。ひゅう、と風が泣く。刃が後ろ髪を掠ったのだ。ヒヤリとして振り返ると、鬼の形相をした刑務官らが一丸になって追いかけてきていた。

 挑発成功。

 盛大に後悔しないでもないが。

 あたふたと駆け、途中で降りかかってくる刃はひたすらウスで叩き落としながら……アウリスは、気づくと祈っていた。

 ――門を。

 ウスが足元に転がる。重くてもう持ち上がらないのだ。木刀を抜く。次のひとり。後ずさるのではなくて前に出て剣を躱した。

 ゼロ距離。鼻柱と、顎をひっぱたく。

 ひゅう、と小姓が口笛を吹く。

 ――門を。

 今は、微動だにしないように見える。一枚の頑固な岩のように見える。その脇には、ひどく小さい小屋がある。一見お手洗いくらい小さくて、手薄な。

 ――踏ん張れ、名無し!





 ヒュウイッ。

 と、空が鳴いた。聞き慣れない音に思わず見上げる。戦闘中に目を外すなんて間抜けだったが、幸い、アウリスが刃の餌食になることはなかった。他の者も見上げていたから。

 鳥。

 まっさおに突き抜けた雲一つない空に、大量の鳥影が舞ったのだ。

 一瞬の出来事。

 鳥たちはまっさかさまに落ちてきて、人々の顔に、首に、武装の隙間をまんまと突いて生身の体に、乗っかってきた。前足の爪が皮膚を裂く。悲鳴のなかを、バサリバサリという無数の羽音が行きかっていた。

「……っなんやの……おい! 師団長!」

 そんなことアウリスにもわからない。

 でも、唐突に現れた鳥たちは、まるで見えない誰かに操られているかのように刑務官たちだけを狙っているのだ。

 アウリスは質問したライラの方を見る代わりに、石壁を仰いだ。

 大変なことになっていた。陽射しがキラリと刃に反射する。視線を走らせてみると、四方にいた刑務官たちがその一角に向かっていた。

 戦っているのだ、頭上で。

 でも、誰が。

「そっち行きはったで!」

 小姓の声に我に返る。

 刑務官のひとりが剣を突きだすのを、鼻面に木刀をぶん投げて転倒させると、アウリスは再び見張り台の方を見た。

 内輪もめとかそんな風には思えなかった。人影にしか見えなかったが、見張り台の教務官たちがわらわらと迷いなく討ちに行っていた。身内ならそうはいかないだろう。

 彼らは。

 あの三つの人影はきっと、登ってきたのだ。

 見張りの注意が壁の内側に向いていたとして、あの物凄い大きな壁を、地上と垂直に聳える石の壁を、生身の体でわっしわっしと登ってきたのだ。

 そんな人種を、アウリスは他に知らない。

「……師団長! あれ!」

 地鳴りが聞こえた。

 鳥たちが慄いてキュイキュイと飛び回る。ギイイイコ、ギイイイコ、と、化け物ガエルの鳴き声みたいな轟きを上げながら、落とし格子の仕掛けは動いていた。

 巨大な歯車は回る。

 石門は、その動きに引きずられて、ズラァ、と砂を巻いて大地を離れていった。

「門が!」

「あいたアア! あいた、開きましたで師団長!」

 アウリス師団のあいだには、士気が戻っていた。アウリスはそれを肌で感じた。振り抜く木工の天板に、ウスに命がある。雄たけびに希望がある。

「……あたりまえじゃない、ヴァルトール国内東西南北不敗の最強の男なんですから」

 アウリスは呟いた。でも、呟きは唖然としていた。やばい作戦失敗かなここまでか、とさっきこっそりと思ったことはみんなには黙っとこう。

 アウリスは木刀を拾った。

 思考のパズルがかちり、と見事に嵌まった。

「――助太刀してくれてありがとう!」

 木刀が陽射しを避ける。アウリスは、不気味な、でも味方らしい鳥たちの羽ばたきの合間に叫んだ。

「裏師団! 上のやつに集中してください! 弓隊を全力で鎮圧!」

「半分だけ承知だ!」

 返事が、かえった。

 頼もしい頼もしい女の声が届いた。

「今の聞いたな! 上の部隊は弓隊を全力で鎮圧! 下の見るからに怪しげな覆面団の逃亡を助けるんだ、行け!」

「はい、ラーナ様!」

「ヤアー!」

 懐かしい、掛け声だった。

 目の奥が、かあっと熱くなったのがアウリスにはわかった。我慢しないと視野が曇るとまずい。

 そう思って、必死に叫んだ。

 見張り台からの叫びが、それに見事に重なった。監獄全土に響いたようだった。

「「門を守れ! 前進! 前へー!」」

 ラーナ。

 猫じゃらしが、「黒炭」審議会の諜報幹部が、最も信頼する戦力。彼の直属の諜報師団。その師団長。

 弓矢の心配がなくなれば地上は動きやすい。そう思って彼女に上を任せることにした。じぶんたち地上の方は、全員が逃げ切るまで、門を開く名無しと、門そのものを守る。

 そう考えていた。

 アウリスは前を向いてようやく、気づいた。

 ラーナ自身が発した、前進、門を守れ、という指示の意味に。

 門はこのとき地上三分の一ほど上がっていた。

 彼らはその下を潜ってきた。

 数えるのも億劫な数の馬と、不思議な異国の言葉、呪文みたいな掛け声を纏って。

「――我らはユースゥリアの復興の刃なり! 皇子の御許へ馳せ参じたり! 者ども、抜刀は禁ずる、殺すな犯すな、でもそれ以外はぜんぶ許す、やれ!」

 騎馬隊は地鳴りと共に押し寄せてきた。鳥たちが歓喜の声を上げている。

 まるで、軍隊。

 いや、それは少し言い過ぎかもしれないけれど、小規模な軍隊と呼べるだけの数だった。

 アウリスは驚いていた。

 木刀を取り落しそうなくらいには、驚いていた。

 だけど、一番驚かされたのは。

「あぶないよ! そのかまえ方やめろって言ったじゃん!」

 すらり、と鞘入りしたままの刃が閃く。

 馬はアウリスのすぐ傍で嘶いた。砂塵が舞った。いつもは絶対失敗するくせに、非常に上手な着地であった。 

 そして、唖然とするアウリスの前にささっと衣を正しながらやって来て。

「……何泣いてるんだよ」

 肉だんごは顔をしかめた。

 照れ臭そうな、しかめっ面だった。

 アウリスは無言で下を向く。せっかく我慢していた涙が出そうになっていていた。肉だんごが、アウリスの震える肩を、ぽん、と叩いた。

「背中任せるよ」

「……うん」

 任された。

 馬の猛攻と砂けむり。

 そんななかで、天秤は傾いていた。アウリスはそれを確かに感じていた。

 戦の風向きが、変わった。

 目を擦り、両手で木刀を引き絞る。

 とん、と肉だんごの肩が頭の後ろにあたった。その肩を振り向くことはなく、ただ絶対の信頼を預けて、アウリスは飛び出した。


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