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22.


 目の前で火花が散る。

 昨夜から何度目のことだろうか。

 ガゴオ、という、非現実的なまでの音が爆発する。耳の奥に棲む怪物が咆哮したかのようだった。

 アウリスはよたつき、危うく尻もちをつきかけて、ぐうっと踏ん張る。

 ここは、ニナエスカの娼館の裏道。夜明けの路地裏で、ニナエスカは、ニナエスカ師団を引き連れて、待っていた。

「やめな!」

 ニナエスカの一喝。

 両手で額を押さえながら見ると、正面には、同じくらい顔をしかめた女性がいた。見たことがある。確か、ライラさん、という名前だ。

 その彼女を押しのけるようにして、ニナエスカが立ちはだかる。ライラは、このあいだのゲノマ解放のときに持っていたのと同じ槍を退いて、後退した。

 それを見て、アウリスは両膝を地につけた。膝と、両手の下で、ざ、と砂が鳴った。頭を降ろすと、少しだけ口に砂が入った。

 土下座するアウリスを見て、ニナエスカは少しの間押し黙っていた。

「……何の真似だい」

「ごめんなさい。ニナエスカさん、……わたしは取り返しのつかないことをしました。許されるとは思ってない。でも」

「何しに戻ってきたかって聞いてんだァアコラぶっ殺すぞ!」

 つま先まで緊張が一閃する。ニナエスカが踏みだして、一気に襟を掴み上げられた。があん、と鉄製の左足が地面に沈む。

「テメェなめてんのか! お蔭様でこっちゃあクソ損したわ! ケツ青ぇガキが後先考えず粋がりやがってテメそんなに死にてェなら鉄砲女郎にでもして売っ飛ばすぞ!」

 額が触れあいそうな距離で怒鳴られて、う、と思わず唸り声が漏れる。痛い。声だけでパンチみたいな威力だ。全身の傷口が開きそうにビリビリした。

 でも、アウリスの心は逆に醒めた。

 ニナエスカは、ケムリモノで死んでしまった三人のことなんかどうでもいい。売り上げがめちゃめちゃになったことしか気にしてない。あの三人でいうと、彼らがニナエスカに借金があった、という事実しか価値が無い。

 名無しは、ここに戻る道のりでそう言っていた。

 ニナエスカを本気で怒らせてると思うなら、逃げた方がいい、と言った。でも、きっとそうじゃない、二、三発殴らせれば、話を聞いてくれるんじゃない……、そう、言っていた。

 目の前の現実は、見事に彼の言葉と一致している。

 でも、つらい。ニナエスカの啖呵は、恐怖より、漠然とした哀しみのようなものでアウリスの心を冷やした。

 だが、今更何が出来るというのだろう。

 殺した人間は、当然だけど、かえってこない。取り返しのつかないことをするというのは、これも当然だが、取り返しのつかないことなのだ。

 残された「飼い主」は代償を要求している。彼らはもういない。その彼らの価値を決めるのは、どうやら、目の前の人間なのだ。

「……お金は」

「あア!?」

「お金は、必ず返します」

 それでも、それを口にしたとき、心に暗い闇が広がった気がした。

「……一晩のケムリモノでどんだけの金が動くかわかってんのか」

「わからないけど、庶民の感覚では想像も出来ない額なんでしょう? でも、名無しがニナエスカさんに預け続けてきたお金の全額、では、どうですか?」

 ニナエスカが眉をひそめる。日の下で見ると、グレイにも薄い青にも見える瞳は、無感動だった。承諾、ではなくて、懐疑の表情のように見える。

「名無しに聞きました。名無しは、ニナエスカさんの所で働いていたときに、稼いだお金をニナエスカさんに預けてた。その後も、ちょくちょく依頼を聞いたり、他で稼いだお金を持って来たりしてた。ニナエスカさんは銀行みたいなものだったって、言ってました」

 でも、ニナエスカはお金を横領していた。名無しが稼いだお金を、他のことに投資したりしていたそうだ。だからこそ、三日前に、名無しが突然お金を降ろすと言いだしたときに、ニナエスカは焦ったのだ。

 二人は、アウリスがはかり知らないところで話し合った。

 結果、ニナエスカが今すぐ動かせる分のお金は、アウリスたちの作戦の資金としては少しばかり足りないことがわかった。

 そこで、名無しはその分をケムリモノに三日連続出て稼ぐことになった。

 一方で、ニナエスカは使い込んだ分を後々ゆっくり名無しに返すことになったという。

 当然、アウリスには初耳の話だ。ここ数日で、帳簿の付け方がよくわからなかったのも、漸くはっきりした。

 アウリスは、ぜんぶ、名無しに借りていた。

 目の前の人間に、アウリスは借りのひとつ、ない。

 いや、なかった。昨夜までは。

「あなたは名無しにお金を借りています。わたしたちの作戦の資金を出した後も、まだ借りが残っている。その金額と、昨日のケムリモノで、わたしと名無しがあなたに対して出来た借りとで、お互い貸し借りゼロの計算にならないでしょうか」

「貸し借りゼロねえ」

 面白がるような口調に反して、ニナエスカは探るように目を細めてアウリスを見ていた。

「そういうことなら話を聞いてやらないでもない。ただし証明書を書いてもらうよ。後から前言撤回しますなんて言われちゃあ面倒だからねえ」

「それでいいです。あと、もうひとつ」

「ああ?」

「昨日の……あのケムリモノに出ていた三人の遺体はどうなったんですか?」

「んなモンそのへんに捨てたわ」

「もしもご家族がいないんだったら、わたしに預けてもらえませんか? 引き取って、共同墓地に埋めたい」

 いきなり突き飛ばされた。

 今度こそアウリスは尻もちをつく。

 ライラの最初の一撃は様子見のようなものだったかもしれない。その次に、ニナエスカ自身に首根っこを締め上げられたときには、試すような意図を感じた。どれも事務的な手際だった。だけど、今の一撃には、込められていた気がする。

 明らかな怒りが。

「何様のつもりだい、あんたは。あ? あの大罪人の懐からちょろまかしといて大口叩くんじゃないよ。墓立てんのだって金がいるんだ。それをなんだい?」

「っでも」

「口答えしてんじゃねえオボコが!」

「お、おぼ……」

「いいかい、金作るってのはそう簡単じゃないんだよ。稼ぐ傍から泡みたいに消えていく。それがこの国の現状さ。昨日のアレ見て、まだそんなことが言えるなんて相当な能天気だテメエは。何から何まで男の金に頼っといて世の中甘く見るんじゃないよ!」

 があん、と再び地面が爆発した。己の義足に肘をかけるようにして、ニナエスカは前傾になり、指でアウリスの顎を捕えた。

「……ふん、ずいぶんいい顔になったじゃないか」

 鼻で笑う。その眼差しが、アウリスの面立ちをまんべんなく眺めて、一瞬だけ、裏路地の奥の方へ飛ばされた。

「逃げずに戻ってきたことだけは褒めてやる。あのヌイ・マルカはどこだい」

「近くで隠れています」

 ニナエスカの手が動いた。散々乱れた髪を掴まれて、アウリスは痛みに顔をしかめる。それでもじぶんで立ち上がり、彼の顔を見た。

 憤怒か。苛立ちか。

 そんな、予想していた通りの表情に目を滾らせて、ニナエスカはアウリスを見ていた。ただ一瞬、何か別の感情が混じったかのように見えた。錯覚だったかもしれない。

「じゃあ三晩」

「……え?」

「三晩だ。あんたが三晩あたしの館で客を取って金作ったら、三人の死体、あんたにやろう」

 思わずアウリスは目を見張る。くっくっとニナエスカが喉の奥で笑う。

「ほらな。あんたの覚悟なんてそんなものなのさ」

 興味を失ったかにニナエスカが手を離した。アウリスは言葉もなく、外套の襟を正しながら目の前に立ち塞がった巨体を見つめる。

「あたしは『死人の為に』とかいう奴を信用しない。死んだ奴は泣きも笑いもしないんだ。死んだ奴の為に何かしても時間と金の無駄。生きてる事が全てなんだよ、……わかったかいこの大馬鹿者が」

 返事をしなかったのがいけなかったのだろうか。

 唐突にニナエスカの手が伸び、ぐ、と髪の付け根を強く掴まれた。

「わかったかって聞いてんだェエこのボケ!」

「わかってます! でもニナエスカさんは泣きも笑いもするじゃないか!」

 ニナエスカが僅かに眉をひそめる。

 アウリスはニナエスカの腕を払って、小さく後退した。見据えると、ニナエスカは僅かに目を見張って、は、と大木みたいな全身で笑い飛ばした。

「知った風な口を利くんじゃない。結局あんたは何一つ持っちゃいないんだ。その酷ぇツラがあんたの天井なのさ。そうやってせいぜい体張ってヌイ・マルカへのツケを返していくがいい。これからもずっとね。ああ、それと」

 一転、笑いを消し去り、醒めた表情でアウリスを見る。

「今日の監獄解放には人を貸さない。てめえ一人でなんとかしてみな。もしも無事に帰ってきたら度量を認めてやろう。あたしの書斎に招いてやるよ」

 その後なら話を聞いてくれるというのだろう。

 アウリスはうなずくしかなかった。返す言葉も何も、もうアウリスには残っていなかった。

 ニナエスカはそのあと控えていたライラに何事か耳打ちすると、先だって館の方へ向かっていった。

 二人を囲んでいたニナエスカ師団の壁が道を作る。

 その奥に、裏戸に佇む人影が見えた。アウリスはのろのろと裏路地の逆方向に歩きだそうとしていた足を、はっと止めた。アルヴィーンだ。

 アルヴィーンは通りすがるニナエスカの方を一瞥したようだったが、淀みない足取りでアウリスの元へ歩いてくると、露骨に顔をしかめた。

「アウリス」

「アルヴィーン……お、おはよう」

 額の髪を手で避けられながら、気まずさにしどろもどろになる。アルヴィーンの瞳は静かだった。だけど、顔に触れる仕草は躊躇っていた。

「昨夜からいなくなっていたことは知っている。館の者にも聞いて回ったが知らぬ存ぜぬで通された。何があった」

「えっ、う、うん……昨日の夜、ちょっと」

「その顔は」

 緩く握った拳で顔を撫でられた。その仕草があんまりに優しかったので、アウリスは思わず、涙が出そうになった。慌てて首を横に振って誤魔化す。

「それが……その。ケムリモノという喧嘩の会みたいなのに飛び入りしてしまって」

「ケムリモノ?」

 アルヴィーンが眉をひそめる。でも、ケムリモノの正体を彼が知ってるかどうかは表情からは読み取れなかった。

 心配させた。

 でも、今一番、このひとに会いたくなかった。

 相反するような気持ちが湧き上がり、アウリスは力なく再度首を振る。

「今の話、聞いてましたか?」

「ああ……、監獄解放を自力でやるという」

「はい」

「俺も行く」

「……それはありがたいんですけど、でも、だめです」

「心配するなと昨日言っただろう」

「だめです」

「アウリス」

「だめです」

 アルヴィーンが物凄い冷たい目で睨んできた。親の仇を見るみたいだ。アウリスは怯むが、でも、頑固として譲らなかった。

 アルヴィーンは矢傷を負ったのだ。お腹に穴があいたのだ。アルヴィーンも、猫じゃらし奪還の為に何かしたいにちがいないけれど、今暴れさせるわけにはいかなかった。

「一人で出来ると?」

「うっ、そ、そういうわけじゃないけど……」

 館の方へ向かっていきながら若干口ごもる。 

 問題はそこなのだ。

 そもそも、アウリスは館に今戻っていいのだろうか。ニナエスカは、監獄解放の後に取引をしてやる、と言っていたが、それまではここにいてもいいのだろうか。

 何も言われなかったからいいのか。そういうことにしよう。他に行ける場所はない。元を辿ると、名無しのお金でお泊りさせてもらっているし。

 でも、そこを考えると、ニナエスカが今日の監獄解放の作戦に人を貸すことも、名無しへお金を返済する一環のはずだった。でも、ニナエスカは助力をしないと断言した。

 それには、アウリスは返す言葉もない。ニナエスカが借りがあるのは名無しで、アウリスではなかった。そういう理屈を抜きにしても、ニナエスカをこれ以上傷つけるつもりはない。

 ニナエスカとの押し問答は、正直、気が滅入った。

 お金で交渉したいと言うのなら、する。そっちの方が、墓石を立ててあげることよりも意味があるのかもしれない。ある意味、前向き、なのかもしれない。

 でも、名無しの言葉がすべてだとは思えなかった。お金で返せないものが、お金で埋められないものが、この世界には確かに存在する。

 あの、一見血も涙もない、王都の裏社会の主の中にだって、あるのにちがいなかった。

 で、現問題だ。

 ニナエスカの助力無しに監獄解放をする具体的な案を立てなければ、彼と交渉することも、ひいては、猫じゃらしの奪還作戦を実行に移すことも出来ない。

 絶妙なタイミングで視線を感じた。

 アウリスは、アルヴィーンに先に裏戸を通らせて、今きた道を振り返る。

 目線を横にざっと流してから、空の方を仰ぐと、漸く、建物の出窓にその姿を発見した。

 名無しは窓枠に腰かけていた。膝を抱えて、頬杖をつき、ジッとこちらを見ている。

 うすら白い陽射しが、建物と建物の隙間から模様のように差し込んでいる。

 もう朝。けっきょく、名無しもアウリスも一睡もしなかった。

 アウリスは暫く見返していたが、やがて、ふいと顔を背けて建物に入った。





 ケムリモノの会場付近で馬車を盗んだあとのこと。

 二人は、一度も休憩せずに逃げた。

 台車の中に入れられていたので、アウリスにはどこをどう走っているのか全くわからなかった。

 誰の馬車かもわからない。泥ぼうの片棒を担ぎたくはないが、移動中の馬車から飛び降りるようなことも出来なかった。

 漸く、馬が止まり、御台にいた名無しが現れた。

 ばさり、と黒い戸幕が捲られて、闘技場にいたときと変わらない姿を見たとき、アウリスはギョッと息をのんだ。

 頭のてっぺんから、均等に筋肉のついた裸の上半身から、腰紐が緩くなったズボンのつま先まで、滴るように血まみれ。痛いくらい真っ赤。着替えてないのであたりまえだが、見慣れるものでもない。

「名無し……」

 促されるでもなく、馬車の外へ出ようとすると、名無しに止められた。

 肩を掴まれて、怪訝とその顔を見た、とき。

 一瞬で、息が詰まった。

 衝撃と痛みが同時に破裂した。からだの真ん中で。激痛が治まるより前に、ホウキを手から奪われて、捨てられて、ぐちゃぐちゃのドレスごと再び肩に担がれた。

 漸く意識がはっきりしたのは、その小屋の床に転がされたあとだった。

 それ以前の道のりでも、林の中に入った辺りから意識は晴れつつあった。ニナエスカの離れの部屋よりも少し広いようだ。小屋の中は生活感があった。羽根布団が乱れた寝台。洗い物の干された台所。ここは、名無しの隠れ家なのだろうか。

 どん、とランタンの明かりが目線上に置かれた。

 アウリスはもそもそと身を起こす。

 全身が痛い。鳩尾に違和感が残っていた。ケムリモノの三人によってたかってやられたところも痛い。そこに、新たな痛みが加わった。背中のドレスの紐を掴まれて、無理やり引きずられたのだ。

「いたっ……痛い、何するの名無し!」

 身を捩り、相手の顔を見上げた。

 一瞬だけ、見えた。

 名無しは、薄い笑いを張りつけていた。目はまるで笑っていなかった。どろりと興奮に蕩けて、暗くて、とてつもなく冷たい目は、多分、いつもと同じだった。

「名無し」

 殴られた。

 目の前で火花が散った。目玉が吹っ飛ぶかと思った。

 激しい痛みに両手で顔を押さえた。肩がみしっと啼いた。名無しが膝で踏みつけてきて、彼の手が伸びて、ドレスの襟をぶつんぶつんと紙切れみたいに引きちぎった。

 恐怖が痛みを呑みこむ。とっさにアウリスは二腕で名無しを押し戻した。痛くて半分しか開かない右目に、名無しの血塗れの拳が、映り込む。

「なぁにこれ」

 ぐい、と絡めとる。普段は外気に触れることがない、レアトールの狼牙の首飾り。それを、引き千切らんばかりに。

「――やめ……っ」

 ブツツ、と薄暗がりに散った。

 気を取られる暇もなく、胴体が爆発した。拳が降った。立て続けに三度も。

 腕がみしりと外れかかる。名無しの本気の拳は一撃で鬼男をも落とせる威力のはずだ。一応手加減はしているのかもしれなかった。

 でも痛い。

 すごい痛い。ここまでくると、このまま意識を飛ばしてしまった方が楽かもしれない。

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。

 あの首飾りは七年も前のものだった。革は古びてしまっていた。弱くなっていた。

「アウリス」

 名無しの手がそれを巻いて、親指で、すうっと喉を撫でて。

「死にたくなるくらい一杯君を泣かせてあげる」

 手負いの獣はきっとこんな目をしているのだろう。

 物凄い熱くて、でも虚ろな瞳。痛みと暴力に我を忘れた、剥き出しの興奮そのもの。

 彼を、あの地獄から中途半端に連れ出してしまったせいかもしれなかった。

 そして、その彼を殴ったじぶんも、同じ目をしていたかもしれなかった。

 瞬間、右手がみち、と啼いた。

 嫌な感触。生身の拳が、生身の人間の肉に沈む、音。

「……っこの、正気にかえれ名無し!」

 殴り返された。

「……ぃ……っあ゛」

 前髪を掴まれ、口の中に舌が侵入する。噛みつくようなキス。というよりキスのような噛みつき。口の中に溢れた血を啜りとるように動く。

「……君を愛してる」

 泣きそうな声だった。

 左足の付け根と右足の付け根をみしりと痛い程の力で押さえられる。 

 目の前が痛みに赤く燃える。

 身が、怒りに点火する。

「――っんの、落ち着け名無しぃイイイ!」

 飯炊き場で鍛えた腹筋の脈動とともに、まっすぐに、一寸の狂いなく。

 頭蓋骨が砕けたかもしれない。そんな音が耳の底で爆発した。名無しは堂々と眉間で受けて、動きを止めた。

 戦意が削がれたわけではない。その目は開きっぱなしだ。ゾッとする。

「……落ち着いた?」

 額を突き合わせたままで、聞いた。

「そんな無茶な」

「じゃあ羊を十匹数えて」

「……」

「そしたら心が休まる。ぜったい」

 ぐらり、と頭をどけた。

 アウリスの額と、名無しの額のあいまに血が糸を引く。どちらの血かはわからないし、今出たばかりの新しい血かもわからない。アウリスは忌々しげにじぶんの額を撫でた。痛かった。

 その手で、名無しの手から首飾りを毟り取った。

 名無しは表情も変えずに、動くこともなくいた。いつものへらりとした笑みという無表情すら取り払われていた。放心しているようにも見える。

 アウリスは急いでランタンの明かりに翳し見た。

 透明な光沢の牙。

 黒曜石のような、アウリスのたからもの。

「……よかった」

 壊れてない。

 両手で胸の方に包む。安堵する一方で、ふつふつ怒りが再び湧き上がる。名無しには、これがアウリスにとってどれほど大切なものなのか、知る由もなかった。知らない癖に奪った。奪って、これを巻いた手で、何回も殴った……。

 じわ、と目の前が滲む。

 それを堪えて、革紐をささっと首の周りに通した。

 まだ気を緩めてはいけないことを本能の部分が悟っていたかのようだった。髪の毛はずいぶんほつれていて、うなじの方で結び目を作る指の邪魔をした。

「アウリス」

 もたつくアウリスの手に、にちゃ、と湿った手のひらが触れた。

「してあげよっか」

「じょうだ」

 冗談、ふざけるな。

 言いかけて、アウリスはぐるりと振り向いた。

 なにげなく彼女は彼を見つめた。不思議なことに、名無しの顔には一切傷がついていなかった。アウリスが殴り、頭突きしたところで、皮膚がちょっと切れているのみで、他にはかすり傷ひとつ、なかった。

 負け方が上手、とニナエスカは言った。

 ケムリモノの最中に無駄に整った顔を守るのも、「上手」だからなのか。

 「商品」だから。

 アウリスの手がのろのろと動いて、うなじを覆う、たっぷりの髪を持ち上げた。

「二重結びにして。やり方わかってる?」

 名無しは、アウリスの手に触れていた手を床に置いた。胡乱として眉をしかめて見せると、緩い笑みは動きこそしかなかったが、彼の目がほんの少しだけ動いたようだった。珍しく、困惑したように。

 なんだかイラつく。

「あなたがしてくれるって言ったんじゃないですか。してくれるの? してくれないの。どっち」

 名無しの目線が動いた。無言で彼が紐を繰り寄せて、アウリスはあぐらをかく彼の前に、背中を向けて座った。

 しゅるしゅるしゅる。紐が蛇のようにとぐろを巻く。

 その音が遠い気がする。

 顔面が火だるまになったように感じ始めていた。それに、全身マグマみたいにグツグツする。体中、耐え難い痛みに、必死に堪えている激しい感情に、小刻みに脈を打つようだった。唇を噛みしめて耐えていると、耳元で強く結び目を引っ張るのが聞こえてくる。

「アウリス」

「なに」

「ヒツジ数え終わったよ」

「そう。……じゃあ身支度して、ニナエスカさんのところへ戻りましょう」

 ぐるりと首を回した。

 ランタンの中で燃える木屑の、甘いような匂い。それ以外は何もなかった。炎に照らされる赤い髪だけは、やっぱり血より赤かった。

 どこまでも沈んでいく夜闇みたいな目を、アウリスは見つめた。痛みで半分降りた右目で、じっと彼の方を見ている彼女を、名無しも、息を潜める獣みたいな静けさで眺めた。

「話は後で。今は一緒に帰ろう。名無し」

 名無しはそのあと医療器具を広げて酷く的確な処置を施し、アウリスを驚かせた。彼は、彼女と最後まで目を合わせなかった。





 朝食の時間になると、小姓が現れた。

 いつものことだったが、今朝は、ニナエスカの食堂ではなく、アルヴィーンの部屋、正しくは、医者の元に通された。

 おっかなびっくりに包帯を変えてもらった。

 でも、驚きが一番大きかったかもしれない。アウリスの怪我のことを医師に通してくれたのはきっと、ニナエスカだったから。

 アルヴィーンと、今後の相談をしながら自室に戻ると、肌寒い朝の風を感じた。

 ハッとして窓辺を見るのと、隣のアルヴィーンがそちらに向かっていくのが同時だった。

 拳が握られる。

 スローモーションみたいだった。アウリスが止めに入ることはなかった。

 このときに、名無しに敵意があったならどうなっていたかはわからない。

 でも、名無しは動かなかった。結果、かなり的確に、絶妙なタイミングで殴り飛ばされて、彼は背中から壁に倒れ込んだ。更にアルヴィーンの手が伸びる。名無しの襟首を掴んで、力づくで立たせた。

「おまえだろう。毒矢」

 あ、と名無しが今思い出したような顔になった。ほんとうに今まで忘れていたのかもしれない。

「次にやったら殺す」

 名無しの唇が腫れているのを睨んで、アルヴィーンは漸く手を離した。それから彼は、ずんずんとアウリスの突っ立っている戸口に戻ってきて、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 アウリスは途中までアルヴィーンの後ろ姿を見ていたが、部屋を振り向いた。

「なに」

 短く用件を聞いた。名無しは床にすとんと座っている。

「うん。ニナエスカのとこから今帰ってきた。アウリス、今日の刑務所行くの、俺も一緒にいこっか」

 返事のかわりにずんずん歩いて行って、クローゼットを開けた。地図や清掃道具が雑多に収納されている。一番長いホウキを手に取り、それを名無しの方に放った。

 名無しはキャッチして、黒い目を丸くした。

「……なにこれ」

「今日のあなたの武器。人を殺さないでくださいね」

 名無しの目線が上がって、アウリスを追い部屋を横切っていく。

 彼は部屋にいたときから一回も笑っていなかった。普段の甘ったるい笑みがないというだけで、見慣れていないからかもしれないが、少しばかり別人みたいだった。世の中の全てがゴミだと思っている、冷えた心が一層よく伺えるような気がした。このときには、アウリスは少しそれが寂しいとも感じられた。

「アウリス」

 名無しは珍しく何か言い淀んでいた。眼差しだけは鋭くて、今にも獲物に牙を沈めんとする大型の獣のように熱っぽい。

「凄く無理してるよね。そんなに猫ちゃんのことが大事なんだ?」

 アウリスは黙ってテーブルの上に目を伏せた。

 背後で立ち上がる気配がした気がする。でも、衣擦れの音ひとつ、足音ひとつ立っていない。

 勘違いかと思ったときに、いきなり目の前が爆発した。

 テーブルの上に置かれていた陶器が粉々に砕ける。

 使ったことはなかったが、確か花瓶だったはずだ。砕いたのは、後ろから凄まじい勢いで放たれたホウキの先っぽ。

 その木工の掃除道具が壁にぶちあたってころころと転がってきた。

「仲間が欲しいだけならニナエスカがいるよ。あれで多分君のこと気に入ってるんじゃない。ねえ、アウリス。なんで俺を見捨てないの」

「見捨てて欲しいの?」

 思わず言い返してしまった。

 アウリスは肩越しに頭を巡らせる。開いた窓に踊るカーテンの影で、名無しはいた。腕を組んで、感情がまったく読み取れない、人形みたいに温度の無い顔をしている。

「どうしてほしいの? わたしに怒って欲しいの? 何それ子供みたい」

 アウリスは歩いていくと、クローゼットの中を乱暴に漁って、名無しにつきつけた。名無しは二つ目に長いホウキを差しだされて、突っ立っていた。ぼんやりした風にホウキを見下ろしている。その鼻先に、ずい、とアウリスはホウキの先っぽを押しだす。

「助けてくれるの。くれないの、どっち。助けてくれるなら作戦会議をするから今から一緒に来てください」

 名無しがホウキの先っぽを押し返した。その手でホウキを中心で掴んで、くるりと器用に一回転させた。

 一瞬、視線が合った。

 その一瞬に、目を細めて、ゾッとさせる冷えた目で見られた気がしたが、すぐ相手の方から逸らされた。

 このひとも混乱しているのかもしれない。

 昨夜のことは思い出したくもなかった。思い出すべきではない。じぶんがどうしたいのかわからないうちは考えても無駄だとアウリスは思っている。

 それはお互い様なのか。

 名無しは明らかに気に掛けている。でも、何を? 人を殺さない約束破ったことを? それともアウリスにしたことを? 「噛ませ犬」を演じる自分を見られたことを?

「……話は、あとで」

 けれど、あいにく、アウリスが今一番に気に掛けているのは三日後に迫った公開処刑のことだ。

 アウリスはそっぽを向く名無しの方を一瞥し、さっさと先頭に立って部屋を出て行った。


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