21.
ニナエスカは勝手知ったる様子でがこん、がこんと部屋に入ってくると、アウリスの手元を一瞥した。
「ああ、それかい。よくある童話さ」
口だけがにかっと笑った。目は笑っていない。
「一介の粉屋の娘がいろいろあって王子様と結婚するんだ。よくある話だろ」
「これは名無しのですか?」
気になっていたことをアウリスは聞いた。
「そうさ。それを持ってた頃には読めなかったはずだ。でも大事なものなんだろう。何しろ、それ一つだけだったんだ。あいつに会った頃の、あいつの持ち物はさ」
今はたくさん持っている、みたいな言い方だ。それもアウリスの知らない事情だった。
「……じゃあ」
解っているのは、目の前のことだけ。
「落書きは名無しがしたんだ」
「六つかそこらのガキの悪戯だね。まあ、あいつの歳なんかあいつ自身にも解っちゃあいないさ」
「そうなの?」
「だって貧民街の乞食だろあいつは」
ニナエスカは会話に飽きたように、揺り椅子に座った。太い木が根元から折れたような、どすん、という乱暴な音を上げた。
最近気に入ってきていた席を取られ、アウリスは再び絵本を見る。
今開いているのは最後の方のページだ。
花嫁衣装の、粉屋の娘が微笑んでいた。隣には王子が立っている。古い、古い屋敷の奥で、蜘蛛の巣のかかった一枚の肖像画のように色褪せた絵だ。それだけで少しばかり薄気味の悪い感じがする。
花嫁の口には、手が一本、生えていた。代わりみたいに、右肩の下は塗り潰されていた。胸には三本のナイフ。ドレスは黒く塗りたくられ、開いた足の間に黒い血が流れ落ちている。足は両方とも、足首のところで斬り離されていた。
どれも、後から黒いインクで描き足したものだ。
一つページを捲るごとに、次から次から粉屋の娘はひどい姿にされていた。絵本が終わる頃には、花嫁は、頭だけになり、真っ黒に渦巻く空洞の目と真っ黒に裂けた口で薄笑いをしていた。
一言でいうと、悪趣味だ。
これが六歳児の「悪戯」か。
アウリスは気づかないうちに大きく息を吸い込んだ。
気分が悪い。
――君には欲しい首がないの?
七年前の、嫌な記憶が蘇る。ほんとうに、あの頃からじぶんは目を付けられていたらしい。
「わたしは何人目の花嫁なの?」
「さあねえ。十人目か。九十九人目か」
最低十人ということか。適当に言っただけか。そこは気になるところだ。
アウリスは確信していた。
これが、名無しが「欲しい物」なのだ。
交換条件の末に叶えて欲しい「願い事」。
だって、アウリスも同じ色彩をしているのだ。緑色の瞳と、ブルネットの髪の、粉屋の娘と。いや、首だけの花嫁か。偶然とは思えなかった。
「……名無しは、わたしを殺すの?」
「知らないねえ。お嬢ちゃんがどんだけの手練れものかも知らないねえ」
殺されない自信があるのかとニナエスカは聞いているらしい。
揺り椅子に疲れた木みたいに身を預けて、ニナエスカはぼんやり雨音を聞いているように見える。そっけなく、振り向く様子もなかった。アウリスの方も、そうですか、とだけ応えた。
名無しの怖ろしい秘密を暴いてしまったはずが、はじめの衝撃が去ると、妙に心は乾いていた。恐怖はある。だけど、あまり心は動かなかった。
どこかで、予想通り、と思ったからかもしれなかった。
予想していたのならば、名無しの傍にいたのは、同意の上で、じぶんの意志で殺されに来たと言うことになるだろう。
「逃げるかい? だったら見て見ぬフリをしてあげようか」
それでも、そう言われたときにアウリスの目線はまっすぐにニナエスカへ向いた。ニナエスカはつまらなそうに左足に触れていた。今度は、ちゃんとアウリスの目を見ている。
「何驚いてんだ。あたしにゃ関係ないことだよ。あんたが消えても一銭も損しない。ヌイ・マルカが妙な独占欲を出して、おまえにはあたしへの借りをひとつも作らせていない。だから、関係ないのさ。ああ、出て行くなら、ついでにシンフェのとこの軟弱なガキも一銭にならんチビの方も一緒に連れてっとくれよ。邪魔だから」
「……ニナエスカさんは、どっちでもいい、ってことですか?」
「んん?」
「だって、監獄の罪人を解放したり、火薬を集めるのも手伝ってくれています。ここで、わたしたちがいなくなると全部無駄だったことになります」
「おまえを囲ったら無駄にならないのかい。何か得するって? 国家級犯罪者のおまえを囲って? ま、お礼金くらいは騎士団からせしめられそうだ。今からでも身ぐるみはいで引き渡そうか」
くっくっ、と紫煙でしゃがれた声が笑う。
「……そしたら、ニナエスカさんが囲ってくれてたっていう」
「はは! それは困る」
冗談のやり取りはここで終わった。
ニナエスカは前触れなく立ち上がって、開いたままの通路のドアの方へ向かっていった。
「それ」
一転、楽しげに目が笑う。
「ドレス似合ってるじゃないか。その姿なら置いてやってもよかったかもしれない。でも、もう、おまえの方が嫌だと言うだろうねえ」
シンフェか誰かに聞いてひやかしに来てみたのか。
薄暗い部屋の中で、がとん、がとんと揺れる巨体の、左足にアウリスは目を留めた。腰を浮かすときにも癖みたいに触れていたようだ。
その義足はどこで、何があったのだろう。
ニナエスカが歩くところは見たことが無かったかもしれない。初めて王都に辿り着いた日に、チエルと一緒に遠目に見たのはやはりこのひとだったのだろう。不自然な歩き方が記憶に残っている。
あの日からもう、四日経った。
四日限りで、ずいぶん遠い所に来てしまったものだ。
「待ってください」
通路の灯りが陰る頃に、漸くアウリスは追いかけた。
「あと、もうひとつ。ケムリモノってなんですか?」
「変なとこに食いつくねえ」
ニナエスカは少し驚いたようだった。
「あたしも今向かう所だよ」
「むかうって、そのケムリモノに?」
「うん。……ああそうだ、その恰好なら、あたしの隣にいても許せそうだねえ。一緒に来るかい?」
また、冗談と本気が混じったような、ニナエスカ独特の口調だ。紫色に塗った唇がにたりと開いた。アウリスの全身を舐めるように見て、うん、と納得したようにニナエスカはうなずいた。
ケムリモノは、地底の闘技場のことらしかった。
闘技場と言っても、本物ほどに大きくはない。ジークリンデの屋敷の、五十人入りの食堂くらいの広さに、弓張るように壁が囲い、壁際は段差型の席が下っている。全体的に円型の空間だ。
頭上を仰ぐと、もっぱら値が張りそうな巨大なシャンデリアが浮かんでいた。そこに灯る一千のロウソクの下で、五万の客が観戦している。
「地下にこんな施設があるだなんて……」
馬車で三十分ほどの道のりだった。まだ王都の繁華街にいるはずだ。
入り口は、一見どこにでもある一軒家の玄関のように見えた。粗末な木戸の向こう側には、生活感あふれる家ではなく、狭い壁のあいまに階段が下っていた。それを降りると、闘技場の入り口に出て、案内人に挨拶されたあと、今度は観客席のあいだの階段を登りだした。案内人は先頭を歩いている。
「すごく新しい発想ですね」
「ああ?」
「すっごく新しいですね! 地下に空間を作るなんて!」
ニナエスカは、アウリスがまごついてもさっさと先に歩いてしまうので、アウリスは相手の背中を見失わないように食らいついていた。
熱気と喝采により、互いの声が聞こえにくい。一体、何人くらいが集まっているのか。見回すだけで、通る隙間もないくらいに人、人、人。
「この前セラザーレであった王様のお披露目のときみたい」
「あぁ、今夜は特に繁盛してるのさ」
漸く聞こえたらしく、ニナエスカが振り向く。含みのある口調だった。
「ケムリモノの闘技場はこの町だけで三つある。ここはあたしのシマだが、地上は法の目が厳しいんで、全部地下なのさ。そんな珍しいもんでもないよ」
「そうなんですか?」
「驚いてばかりだねえ。特に新しい発想でもないんだけど、おまえのような女には知らないでいい世界だったのだろう。処刑当日になれば嫌でもわかるさ」
「え?」
「地下水路に仕掛けるんだろう?」
ニナエスカは機嫌良く笑った。
アウリスは首を捻りながら、ニナエスカの背中を見つめた。上品なハシバミ色の外套。暑くはないのだろうか。素晴らしい骨格なので、男装をすると男そのものだった。外套の下には、その紫色の唇を強調する、薄紫色にダリア模様のドレスを羽織っているはずだ。
いや、男そのものというか、むしろ――。
アウリスの思考はそこで中断された。
ウォオオ、と獣じみた咆哮。観客席が大きく前に乗り出した。人間の波が、台風が直撃した水面みたいに打ち寄せる。
汗と、何かわからない不快なにおいがする。人々の興奮の匂い。
視線を追うようにして、今来た方をふりかえると、漸くそこにあるものの全貌が見えた。
地面には大きな鳥籠みたいな物が置かれていた。周囲には人が押し寄せていて、同じ目線に立っていたときには、鳥籠の、天井の杭辺りしか見えなかったのだ。
今は、階段の三分の二を登り切ったあたりか。
アウリスは目を凝らした。
鳥籠の中には人間がいた。四人。それぞれが武器を手に無秩序に走り回っていた。一人だけ、丸腰なのがいた。
名無し。
「ええっ」
思わず、側にいた人間の頭を押しのけた。
「何やってるのあいつ……資金集めはどうしたんだ!」
名無しは、思いきりあぶらを売っていた。ゆるゆるのズボンを履いて、上半身は、服が千切れたのか自ら脱いだのか、裸で、血塗れだった。
名無しに向けて、一人が凶器を振り回す。ヴン、と重力が鳴った。長い鎖がしなり、てっぺんについたギザギザの鉄の塊が宙を切った。見たことのない武器だ。
頭直撃を逃れた名無しだったが、後ろから膝の裏を突かれてよろめいた。
「あっ」
観客が沸いた。
気づくと、アウリスも人の波の一部と化していた。
鳥籠の鉄線が、人々の咆哮に震える。戦士が長い鎖を振り回した。鉄の塊が地面に沈む。しなった鎖部分が脇腹を直撃し、名無しが膝をつく。
「あっ……なにやってるんだ……! 立って立って!」
むんず、とドレスの背中の紐を掴まれた。
「楽しいかい? アウリス」
「えっ? なんですか?」
ニナエスカの声はよく聞こえなかった。
興奮に巻かれて体が熱い。ニナエスカに引きずられて後ずさるように登りながら、アウリスは声を張り上げた。
名無し。なにやっているの、立て。
応援も虚しく、背中を突かれて名無しは両膝をついてしまった。
背後にいる勝者が、武器を両手で高々と翳してアピールする。長い槍だ。先端は拳ほどの大きさの鉄球だった。
「……ああ」
アウリスはしょんぼりと拳をおろした。
三人相手だと流石の名無しでもきつかったか。仕方がない。
べつに名無しを仲間だと思っていたわけではない。決して思ってなかった。でも、アウリスの胸には、はっきりとこのとき落胆が沸いていたのだ。
当初の目的も忘れて肩を落としたが、どうやら、それだけでは終わらないようだった。
鎖男が、名無しの赤い髪を鷲掴みにして、鳥籠の真ん中あたりに引きずっていった。名無しはぐったりしていて、あまり動かない。
槍男が歩み寄り、槍の先端で名無しを仰向けに転がした。ずい、と三人目の男が進み出る。鬼みたいに図体の大きい男だった。目立った武器はないように思えたが、よくよく目を凝らすと、両手がやけにギラギラ光っている。ナックルを嵌めているようだった。
前触れなく鬼男が名無しの足を掴んで、体を宙に引きずり上げた。
体格に見合う見事な腕力に観衆が感嘆の声を上げた、そのとき。
これもまたいきなり――鬼男は、名無しの腹に拳を叩きこんだ。
「……えっ?」
一瞬何が起こっているのかわからず、アウリスはぽかんとした。
「ちょ、ちょっと待ってください! 何やってるんですかあれ! 勝負あった……!」
「勝負だと? これからだろう」
ニナエスカが口出しする。呆れたような声だった。
「おまえケムリモノを見に来たんだろう? さっきまで楽しそうにしてたじゃないか。ここからが本番だ」
「ほんばん……?」
ニナエスカが水煙草をたっぷりくゆらせた。いつのまにか案内人が容器を手に跪いている。
会場のてっぺんには他に人気はない。二段ほど下に、警備網らしき制服の男達が立っている。
「ケムリモノをなんだと思っている? 勝ってうれしいゲームじゃないんだ。これはね、負けて稼ぐゲーム」
「ま、まけてかせぐ?」
「ヌイ・マルカにとってはそうだ。だって噛ませ犬だもの。放浪主義の気紛れ野郎を手塩こめて育てたって、一銭にもなりゃしない。ふいっといなくなっちまって終わりさ。だったら、あたしが育ててる可愛い子らの噛ませ犬にした方が、よっぽど有益ってもんなのさ。……それに、あいつの強さは異常だ。このあたしが言うんだからそうだ。だから、負け方も上手でねえ」
ほら、と言わんばかりに水煙草をすい、と動かされ、アウリスは再び目を向けた。鳥籠の中に。
宙づりでもがく名無しに三人がたかっていた。特によく動くのは鬼男だった。丸太のような腕が脇腹に拳を突き入れるたびに、名無しは呻き、痛みに身を捩らせていた。血が口から溢れ出て逆さ吊りの顔を濡らしている。頭を振ると血がぱっぱっと派手に散った。
「致命傷や後遺症が残りそうな攻撃はことごとく外してやがる。わかるかい? 観客にゃバレないようにやってんだ」
そんなことが可能なのか、アウリスにはわからなかった。こんなことをする根本的な理由が、そもそもわからなかった。
公営の闘技場なら行った事がある。七課では「闘技場ごっこ」なんかも流行っていた。春先には十二課合同の闘技会もある。代表はたいがい、グレウかセツで、アウリス自身は選手として出場したことこそないが、いつも応援に行かせてもらっていた。
そういうのとは違うのか。
「……出来レース?」
「そういうことさ。いまどき本物なんて流行りゃしないんだ。退屈な技の応酬が見たいならホンモノの闘技場に行きゃあいい。赤毛のヌイ・マルカが出ると観客も悦ぶ。役者だし、我慢強いし、あの美貌だし、噛ませ犬としては最高じゃないか。あたしも鼻が高いよ、あれほど煽る商品は見たことがない」
「噛ませ……犬」
前にも聞いた単語の意味が漸くわかった気がする。後になり、ニナエスカの「噛ませ犬」は、世間でいう正当な「噛ませ犬」とは少しばかり違う事を知った。このときは、アウリスはただ身の竦む思いだった。
「そうだ。だからここからが本番。捕獲、拷問、強姦の三拍子だ。それがウリなんだ。それがケムリモノ」
興奮を堪えた低い声で、大量の煙混じりにニナエスカは呟いた。
「七年の戦は終わった。もう何も残っちゃあいない。あの頃の興奮を知った奴はどこへいきゃあいい、全て亡くした奴はどこへいきゃあいい、平和なお国に不満のある奴は? 平和な国家の元に虐げられている奴は? そういう怒りは閉じ込められて一層強く渦巻くんだ。それを発散できる場所をあたしは提供しているだけ。こうして人は生きる糧を得る。……出場者だって稼げるんだ、ヌイ・マルカなんか、たった一晩出るだけで庶民にゃ想像出来ないくらい懐があったまる。ま、三日連チャン出るって言いだしたときはちょっとばかし心配したが。あのとおりさ。ほんとうに我慢強い、良い子だよ」
最後の方は笑い交じりの独白になっていた。棒立ちになっているアウリスの外側の肩を抱いて、ニナエスカは煙を巻きながら顔を寄らせた。親しげな距離は、苦い匂りがした。
「おまえさんの上司も良い男だ。ああ、もちろん会ったことがある、黒炭審議会の翠の傭兵さんだろう? 噂に違わぬ色男だったよ。国家の馬鹿共の裏をかいて上手に取り戻したとして、おまえ、五体満足で帰って来るとは思っていないだろうねえ」
アウリスは押し黙る。
「……おまえみたいに大切に育てられてきた女には一生縁のない世界か。でも、おまえが知りたいというからわざわざ」
ニナエスカの愉快そうな声が聞こえなくなった。
どうしたのかと思えば、切っ先を向けていた。今は帯刀していない。手の中の感触は木工だった。通りすがる清掃係のホウキをひったくり、横向けて、わさわさした先っぽをニナエスカの喉元に突きつけたようだった。
「……おまえ、誰に何をしているのかわかっているのかい?」
「掃除道具お借りします、おかまさん」
「オカッ!?」
カッとニナエスカが目を見開いた、その一瞬前。
警備陣を抜け、駆け下りた。
ホウキを手の中で一回転させる。追いかけて来る警備陣も、前を塞ぐ観客の壁も、本場の剣で押しのける。ホウキだけど。
ドレスだとさすがに動きにくい。ヒールを脱ぎ捨てた。人々の靴が運んできた砂が、レースの靴下に食い込む。
さすがに人が多く、鉄線の前に辿り着くのにずいぶん時間がかかってしまった。
鳥籠の戸らしきものを掴む。
取っ手も何もない。鉄の柵と鉄線のあいまに鎖ががんじがらめにしてある。これが鍵代わりか。
「なんだてめぇは!」
警備らしき男が近づいてきた。ホウキのわさわさした部分をその男に向けた。
「戸を開いてください」
「あア!? ふざけんなてめぇ小娘が!」
ひどいだみ声で凄まれた。言葉が聞き取りにくい。
ドレスの中の膝を曲げて、ホウキを思いきり叩きつけた。バキッと折れた。痛みで一瞬身が竦む。
ギザギザの木を向ける。警備人は目の覚めたような、怯んだような、不可解な表情をした。一瞬階段の上の方を伺ったようだった。この男を刺したり殺したりする気はアウリスにはなかったが、相手は地底の住人なのだ。人間、普段から暴力に慣れていると、最悪の事態を考えてしまうのかもしれない。
警備人は五秒ほどかけて鎖を外した。無言のまま、尋常でない苛立ちに燃える瞳をアウリスに向けて、戸を開く。
そうして、鎖の絡んだ手で、腕を掴まれ、放り込まれた。
予想外の行動だった。アウリスは、よたついて、たたらを踏む。
ガシャン。
背後で鉄柵が閉じた。
アウリスは視線を上げた。鳥かごのなかの三人の勝者たちは、抑揚の無い瞳で彼女の方を見た。一様に無表情だった。激しい運動で息を乱している。
ウオオォオ、と、獣になった人間たちが歓喜した。
自分達の役割を理解したように、躊躇いなく、槍男が進み出た。
同時にアウリスは踏みだした。
武器は多い方がいいわけでもない。二本になっていたホウキの、短い方を捨てる。
熱い。
観客席も蒸し風呂みたいだったが、ここは更にひどかった。シャンデリアの真下だからか。地面には、新鮮な赤い血に混じり、ロウソクの蝋の塊がポツポツ散らばっている。
槍男の槍を斜めに受け流した。衝撃にホウキの先っぽが吹っ飛んだ。
信じられないくらい大きな声援が闘技場に降り込む。落雷みたい。
確かに知らなかった、こんな世界。
アウリスは、黒炭内部の掃除屋、七課の人間だった。
他の師団は、外を渦巻く、強盗やら殺人やら麻薬やら強姦やら山賊やらと戦っていた。七課だけは、それらに直に触れることなく、内紛の為だけに存在していた。
そのことを疑問に思ったことはなかった。
でも、猫じゃらしから全てを聞いた今はわからない。
黒炭の中枢の、そのまた奥の、狭い狭い世界。育成所で馴染みだった顔で周りを囲い。おたまを持たせて。剣を持たせて。毒のある花と、綺麗な花、そんな程度のことしか判別できない、なまくらな目を養って。
傭兵団なんて泥臭い商売。血生臭い、廃退的な組織。市井には怖れられて、貴族には眉をしかめられて、どこへ行ってもだいたい煙たがられる。
そんな場所で、けれど、あのひとが、あのひとなりに持ち得る物で美しく整えた、檻だったのかもしれない。殆どまやかしのような、ロウソクの灰で出来た月のような檻。
そこに、猫じゃらしはアウリスを置いた。
そして今も守られ続けている。
突然だった。鎖男がアウリスにタックルをかましてきた。
「っ」
アウリスはあっけなく地面に転がった。
肋骨に激痛が走る。さらに転がって立ち上がろうとしたが、ドレスの裾を、むんず、と槍男に踏まれた。ああ、もう、なんて邪魔な服。
腹に力をこめて、起き上がり、槍男の真正面にずいと入った。ゼロ距離。近くで見る槍男は、目深く被るベレー帽の奥で、綺麗な蒼い目をしていた。
鼻面と、喉をぶち抜かない程度に、素早く、強く、突く。ホウキの底を使った。ギザギザの方だと致命傷を負うかもしれない。
ぶちぶつっとドレスが千切れる音がした。
鼻血を吹く顔面を押さえて、槍男が転がった。
真紅の薔薇の花弁が舞うむこうには鎖男の鎖がうなっている。急いで間合いを取って、両手でホウキを絞る。
『おまえは、あのひとがたった一つだけ守り抜いたものなんだ』
ラーナの言葉が浮かぶ。目を赤くして、疲れたように泣きながら、逃げろと彼女はアウリスに言った。
猫じゃらしの、言う事を聞けと叱る顔が浮かぶ。
知らない。
みんな知らない。冗談じゃない。
ここで逃げたら、アウリスは空っぽになってしまうのだ。
そうでしょう、猫じゃらし。あなたにとってわたしは何ですか。レオナート卿の娘、同志の娘、それだけの存在ですか。
あなたの夢の抜け殻になり生き続けろというのか。
だったらいっそ走り抜けたいのだ。玉砕しても。
途中で朽ちても。
それが、あなたを絶望させるとしても。
「名無し!」
アウリスは仲間を呼んだ。
「起きてください! 立って! 戦え名無し!」
一瞬の隙をついて、鞭のようにしなる鎖がアウリスをぶん殴った。
「……っぉ、え」
脇腹で痛みが爆発した。痛くて吐きそうになる。名無しはよく、こんなのを何発も……。
奥歯を食いしばり、ホウキで鎖男を追い払う。若干手が震えていた。痛い。痛い。でも動き続けて間合いをちゃんと取らないと負ける。
突然だった。名無しの足が鎖を踏んづけ、彼の手が伸びて、先端のギザギザを鎖男の顔面に叩きつけた。
名無しは血塗れだった。何も纏っていない上半身が至る所で裂けて、半ずれのズボンまで彼自身の血で濡れていて、最後に見たときより数段凄い姿だった。が、動きには一切無駄がない。起き上がりかける鎖男を蹴り飛ばす。
いつどこから出てきたかもわからなかった。でかい男の方はどうなったのだ、と見てみると、大の字で床にうつ伏せになっていた。
頭部から血が輪のように広がっていく。
「名無し、殺さないで!」
我に返り、叫んだとき、名無しは、鎖男のむこうにいて、中腰になり、槍男の頭部に両腕を回していた。
一度、目が合った気がした。
まったく音が立たなかった。人体が捩じれるべきでない方向に捩じれて、地面を打った。
観客席がどよめく。
声の礫が降る。槍男が倒れたときの振動が足元まで伝い、アウリスはふらりと後ずさりした。ホウキをぎゅっと握りしめた。なぜ握りしめているのか、それでどうするのかわからない。
名無しは彼女の方へ駆け寄ると、千切れたドレスごと彼女の足を掬い、肩に担ぎ上げた。
そして、鎖のかかっていない鉄柵から飛び出した。
歓声と野次が降る中、二人は闘技場の出口へ駆け去った。




