20.
アウリスの目の前で、ぱん、と引き戸が開いた。
アウリスは思わず全身凍結する。
雨音の響く通路には、燭台の上のロウソクの灯りが静かに揺れている。その陽炎に目を凝らすように、アルヴィーンの琥珀色の瞳が細められた。
「あっルヴィーンこんばんは」
緊張のせいで声が裏返ってしまった。
「どこか出かけるのか」
「いっ……いいえ」
「なら何故夜会用の恰好をしている」
「あっ……な、なんでかな」
アルヴィーンの眼差しが徐々に胡散臭いものを見るものになっていく。もう帰りたい。帰っていいだろうかとアウリスは頭の中で呪文を吐く。
「……何故部屋に入ってこない」
「えっ、はは。それは、その……アルヴィーン、もう寝てるかな、って」
「アウリス、と何度も呼んだが」
「……き、聞こえなかった、かな」
アウリスは他の言い訳がすぐ思いつかないじぶんの頭にガッカリする。実は聞こえていた。アルヴィーンの療養部屋の前で右往左往しているあいだに、中から現れたお医師にまで挨拶されてしまったのだ。
だが、元々あまり物事に頓着しないアルヴィーンはそれ以上追及せず、アウリスに、はいれ、といった。ホッと安堵してお言葉に甘える。
ここに来るのは二度目だ。アウリスが使っている部屋とは違い、家具は少なく、中央の寝台は、床にじかに布団をしいてある。これだと寝にくいのではとアウリスは初日に進言したが、お医者によると、布団は大きすぎて既定の寝台をはみ出るらしく、また、安眠用の特別に心地の良い素材とのことだった。
「アルヴィーン、ごはん食べたんですね」
枕元には空になった膳台があった。
アルヴィーンは無言で布団のうえに座った。そうして、隣をぽんぽん、と叩く。
側のクッションに腰下ろそうとしていたアウリスは体勢を固める。顔が赤くなるのを感じた。
「座れ」
「……はい」
アルヴィーンがいつも寝ているところに座るのか。そう思うと妙に胸がドキドキする。
もそもそとドレスの生地を揺らして、布団の上にちょん、と正座をすると、アルヴィーンは目があい、ふいっと目線を逸らした。右面がこちらを向く。今はフードを被っていないから、眉毛から頬までの醜い傷跡が露わになっていた。
「で」
「えっ?」
「俺がここにいるのは療養の為だが。おまえはどうしてここに留まっている、アウリス」
すう、と気が引き締まった。
「はい」
アルヴィーンとは、ここ三日話していなかった。なので彼は何も知らないはずだ。
もちろん、相手は裏師団の隊長ともいえるひとだから、他のところからさりげなく自分で情報を集めていただろうけど、彼がどこまで知っているかはわからない。
アウリスは最初から丁寧に噛み砕いて話した。アルヴィーンは、黙って聞いていたあと、ひとつ、ため息をついた。
「その名無し、というのは赤毛の罪人だろう」
「そ、そうなの。あの七年前にジークリンデの育成所で会ったひと。覚えてますか?」
「覚えてる。なるほど……、あいつの顔をさいしょに見たときに見覚えがあったはずだ」
七年前、というと随分昔だが、あの夜の話は二人の間でここ数年話題にもなっていた。少し掘り下げると、猫じゃらしの管轄内で罪人を逃したのは、アウリスが黒炭にやってきて以来、あれが最初で最後だったらしく、それで、師団内でも有名な話になっていた。
「あいつの伝手でここに来たのか」
「はい」
アルヴィーンは、ここ三日で随分血色のよくなった顔を僅かにしかめた。
「……まあ、いいんじゃないか」
「そ、そう思う?」
「おまえはそう思ったから協力を頼んだんだろう? 今は選択肢が限られている。この王都で頼れる人間もそうはいないし、何より今や国家犯罪者だ」
おどろおどろしい言葉とは裏腹に、アウリスの体はふわりと緊張をといた。
ほんとうは怖ろしかったのだ。アウリスはアルヴィーンに嘘の打ち明けはしたくなかった。だけど、考えてしまっていた。
肉だんごは今ここにいない。それは、アウリスの作戦のせいだから。
「……アルヴィーンは、わたしと残ってくれる」
気づいたら口から零れていた。アルヴィーンは普段と変わらない醒めた眼差しを向けた。
「べつに。俺はおまえが行くところに行く」
「アルヴィーン」
「もう七課も解散だ。他に縛るものもないだろう」
投げやりな言葉のはずだが、とくん、と小さく胸が鳴る。アウリスは照れ臭いような気持ちになり俯き、そっと笑った。
「他に縛る物がないって」
「は?」
「セツ先輩は?」
「あれは俺が行くところに行く」
それもそうか。
「アルヴィーン。……処刑の日に猫じゃらしを助けに行く為に、罪人を雇ったり、火薬をしかけたり。わたしの作戦、正しいと思う?」
「正しい選択があったらよかっただろうな」
それを聞いて、アウリスは目から鱗が落ちた。
じぶんの作戦は正しいのか。
ここ数日、常に己に問いでいた。常に不安だった。
だけど、正しいかどうかなんて結果が出るまでわからない。結果が出てもわからないかもしれない。わかるのは、じぶんがどうしたいか、という一点だけだ。
「……そっか」
「そうだ」
アウリスはそっと膝を抱えた。アルヴィーンも、矢傷のある腹を庇いながら静かに体勢をくつろがせた。そうして暫く、二人で雨戸の閉じた部屋に響く、雨の音を聞いていた。
「……シンフェに会ってきたのか」
「はい」
服装を見て気づいたのだろう。こんな服一着も持ってないし、美しく髪を結いあげる技も、そこに一本通した、金ぱくが散らばった簪も、ほんのちょっと垂れた目尻を彩る、お化粧も、どれもシンフェの物だ。
すべてが新しい。
今夜のようなドレスは、ジークリンデ領に居た子供の頃の服装とも違っていた。なんだかじぶんじゃないみたい。
真紅の手袋でそっと後れ毛を耳にかける。
アルヴィーンにはどう見えてるのだろう。
アウリスはとても気になったけれど、聞く勇気もないから、結局、べつのことを言った。
「シンフェさんとアルヴィーン、姉弟だったんですね。知らなかった」
「ああ」
「あ、その刀のことも聞きました」
寝室の端っこで、そっと大切に横たえられた刀の方を見る。名前は、確か、紫苑の細刀。
「そうか」
怒るかなと思ったけれど、アルヴィーンはただ、静かにそう言った。
前聞いたときはだんまりされたはずだが、照れ臭いだけだったのか。アウリスに知られるのが嫌だったのじゃない。そういうことだろうかと勝手に解釈した。
「アルヴィーン、あの」
アルヴィーンが目線で先を促す。
「ううん、……なんでもない」
「なんだ」
「ううん」
嬉しいついでに、彼の姉の借金はきれいに返済されて自由の身であるということを知っているのか、聞こうかと思ったけれど、やっぱりやめた。
アウリスは膝を抱える。そうして、再び、他に気になっていたことを口にした。
「猫じゃらし、どうしてるかな」
「そうだな」
アウリスは膝を抱く力をこめた。
「……肉だんご、どうしてるかな」
俯く頬にアルヴィーンの手の甲が触れた。
「ジークリンデで会うだろう。それまでに腹がすき過ぎて死ななければ」
「またアルヴィーンはそういう」
「心配かけたな、おまえ達二人に。ここまで連れて来てくれてありがとう」
アウリスはもっと強く膝を抱いた。その後ろに顔を隠す。こんなの不意打ちだ。耳まで赤くなりながらじっとしていると、頬に触れていたアルヴィーンの手が今度は首筋の方へ触れた。
指が半分下ろしている髪を避ける。なんだか肌がぞくぞくする。
「おまえは怪我してないのか」
「……はい、だいじょうぶ」
「明日もう一度監獄解放の作戦があるんだろう。俺も行く」
「えっ……、いや、それはだめです。アルヴィーンはちゃんと体を休めてて」
今夜、いくつか、心に引っかかっていた問題が解消されて、アウリスは安堵していた。同時に、不安定になっているみたいにも感じた。緊張の糸が切れて、今まで押し殺していた、不安や、さみしさや、そういったものが吹きすさぶ隙間が出来たかのようだった。
「絶対だめですよ、アルヴィーン。アルヴィーンは安静にしててください。今度何かあったらもう、どうしたらいいか解らなくなる」
「……まあ、じぶんの体の調子はじぶんが一番解っている。明日様子を見て、行けそうならついていく」
「でも」
「行けそうなら行く」
「うう」
頑固者。どれだけ心配したと思っているのか。
「……髪。くしゃくしゃしないで。せっかくきれいにしてるんですから」
負け惜しみにアウリスが文句をいうと、アルヴィーンは微かに眼光をやわらげた。
アウリスは思いきり間抜け面をさらした。ぽかんとなった。
だって、笑った。アルヴィーンが。一瞬、ふ、って。
「……ここにきたのはあながち間違いじゃなかったか」
「え?」
「おまえでもそういうこというんだな」
「どういう意味ですか」
天国から地獄へ突き落されるとはこのことだ。
すっかり舞い上がっていたところに水を差されて、アウリスはとても気分を害して、アルヴィーンの方を睨んだ。アルヴィーンはアウリスを見ていた。
アウリスの体に得体の知れない痺れが走る。
その眼差しは、いつもより丁寧に、アウリスの全体を見ているようで。
「アウリス」
眼光は鋭いままに、いつもの身が凍てつくような温度とはちがって。
「……シンフェはさすがに目がいいな。似合っている。綺麗だ」
心臓が音をたてて壊れた。
だけど壊れただけで終わらなかった。
気恥ずかしさに、とっさに目を逸らして反応が遅れたアウリスの顔に、アルヴィーンはじぶんの顔を被せた。
アウリスは息が止まるかと思った。呼吸口を塞がれて、更に、息苦しい程の力で腕を回された。そのまま、安定した力で抱かれながら押し倒された。
柔らかい生地が体を包む。
とす、と耳元にアルヴィーンが手をついた。
「アウリス」
声を上げようとしたら口を塞がれた。
舌が入ってくる方だった。
びっくりしてとっさにアウリスは顔を動かそうとする。つい、と抵抗があった。結い上げた髪はいつの間にか少しばかりほつれていて、アルヴィーンの手がそれを下敷きにしているのだ。
唇が離れて、綺麗な歯並びで、かり、と噛まれた。
「っ、……」
思わず目をぎゅっと瞑る。
戸惑って恥ずかしくて体温が急上昇する。死にそうだ。
「な、なに……アルヴィー……ン……なに……」
なぜか首の方までゆるゆると熱を感じる。唇とか歯より、ずっと熱くて肉厚のなにか。舌だ。たぶん。
恐怖にとても近い気分に追い詰められて、アウリスは両手で強く顔を押さえた。
首筋まで真っ赤になる。アルヴィーンの体を押し戻そうと思うが、そうすると傷口が開くかもしれなくて心配、という理性は残っていた。
「わ……っ……わ……っ……」
逸れた喉の上を熱いものが撫でると、嫌悪感とはちがう痺れが体を包む。
「ひ」
顔を押さえていた手を無理やり掴まれた。そうして枕元に押さえつけられ、また合わせられた。
息苦しくて、震えの残る体をアウリスは竦める。
舌が入る方のときはいつも微妙に体がむずむずする。今夜はそれが一際ひどい。
その正体はアウリスにはよくわからなかった。だから、後ろめたいような、何かしてはいけないことをしているような、そんな気持ちだけが頭を占める。
漸く唇を解放されて、思わずほっと安堵の息がアウリスから漏れた。
瞑っていた目を薄く開く。
フクロウみたいに鋭い眼光がじぶんを射抜いていた。フクロウはそういえば捕食者なのだ。
「何もしない」
固まり、耳まで紅潮しているアウリスの様子を眺めながら、アルヴィーンは指先で彼女の顎を捕えた。口調は、面白がっている風でも真面目でもない。少し腹がたつくらい、いつもどおり醒めている。
だけど、その琥珀色の瞳は、目線を逸らすことを許さないような凄い威圧感があった。
「それとも夜這いに来たのか」
いつもとは違う、殺気だった雰囲気でからかいの言葉をかけられて、アウリスはぶんぶん頭を横に振るのみ。
「じゃあ何もしない。何の為に通路の戸を開けたままにしてると思ってる。ここで傷口が開くような真似をするのはバカのする事だ。が、一応保険として開けてる」
「そっそそそそそっかそうだねアルヴィーンはたのもしいな!」
なに言ってるじぶん。
いや、何をいってるのアルヴィーン。
恥ずかしさが沸点を見て頭の中がごちゃごちゃになる。アルヴィーンの表情の無さが逆に不気味だ。なにを考えているのかわからない。
「ふたりで」
「うっうん?」
「休みをとろうと言ったろう。どこかへ行こうと言った。覚えているか」
覚えていた。
王都に来る前の晩のことだ。河べりに吹いていた風の肌寒さや、アルヴィーンの腕の暖かさも、アウリスは大切に覚えていた。
「行かないか」
「えっ?」
「俺とアウリスで。二人で。ジークリンデ領に無事についたら、そのときには、一緒にどこか、行かないか」
とくんと胸が鳴る。
震えの残る体を、べつの震えが包んだ。
いや、同じものなのかもしれない。
衣擦れの音をたてて、アルヴィーンは傍に腰を下ろした。返事は期待してなかったのかもしれない。
その腕をアウリスは掴んだ。
振り向いた瞳を、吸い込まれるような想いで見つめる。
もしも、アルヴィーンが、こんな作戦は嫌だと、一緒に来るのが嫌だとアウリスを今夜突っぱねていたら。
それでもアウリスは強行しただろうか。
――した。
考えるまでもない。猫じゃらしの処刑まであと三日だ。アルヴィーンがさっき言ったとおり選択肢が限られているし、今更方向転換なんてしていたら間に合わない。
だけど、きっと理屈じゃないのだ。
理屈でなく、アウリスはこのひとに隣にいて欲しいのだ。
「行きたい、一緒に行きたい、アルヴィーン」
アウリスは身を起こすと、少し迷って、アルヴィーンの唇に唇で触れた。
いつか。
いつか、このひとにじぶんのぜんぶを委ねる日がくるんだろうか。
「――アウリス、おまえ人の言う事を聞いてないだろう」
唐突に肩を抑えられた。
ギョッとするアウリスの顔を見て、アルヴィーンは憮然と片方の眉だけを吊り上げた。
「もういい。何の魂胆無く夜中にめかしつけて男の部屋にやってきて堂々布団の中に潜って来る奴に理解を求めたのが悪かった」
「えっでもアルヴィーンが布団に座れって」
琥珀の瞳がゾッとする冷気を発した。
「ごっごごごめんなさい……!」
アルヴィーンがくるりと背を向ける。いきなり機嫌が悪くなったと思ってアウリスはしゅんとなる。その様子を見て、またため息をつかれてしまった。
「名無しだが」
ため息ついでみたいにやや不自然に話題が逸れた。
「収監所の解放にも付き合ってるのか」
「ううん、名無しは資金集めの係りだから」
「ここに泊まってるんだろう」
「うん。いちおう同じ部屋だけど殆ど姿見ないかな」
「おなじへや」
「あっ、だっだけどぜんぜんいないの、寝るときもぜんぜん別々だし!」
男性と同部屋なのは傭兵団ではふつうだが、今の相手は部外者だ。誰より一番、アルヴィーンに誤解されたくないので強くアウリスは言う。そっけなくアルヴィーンはうなずいた。
「あいつ普段は何してる」
「資金集めですよ。それ以外のときは知らない。というか知らないあんな奴」
「おい」
最後の方は本音の不平だったが、アルヴィーンが聞き咎めた声を出した。
「知らないじゃないだろう。あれは罪人だ。あれの素行に普段から注意しておかないと足元を掬われることになる。こうして作戦上、共にいる以上、あいつのことを知るべきだ」
「そう、……でしょうか」
「敵を知ることは大切だ。味方内でも」
味方内の敵、というのは矛盾しているが、この場合意味は通じる。
あんまり知らない方がいい事の方が多い気がするけどな、とアウリスは考えた。
しかし、知らないと、何を対象に警戒すべきかもわからないままだ。名無しは存在そのものが不確定要素だけれど、どの部分の不確定要素が、どの程度危ないのか、知らないと判断もつけられない。
「敵を知る事で言えば、国王ラファエアートの一件も、腑に落ちないところがある」
ラファエさまと名無しを同列に並べる発言に、アウリスはギョッとするが、黙って先を促した。
「ラファエアート現国王は、グレン先代国王の実子ではないかもしれない。先代の王妃の不貞の末に生まれた落とし子。かもしれない。そうなんだろう」
「……はい」
アルヴィーンはゆっくり睫毛をしばたかせた。思案する仕草に見える。
「おまえはそれが理由で追われ、暗殺されかけたと言った。だが、それはほんとうか」
「え?」
「おまえの話を疑っているんじゃない。身分位は、男側の男子にしか継承されない。それは、貴族も王族も同じだ」
片親のアルヴィーンがいうと少しばかり居た堪れないものを覚えて、アウリスは胸が痛くなった。けれど、やはり黙って先を聞く。
「サラン前王妃が王子の出自のことを揉み消したいと考えたのは筋が通る。ただ、……まだ何かある気がする。貴族というだけで一人殺せば目立つ。しかも、おまえはただの貴族の息女じゃない。ジークリンデの領主であり、国の重役だった、レオナート=ジークリンデ公爵の娘。それでも実力行使に出た理由が」
「それは……わたしが不貞のことを知ったから」
アルヴィーンは深く思案しているようだ。伏せられた目元からも、表情の無さからも、彼の考えは窺えない。アウリスは暫くじぶんで考えてみた。
「……その頃のことはよく覚えてないんです。子供だったから」
小首を捻り、呟いてみる。
「政治のこともよく知りませんでした。七年前、王宮の方では派閥争いがあったらしいです。それが、サラン王妃の輿入れと関係してたみたい。猫じゃらしから聞いた話ですけど」
「グレン国王は、七年戦争を終わらせた王だ。敗北国のひとつであるミハネ王国から妃を娶ったとき、王宮内に反対する声があったという話は聞いたことがある」
「なにか関係あるんでしょうか」
「さあ」
じぶんで言いだしておきながら、アルヴィーンは素っ気なく肩を竦めた。アウリスはまた考え込む。
「……猫じゃらしなら、知ってたのかな」
だから、行ったのかな。
現国王の招待にのっとって、危険が渦巻く王宮へ。
アウリスはもっと猫じゃらしから話を聞いていればよかった。
あの天邪鬼で性根のひん曲がった男が、はいそうですかとアウリスの質問にぜんぶ答えてくれたとも思えないが、猫じゃらしがいなくなって、それを痛感している。一晩だけだと、とても足りなかった。
「猫じゃらしを奪還したら聞けばいい」
見透かすような言葉に小さくうなずく。
「そうですね」
「今は城下町の広場での処刑を止めることかと。他のことは後回しでいい」
「はい」
アルヴィーンはあまり感傷を表に出さない。けれど、上司がいなくなって心配していないはずはない。
今の言葉には伝わりにくい彼の真心がこめられていた気がして、アウリスは手を伸ばして、彼の手をぎゅっと握った。
その後暫くあたりさわりないことを話して、アルヴィーンとは別れた。アルヴィーンはまだ本調子でないので夜更かしをさせるわけにはいかない。
部屋に戻ったアウリスは、さっそく目をぎらぎらさせた。
敵を知るべし。アルヴィーンのそのアドバイスを忠実に実行に移そうと思ったのだ。
ここは、名無しがニナエスカの元にいた頃に使用していた部屋だという。それがどのくらい以前のことかは知らないが、室内は一度確実に清掃されていた。何も出ないかもしれない。
だけど、この、じぶんたちが来る前には埃被っていた部屋に、実は、ひとつ、前から怪しいと思っていた物があったのだ。
アウリスは、三日たってもあまり生活感のない室内をぐるりと見回すと、壁の中に設置されたクローゼットの方へてくてくと歩く。敵を知るイコール家探し、という方程式が、このときアウリスの頭には自然に完成していた。
戸をひらくと乾いた木皮の匂いがした。
すかすかの服掛けに、ひとつ、ふたつと地味な色の衣服が下がっている。アウリス本人のものだ。
名無しは、普段、どこに服を収納し、どこで着替えているのだろう。
アウリスは考える。思い返してみると、名無しがこの部屋にいるのを見かけたことは物凄く少なかった。最初の日に、食卓の上で地図を広げたときと、肉だんごがここを去ったとき、そして、この夕方、うたたねをしている傍に現れたとき。よく考えてみると三回しかない。
それに疑問を抱かなかった事に我ながら驚く。
あのおとこ、ふだんはどこで何しているのだろう。
やはりろくでも無い事に決まっているとアウリスは考えた。が、ここで退く気にもなれない。
そろりとクローゼットの中を見やる。
にわかに心臓がドキドキしてきた。広い割に今は服が二着しかない、物寂しい空間には、どでん、と、一つだけ存在感を訴えるものがあった。
衣装箱。
アウリスが子供の頃の大きさなら、いや、今の大きさでも、丸くなったら中に入って寝られそうな、大きい大きい木工の箱だ。
それの円型に張り出した蓋の縁を探る。
かちん。
鍵はかかっていなかった。留め具はあっけなく外れた。少々重いので両手で蓋を持ち上げると、ふわっと埃が舞う。
アウリスの好奇心に反して、こんなに大きいのに中は空っぽだった。
いや、空っぽに近かった。蓋の影になり暗い角に、一冊の本が落ちている。
名無しの物だとは限らない。彼が出て行った後に掃除されただろうし、別のひとが住んでいたかもしれない。そのひとの物かも。
考えてもわからないので、思いきり前傾することにより、やっと箱の奥底に手を届かせた。かさり。指先が乾いた音をたてる。
夜のクローゼットの中は暗すぎて、アウリスはロウソクの灯りがある部屋に戻ると、手の中の本を見た。
絵本だ。
隅に染みが浮かんでいた。赤黒い。明らかに血だ。名無しの持ち物かもしれないという可能性が飛躍的に上がった反面、嫌な予感がする。
アウリスは表紙絵を暫く見つめていた。
パステル色の絵は古く、ぼやけている。
血のりっぽいもののせいか、アウリスには初め、違和感の正体がすぐにはわからなかった。
ページを捲ると、一ページごとに、表紙と同じ絵柄の挿絵が添えられている。どれも色褪せていた。紙そのものも風化が激しく、黄色い。ひとつ捲るたびに、パリパリ感電したみたいな音をたてる。
読んでいくうちに、足元から震えるような恐怖が襲ってきた。違和感が強くなる。
思わずこくり、と喉が鳴ったときだ。
「そろそろ逃げ出す気になったかい?」
全身の毛が逆立ち、アウリスは飛び上がりそうになりながら振り向いた。
半分開いたままの通路口には、大柄な影を落としながら、ニナエスカが佇んでいた。




