19.
雨音がした。
部屋の窓が開いているようだ。アウリスは傍の揺り椅子に掛けていた。
うたたねをしていたらしい。
瞼はまだ上がらない。目元にかかる髪がひっそりと揺れた。誰かの指は髪をよけ、額の方から頬の方へ、一筋になぞっていく。
「……名無し」
ぴた、と触れている手が止まった。
「起きてたの? タヌキ寝入りとか切ないなあ」
「うん」
「……寝ぼけてるの?」
うすく目を開くと、寝起きの霞んだ視野にゾッとする程美しい造形が浮かんでいた。名無しは、アウリスが頭を乗せていた枕に頬杖をついて、とても近い所で顔を見つめ返している。
「名無し」
「なあに」
「なんで名無しは犯罪者になったの?」
薄い唇が歪んだ。
「アウリスはいつもそれを聞くね。どうして盗賊と手を結んだんですか。お金が足りなかったんですか。どうして同じ黒炭の傭兵を裏切るんですか。どうして、……約束を破るんですか」
幾度もアウリスがしてきた問いだった。
アウリスの七課はお掃除の七課。猫じゃらしにより、黒炭内の面倒事を押しつけられ、日々、同族狩りをしていた。
名無しがそれを知っていることにかなりの違和感と嫌悪感をアウリスは覚えながら、彼の言葉を無言で促した。まだ返事を聞いていないから。
「おもしろいものを見せてあげる」
名無しはアウリスの座る背後に立った。足音のない静けさに微かな香りがアウリスの鼻をつく。
ぞわりと肌が粟立つ。
知っている匂いだった。血の香りだ。
「……名無し?」
窓を開くと雨音がさあっと入り込む。水は透明な香りがした。アウリスが名無しを振り向く傍から、彼の体にまとわりつく匂いは流されて消えていく。
「こっからは夜の町がよく見えるね」
初めてのデートみたいなことを名無しはいった。
「そういえば、前はこの部屋、名無しの部屋だったんでしたっけ」
「ニナエスカに飼われてた麗しい少年時代の話です。それより見て。たくさんの明かりがついてるよ」
促されて、枕の上で頭をずらす。気だるい体をほんの少しだけ捩るようにしながら、アウリスは眺めた。
今何時だろう。
今夜の名無しは黒い装束を身に纏っている。外套ではない。立ち襟が大きく、ローブのように前にボタンが無くて身に巻きつける型だ。裾は長くて、ナメクジみたいに床に引きずっている。
その彼が立つ向こうには、昨夜と、一昨日の夜に眺めたのと同じ景色が広がっていた。この界隈は繁華街だ。夜に息づく。その為に、泡を散らしたみたいに眩しい光が無数に瞬いていた。町の外観を超えると山が連なっていて、真っ暗な輪郭だけが見える。
「アウリスって算数できる?」
「何ですかいきなり。失礼な」
ムッとして言い返したら、名無しの肩がくっくっと揺れた。アウリスは憮然となる。算数は、ジークリンデのお屋敷にあった本と、兄のセルジュに教わっていた。傭兵団でも学んでいた。
だから、アウリスは次に名無しの口から出た言葉がすぐ嘘だとわかった。
「あの明かりの三分の一くらいは犯罪者だよ」
「そんなバカな」
「ほんとだよ。税金をごまかすひと。盗むひと。殴ってはいけない人を殴ったひと。殺したひと。売ってはいけないものを売ってるひと。買ってはいけないものを買ってるひと」
「そんなひとがそんなたくさんいるって言うんですか。ばかばかしい」
「ほんとだよ?」
「名無しはニナエスカの友達だから。ニナエスカは花火を売ってはいけないのに売ってるんでしょう?」
たぶん、ニナエスカの数ある罪状のひとつなのだ。
アウリスは記憶の底から掘り出してきた。
この王都に初めて辿り着いた日に、チエルが言っていた。イチゴ飴のお客。そして、大柄の、花火を売っている「ダンディなねえちゃん」。チエルが見た、お客が名無しで、ニナエスカが商売人だったのじゃないかとアウリスはみていた。名無しがいとも簡単に火薬を手に入れられたことにもこれで説明がつく。
近くに犯罪者がいるから、たくさんいる気になっているのだとアウリスは思った。
「うん。ニナエスカのいっぱいの悪事のうちのひとつだね」
名無しは、アウリスが考えているのと似たことを言い振り返った。赤い髪が雨の細かい粒を乗せてキラキラ光っている。
その髪のあいまに覗く、奈落に落ちていくみたいに淀んだ瞳をアウリスは見返した。
このおとこの髪はほんとうに赤いのだろうか。
一杯殺して殺して、殺し続けて真っ赤になってしまったのじゃないだろうか。
そんな世にもおぞましい空想が身の毛をよだたせる。
「あのね、犯罪者は犯罪者になりたくってなるんじゃないんだ。アウリスみたいに、傭兵になりたいとか、お嫁さんになりたいとか、そういう風に思ってるんじゃなくて」
「わたしはお嫁さんになりたいとか言ってない」
「俺のお嫁さんになるでしょ。つまり便宜なの。行動の後についてきた結果って感じ。だから、ほんとうに欲しいのは犯罪者になることじゃなくて、犯罪者になってでも欲しかったものの方なんだよ」
「お嫁になんかならない。でもそうなの?」
「なるよ。俺はそういうのと違うけどね」
なんだ。少し解りかけたと思ったのだがとアウリスは落胆した。
「じゃあ、名無しの将来の夢はなんなの?」
「……えらくくいつくねえ」
黒い瞳が楽しげに瞬く。何かあったの、と眼差しで聞かれて、アウリスは首を横に振った。
名無しは考えるようにしてから唇に人差し指をあてた。
「秘密」
「あっそう。べつに本気で聞きたかったわけじゃないし」
「というか、わからないんだね、アウリス」
アウリスが怪訝とすると、名無しは緩く笑んだままに息をついた。目を伏せて、揺り椅子の角に肘をかけ、窓の方を眺めた。その仕草がちょっと寂しそうに見えたのはアウリスの目の錯覚か。
「アウリスにはわからないよ。そんな風に聞くうちはわからない」
どこかで聞いた台詞だ。確か、最近七課でひっとらえた裏切り者が言っていた。ライオンの髭面がぼやっと浮かぶ。
あのときも名無しはどこかで見ていたのかな、とアウリスは考えて、腕をさすった。
「昨日のゲノマ解放はうまくいったみたいだね。俺の方は今夜でおしまい」
「え? 資金集まったの?」
話題が変わり、寝起きの雲がまだうっすら浮かんでいた頭の中が晴れた。
「うん、集まると思う。また必要になったら出るけどね」
名無しはローブのように体に巻きつけた服の巻き目を引きあげて、くるりと踵を返した。
「じゃあ、稼ぎに出る前に顔見にきただけだから。またねアウリス」
「あ、名無し。あの、出るって、何に出るの。ケムリモノ?」
その単語の意味をアウリスは知らない。響きを知っているだけだ。知らない方がいいと思っていた。だけど、今夜はふと気にかかったのだ。
揺り椅子から微かに腰を浮かしたアウリスの方を名無しは振り返り、まっすぐに歩いてくると彼女の小さい頭を大きな手で掴んだ。
ちゅ、と唇の上で音がする。
「……な」
「じゃあね」
「なにをするの!」
顔に体中の血が一気に集まる。アウリスは大きく腕を突っぱねるが、それより早くに名無しは踵を返してしまった。黒い衣が部屋を覆うように翻って落ち着く。
名無しが足音をたてずにいなくなり、アウリスはどっと揺り椅子深くに座りなおした。
「なんなんだ」
はぐらかすにも、もっとマシな方法を取ればいいのだ。べつにそんな知りたかったわけでもない。今はよっぽどどうでもよくなった、とアウリスは怒りをふつふつと沸かせた。
同夜、アウリスはシンフェに呼ばれて、晩御飯に彼女の部屋を訪れた。
こうして二人で会うのは初めてだった。初日以来だ。あのときは「アルアル」「やめろやめろ」という交渉だったので、一言も話したことがないと言って多分過言ではない。
煌びやかな紅漆の膳台に、小皿が並べられる。今夜のシンフェのいでたちのように、色とりどりの虹色だ。
全ての献立が揃うと、小姓がそろりとお辞儀をして出て行った。あの、嫌味な小姓だ。主の前だからか、いつになくしおしおしていたが、アウリスの目はごまかされなかった。
「ごめんなさいね。こんなところまで足を運んでもらって。一応勤務中なのよ。だからこの部屋に括られてるの」
アウリスの意識が閉じた引き戸の方へ向いている間に、シンフェは手ずから酒盛りをした。白い陶器の瓶から蜜色の液体が柔らかく零れていく。
「いえ、そんな遠くないです。わたしも今離れに住んでいるし」
遅れてアウリスが答えると、くすくすと笑いがたった。鈴を転がしたような声とは、まさしくこういう声のことをいうのだろう。
「嫁入り前の女の子が来るような場所じゃないでしょ?」
今夜は、なんなんだ、みんなして。
「わたしはお嫁に行かないと思います。たぶん」
「まあ。アルはあなたにお嫁に来てほしいと思ってないの?」
なにも口の中にないのにぶうっと吐きそうになった。
真っ赤になるアウリスをさらりと……少し微笑ましそうに見て、シンフェは目を伏せた。
「あなたと話したいと思っていたの。よかったかしら」
「はい。こちらこそお邪魔します」
アウリスは頭を低くして彼女から小さい盃を受け取った。
シンフェは、お菓子と同じ、色とりどりの衣を軽やかに揺らして、反対の手をそっと添え、長い袖を折った。見たことの無い作法だ。服も、ドレスの型と近いようだが、薄地で、重ね着だった。踊り子の衣装を思い出す。
「乾杯」
盃を上げて、そっと打ち合わせるとカチン、と小気味の良い音が鳴る。
シンフェは物凄く小さい盃の底に手をあてて、そっと含んだ。アウリスも同じにする。こういう食器は、ジークリンデの家にも、黒炭の支部にもなかったから、作法がよくわからない。
シンフェのことは、アウリスも興味があった。
何気なさを装ってぐるりと部屋を見回す。
ここはシンフェの勤務部屋だという。つまり、おふとんをしいて、アウリスがよく知らない、そういうことを披露する場所なのだろう。
そんな風には見えないけどな、とアウリスは思った。柑橘類の柔らかい色の蝋燭の灯り。落ち着いた、暖色の家具は、ゆったりと、煩くない程度にしつらわれている。床は白木で、たっぷりと毛の長い絨毯が敷かれていた。今は更にその上にクッションを置いて、座っている。一見、貴族の女の子の部屋と変わらなく見えた。
「物珍しい?」
「えっ」
「アルも誘えばよかったかしら」
「あ、いえ。べつに緊張してるとかじゃないです」
気を遣わせてしまったとアウリスは反省した。
「アルには会った?」
「はい、一回」
そのときのことを思い出して少しばかり脈が速くなる。一回、というのは、無断でアルヴィーンの布団に潜り込んだ、二日前の夜のことだ。ゲノマ解放の前日。
アウリスは何気なくもう一口、盃を舐めた。甘い。あまり強いお酒ではないようだ。失礼のないように、上辺には出さずに、ほっと胸を撫で下ろす。
「今日の夕方もう一回会いに行ったんですけど、門前払いにされちゃいました」
「まあ。どうしてかしら、今日はずいぶん顔色もよくなっていたのよ」
「いえ、アルヴィーンが元気ならいいんです。あのひと、弱ってるところを見せたがらないから」
今回はもう既にアルヴィーンの弱体化をアウリスも、肉だんごも見ているのに、意地っ張りなのだ。彼は。
「好きな女の子に弱ってるところを見せたくないのかしら」
くふ、と喉が鳴った。今度は噴射を危ない所で耐えた。目の前の女は優美に微笑んでいる。確信犯か。
「安心してね。アルの体調は順調に回復しているとお医者様が仰っていたわ。明日には起きられると聞いていますから」
お医者からは同じことを聞いていた。
アウリスは漸く酒を嚥下すると、そっと盃を置いた。
「シンフェさん、ありがとうございます。わたしたちは他に宛もなかったんです。だから、ほんとうに助かりました。お礼を言い足りない」
「……アウリスさん、だったかしら」
「はい」
頭を下げるアウリスの姿に、シンフェが目を細めた。アルヴィーンの琥珀色の瞳がフクロウみたいに鋭いのならば、シンフェのハシバミ色の瞳は、ナイチンゲールみたいに優しげだった。
「いいのよ。あんな重体で担ぎ込まれたのだもの。何も言われなくてもお世話をしました。だから、あなたにお礼を言われる義理はひとつもありません。貸し借りなしよ」
「……あなたと、アルヴィーンは姉弟だって、聞きました」
「そうね。わたしこそまず一言あるべきでした。いつも愚弟がお世話になっております」
「えっいえ」
「此度も、何やらお仕事中にヘマをやらかしたのでしょう。見捨てないで担いできてくださった。ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ! ほんとう、あのままではみんなまじめに行き倒れてたし!」
「まあ! そのようなギリギリであの一銭にもならん半分死体みたいなアルを引きずり歩いてくださっていたなんて。ありがとうございます」
「いえほんとにわたしたちこそ重ね重ね」
シンフェが真っ白な両手の先を揃えて頭を下げた。慌ててアウリスも頭を下げるとしん、と急に静かになった。アウリスとシンフェは顔を上げた。
「うふ」
「はは」
まるで示し合わせたみたいに一緒に吹きだした。
「もう堅苦しいのはこれでなしね」
「はい」
「おあいこね」
シンフェが柔らかい仕草で口を袖で覆う。笑顔の似合う人だなとアウリスは思った。
「シンフェ姐様。お食事はよいどすか」
ふと引き戸の向こう側から声がかかった。あの嫌味な小姓はずっとそこに控えていたようだ。気配があったのでアウリスも気づいていた。
「まあ、まだ手を付けてなかったわ」
「ほな、わしはここで控えとります。何かあったら呼んでください」
ありがとう、とシンフェは戸の向こう側の気配にこたえた。
「じゃあ、お食事にしましょうか」
「はい」
カトラリーはひとつしかなかったので、アウリスは、シンフェの真似で小さい木工のスプーンを取った。
「離れで出るお食事とは違うでしょう。勤務中は胃に優しいものを取るようにしているの。これはこれでいいものでしょう?」
「はい」
魚の白身。緑野菜。赤野菜。果物の甘煮と、順繰りに廻る。味は薄めだ。アウリスの舌にあった。病人にも良さそうだな、とアウリスは思う。アルヴィーンはちゃんと夕ご飯を食べているだろうか。
雨戸にしとしとと雨の叩く音がしている。そういえば、じぶんの部屋はだいじょうぶかなとアウリスは考えたが、どうしても、窓を閉めたかどうか思い出せなかった。
食事が終わると、小姓が現れ、何やら黒漆の膳台を置いた。ふたつの、空になった紅漆の膳台を持って、すすすと姿を下げた。
引き戸がとん、と閉まる。
「これは……香油?」
「そう。食事のあとにはこれで手を清めることにしているの」
膳台には、厚底の皿が二つと、そして、紙束みたいなものが乗っている。デザートかと思ったのにとアウリスは頭の隅っこでひっそりと残念さを捻り潰す。
「香油にはね、レモン汁がほんとうに少し入っているの。食べ物の匂いがよくとれるヒミツ」
レモン。どっかのレモン嫌いなおっさんを思い出す。
「レモンが嫌いなお客様のときは使わないのだけれど。猫じゃらしとか」
口の中に何も入っていないのに、またぶうっと吹きだした。
「まあまあ」
「……」
猫じゃらし! と頭の中で叫びながら紙束で口を拭く。その手に、向かい側からシンフェが手を伸ばして触れた。
「擦ってはだめよ。お肌が荒れるでしょ」
「あ」
「これはね、こうして広げて使うの。お水に溶けそうな柔らかい生地で、ほら、ぽんぽん、とするだけで」
きれいになった、とシンフェが笑った。その仕草があまりに自然だったので、昔はこうやってアルヴィーンの世話をしていたのかなとアウリスはぼんやり考える。
アウリスは見よう見まねで紙束を開く。そして、思わずあっと声を上げた。薄い青の紙は、アウリスが口を拭ったところから薄い紫に色を変えていた。
「濡れると色が変わるんだ。きれいですね」
「珍しい?」
「はい、目新しい。なんか、色々じろじろ見ちゃってすみません」
「いいえ、嬉しい。この部屋はわたしの自慢なの。ここに来てから少しずつ、わたし好みに模様を変えてきた。今あるのは全部わたしが買ったのよ」
「すごいですね。……シンフェさんはいつからここに?」
「そうねえ、十年近く前かしら」
アルヴィーンが傭兵団に入団した時と重なるのかな、と考える。
「そうだ、ちょっと来て」
シンフェが紙束を置いて、立ち上がる。踊り子のレース地みたいに軽く袖が翻った。アウリスが付いてくるのを振り返りながら、シンフェは部屋の壁棚の前へ歩いていく。
ふわふわ。ゆらゆら。
三千世界の花の優しい色が舞う。
シンフェが歩く姿はまるで天女が踊っているみたいだ。肌慣れないその景色にアウリスは顔が赤くなるのを感じる。
「ここは、わたしがまだ袖を通していないお洋服の衣装棚なの」
葡萄の蔦の木彫りを施された、美しい扉をひらくと、たくさんの色が煌めく。そのひとつをシンフェは手に取って、アウリスを手招きした。
扉が開いたとたんに漂った、どこか懐かしいような、木の香りの中に、アウリスはそろりと立った。
扉の内側には等身大の姿見が嵌め込まれていた。硝子細工に縁どられた、豪華な鏡。
シンフェは、アウリスの後ろに回った。そうして、手に持った衣装をそろりとアウリスの前に合わせた。
「綺麗ねえ」
「はい」
真紅のドレスだった。赤ワインよりも暗い色合い。しかし、その仕様が凄い。何とも形容しがたいが、鎖骨のあたりから、ドレスの裾がある足首まで、大きな大きな薔薇の花弁を一枚一枚丁寧に連ねていったような形をしていた。花弁は、アウリスの頭より二倍大きい。素肌が出るはずの肩の部分には、身のラインをぼかすような、ふんわりした生地が張っていた。肩紐なのかもしれない。
「色がいいでしょう。赤は華やかな印象になるけれど、全身赤だとちょっと煩い。でも、このドレスは色が暗いし、お肌もけっこう見えるから、しっとりすると思うの」
「そう……ですね」
もこもこして動きにくそうだなとアウリスは思った。だけど、綺麗だ。真っ赤な薔薇みたいにきれい。
「あなたのブルネットによく栄えると思うの」
「えっ」
「着て見ない?」
漸くシンフェの意図を悟り、アウリスはぶんぶん首を横に振った。
「あらどうして」
「えっ、だって、そんな、着られません。シンフェさんの服です」
「一度も袖を通してないわ。安心して」
「いやっ安心っていうか、あの、わたし、そんな、悪いです」
アウリスは暫く虚しい抵抗をしたけれど、シンフェはガンと譲らなかった。頑固は遺伝子らしい。
「はあ、じゃあ……ちょっとだけ」
ドキドキしながらいうと、シンフェがふうわりと笑んだ。笑顔が反則なのも遺伝子らしい。
げっそりするアウリスの体から手早く服を脱がすと、シンフェは後ろに回って、ドレスの着付けをしてくれた。服はじぶんで脱げたがアウリスは押し切られてしまった。
「わたしね、着付けはじぶんでするようにしてるの。まあ、このドレスみたいなお衣裳は一人だと流石に無理。背中に締め紐があるでしょ」
「そ、そう……うおぅ」
きゅるきゅる、と脇腹が締めつけられた。ごはんを収めたばかりの胃が唸る。
「ちょっと我慢してね。すぐ慣れるから」
シンフェは手慣れたもので、アウリスの背中にあるドレスの紐をてきぱきと編み上げた。最後に、残った長さを二重にして、ゆったりしたリボンを結び、うなじのところに垂らす。
「見た目より準備が簡単でしょう? さあ、見て」
再び、鏡の前に誘われた。
ドキドキしながらアウリスは目線を上げる。
鏡の中には、ブルネットの髪と、緑色の瞳の令嬢が、顔を赤らめていた。
思わずアウリスは目を逸らした。それから、そろっと、もう一度睫毛を上げる。天辺結びにした、濃い茶色の髪が、絹のようになめらかな真紅の上に垂れている。シンフェが最後に、肘丈の手袋をさらりと纏わせた。手袋も同じ色だ。
アウリスは呆けたように姿見を見ていた。凛としていて、どこか、夜の香りがする。これがほんとうにじぶんだろうか。
「大人っぽい」
「そうね、ふふ」
ドレスに見惚れていると、シンフェは後ろに立って、両手を、アウリスのふんわりと包まれた肩に添えた。
「夜会用のドレスとして買ったのよ。本職はお座敷だけど、時々、王都のご貴族様の集まりにも顔を出すことがあるの。綺麗でしょう」
「はい、……すごく」
「そう? よかった。これはあなたの物よ」
アウリスは仰天してシンフェの笑顔をふりかえった。
「そんな、いただけません」
「どうして? きれいだと言ったじゃない」
「きれいです。きれいだけど、とても……でも、受け取れない」
アウリスは俯いて手袋を外そうとしたが、その手を、シンフェは止めた。
「アウリスさん。秘密を守れる?」
「えっ?」
「わたしねえ、年季はもう明けてるのよ。年季ってわかる?」
戸惑いアウリスが首を横に振ると、シンフェはそっと睫毛を下向けた。その髪と同じに、森の奥で見る夕焼けより鮮やかな、亜麻色。
「アルから聞いてるでしょう。アルとわたしは貴族の片親なの。母さまはこの町の娼婦だった。母さまが死んでからは父さまのお家に上がらせていただいていたけど、父さまは商いで不祥事をしていてね、お家は没落。わたしはその年嫁入り前の十五歳だったわ。この夜の町に舞い戻ったの」
アルヴィーンは、平民の傭兵団へ。女の子のシンフェは、娼館へと。
世知辛い世の中だが、そういうケースは少なくないことをアウリスは知っていた。ジークリンデの家は没落したわけではなかったけれど、セルジュ兄が、平民の自治体ではなく、貴族間の同義的存在である騎士団に入団できたのは、とても珍しくて幸運なことだったのかもしれない。それも、父レオナートが国の重役だったことが関わっていたのだろう。
「年季っていうのはね、わたしたち娼婦に定められた奉公の期間のことなの。ここでは十年が基本ね。年季が明けたら娼婦は解放される。ここをやめて、どこへ行ってもいい、自由の身になるの」
「……そんな期間があるんですか。じゃあ、シンフェさんはもう自由の身なんですか?」
「そうなの。年季明けってだけでもなくてね。借金全額返済したの。三年くらい前のことかしら。あ、借金っていうのはここに置いてもらえることになってかかったお金のことね。娼館に、つまりニナエスカだけど、置いてもらってる分借金があるものなの」
アウリスも置いてもらっているので借金がある。それと同じような意味だろうか。
「自由の身なのにどうしてここにいるのか、って思う? でもね、これは、わたしが選んでいることなのよ」
アウリスは黙って先を促した。娼婦じゃなくていいのに娼婦でい続けているのはどうしてなのか、純粋に興味があった。じぶんがなりたかったのならまだしも、シンフェは違う。売られてきたのだから。
「わたしも最初は嫌だったわ。でもね、長年やってて慣れたとか、諦めたとかじゃない。わたしはじぶんで選んだの。この仕事に誇りを持っているの。ねえ、アウリスさん。この壁の中で閉ざされて暮らしてきた女が今日外へ踏みだして、何ができる。どんなお仕事につける? それとも、男と添い合って男の家の家具になれというの。冗談じゃないわ」
シンフェのハシバミ色の瞳が激しく真っ直ぐな情に燃えた。
「身請けって手もあったけれど、わたしはお断りしたわ。わたしはわたしでわたしの面倒を見たいもの。ここはね、わたしがじぶんでじぶんのけじめを付けられる場所。そして、わたしは、貴族だった頃と変わらない暮らしを手に入れたわ。贅沢なごはん。贅沢なお洋服。わたしはこの暮らしが好きだわ。誇りに思っているの」
ふとシンフェは睫毛を震わせて、一転、少しばかり寂しそうにアウリスを見た。
「こんなわたしを醜い女だと思う?」
アウリスは首を横に振った。彼女の言葉に目を見張り、もういちど、はっきりとふるりと頭を振る。
立てば芍薬、座れば牡丹。綿飴みたいにふわふわした可憐なその姿の中には、一本の強靭な芯が通っているのだ。それを垣間見て、アウリスは圧倒された。
美しく紅をひいて。食事のあとに香油をふって。毎夜美しい衣に身を包む。そういう生き方の中にも、戦場と変わらない強さがあるのだ。
「あなたは立派だと思う」
そう。アウリスには飼い主がいる。望まずに連れてこられた遠い地で、アウリスは、己の意志で、黒炭の、猫じゃらしの傭兵になることを決めた。
そのことに悔いはない。
けれど、アウリスとシンフェとは根本的に生き方が違うのだ。
目の前の女はそういった枷が一つもない。ただ、まっすぐ、じぶんの為に生きている。きっと自由で、そして、とても怖いことだ。じぶんで全てを選び、そして、良い選択も、悪い選択も、結果はすべて、じぶんの身ひとつに降りかかる。
立派だと思った。鳥かごに入ったままのアウリスが言っても陳腐だけど、そう思う。
シンフェは、真紅の薔薇のドレスが霞む美しい笑みを浮かべた。
「ありがとう」
それからまた目を伏せた。
「アルもそう思ってくれたらいいのに」
「アルヴィーン?」
あの子にはまだ言ってないのよ、とシンフェは寂しげに笑った。
「年季が明けてる事を知らないの、あいつ。だからまだ足繁くわたしの元に会いに来るのよ。仕事で稼いだ金袋を持ってね」
シンフェはそれから話して聞かせてくれた。
七年前、生き別れていたと信じていた弟はこの館の扉を叩いた。そして仕事を始めたといった。シンフェが幾ら言っても譲らず、金袋を置いて行った。それ以来、二月に一度はやって来て、金を置いていくようになった。
七年前というと、ちょうど育成所を出た辺りの頃と一致する。アルヴィーンに姉がいることをアウリスは最近まで知らなかったけれど、今の話を意外だとはアウリスは思わなかった。
アルヴィーンは家族を大切にしているひとだ。アウリスはそれを知っていた。
「わたしの借金返済の手伝いをしてる気なのよ、あの子は。わたしもなかなか言い出せなくて、それで、もうずっと」
「そうだったんですか、……あの」
「何?」
「鍔に花の細工のある剣を、アルヴィーンはいつも持ってるんです。あれは、お家のですか?」
アルヴィーン本人に昔聞いたことがあったが、そのときは黙殺された。シンフェは意外そうに目を瞬く。
「まあ、柄が黒い細い刀?」
「はい」
「紫苑の細刃ね。あれはセツのよ。セツの父さまの形見。お家騒動があったときに使用人が何人も処刑されたの」
そのときを思い出しているのだろう、ハシバミ色の瞳は悲しみに陰った。
「すみません、その……」
「いえ、いいの。貴族の汚れを平民が拭わされるのは今に始まったことじゃないでしょ。わたしたちはセツと仲がよかった。セツの母はアルの乳母だったし」
「そうなんですか」
「ええ。でも、なんでアルが持ってるのかしら。セツの父さまの刀だしセツのものなのに」
それは多分、セツが気持ち悪いくらいアルヴィーン至上主義で、アルヴィーンがセツに激甘なせいだろうとアウリスは思ったが、口には出さなかった。
「あの二人は一緒に黒炭に入団したし、今も仲が良いのでしょうね」
「はい、そうです。とても」
「そう」
シンフェは嬉しそうに笑うと、何か考えるようにした。
「……そうね。やっぱり、あなたに託すわ。わたしが今まで貯めてたアルのお金」
「は」
「あの子が持ってきたお金はびた一文手をつけてないの。わたしの年季が明けてからもバカスカ持ってくるし。お蔭でこんなに貯まっちゃって困ってたの」
また話が突拍子もないことになってきた、とアウリスが唖然とするのを他所に、シンフェが大手を振った。
「さすがに現金を置いておくのは気が引けるでしょ。たくさんの人間が出入りする場所だし。だから、形に出来る分は形に変えた。ニナエスカはこの町で顔が広いわ。良い質屋も知ってる。きっとすぐ換金出来ると思うの」
「えーと」
「あなたにそれを託すわ」
「それ」
「だからお金」
「出来ません」
「え?」
「できません」
というか、いきなり何を言いだすのか、このひとは。突飛すぎて逆にアウリスは冷静になった。
「ありがとうございます。そんな風に言ってくれるなんてとても嬉しい。その気持ちだけでじゅうぶんです」
「何をとぼけたことを。あなたがたはお金に困っているのでしょう」
「困っています。だからってあなたの施しを受け取れません」
「ええ、わたしのお金です。元はアルのお金。今はわたしのお金。それをどうするのもわたしの自由よ、あなたはわたしの自由にケチをつけるの」
「いえ」
「じゃあ受け取って下さいますね」
「できません」
シンフェの瞳がすうっと考えるように細められた。こうしていると一層姉弟の味が出る。ナイチンゲールもフクロウも夜鳴き鳥だ。今は、夜闇を劈く鋭い輝きが増している。
「弟の危機に、何もしない姉だと思いますか。わたしは壁の中に閉じこもった女ですけれど、物はわかっているつもりですよ」
アウリスはハッと頭を上げた。シンフェは当然七課の事情を知っているはずだ。王のお披露目で、あれだけ堂々公にされたのだ。知らない人間は少なくともこの王都にはいない。もう数日もすれば国中に響き渡るだろう。
じぶんたちは、今、ひどく危ない薄氷の上を歩いている。
「……シンフェさん、それ以上は言わないでください」
アウリスは深く頭を下げた。シンフェにこれ以上迷惑をかけてはならない。アルヴィーンのお姉さんだから、だからこそ、これ以上彼女を巻き込むわけにはいかない、とアウリスは思った。
「お願いです。アルヴィーンに顔向けできなくなる」
「あなたは」
シンフェはぐっと唇を引き結んだ。
「……ねえ、アウリスさん。これはもともと弟に返そうと思っていたお金よ。でもあの子がはいそうですかと受け取るはずないでしょう」
シンフェの声が震えた気がして、アウリスは顔を上げた。両手を体の前でぎゅっと重ねて、シンフェは睨むようにアウリスを見ていた。彼女の瞳が揺れているのを見て、アウリスは一気におろおろしたけれど、その美しい亜麻色の睫毛のあいまからそれが落ちることは、ついになかった。
「あなたはわたしを立派だと言いました。でもね、ほんとうはそうじゃないの。望んで娼婦に身をやつしているのだと、どうしても、弟に言えません。言えなくて、あの子が金袋を手にやってくるたびに、追い返すこともできません。あの子は、あの子の稼ぎがわたしを救うのだと今も信じています。……いじらしいあのバカを、わたしが助ける、その手助けをしてください」
亜麻色の髪が、すとん、とシンフェが下げた頭の両側に落ちたときに、アウリスの決意はだいぶん傾いだ。
暫くの沈黙のあと、アウリスは大きく息を吐いた。喘ぐような声を紡ぐ。
「……考えさせてください」
今はそれでいいといわんばかりに、ほっとシンフェの表情が安堵した。アウリスは複雑な思いでそれを見ていた。
でもね、とアウリスは思う。
シンフェさんは多分、勘違いをしている。
初めてシンフェの名前を聞いたときに、アウリスはシンフェに嫉妬した。そのあと、姉弟だと聞いて、複雑な思いをした。だって、アルヴィーンはシンフェに会う順番待ちがあって、それを上司の猫じゃらしに譲ったのだ。
シンフェも猫じゃらしを知っているようだし、やっぱり、会ったことがあるのだろう。
変だと思う気持ちは変わらない。根本的に、変だ。
だけど、嫌々娼婦をしている姉の元に、アルヴィーンは客を送りこむだろうか?
シンフェが、年季が明け、己の意志でここに留まっていることをアルヴィーンに言えないのは、ある種のプライドじゃないかとアウリスは思う。ぶっちゃけ、良い恰好をしたいのだ。弟の前では、文句なしに強く美しく非の打ちどころのない人間でいたい。善良で穢れの無い人間でいたい。そういうものではないのだろうか。アウリスは下に兄弟がいないけれど、何となく想像出来る気がするのだ。
だから、シンフェは弟の為に美しく在る。
その姉のプライドを、アルヴィーンは守り続けている。何も知りませんという澄まし顔で今までと変わらずに金袋を持ってくるアルヴィーンとか、ばりばり想像できてしまう。
それもきっと、二人の絆の形で、二人の優しさだ。
アウリスはやっぱり、少しだけシンフェに嫉妬した。
そして、ほんの少しだけ、封印していた、じぶんの姉の、リシェールの顔を思い出した。
ふと気づくと、シンフェがじい、とじぶんの顔を見つめている。まるで考え事を探ろうとされているみたいに感じて、アウリスは少し慌てた。
「あ、なんですか」
「うーん。今アウリスさんドレスでしょ。やっぱり、ドレスにすっぴんは変だと思うのよね」
「えっ」
「そうだわそうよね」
シンフェが戸の方へ向いてぱんぱん、と手を打った。すらりと戸が開く。外からは、嫌味な小姓含め、三人の小姓がわらわら入ってきて、目を丸くするアウリスの前で膝をついた。
「今夜はなんだか旦那様の来る気がまったくないし、ちょっとアウリスさんで遊ぼうかしら」
「は」
複雑に渦巻いていたアウリスの胸内を他所に、シンフェはすっかり顔が輝いていた。落ち込んでもすぐ起き上がる。心から爽快な女性だなとアウリスは思う。思うが。
「あの、今日はお食事をありがとうございました。ではまた」
「待ちなさい」
ぐん、と首の周りに一気に抵抗を覚える。振り向くと、シンフェがその真っ白な指で、アウリスの真っ赤なドレスの背中の編み目を掴んでいた。そういえば服を借りっぱなしだとアウリスは蒼褪める。
「いいじゃない。アウリスさん。やりましょうよ、お化粧」
「ええっいいです!」
「どうして?」
「どうして……なんか気持ち的にくすぐったい、から」
シンフェがきゃらきゃらと笑いながら、お待ちなせ、と頬をぴっとり背中にくっつけてきた。アウリスの顔は一気に茹で上がる。
「ひゃあ」
何の罰ゲームだ。シンフェを涙目にさせて頭を下げさせた恨みか。
「まあお待ちや」
「ひい」
「美しいドレスもお化粧も女の特権よ、アウリスさん。綺麗な姿でアルに夜這いをかけたらきっとアルも惚れ直す」
「よ、っよば……、い……」
も、悪くない。ような。
アウリスの普段通りの面白味もなんともない七課の戦闘服でも、ここで借りる小姓服でもない。優美なドレスを纏い、髪を美しく結って、煌めくお化粧をしたじぶんの姿を、アルヴィーンに見せるという想像を、アウリスはしてしまった。
「……うっ悪くない」
「でしょ?」
そして雌雄はあっけなく決した。敗北に打ちひしがれたアウリスを、シンフェは花の綻ぶような麗しい笑みで見下ろしたのだった。




