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1.


 踏みしだかれた泥の大地。

 終了の合図に上がった硝煙の香り。

 薄暗い空の下では、小さな影が駆けまわっている。孤児だろう。所々に刺さった刃や矢を拾う為に集まっているのだ。

 実際はカラカラの晴れ模様だ。けれど、仕事の後の景色は「薄暗い」という感じがした。本物の戦場もこんなものかもしれない。自分ではあまり感慨を抱かなかった。傭兵という身の上で、治安の為の一仕事、というより日暴れした経歴は数えられない程度にはあった。

 しかし、この区域には子供が多い。

 貧しい界隈だとは聞いていたが、実際ここまでひどいとは思わなかった。ボサボサの埃仕立ての髪。上下同じ褪せた色の麻の服。時代が時代ならば奴隷のような姿である。

 コソ泥をする為に合戦のあった危険な地を駆けていく手際は絶妙で、今回が初めてではないのだろうと思わせた。まさに、物語に聞く、かの七年戦争の景色のようだ。

(武器はあげられないんだな。こっちも使うから)

 荷車を押すのを止めて、近くの騒ぎの方へ声をかけた。

「チエル」

 後ろ姿だった八歳くらいの子供が振り返った。鉈で他の子供たちを追い払おうとしていたようだ。危なすぎる。

「おいで、チエル」

 チエルは地元の子供たちの方へ鉈を振って、威嚇したあと、足元に刺さった武器をちゃんと引っこ抜いて持ってきた。十二課が使う弓矢だ。子供たちはこれを狙っていたのだろう。

 アウリスは弓矢を受けとり荷車の中に投げた。鉈も没収する。 

「チエル、人に乱暴したら駄目でしょう。暴力を振るうのは最後の手段です。いつも言ってるでしょう?」

 自分は小競り合いで身を立てているのだが、大人というのはまったく、優柔不断なことばかり、自身を棚に上げて説教するのである。

 チエルは服の袖を握ったままに俯いた。ふわっとしたタンポポ色の癖毛が風に揺れている。

「でも、あいつらドロボウだし」

「ドロボウはね、ほんのちょっと、おどかしたら逃げていくんです」

「ほんの少しなんてない。半殺しというのはなくて、生かすか殺すかだ」

「えっ?」

「そう言ってた。にぃが」

 チエルの言葉というわけではないらしい。

 荷車を押していた手を伸ばして、チエルの頭を撫でた。

「また変なことを吹き込まれたんですね。チエル、しっかりしてください」

「えっ、俺?」

「にぃにもちゃんと言っておかないと。でも、今度いつ顔合わせるかわからないしな……」

 チエルが「にぃ」と呼ぶのは、彼を拾った青年のことだ。

 二、三ヶ月前か。山陰で山賊と遭遇したときにチエルはそこにいた。付近の町からかっ攫われてくる途中だったらしい。元々身よりはなかったという。

 チエルを最初に匿おうと言い出したのはセツ先輩だった。同期の中でも優柔不断……ないし優しい彼の言いそうなことである。グレウ師団長も肩入れして、話はそのまま纏まった。

 チエルは現在、七課の飯炊き係りであるアウリスの手伝いをしてくれている。 傭兵団なんかの元にいて、チエルの情操教育面は悪化しているような気がしないでもないが、山奥でのことであったし、他に良い案はなかったのだ。この界隈の子供たちの姿を見ていると特にそんな風に思う。

 とりあえず、今度中央地区に向かうまではチエルの世話をすることになっている。王都を中心にした界隈はまだ治安が良い。そこまで送り届けるつもりだ。

 もしかしたら孤児院に預けられるかもしれない。その辺りは、何にでも通じてそうな猫じゃらしがいる。黒炭の審議会の伝とかで何とかしてもらえるはずだ。

 荷台を押しながら考え事をしていると、チエルが何やら目一杯に袖を引っ張ってきた。振り返ろうとしたアウリスの後ろ側、というか尻に一撃が入る。

 思わずよろめいたアウリスの周りで失笑が起こった。

「背中ががら空きだよ、お嬢ちゃん」

「戦場でお弁当配りか? えらいねえ」

 なんだかデジャブだ。

 一瞬のうちに自分を囲んだ男たちを見回した。仕事の後の土地でぶらついているのは勝者以外にない。この四人は、地元十二課の皆さんのようだ。

 アウリスは現場でよく絡まれる。基本的に男性が圧倒的に多い職場なので、アウリスは当たり前に目立つ。

 しかし今のデジャブはもっと以前の記憶と被っていたように思った。昔、飯炊き場へ急ぐ道で同期の数人に囲まれた。というより苛められた。あの頃はみんなまだ少年だった。そして、自分の方も、荷車ではなく手桶を担いでいた。荷車は押すのに力がいる。子供の体格ではそうそう無理なのだ。

 アウリスはチエルの背中をぽんと叩いて、両手で荷車を押しにかかった。十年近く傭兵をやっていると弁えるところは弁えるようになる。無駄なけんかは買わないのだ。こういう輩は無視。

「お、うちの矢を発見」

 ところが、人の気持ちをさらり無視して、男の一人が荷車の縁を握って無理やり止めさせる。更に一人が寄ってきて矢を掴んだ。

「お嬢ちゃんどこ行くの? こんなの持ってたら危ないよ~」

 ライオンみたいな剛毛を伸び放題にした大男だった。頬ずりやめてくれないだろうか。髭がこそばゆい。

 物理的な居心地の悪さにほんの僅か身を竦めて辺りを見回すが、四人、みんな暇そうな顔である。

 一方、アウリスは急ぎだった。うちの課の人間は空腹値が一定を超えるとかなり殺気立つので早く合図をしなければならない。

 どうしたものかと考えるアウリスの傍らで、チエルがその桜貝のような唇を尖らせた。

「ちがう。アウリスはお嬢ちゃんじゃない、七課の傭兵だもん」

 大の男四人を前にチエルは言い放つ。

 ギョッとしたが、時すでに遅し。

 次の一秒で、チエルは突き飛ばされていた。びっくりしてアウリスの服の袖を放してしまった彼が、柔らかい泥の中に尻もちをつく。

 アウリスは荷車を放っぽってチエルの前に片膝を折った。

「チエル」

 チエルは何が起こったのかわからないという顔をしていた。ヘーゼルの瞳は零れるみたいに見開かれていた。でも泣いてない。

(えらい)

 怪我はないようなのでホッとして、アウリスはチエルの手を引いて立ち上がらせる。

「うるせえガキだ。大人の話に割り込んでくるな。なあ、お嬢ちゃん」

 触れようとでもいうのか、伸びてきた男の手を払った。

「あなたたち、手加減ってものを」

「手加減だと? 女子供がうろついてる方がおかしいのが解らねぇのか」

 相手達は嫌な笑みを浮かべる。

「それとも七課は人材不足なのかなあ? ええ? 根無しの雑草暮らしは確かにきつそうだ」

「女子供を頭数に数えるようになったら黒炭も終わりだよな。いや、七課だけか」

(そこが本音か)

 どうやら嫌われているようだった。身に覚えはある。

 七課は今回、中央より西のデルゼニア領と呼ばれる場所へ派遣されていた。デルゼニア領は故郷のジークリンデ領と似たり寄ったりの田舎だ。緑の美しい場所で田畑が多く、特にブドウの栽培を中心にしたワイン産業で国に貢献しているのだとか。

 だが、いかんせん治安が悪い。

 田舎の広大な大地にはどうやら良からぬ類の人間が住み着いているようで、凸凹した山あり谷ありの地表は、世間の目を偲ぶ商売には格好の隠れ家を提供してしまっている。

 しかも、領主はこれについて黙認している。故意だかそうでないかは解らないが、ワインの売り上げさえ図れれば満足だから、山や谷を超えた先の界隈にまでは気を配る気がないようだ。じぶん家の領土なのにあんまりな話である。

 この、ケアルトという町だか村だか微妙な規模の大きさの界隈の住人から傭兵団黒炭に苦情がきたのは半年ほど前のことだった。何でも、二、三年程前から賊が住み着き、麻薬の取り引きや人身売買を行っているらしい。取り引き相手の賊も頻繁に出入りするので、もはや悪の巣窟状態なのだという。

 ケアルトの住人たちの依頼を受け、黒炭は付近の支部から人を派遣した。それが十二課だ。違法売買の取り押さえと賊たちの鎮圧が目的だったのだが、ここ半年経っても、何故かあまり成果が上がらなかった。

 そこで、第二の部隊が派遣されたのだ。

 それが自分たち、七課なのだった。

 アウリスたちは今朝到着し、その直後に賊のねぐらを一つ発見した。これは幸運だったとしか言いようがない。地図の上で幾つか目星をつけていた一つが最初の見回りで見事どんぴしゃで、いきなり正面衝突の大立ち回り。やや予期していなかったものの、今日一日で、少なくとも賊集団のひとつを殲滅、団員殆どを捕らえたというところなのだった。

 ケアルトに住み着く賊集団は一つではないのでまだ撤退は出来ない。だが、不自然なくらい上手くいった。

 しかし、ここで面白くないのは派遣第一号だった十二課だ。

 元より、違法薬物や人身売買なんかの取り締まりは国家騎士団の役目ではないのか、とか、領主は何をやってるのとか、背景には他に諸々と事情があるのだが、十二課の人間はそれを知らされてはいないから今は関係ない。

 要は、自分たちが担った仕事に、後出で七課が出張ってくるのが鬱陶しいのだろう。

(でも、それならそう言ったらいいじゃない。面倒くさい人たちだな)

 七課には七課の仕事があって来ている。嫌がられようと撤退はしない。

 アウリスは素早く腰紐を解くと、纏う衣の上から手際よく結んだ。食事時は給仕当番の格好をしているので全身白い上衣によって覆われているのだ。袖も長いので縛っておかないと動きにくい。

「何だ、やんのか?」

 ライオンの鬣が嫌らしい笑みを下げて言う。まったく警戒してないようだ。

 多勢に無勢。確かに不利なのはこちらだ。でも引き下がらない。チエルにまで手を出されてしまったら、このまま尻尾を巻いて逃げだすような七課ではないのだ。

(大将はこのひとでいいのかな。いっせいにかかってこられたら困るけど)

 とりあえずライオンの毛を毟るくらいはしなくては。

「おいおい、何だそりゃ。鞘引っかかってるぞ」

 給仕当番服の中から剣を出してきたアウリスを見て、十二課の男たちが笑う。

(解ってないな。あなた方相手にはこれで充分よ)

 だいたい、真剣勝負をしたら洒落にならない怪我をするかもしれないし抜くわけない。同じ黒炭の傭兵同士なのに、彼らの方はそんな風には見ていないのかもしれない。

 チエルは荷車の後ろの安全な物陰に隠れている。アウリスはそれを確認すると、つむじの少し下で一つに束ねた髪を後ろへ流して邪魔にならないようにした。同じ手を下ろして柄に添えるのと同時に踏み込む。

 ライオンの鬣は俊敏な身のこなしで避けた。さすがに腐っても傭兵、だが、一発目の狙いは彼ではないのだ。ライオンの鬣の背後にいた男の姿がアウリスの視野に完全に入る。

 一踏みで間合いを詰め、斜めに凪ぎながら両手に瞬間的に力を入れたときだ。

「あっ! 白衣の天使団!」

 まるで魔法のような言葉だった。

 それでも体の勢いは止まらず、アウリスは手前の男の鳩尾をぶち抜いたあと遅れてふりむいた。剣を引き、他の男たちが見ているのと同じ方向を仰ぐ。

 アウリスは日差しに目を細めた。

 土の丘を降りてくる一団があった。五、六人の女性たちだ。アウリスは思わず目線を逸らし、けれどまた目線を戻してしまう。そうしながら顔に両手をあてる。

「白衣の天使だ」

 ライオンの鬣もどこか幸せそうな声だった。土気色の上衣なので茶衣の天使だが、意味合いは合っている。

「本当に来てたんだな。俺初めて見るよー」

「え、何あの若い子ら。誰? 目の保養なんですけど」

「白衣の天使団。争いに疲れた兵士の元に現れて敵味方関係なく看病してくれるんです」

 その出没地点は、異民族と諍いの絶えない国境沿いが殆どだ。けれど人の口に戸は立てられず、今や、国内全土の傭兵や騎士団で彼女たちを知らないものはいない。

 十二課は初めて見るらしい。アウリスは不甲斐ない顔になっている彼らに情緒たっぷりに説明した。

「あの先頭の人がセル=ヴェーラさんです。彼女は行く先々で領主様に求愛されているといわれるほどの美貌の持ち主です。他の女の子もとても美人ですよ。あの一団は白衣の天使達の中でも特に粒揃いなんだって」

「何それすげえ。何でそんなすごい集団がここにいるの?」 

 当然の質問である。何しろ内陸。元々いざこざが起こりやすい国境ならばともかく、仕事先で偶然、白衣の天使が出没する率は極めて低い。

 しかし、あのセル=ヴェーラ一団だけは特別なのだ。

「公私混合しているからです」

「はあ?」

「いいなあ」

 ライオンの不審げな声を無視して、アウリスはうっとりと両手を組んだ。

「戦いの果ての荒野。男ばかりのむさ苦しい戦場。そこに颯爽と現れる医療の女神さま。まるで一陣の花の香りが通り過ぎていくみたいです」

「おまえも性別だけはあっちと一緒だよね。言ってて虚しくならない?」

 アウリスはライオンの言葉を聞きのがした。そのとき唐突に我に返ったからだ。

 そうだ、ご飯がまだだった。

 白衣の集団は頻繁に七課の派遣先に現れる。そして現れるのは決まってお昼時なのだ。

 アウリスは荷車を押し、少し離れた木陰に急いだ。

 料理は既に出来上がっている。アウリスはずらりと並んだ鍋の番に立ってもらっていた傭兵に礼を言うと、袖を掴むチエルに食器を準備してくれるよう頼む。先ほどはその食器を取りに馬車へ戻っていたのだ。

 チエルが荷車の中に背伸びするのを見届けたあと、アウリスは消えた焚き火の上にかかったままの鍋の前に立って、長剣を振り上げた。

「ご飯ですよォオオオオ! ご飯の時間になりましたァアアアア!」

 七課恒例、お昼ごはんの号令である。

 アウリスの声量にギョッとした顔で先ほどの男たちが振り返っている。その体のどこにそんな大声が詰まっていたのかと言わんばかりだ。失礼な。化け物を見るような目で見ないで欲しい。

 アウリスは周囲の好奇の視線をきれいに無視して剣の柄部分を鍋に叩きつけた。男たちが迷惑そうに耳を塞ぐ。

 鍋たたきの一回目で地鳴りが聞こえ始めた。おかげで鍋たたきの騒音はほとんど聞こえなくなった。十回打った辺りで、派手に泥を蹴散らして黒炭七課が丘を降りて来た。

 アウリスは思わず息を呑んだ。

 う、馬を駆けている者がいる!

「っ、だから、飯炊き場に馬で入らないでって……」

 土の瀑布が巻き上がる中、アウリスは精一杯訴えてみた。が、どうやら誰も聞いてない。

 馬の嘶きのあいまに地面に降り立つ足音が次々に聞こえた。七課は表向きには七人しかいない。毎回物凄い地鳴りがするが他の課より人数は少ないのだ。蹄の音はもはや殺気立っている。貴族屋敷では食堂での土足すらありえないんだと言ってやりたい。

「待っ、ちゃんと並んでくださいっ、……っだから、馬はっ、だめだ、って……、あっ勝手にお鍋の蓋開けないでっ」

 右往左往しながら、だんだんアウリスは腹が立ってきた。気づいたら傍らに下ろした剣の鞘を掴んでいた。

「並べエエエエエ!」

 そのまま勢いよく引き抜く。

(あっ、つい抜刀してしまった……)

 舌の根も乾かぬうちに仕出かしたことに気づきアウリスは素面に戻った。同じ黒炭仲間に真剣は向けないのに。

 けれど、効果はてきめんだったようで、大振りの刃にさあっと風が起こって土煙がきれいに晴れたあとには、アウリスの正面で彼女を除く七課がちゃんと一列に並んでいた。

「へえ、まあまあの匂いだな」

 先頭は珍しくセツ先輩だった。綿毛みたいに柔らかそうな茶髪を後ろへ撫でる彼に、チエルが椀とスプーンを渡す。

「馬なんかで来るから髪が乱れるんですよ」

「べつに料理上手とかではないがまあ、他に食うものは転がってそうに無いからな。二杯頼む」

「話を逸らさない。その台詞も寒いです、今時思春期のお嬢様とかでも言いませんよ」

 アウリスはお玉で鍋の中を掻きながら言い返したが、その手元に斜めから影が差した。

「え?」

 目線を上げて、驚いた。セツの姿がない。忽然と消えるなんてありえないから遅れて見回してみれば、彼は随分遠くで地に伏していた。片腕を前に回している。腹を蹴られたらしい。昔から列の最後尾が似合う人である。

 アウリスは正面に聳え立つ相手を見上げた。さっきセツのいた位置には今やグレウ師団長が殺気の塊のような目で佇んでいる。いつも通りの表情だ。

「誰も彼も差し置いて先に飯にあやかろうたぁなめてんのか」

「うん、わたしもあれ、と思いました。珍しいなって」

 アウリスはセツに便乗したと思われたくないので全責任をセツに押しつけた。先頭はどんなときでも師団長のグレウなのだ。賊相手に斬り込むときもご飯のときも斬りこみに失敗した場合に一番に死ぬのもグレウ。傭兵組織といえど上下関係は大事である。

「飯」

「グレウさんも二杯でいいですか?」

 お鍋の中を掬いながら聞くと、何故かグレウは顔をしかめる。怖ろしいのでやめてほしい。奈落の底みたいな色の目に、垂れ目のくせに尖った目じり。極めつけに細い吊り眉。素晴らしいほどに出来た悪役顔だ。その一瞥は連行中の罪人に聞きもしない罪状を洗いざらい吐かせる魔力がある。

「そのグレウさんっての止めろ。「さん」付けは気色悪い」

「え、でも」

 グレウは師団長だ。セツ先輩や肉だんごだって「さん」で呼んでいた。育成所で一緒に育った者同士なのでグレウにとっては痒いのかもしれない。

 でも、わたしだけ呼ばないってわけにも、とアウリスが困っていると、更にグレウが食い下がってきた。

「普通に呼べって言ってんだろ。オラぷちっと潰してやろうかチビが」

 ち、チビって。最近は機嫌が悪いときにしかグレウはアウリスをそう呼ばないはずだ。あたかも童心に孵ったかのようだった。そんな相手を前に、アウリス自身もひどく落ち着かなくなった。正直に言うと、アウリスはこのひとが苦手なのだった。昔は周りで断トツ一番苦手だったのだが、今は周りで比較的一番苦手である。

「でも……」

 アウリスが返事に困っていたら、ふと軽やかな足音が聞こえてきたかと思うと今度は目の前のグレウの姿が忽然と消えた。

 いや、すっぽり覆われた。奇跡的な俊歩で丘を越えてきたセル=ヴェーラが、グレウの腰に巻きついているのだ。

「グレウさま、お元気そうで何よりです。お勤めの方は恙無いですか?」

 グレウの胴体に両手を添えてセルヴェーラは彼を見上げる。後光が差しそうな満面の笑みである。グレウは引けているのか差し出す腕すらない。超絶美人に抱きつかれたら萎縮してしまうものかもしれない。羽衣がドブネズミみたいな色だからって、それを風のように涼しげに纏う姿はまさに天使か妖精のようだ。

 しかし、グレウの反応はそれとは別種のものだった。アウリスはそれが解っているのでソワソワした。反応の無いグレウを不思議に思わないのか、セル=ヴェーラはすりすり身を寄せている。

「お疲れでしょう。申し訳ありません、わたしもグレウさまに真っ先に会いにきたかった、だけど仕事があって遅れてしまったんです。捕えた賊の中に怪我人がいたようなので。それに、味方の方も何人か診てたんですよ、ぶっちゃけ全員七課でもないしどーでもいいやとか思ったのですけれど、まあ仕事だし?」

「……そうなの。助かる」

「助かります? よかった、じゃあご褒美にグレウさまが今穿いてる下着ください」

 みなまで言うより前にセル=ヴェーラは投げ飛ばされていた。

(ああ、またやった……)

 遠巻きにしていた白衣の天使団の元へセル=ヴェーラは蝶々のように落下した。一方、背負い投げをした当のグレウは固まっていた。膝に両手をついたまま。近くで見ないとわからないが彼の全身は半透明な汗が吹き出ている。

 流石にアウリスはグレウに同情した。だって、毎回会うたびに慈愛の女神みたいな笑顔でパンツちょうだいと言われるのだ。精神的にガリガリ削られる。グレウはそれでなくても凶悪顔のせいで人付き合いが苦手だから、この打撃は大きいはずだ。

 けれど、同時に少しばかり羨ましい。白衣の天使団は戦場では潤いだった。そこは性別は関係なくて、少なくともアウリスは憧れている。例えば、ごつごつした岩ばかり転がる退屈な景色に綺麗な花が咲いていたら、自然と心惹かれる。それと同じことだ。要は目の保養で、グレウはその目の保養の一番の目の保養を、毎回誰より近くで見ている。そこは文句なく役得ではないか。

 尤も、セル=ヴェーラの方は態度を変える様子はまったくない。七課の行く先々に現れて背負い投げを食らわされてを無限にくりかえしているあたり、あちらも頑固なのだった。そういう意味では、二人は似た者同士だとアウリスは思っている。

 アウリスの微妙な眼差しに気づいたのだろうか。泥を落としていたセル=ヴェーラが近づいてきた。泥まみれになっていても後光が差して見えるものらしい。

「いい匂いね。今日は何作ったんですか?」

 アウリスは危うくお玉を取り落しかけた。な、なんとセル=ヴェーラが直に話かけてきた!

「は、はい。今日の献立は子豚とくさびらと山菜のリゾットです」

「へえ、具だくさんなのね」

「そうなんです。この辺りには山菜がたくさん採れる山があるんです。山豚もたくさんいて」

「それって賊が潜んでいた山よね」

「そうですよ」

 お陰で賊たちは世間から隠れる身でありながら異様に血行良い顔をしていた。毎日の栄養バランスの取れた食事があったからに違いない。

「ええと、山豚は灰汁がきついので、まず煮て余分な脂を落としました。それから賊の持っていた調味料で味付けをして採れたての山菜と一緒に火にかけて、最後に水をたっぷり含んだ半炊きのお米に混ぜて炊いたんです。ハチナジやレモナーゼとかのハーブの葉っぱも入ってます。素材本来の味を際立たせてくれて、体もあったまるし胃もたれもしにくいんです」

 アウリスは緊張し、意味なく聞かれもしない献立の詳細まで報告してしまったが、そんな長々した説明にセル=ヴェーラは「おいしそうね」と微笑んでくれた。黄金の睫毛が眩しい。柔らかそうで、長くて、なんだか彼女が瞬きするたびに、ぱちぱち、と音が聞こえそうだった。

 セル=ヴェーラを含めた白衣の天使団は慈善団体である。

 危険地帯に現れ無償で怪我人を診てくれる。七課、ひいては黒炭も彼女らのお世話になることがあるから、少しのお返しは当然だろうと思って、アウリスは彼女らが現れそうな日には普段より多く飯炊きするようにしていた。

 そう言えば、いろいろあって昼食が遅れかけている。

 アウリスは泥のついた天使像と背後に慎ましく控える女性たちに会釈し、仕事に入った。そのとき一頭の馬が丘の上に現れた。

 セル=ヴェーラを除く白衣の天使団の五人が丘を振り向いた。白馬が駆けてくる方角へ思いきり傾げていく。異様に息がぴったりだ。太陽を追いかけるヒマワリをアウリスは思い出した。

 まったく忙しない。このままだと昼食が夜食になってしまう。

 アウリスは女性達の反応から相手の正体に気づいていたのでお玉を放り出した。鍋を死守する体勢で仁王立ちになり、大きく息を吸う。

「馬で飯炊き場に入らないイイィイ!」

 べつに肉だんご相手だから強気になって怒鳴りつけたわけではない。肉だんごなら強く言えば聞いてくれるからだ。

 案の状、肉だんごは飛び降りてくれた。いや、転げ落ちた。三年前に派遣先のどこかで譲り受けた自慢の白馬の足元にむくりと起き上がった彼は、しかし頭部は自らの羽織る上衣の中。落ちたときに被ったのだろう。が、あまりに器用な登場ぶりに彼に見惚れていた白衣の天使団まで首を傾げている。

 肉だんごは暫く服の中でもがいていたが、どうにか抜け出すと同時に駆けてきた。

「おいしそうだな、いい匂い!」

 手加減してくれないだろうか。息苦しい。肉だんごに全速力で体当たりされたアウリスは昔とはずいぶん変わった相手の固い胸板に手を当てた。ついでにお玉を拾い、肉だんごの頬をぐいぐいと押す。

「どいてください肉だんご、給仕が出来ません」

「あれ? まだ食事始めてなかったのか、何やってんだよ」

「並んでください。チエル、グレウさんのお椀を」

 この騒ぎに始終大人しく控えていたチエルから椀を受け取り、肘で肉だんごを退ける。何やら丸太みたいな感触がした。しかも、肩と平行に腕を出して触れるのが彼の肋骨の上部分だなんて、まるで幼少時の横幅が縦嵩に移植されたかのよう。

「昔は始終ぽよぽよしていたのに……」

「また冬んなったらコロっと太んだろ」

 アウリスの憂いに、いつの間にか背負い投げの一件から立ち直っていたグレウが近づいてきて言った。冬が来たら……、まるでクマみたいだ。冬眠の為に脂肪を蓄える。

「それにしても鍋が五つもあるんだなあ」

「駄目ですよ肉だんご。この界隈の子供たちにと思って作った分なんです」

 肉だんごならば全部食べかねないと思ってアウリスは釘を刺す。それでも夏場は太らないのに冬は風船化するのだから不思議だ。ほんとうにどうなっているんだろう、彼の新陳代謝は。

 遅れ遅れになっていたご飯を始めることにして、まずアウリスはグレウの為に椀二つよそった。次に肉だんごと、七課の全員が続く。セル=ヴェーラや白衣の天使団はセツの後にやって来た。女性に譲るとかはないらしい。七課は師団長のせいもあってか女性慣れしていない団員が多いので、美人の前では萎縮しそうなものだ。にも関わらず、列の番は譲らない。花より食なのだろうか。空腹に勝てる人間なんかいないのである。

 アウリスはじぶんの分を盛ったあと、まだ手つかずだった新しいリゾットの鍋を抱えた。

「チエル、後お願いできる? いつもの感じで」

 チエルはグレウにご飯が回ったあたりから自分も食事を始めていたが、アウリスの言葉にうなずいた。焚き火が離れて並ぶ上には、リゾットの鍋がひとつ残っている。

 アウリスはいつも地元人や孤児たちの為にご飯を作るわけではない。食材には限りがある。単に仕事が長引いて大人数分を作れないこともある。

 けれど、今日は賊の潜んでいた山奥でたくさん食材を見つけることができた。山豚の肉の方は乾かして緊急時の為に蓄えることも出来る。仕事が終わるまでは暫くこの界隈に居座ることにもなりそうだ。

 アウリスは丘のちらほらした人影の方を見やる。小さな人影たちも遠巻きにこちらを伺っている。

「並んでもらって、おたまで掬ってくださいね」

 そうしないと、お腹のすいた子供たちのことだ、ハゲタカのごとく集まってきてあっという間にお鍋が空になってしまう。そしたら食いそびれる子が出るかもしれない。

 食事は作り貯めしておくべきかもしれない。だが、一方でそれを言ったらきりがないのだった。それに、こうすることはチエルの家庭環境にいいのではないかとアウリスは思っていた。自分を、自分の財産を奪おうとする相手から身を守る術は必要だ。だけど同じくらい、分け合うことも大切だ。

 アウリスが鍋を運ぶのに両手を塞がれているのを見て、チエルはうなずき、自らおたまを手に取った。そうして三つ目の鍋の前に立つ。マシュマロみたいに小さく丸い手がしっかりとおたまを握り、振る。

「……ごっ、ご飯ですよォオオオオ! 孤児どもォご飯の時間だァアアアア!」

 チエルはおたまで鍋を叩きながら張り上げた。

 恥ずかしかったのか、はじめにどもったが素晴らしい声量だった。英雄たるもの、戦場では声がよく届くというけれど、お鍋を叩くまでもない。

 木陰や丘のふもとからハツカネズミの群れみたいに沸き出てくる孤児たちを尻目に、アウリスは鍋を抱いて飯炊き場を離れた。

 チエルには以前忙しいときに給仕を任せたことがあった。今は周りにグレウや肉だんごやらもいる。要領は解っているからひとりで残しても大丈夫だ。

「重そうなモン持ってどこ行くの?」

 川に続く藪に入るところで、まだ近くでたむろしていた十二課の男たちが絡んできた。どうやら騒ぎを遠巻きにしていたようだ。

 足を止めると面倒なことになりそうだったので、アウリスは淀みなく鍋を運びながら振り返り、にっこり笑う。

「七課のならわしなんです。新しい土地に派遣されたら、仕事が上手くいくのを願って、その土地の神様にお供えするんです」

「お供えって、その鍋の中のリゾット全部?」

「欲しいんですか?」

 素朴な疑問だったのに、ライオンは毛を逆立てた子猫みたいにして怒鳴った。

「欲しいわけねえだろ! はっ、つか食えんのソレ? 腹壊すだけじゃねえのー」

「気味悪ぃならわしだな! さすが駐屯所も何もねえ根無し草の七課だわ」

(まあ、そのとおりです)

 黒炭では殆どの課が土地によって駐屯所と呼ばれる支部の元に活動している。どの支部にも属さないのは七課だけなのだ。自分たちは派遣のみ。

 だが、それは用途が違うからだ。

(だから、他の支部とはたまに仕事内容や団員の編成が違ったりするんですよ)

 頭の中だけでそう返し、表向きは十七課の団員らの前を素通りして、アウリスは夏の若葉のあいまに聞こえてくる水のせせらぎの方角へ降りていった。  

 

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