18.
朝起きたら、チエルが隣にいた。
そう言えば彼もこの館にいたのだった。昨日は結局会えなかったのだが、じぶんが眠った後に布団に潜り込んできたらしい。
アウリスはけっこう、睡眠中は人の気配に鈍い方だ。昨日は泥みたいに疲れてもいた。
ぼんやり、体温の塊みたいなチエルを抱いて、もぞもぞ顔を起こした。
そこで、アウリスは固まった。
アルヴィーンの顔があった。今の状況を詳しく言うと、アウリスの腕の中にはチエルが眠っている。そのタンポポ色の頭部はアウリスの顎にも満たない。それで、アウリスの右の頬の下にはアルヴィーンの腕がある。
(えっ、う、うううでっ腕枕!?)
アルヴィーンの開いた琥珀色の瞳と、がっちり視線を合わせたままに、アウリスは血の気がさあっとひいた。
そうだった。
アウリスはアルヴィーンの部屋に泊まっていたのだった。彼の許可なしに。
「ごっ、ごめっ……ごめ」
怒られる?
呆れられる?
でも、いい。腕枕もらったからいい。
じぶんはやはり目先の欲に囚われるタイプの人間だ。
というより、アルヴィーンは目が覚めたのか。よかった!
いろいろ混乱するアウリスの方へ、アルヴィーンは何も言わずに手を伸ばした。その長い指はアウリスの額の髪の生え際に触れた。
そのままアウリスの髪を撫で、アルヴィーンは朝日よりも綺麗な瞳を細めた。
「おはよう」
ここは天国ですか……?
アウリスはチエルの体を思いきりアルヴィーンに押しつけると、医務室を駆け去った。
逃げ出した。真面目に。心臓が壊れそうだっからだ。
幾つか角を曲がったところで立ち止まり、服の胸部分を握りつぶして呼吸を整えていると、通りがかった小姓が「どないした」と聞いてきた。昨夜の嫌味な小姓だ。
「ごはん出来たんよ」
「え? あ、いえ。ごはんくらい自分で調達します。昨日まではお世話になったけど、さすがに毎日は」
「何いうとるのん。あんたの為ちゃうし」
小姓はさらりとアウリスを遮り、手桶の水をばしゃっとアウリスの顔にかけた。
この小姓、何かわたしに恨みでもあるのか?
アウリスは棒立ちになった。真水を浴びて、髪もシャツもびしゃびしゃだ。凄く寒い。
小姓、その手桶の中身は井戸水か?
唖然とするアウリスの顔を見上げ、こてんと小姓が小首を傾げるとツインテールが揺れた。嫌味にかわいらしい。
「シンフェ姐様が食事を出して下さっとるに決まっとりやす」
「え? シンフェ、さん?」
「あんさん達の世話は全面任されとんす。ほなな」
アウリスが止めようとするのを聞かず、小姓はさっさと行ってしまった。自由人だ。
しかし、どういうことだ?
アウリスはてっきり、一日三食出されるのはニナエスカの配慮かと思っていた。ニナエスカ、または、名無しがまかなってくれているのだと。
アルヴィーンの姉の配慮だったのか。
でも、部屋の方は? あれはニナエスカか?
「なんだか混乱してきた……」
どうやら、ニナエスカとはまだまだ話し合わないといけないようだとアウリスは思った。食事のこと含め、色々と。
娼館の離れには一階に食堂があった。
規模は小さい。六人掛けの食卓が二つ並んでいるのみ。三階建ての所帯には少しばかりこじんまりとした風だ。
同じに三階建てだったジークリンデの屋敷には二十人掛けの家具が並んでいたなとアウリスは思い出す。アウリスが子供の頃に居た育成施設だって、五十人一緒に食事していたのだ。敷地もここと変わらない広さだった。
ここの住人は高級娼婦とその小姓だけ。そんなに大所帯ではないのだ。昨日と今日、さりげなく数えてみて、十五人程度だった。
しかし、今朝は違う。食卓には、三十人以上がぎゅうぎゅう詰めになっていた。何の罰ゲームだ。しかも、全員女性に関わらず、妙にむさっとした体系の者ばかりである。
「昨夜話した協力者たちさ」
テーブルの上座につくニナエスカの言葉に、アウリスは「はあ」と返した。
合点した。
この女たちは、ゲノマの収監所解放の為に集結した、猛者なのだ。ニナエスカ師団だ。めちゃくちゃ強そうだ。隣の女性なんか、挨拶に手を挙げたついでに襟ボタンが飛びそうだった。筋肉で。
ひとまず礼を言ったアウリスの方へ、女性が二人近づいてくる。
「指示出さしてもらう、ライラでやんす」
「同じく別の班の目付役の、アンナでやんす」
見た目によらず可愛らしいお名前だ。
「あ、アウリスです。今回はよろしくお願いします」
アウリスが頭を下げると、二人の女性はすっと片手づつ差し伸べてきた。
(えっ)
無茶である。握手したら、骨が折れることをアウリスは直感した。
いきなり難関だ。どうする。暫く逡巡したアウリスは、左右の手を大きく掲げ、それぞれの女性の差し出す手に、じぶんの掌をぱん、と打ちつけた。
「よ、傭兵風の挨拶です!」
ライラとアンナはきょとん、としたあと、へえ、と笑った。やった。土壇場での思いつきとは思えない。アウリスはじぶんの頭の出来に感心した。
展開を見守っていたニナエスカが、頬杖をついたままにふう、と水煙草の煙を吐いた。
「じゃあ、半刻後に出発だよ。各々、準備をしてきな」
部屋にいた連中がぞろぞろ開いたままの扉を出て行った。単に挨拶だけに集まっていたらしい。
半刻後に出発。後だとバタバタするから今顔合わせておこう、ってことだろう。
「朝ごはんのすぐ後にゲノマに出るんですか?」
「そのつもりさ」
「名無しは? もう出たんですか?」
確認を取りながら席につく。すぐに給仕が食事を運んできた。
「ヌイ=マルカはもうすぐ来るはずだよ。寝坊してんじゃないか。あいつは昨日仕事に出たからねえ」
「仕事?」
「資金集め」
「ああ、それで」
左程驚かなかった。今朝、一度部屋に寄ってみた時に名無しの姿はなく、寝台の方も使われた形跡はなかった。昨日の夜は帰らなかったのだ、きっと。その理由が解ったと言う程度だ。
「名無しは明後日までにお金は集まるって言ってました。毎日夜に仕事に出るんですか?」
何の仕事、とは聞かなかった。ケムリモノ、という単語は話に出ていたが、意味まではわからない。多分、知らない方がいいような話だろう。
「そうだねえ。おまえ、それより早く食わないか? 半刻と言ったろ?」
そうだった。アウリスはニナエスカの忠告を有難く聞き、目の前に並べられたサンドイッチとスープをぺろりと食べた。
ニナエスカの言ったとおり、数分して名無しが現れた。アウリスの隣に座り、スープをちびちび飲んだ。おなかがすいていないのか。元々小食なのかもしれない。
アウリスは食後に出された紅茶を啜り、気にかかっていた話をふった。
「ニナエスカ、お金の話をしたいのですが」
「おかね?」
「はい。食事、宿、そして、今回の計画に必要な人員、火薬とか武器等を揃える為の出費。そういったものの帳簿を詳しく取りたいんです。後々に誰に返せばいいのか、わかるようにしていたい」
「誰に返せば? なにを?」
「え? だから資金をです。今回貸してくれることになったお金を」
じぶんは変なことを言っているだろうか。ニナエスカは、食後の水煙草を吹かせながら、思わせぶりに目を細めた。名無しがスープをよそる手も止まっている。
「おまえ、借りを作っている、つもりだったのかい? アウリス。このあたしに」
「アウリス」
アウリスはじぶんを呼んだ名無しの方を見た。隙のない笑顔だ。
「君はべつにニナエスカに何も借りてない。俺が資金作りの中継なんだからね」
「それは、そうかもしれないけど」
「ん。ニナエスカに借りがあるとすると俺。あんたが借りがあるのが俺。だから約束、ちゃんと守ってね!」
名無しの「願い」の話に挿げ替えられてしまった。
アウリスは何となく、昨日の作戦会議の光景を思い出した。この顔触れで、どうやって罪人を束ねるか、という話をしていたのだったが、罪人に恩を売る、と言いだしたのは名無しだった。それに、ニナエスカが同意したのだ。
「ニナエスカへの借りは返さないといけない」。そのルールに便乗して、ニナエスカの名前をちょっとだけ借りる。そんな立案だった。
でも、そのルールがじぶんにも当てはまるとは、アウリスはなぜか考えていなかった。いや、借りを返す話ではなく、借りを作ったときに何か強迫的な概念が付きまとう、ということろは考えていなかったのだ。
アウリスはちゃんと、ニナエスカに恩を返すつもりでいる。
そういう次元の話とは違うのか?
「食事はシンフェさんがお世話をしてくれてる、って聞いたんですが」
「そのシンフェの小遣いはあたしから出ている」
「俺がニナエスカにお願いしている」
よくわからない。
つまりは全て名無しを通っている? アウリスは名無しに全額、借りている分を返す、ということでいいのだろうか。
「おまえ、もともと貴族女のくせにみみっちいねえ」
「き、貴族? はてなんのことやら。でも、お帳簿はちゃんとつけておかないと混乱してきちゃうから」
ニナエスカの発言をアウリスはさらりとかわした。
とはいえ、アウリスもこんなに大きな額を人に借りるのは初めてだ。今までは猫じゃらしに有休をもらう程度だったのである。市場に出たときに書きこむのとも額が違う。
ニナエスカはアウリスの方を興味深そうに眺めていた。その眼差しは気になったが、元々少しばかり挙動が怪しい人物なのだ。解っている分あまり気にならない。注意は怠らないが。そこは、ニナエスカだけでなく、名無しに対しても言えることだ。
結局、資金は名無しに返す、ということで話は終わった。
その後で名無しがニナエスカに返すのかもしれないが、ひとまず、交渉相手は名無し。そういうことだろう。名無しはそうしたいようだ、とアウリスは感じていた。
食事も終わりに近づいた頃、アウリスは今日の作戦をニナエスカと確認しあい、最後にもう一度繰り返した。
「昨日の、発案した時にした約束、覚えていますか?」
「ああ。『殺さない』、だろ?」
ニナエスカは愉快げに紫色の唇を舐めた。
「安心していい。あたしは嘘の約束はしないよ。それに、ヌイ=マルカが守っているなら、案外簡単に守れる約束だということだ」
名無しは約束破りの常連犯らしい。
やっぱり、筋金入りの罪人だ。
結論から言うと、収監所は魔境であった。
「紙くれ! 便所の紙!」
「紙ー紙をおくれー」
「つか飯まだ!? おなかすいた!」
「おやつーおやつおくれー」
「紙紙紙紙」
収監所は二階建てだ。ニナエスカ師団は裏門を火薬で破壊して侵入した。
アウリスは早速未知の世界に飛ばされた気分になっていた。
硝煙は工夫して抑えたものの、匂いまでは消せない。爆音も上がったはずだ。
なのに、この囚人たち、なにも気づいていないのだろうか? 牢の中に入っていると聞こえないのか?
「平和な奴らよのう」
その一言だけでいいのか?
師団長、ライラが見張りの後頭部に手刀を入れた。顔はばっちり覆面に隠れている。アウリスも同じ覆面をしている。
見張りは外と中と合わせると二十人程度の人数がいた。元々警備の薄い収監所を狙ったのだ。アウリス側には十五人で、火薬もたっぷり使えるし、左程制圧に時間はかからなかった。
ライラの指示の元、アウリスたちは物凄いのどかな囚人たちの解放に取り掛かった。
「えーっすげえ女!」
「ちょっとゴリラみたいだけど女!」
「女女女女」
……ひくなあ。
のどかにお手洗いの話や、おやつの話をしていたけれど、全員、罪人なのだ。
彼らはみんな、この王都で何かしら悪事を働いた者達。
ニナエスカによると、町の治安は、国家騎士団と領の防衛省、両方で取り締まっているらしい。ゲノマの収監所は防衛省の機構。つまり、国法ではなく領法を犯した犯罪者が連れてこられる場所ということだ。
具体的に何がどう違うのだろう。アウリスは国法と領法の違いが今一解っていない。領法は領土により差異があるので、王都のことなどさっぱりだ。
ニナエスカ師団は手際よく細い金具を使い、牢の錠を開けていた。手慣れ過ぎだ。
じぶんには少しばかり無理だという事で、アウリスは気絶させた見張りの腰に提げてあった鍵束を使った。
牢は一階、二階と合わせて三十。
だが、鍵は一貫しているようだ。ジャラジャラついているのは事務室や建物の玄関の鍵などだろう。
アウリスは最初の牢で目当ての鍵を見つけて次々に戸を開けていたが、とある牢の中にびっくりする人物を見つけた。
「に、肉だんご!?」
「アウリス!?」
隅で膝を抱えていた金髪の美丈夫は、アウリスの開けた格子の戸から飛びかかって来た。
「肉だんご! ど、どうしてここに……?」
肉だんごはアウリスの肩に縋りついた。離さんと言わんばかりの力だ。
そうなるだろう。怖かったんだ。牢屋なんかで。周り罪人ばっかりで。
アウリスは肉だんごの震える肩をそっと撫でた。安心させるような口調で聞く。
「どうしたんですか? 何があったの」
「俺、俺……」
何度かつっかえた後、肉だんごはようやっと語った。
「黒炭の支部に行ったんだ。助けてもらおうと思ったんだよ。猫じゃらしの処刑の話とか、七課の指名手配になった話とか、そういうの全部しおわったときに、いきなり取り押さえられて。あいつら、俺たちと同じ黒炭の傭兵なのに」
「それで、ここに連行されたんですか?」
「うん。七課の人間の疑いがあるって」
肉だんごは泣いていた。
アウリスは多分、彼がこんな風に泣くのを見るのは初めてだった。メーテルが殺されていた場所でも泣いていたけれど、そういうのとは違う。肉だんごは傷ついて泣いているのだ。
……というか、支部に行ったのか!
あれほど頼るな、って口を酸っぱくして言ったのに。
そんなに、そんなに信じたかったのだろうか。
じぶんはまだ、黒炭の傭兵なのだと。
それで裏切られたのは、辛い。
でも、これで証明された。黒炭は本当に七課を見捨てたのだ。
「肉だんご、とりあえずこれを羽織って」
肉だんごは上半身に何も纏っていなかった。下半身も、襤褸布みたいになった下着一丁だ。
下はどうすることも出来ず、ひとまず、己の着ていた上衣をあげた。それで肩を包んでやると、随分冷えた体温を感じた。
アウリスは胸がしくしく痛んだ。
「一緒に出よう、肉だんご」
ある意味、ここで会えてよかった。肉だんごが収監されたのが偶然ゲノマの収監所で、よかった。
もう離れ離れになる気はない。一人で行かせない。
「こっちに脱出口があるの。肉だんごは先に」
「嫌だ」
アウリスはきょとんとなった。振り向くと、アウリスに腕を掴まれたままで、肉だんごは顔をくしゃくしゃに歪めていた。その悲痛な表情にアウリスは不安になる。
「嫌だ」
アウリスの羽織らせた衣を、肉だんごの両手が集める。
「俺は罪人じゃない」
「肉だんご」
「俺は罪人じゃない!」
あっという間のことだった。アウリスが手を緩めた隙に、肉だんごは踵を返した。
通路には溢れかえらんばかりに人がいた。解放の喜びに浸る喧騒の中を、掻き分けるようにして、後ろ姿は見る見る遠くなっていく。
そんな変質者みたいな恰好でどこに行くのだ。
アウリスは棒立ちになっていた。
ニナエスカ団が肉だんごの前に立ちふさがった。彼は彼女らが伸ばす手を避けるようにして奮闘している。でも、多勢に無勢で。
「行かせてあげてください」
じぶんの口から出た言葉が信じられなかった。
女たちは察するものがあったのか、道をあけた。肉だんごは一度も振り向かない。
その後ろ姿が、外の陽射しの中に溶けていき、見えなくなった後も、アウリスは暫く茫然としていた。




