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15.


 アウリスは思わず後ずさっていた。

 視線の先の男はアウリスを追うように飛び降りてきた。咄嗟にアウリスは彼に向けて矢をつがえる。その矢を信じられないことに素手で握られる。更に信じられないことに指が滑る。

 決してわざとじゃない。びっくりして、というよりパニックになって指の力が勝手に抜けたのだ。男は既に矢の首を掴んでいたので幸い攻撃は外れたが、この近さだと確実に危なかった。彼のゾッとする程端正な顔のど真ん中に、ズドンだ。

「ごっごめんなさい!」

 思わず構えていた矢を下ろしたアウリスの正面に男がすたすた歩み寄る。その指の合間に矢がなめらかに一回転する。

 アウリスは我に返り、慌てて弓を捨て代わりに手探りで剣を抜く。

「待って、と、止まってくださ」

 みなまで言うより早く、男が刀身に手の甲を添えて横へ避けた。そのまま手が伸びてくる。

 アウリスはそれがとても怖いものに思えた。思えたと同時にありえないことだが足を滑らせ、尻もちをついた。

 衝撃はちっともなかった。全神経は歩いてくる男の方に向いていて、アウリスは彼を見上げ、追い詰められるような気持ちに慄きながら後ろへ下がる。

 体が竦む。じれったいくらい上手に動かない。ずり下がって離れようとしているつもりなのだが、歩み寄る男との距離がぜんぜん広がっていない。

「あ、あの、待って」

 争いに来たんじゃない。話をしに来たのだ。

 だけど、そんな本心とは裏腹にどうにも緊張が勝り、剣を捨てることができない。

 そんなアウリスの前で脈絡なく男が矢を捨て、地面に膝をついた。なけなしの間合いが一気に、相手の前髪が触れるような危なっかしい距離まで近づく。

 アウリスは思わず剣の柄を振り上げたが、その手を掴まれ、驚異的な腕力で地面に縫い付けられた。咄嗟に自由な方の手を出すとそれも捕まる。そうして暴れる手の指を、男が気味が悪い程優しく彼自身の指で絡め取り、封じた。

 そのまま引き寄せられ、男がアウリスと絡めた指を唇に押しあて、ちゅっと可愛い音をたてる。

 アウリスは心の底からぞっとしたという顔をした。動揺を隠すとかそういう余裕がなく、恐怖に固まり、相手の顔を見た。男もアウリスを見ている。

 赤い髪も黒い瞳も記憶どおりの色だった。だが、細かい容姿や仕草まで覚えていたわけでもなかったから、今夜初めて会う人のような感じもした。王都で会った師団長らしき男と同一人物だなんて頭に掠りもしなかった。雰囲気がぜんぜん違ったし、何より、昼間に戦っていたときと一転、目の様子がすっかり異常なことになっている。

 昼と夜で別人なのではないかと得体の知れなさにアウリスが震えると、男の体も何故か震えた。そうして、男が首を傾げ、アウリスの指を根元までぱくりと咥えた。

「え? ぅわ!?」

 いきなりの事で何より仰天しアウリスは身を捩るが、男は容赦の欠片もなかった。逃げようとした動作を咎めるかに、ことさら強く指を噛む。

 物凄い痛い。

 涙が出そうだ。弱い声が出てしまいそうになり、アウリスは危ない所で唇を結んだ。

 男が笑っているのが底知れない。が、何より、この黒い瞳は何年も前にアウリスの奥に根付いた本能的な恐怖を呼び起こした。

 アウリスは怯えて噛まれている手でぐいぐい男の顔を押し戻した。男はアウリスの剣を持つ手を地面に押しつけたままに、びくともしない。一方でアウリスの指を離した彼は、ギョッとする彼女の頬を撫で、そこにかかる髪を一房掬う。

「髪の毛伸びたね」

 喉の骨格の整い方がわかるような綺麗な声だった。アウリスの耳に残る記憶の声と、嫌になるくらい同じだ。

「長い髪。可愛いね」

 男がそう言って、ぞっとする程柔らかく指に絡める髪にキスした。彼がしゃべったことでアウリスの手は自由になっていた。それでアウリスは彼の頬を平手で打った。驚いたことに当たった。

 男の指を滑り落ちた髪がアウリスの目の周りに散る。アウリスは不気味なものを感じてそれを避けることもなく、クスクス笑いだした男の方を凝視した。

 男はひとしきり笑うと、一転ぞっとするような無表情でアウリスを見下ろす。

「くそ生意気だ。変わってないなあ」

 アウリスは閉口した。これである。気紛れな猫を発情期に捕まえて、それを十倍増しにしたかのようなもの。次に何をするかわからない。もしも同じに殴ったとして、次は笑い飛ばすより怒り狂うかもしれない。

 そういえば、そういう男だった。

 アウリスはだんだんこの男の不安定さを思い出してくると、逆に少しばかり冷静になった。ここに来た時の覚悟を思い出したのだ。男の行動に対して怒りが湧いてくる。

「……変わってないのはあなたでしょう」

 アウリスは男を叩いた手の熱さを感じながら、声が震えないように気を張った。こんな男にこれ以上なめられたくなかった。

「これで、おあいこにしませんか」

「おあいこ?」

「わたしはあなたと話がしたかったんです。争いに来たんじゃありません。あなただってそうでしょう」

「そう?」

「争いたいわけじゃ、ないでしょう」

 仮にそういうつもりならばチャンスはいくらでもあったはずだ。

「一度離れて」

 アウリスは男の肩を押そうとしたが、逆にその手を掴まれてしまった。

「近くで」

「っ、へ、はっ?」

「近くで見る君は可愛くていい匂い。俺はいつも考えてたよ。もうずっと長いこと、どんなだろうって考えてた。触ったら柔らかいかなとかあの子はどんな匂いがしたんだっけなとか君が目の前で笑ったらどんなに可愛いかなとか」

 男がにっこり笑った。腐り落ちる寸前の果実みたいに甘ったるい口調に、アウリスは全身くまなく鳥肌が浮かんだ。耐える為に掴まれた方の手で拳を握る。

 アウリスの顔色を変わったのを見て男が目を細めた。

「でも、どんなだろうと思ってたよりずっといい匂いだ。このまま体を斬り裂いて内臓の一つひとつを取りだしたらどれもちっちゃくて可愛いのかな」

 その言葉はアウリスが頑なに保とうとしていた平常心をいとも簡単に砕波した。いや、言葉ではない。彼の瞳を見ていたアウリスには彼の本気が伝わったのだ。 

 身が総毛だつ。

 一気に蒼褪めるアウリスだが、異常はそこで終わらなかった。アウリスの顔を覗いた男が、次の瞬間、彼女の薄く開いた唇をべろりと舌で舐めたのだ。

「君、息が止まってる」

「‘%^“‘$*!?」

 一瞬、頭と体が凍った。

 アウリスは人ではない悲鳴を上げながら男からずり下がっていた。立ち上がり、手の中の剣を突きつける。

 たぶん今一瞬山猫になっていた。人間とは思えない体捌きになっていた。

 どくどく心臓の鳴る音を聞きながらアウリスは男の方を睨む。恐怖で体が熱い。一方で、男は地面に座ってカラカラと笑っている。

「あはは、ごめんね。君は怖がるととてもいい匂いがするから。もっと嗅ぎたくなって」

 へ、へんたいだ! 

 アウリスは正しい偏見を一層深めた。彼女の表情の変化を察してか、男は笑いを引っ込めて、真顔でアウリスの方を見た。

「冗談だよ。まさか君にそんなひどいことしないよ。君は子供のときからの俺の婚約者だからね」

「違います」

「なにが?」

 なにが? って。

 アウリスは恐怖に裏打ちされた嫌悪感に震える。

 剣を握る両手がぶるつくのを堪える。そうしていると少しずつだが、形勢逆転した図式のお蔭か、落ち着きが戻ってくる。逆転しているのは表面上だけのような気もするが、武器があるのはこちらで、切っ先を向けられているのはあちらだ。それがあってか、男も下手に動かず、アウリスが言葉を探す間を待ってくれているようだった。

 アウリスは頭を振り、剣を下ろした。

「わたしが動揺するようなことをわざとしないでください。そんなことをされると、わたしは傷つく」

 男は表情こそ崩さなかったが、からかうような雰囲気だけを取り払い、アウリスを注視した。

 アウリスも真面目に見返す。話し合いなんて、剣を向けながら言う事ではなかった。じぶんの方にもこの再会を掻き回した要因はあった。

 そこは反省する。

 ただし、信用はしないので、剣は抜き晒したままに地面に刺しておくことにした。

 アウリスがあいた手で手近な枝を拾うと男が首を捻った。

「剣を刺すの、行儀悪いよ」

「わたしは騎士ではありませんから」

 彼だって、本当は違うのだろう。騎士は貴族しかなれないのだ。傭兵とは違って身元調査やら段取りの書類やら修得過程が手堅い。飯炊き係が皿を積み上げるようにこの世の罪という罪を重ねてきた彼が、どうやって騎士として暮らしていたのか。それはアウリスが聞きたいと思っている一つであった。

「何してるの」

「きょ、境界線」

 言葉に出すと安っぽい。けれど、アウリスはわりと気持ちに左右される類の人間だと自覚しているので、彼女は枝でがりがりと地面の線を書き終えた。

 ここからこっちには入るなとアウリスが言うと、男は素直にうなずいた。

 これでよし、とアウリスは仁王立ちになる。

「今更かもしれませんが、一つ確認します。あの、わたしたちは会ったことがありますよね? 何年か前に、ジークリンデ領にある黒炭の育成所で会いました」

 男が立ちあがり境界線に立った。嫌になるくらい背が高い。この距離だと思いきりアウリスを見下す視線になる。

「もちろん覚えてるよ」

「やっぱり」

「でも君が忘れてるかと思ってた。君はあの頃とてもちっちゃかったからね。でも、ずっと覚えててくれたんだ」

 心底嬉しそうな口調で男は言うが……、誰が忘れられると言うのだろうか。目の前でばっさばっさ人を殺された記憶は幾度アウリスを悪夢で魘らせたことか。

 仮に、目の前の男が七年前の男と同一人物ではなかったとしてもアウリスの今の目的には関係なかったのだろう。男の素性を特に知りたいともアウリスは思っていなかった。どうせ、過去の極悪非道が一目見て分かるような目をしている。正直あまり聞きたくない。

「わたしはあなたと取引がしたい」

 だから、この男の素性について知りたいのは一つだけ。

「そのために来ました。あなたの名前は?」

「好きに呼んだら」

「はい?」

「好きに呼べばいいよ」

 その言葉にもだが、男が唐突に背を向けたので、アウリスは面食らった。

「待ってください。どこ行くんですか」

「ん? 君に贈り物があるの。ちょっと待ってね」

 ゾッとした。

 そのときに頭に浮かんだのは、あの大きな木に吊るされていた女騎士の姿だった。無残な遺体。

 けれど、それはアウリスの杞憂に終わった。

「好きに名前つけていいよ。俺はもうすぐ君のものだし」

「はい?」

「そうなんでしょ? 君は言ったじゃない。取引だって」

 男は自分が木を降りたあたりで跪き、ごそごそとしていた。なんとなく彼が何をしているのかわかって、アウリスはひとまずホッと胸を撫で下ろした。

「……あなたは、取引で得たい物がもう決まってるってこと?」

「君は取引で俺の何がほしいの?」

 取引を言いだしたのは今なので、男が彼自身が欲しい物をもう決めた、というのは少々胡散臭かった。けれど彼に嘘を言っているような様子はなく、また、動揺しているようでもない。

 警戒しながらアウリスは腕を組んだ。

「先に断わっておきます。わたし側の願いを叶えてくれたら、わたしも、何でもひとつ、あなたの願いを叶えてあげます。わたしが出来ることなら何でもします」

「何でも?」

 ため息を吐くように微かに笑った。

「あんまりさらっと、そういうことは言っちゃだめだよ」

「何でもします」

 男が興味を惹かれたようにアウリスの方を振り返った。

「そのかわり、七課の人間をどうこうするのは無しです。許しません」

 七課を巻き添えにしたら、本末転倒である。

 アウリス側には条件が三つあった。それらはどれも、アウリスと今の七課の面子……、肉だんごとアルヴィーンと力を合わせても、叶えられない。相手の願いを叶えると言ったのは、それ以外にじぶんに取引材料がないからだ。自分が出来ることと言っても大分限られている気がするが、他に特に何も持ってないのである。お金もないし、地位もないし、指名手配中だし。

 男は先程ちらりと欲しい物の端末を教えてくれたようだが、アウリスにはよく解らなかった。とんでもない事だったら全力でばっくれる。どうにかして逃げる。それはそのとき考えるしかない。

 今は目の前の現状を打開することの方が大事だ。

 予想はついていたが、男が土を踏み鳴らしながら歩いてきて、拾ったらしい大量の飴を両手いっぱいに見せてきた。彼が言った「贈り物」だ。

「あげる」

 そう言った口調は優しげなのに、その瞬間にアウリスの頭に浮かんだのはメーテルの死に顔だった。紫色になってしまった、硬い唇。そこに入れてあった、赤い、飴。

 彼は、それを差し出してきたのだ。優しげに笑いながら。

 一瞬、地面がぐらつくような恐怖が身を包んだ。

 知らずとアウリスの手が拳を握る。アウリスは目を伏せて、ゆっくりと首を横に振った。

 ――得体が知れない。

 今まで出会ったことがない、どの本にも載ってない、そんな怪物を前にしているかのようだった。

「……知ってるかもだけど」

「ん?」

「わたしの名前はアウリスです」

 目を伏せたまま、アウリスは静かに名乗った。男は自分の両手を開いて飴を地面にぼとぼとと落とした。追うように彼自身は膝をついて手を伸ばすと、人差し指で飴のひとつをくるくると転がして遊んだ。

「アウリス」

 男が笑った。

「アウリス。……ああ、そっか……君の名前を呼ぶのは初めてだね」

 アウリスは狼狽を剣の柄を握ることで堪えた。

 そして、前触れもなく、どすんとその場にあぐらをかいた。

「わたしは取引をしたくて来ました。あなたに頼みたいことがあるんです。だから」

 喉が慄く。

 このとき初めて、恐怖以外の何かがアウリスの喉をせり上がった。ずっと必死に堪えていた感情。それは恐怖だけではなかった。

「だから、……あなたがしたことに」

 感情を押し殺す為に声が震えた。

「何も言えない、けれど……」

 自分は何をしようとしているのだろうか。

 頭の隅で再び自身を疑う声が聞こえた。それはアウリスが一晩中戦い続けていた声で、けれど、アウリスはそれを黙らせた。心は決まっていたからだ。

 アウリスは剣から手を放した。柄を握っていた指は気づくとガチガチに強張っていた。

 その手と、もうひとつの手を土の上に重ねると、アウリスは頭を下げた。

 男は何も言わなかった。ただ、アウリスの様子に彼の眼差しがガラリと変わったのを感じた。

 思わずアウリスはぶるりと震える。今自分に注がれるのは多分、対象への一切の興味を放棄した眼差しなのだった。目の前で土下座したアウリスを人だと思っていない。いや、アウリスの存在すら見えていない。あからさまに人をゴミか何かのように一瞥したその視線に、アウリスの身は戦慄く。それとも、これがこの男の本性なのだろうか。

 こうして、この男を見つけて取引をしようと思い立ってから、アウリスは様々な感傷を脇へ置くという覚悟をした。そんな中、どうにも表に出てしまうのはどうやら、酷い目に遭わないかなといった恐怖や、成功するかどうかという不安や、諸々の嫌悪感や、そういったものではない。

 怒りだった。 

 相手への怒りに今、全身の血が煮立つ思いがする。

 そんなじぶんに、アウリスは少し、驚かされていた。





 裏路地を辿っていくと、看板も何もさげていない中、一目で他の建物より上等だと解るような立派な佇まいが見えてくる。表の方では、何か楽しげなクスクス笑いが聞こえている。数えきれないくらい外窓があり、そのどれもが昼間だというのに橙色の明かりに満ちている。ロウソクが贅沢に焚かれているのだ。

 アウリスと肉だんごはアルヴィーンの腕をそれぞれの肩の方へ回し、引きずりながら、やっとのことで裏戸についた。そこでは既に、男が短刀の先っぽで鍵穴をほじっている。

「って、何をしているんですか、名無し!」

「んー?」

「中から鍵がかかってんのか? 声をかけた方がよくない?」

 肉だんごが心配そうに続ける。それに名無しは赤毛を揺らし、のんびりと首を傾げた。

「でもいつもこうやって入ってるよ。だいじょうぶ」

「ほ、ほんとうに?」

 はなはだ怪しい。というか、不審者だと思われ騒ぎを起こされたら、今のアウリスたちは痛い。何しろ、世間の目には留まれない罪人なのだ。

 アウリスはハラハラしていたが、そんな彼女の心配を杞憂だと言わんばかりに間もなく鍵穴が音もなく回った。名無しが表情を変えずに短刀を指のあいまに一回転させながら腰の方へしまう。

「ちょっと!」

 思わず声をかけるが遅かった。名無しが開いた扉からは夏の陽射しに負けないようなロウソクの暖かい明かりが満ちており、思わずアウリスは顔を覗かせる。

 裏戸の奥は人間二人が通れる幅の通路になっていた。突き当りで左右に角が曲がっており、そこを忙しく行き来する、若い女たちの姿が見える。

 床は板張りだ。一転して、壁と天井は雨上がりの土の地面を思い出すような色で統一されており、ちらほらと木戸が見える。

「開けごま」

 名無しがそう言って笑った。おしろいと花の噎せ返るような匂いなどちっとも気にならないかのような、清々しい笑顔だ。香りがきつ過ぎて、アウリスとしては花の香り、どころか花臭い。

 名無しがいきなり二腕を広げて「アウリスおいで」と言った。アウリスは胡乱とした目になった。アルヴィーンを担いでいるのに行けない。アルヴィーンを担いでなくても、世界が滅亡しかけていても行かない。

 膠着状態のアウリスと名無しの間に割り入るように、肉だんごの正論が響いた。

「つか、館の主を知ってるんだろ? 早く行って話をつけようよ。アルヴィーンを寝床につけてやりたいし」

「そうですね」

「アルヴィーン? だれソレ」

 だから、何度も同じことを聞くな。アウリスはその質問をわざと流した。

「名無し、先に立って案内してください」

「アウリス。こっちにおいでよ」

「あなたは先に立って案内してください」

 短い口論の末、名無しが悲壮感を纏いながら歩きだすと、アウリスと肉だんごはそれに続いた。

 通路には一定の距離に三つ首のロウソク立てが張り出ている。明かりに混じり煌びやかな香りが漂っている感じがして、なんとなく目線を向けていると、肉だんごが「おい」、と声をかけてきた。意識の無いアルヴィーンが真ん中にいるので、内緒話とは言えない音量だ。

「あのさ、本当に大丈夫なのか?」

「うん?」

「前歩いてる奴のことだよ。なんか色々違うけど、ほんとうに十二師団の騎士なのか?」

 今更ながらに肉だんごが聞く。ずっと気にかかってはいたのだろう。けれど、アルヴィーンが助かると聞いて、証拠を見せられ、それを優先していた。

「わたしたちと戦った騎士ですよ。なんか変装しているみたい」

 アウリスは嘘ではないことを告げる。嘘ではない。騎士の姿の方が変装なのは。

「それって、俺たちを助ける為に変装してるってこと?」

「そうなりますね」

 肉だんごが腑に落ちない風に唸る。腑に落ちないことは五万とあるはずだ。

「なんで助けてくれることになったんだ?」

「アウリスと結婚するからだよ」

「えっ」

「まあ、そういうことで……っは!? ち、違います!」

 というか、いつの間にじぶんたちの元に来ていた。足音くらいさせてほしい。アウリスは思わず、肉だんごの糾弾の手をいかにして逸らすかという難しい考え事を中断し、素面で名無しの方を睨んだ。びっくりした。そういう発言は本当にやめてほしい。

 アウリスのざわめく胸内を知る由もなく、肉だんごが何やら考え込む。

「そっか、一目惚れか。じゃあ仕方がないな」

 いいのか、それで。肉だんごは何やらもじもじしている。

「まあ、人を好きになるとそんなもんだもんな!」

 忘れていた。肉だんごは最近、恋愛至上主義になっているのだった。

 アウリスは思わずため息をつく。何か言い返そうと思ったが、その恋愛主義にここは救われた形でもあるからだ。そんな二人の様子を、名無しはにこにこと見ている。何を他人みたく顔で笑っているのか。アウリスは彼のどうにも凄惨な過去と現在を隠し通す為に四苦八苦しているのではないか!

 無性に叫びだしたいような気持ちがむくむく膨らむのを無表情の裏に詰め込んで歩くアウリスに、肉だんごが、でもな、と続ける。

「今回のことは、解毒剤をくれたし信用する」

 その言葉がアウリスの心臓を冷やす。表面的な苛立ちから一転して、腹の奥から湧き上がるような冷たい怒りにアウリスは黙り込んでいた。そんなアウリスの様子を、さも愉快げに名無しが一瞥する。

 ずっと昔、猫じゃらしは毒と解毒剤はセットにして持ち歩くとアウリスに教えてくれた。だからこそ、もしかして、という考えが頭に掠めなかったわけではない。だって、名無しは言った。アウリスがじぶんを頼るのを待っていた、と。

 だけど、そこを考えてしまうと、今以上に名無しが許せなくなる。もしかすると、感情のままに、彼に頼りにする力ごと、彼を跳ねつけてしまうかもしれない。

 何より、そんな怖ろしい程の憎しみをアウリスは誰かに向けたことがない。それが怖い。

 どの角度から見ても、名無しの協力は、アルヴィーンを助けたいし、猫じゃらしを助けたいので不可欠だと思う。思う分、感傷的な部分は今は横に置いておく……というようなことを、いちおう、じぶんに言い聞かせてはいる。

 アウリスが考え込む傍らで、肉だんごは続けていた。だけど、まるきり信用したわけじゃないっていうか、とアウリスも同感なことを言っている。

「その、……アウリスへの気持ち? みたいなものもさ、わかるんだけど。心配なんだ」

「……はい」

「今はバタバタしてるけどさ。ここで一段落ついたら、しっかり話を聞かせてもらう」

 肉だんごが真剣な目で言ったとき、ふいに突き当りの角を曲がり、一人の小姓が現れた。小姓だと思ったのは、ジークリンデの屋敷にいた小間使い達と似たような服を着ているからだ。脇の下でパツンと切られた半袖と、捩じった紐により丈を調整された緩い型のズボンを纏っている。

 誰が反応する間もなく、その少女はアウリスたちを見て悲鳴を上げた。

「あ、ぁあああアル様!」

 え、とアウリスたちが聞き返す間もなく、少女は駆け寄り、覗き込んだ。アウリスでも、肉だんごでも、何か説明しようと前に踏みだした名無しでもなく、半ば足首を床に引きずっている、意識のない体をだ。

 少女がおろおろとアルヴィーンの顔を両手で持ち上げる。アウリスはギョッとする。

「待って、動かさないでください」

 解毒剤を使用した直後から眠っているのだ。薬そのものにそういった副作用があるらしく、起こさない方がいい、と予め名無しに胡散臭い説明をされ済みである。それで出来るだけ注意を払い、最上級のなめらかさでズルズルしてきたというのに。

 しかし、アウリスの注意の声は届かなかった。少女は魂ぎるような悲鳴を上げ、通路の奥へ矢のごとく駆けていく。今しがた彼女自身が現れた方角だ。

 その声に、始終閉ざされていた琥珀色の瞳が開く。

「あ、アルヴィーン……」

「えっ、起きたのか!?」

 慌ててアウリスと肉だんごが両側から覗く。アルヴィーンはじぶんの目線を上げ、今は角を曲がって見えなくなった姿を目で追うような素振りをした。

「……、めろ」

「えっ」

「止めろ、教えるな」

 アルヴィーンからすうっと息が漏れ、続いて頭が落ちる。糸の切れた人形と怖ろしい程に同じ動きであった。

「あ、アルヴィーン!」

「何だ、寝言かあ」

 真っ青になるアウリスと、とぼけた顔の肉だんごに挟まれ、アルヴィーンは既に声が届かないところに行っていた。名無しが無駄に艶っぽく唇を舐める。

「市営娼館に知り合いがいるなんて、おませさんだねえ」

 アウリスは息を呑んだ。

 アウリスもまさか、とは思っていた。名無しから隠れ家に市営娼館を提案されたときに一度は考えた。だけど、王都には指折りに出来ない数のそういった場所があると聞き、じゃあ大丈夫かな、と何が大丈夫なのかも漠然としたままで安心してしまったのである。

 だけど、ここなのだろうか。アウリスは名前を忘れたけれど、そのひとが、まさかアルヴィーンが番があったひとがここに……!

 どんな顔をしようかと悩む暇はアウリスにはなかった。

 忙しい足音と共に、五、六人の集団が角を曲がってきた。先頭は先程の少女だ。その彼女に手を引かれ、血相を変えて飛んできたのは、とんでもなく美しい女であった。

 戦慄が髪の先まで走る。アウリスは図らずと身を固くした。相手はびっくりする程の美女だったが、何より、その姿にメーテルを思い出したからだ。女は、ジークリンデの黒い森深くで眺めた、夕焼けの色を思い出すような、鮮やかな亜麻色の髪の持ち主だったのだ。

 女は小姓と同じような悲鳴を上げた。きゃあ、ではなく、ぎょあ。ちなみに、両者とも見た目は線の細い姫君属性である。

 女は重ね着の胸元と太ももが肌蹴けるのを気に留めず、棒立ちになるアウリスたちの元へ一直線に駆けてくると。

「死ぬならわたしより三秒後に死ねアァァァ!」

 アルヴィーンの顔面に飛び蹴りした。


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