12.
ラーナの姿がなくなった路地で肉だんごがアウリスに近づいた。手には濡らした布がある。
「だいじょうぶ?」
「え? あ、うん」
ひんやりした布の角がアウリスの切れた唇に触れる。アウリスは小さく笑った。なんとなく照れくさい。傷口はたいしたことないのに、どうしてか水が沁みる。
「ラーナの手はだいじょうぶかな。利き腕だったみたいなのに」
「当人がしたくてしたことだろう」
アルヴィーンがアウリスの呟きに返し、大きな動作で膝を立てた。
「で? どうするんだ、アウリス」
アウリスはアルヴィーンの方を見る。アルヴィーンはまだ地べたに座っていた。傍らには外套が敷かれ、手入れをされた長剣が彼の肩に立てかかっている。見るからに戦闘準備万端と言わんばかりだ。
アウリスは肉だんごの手から受け取った布を握った。
「わたしは猫じゃらしを助けに行きたいと思う」
「うん、俺もそう思う」
肉だんごが間髪入れずにうなずくのでアウリスは目をしばたかせた。少しばかり意表を突かれたのだ。反対されると思っていたのではない。そう言ってくれると思っていた。だけど、もう少し悩んでもいいところである。アウリスは今、ラーナの必死の懇願を突っぱねて、じぶんたちにとって最も危険の多い王都に留まろうとみんなに言ったのだ。
「何だよ」
アウリスが変な顔をするのに肉だんごが眉をしかめた。
「俺だって猫じゃらしが心配だよ」
「うん……」
アウリスは何となく俯く。
ラーナと話をするまで、アウリスは様々な展開に流されてばかりだった。問題が起こり、離れ離れになったからにはセツと合流しようと思っていたが、それだけだ。だけど、考えなければならない。その先どうするのか。どうしたいのか。
アウリスはおもむろに胸当てに手を突っ込んだ。肉だんごが両手で素早く目を覆う。
「何してるんですか。さっきもらった地図です」
「お、おまえ達なあ! 一言先に言えよ! 女の子だろ!」
一言何をどう言えというのか。叫ぶ肉だんごを聞き流しながら、地図を開く。ラーナが言ったとおりに幾つか赤い線が引かれていて、それを指で辿っていくと、ひとつがススキ野原の裏をとおっている。
「セツ先輩との集合場所に行きましょう。そのままこの撤退路に入る」
「撤退路? やっぱり撤退路を行くのか?」
肉だんごの言葉に壁際に座るアルヴィーンが続いた。
「俺もそれが最善かと。ラーナは騎士団に見つからない道順を選んできたはずだ。最終的に王都に留まるにしろ、逃げるにしろ、撤退路は使える」
「わたしもそう思う」
アウリスはアルヴィーンが賛成してくれて訳なく嬉しくなった。意気込んで振り向くと、アルヴィーンは何故かアウリスが戸惑うような間を置いた。
「アウリス。悪いが、俺は協力しかねる」
「えっ何で?」
絶句したアウリスに代わり、肉だんごが聞き返す。
「俺は引き続き裏師団と行く。俺とラーナは二手に別れていた。俺の部隊が直にここを通るので、合流する」
言いながら、アルヴィーンが片手を翳した。手の一振りで外套を敷く上に並んだものを示す。
「短刀が五本、矢が四本。すぐ使えるよう手入れしておいた。持っていけ」
「えっ、でも?」
「俺は合流後に補充が利く。弓もないなら持っていけ」
アルヴィーンはそう言って肉だんごを見た。次いでアウリスの方を見る。
アウリスは黙り込んでいた。嫌だった。アルヴィーンと離れるのは嫌だ。その気持ちが表に出たのか、アウリスを見ていた琥珀色の瞳がふと細められた。その威力は反則であった。なまじ普段使われることがない表情筋だから、ほんのちょっと動かしただけで多大な衝撃を生むのだ。アウリスが思わず出かけた言葉を呑みこんでしまうと、アルヴィーンは一瞬で笑みを消す。そうして何事もなかったかに続けた。
「先程の乱闘を見る限り、国家騎士団は毒矢を使っている可能性がある。おまえたちも、気をつけろ」
肉だんごとアウリスは顔を見合わせる。先に動いたのは肉だんごだった。首を捻りつつも、アルヴィーンの方へ進む。その彼に目で促され、仕方なくアウリスもアルヴィーンの前に出る。
「本当に一緒に来ないのか? ラーナも先に行っちまったじゃないか。おまえは俺たちと来ると思ってたんじゃないか?」
「さあ。俺とラーナは元々別行動だ」
「そっかあ……」
肉だんごが仕方なさそうにため息をつく。彼と一緒に跪きながら、アウリスはおずおずアルヴィーンを見る。
アルヴィーンは裏師団で、奇襲や諜報戦に長けている。そんな彼が一緒にきてくれればどんなに心強いかとアウリスも思っていた。いや、そんな理屈なんか抜きにしたってよかった。ただ一緒にいてくれたらよかった。だけど、アルヴィーンにはアルヴィーンのするべきことがある。ここでぐずるのはお門違いだった。それは甘えでしかない。
「すげえな、こんな短時間でよくこれだけの数研いだよな!」
「短時間じゃない。ラーナが煩いので貴重な時間をむだにした」
「おまえなあ。そういう言い方はないだろ。そういえばそういう奴だったよなあ」
肉だんごが呆れた声で言い、アルヴィーンが「ああ」と空返事する。アウリスの迷いを嗅ぎつけているみたいにアルヴィーンは彼女だけ見ている。その眼差しは鋭かった。感情をごっそり削ぎ落とした、眼光だけの石みたいに冷たい目だ。アウリスはすっかり気迫負けして先に目を逸らした。やっぱり、一緒に来て、とは言えない。
思わず短刀を腰に差す手元がぐずぐずする。仕方なく外套の上に並ぶのをもう一つ取ろうとして、アウリスはふと違和感を覚えた。
はじめは夏の暑さのせいかと思った。アウリスは伏せていた目線を少しだけ上げて、短刀を拾うときに見えたアルヴィーンの襟ぐりを見る。やや窮屈に第一ボタンまで留められている。ふつうそんな風に着ない。それだけでも違和感があるが、ほんの僅か覗く肌がやけに湿っている。顎の裏側から首筋にかけて、一筋、二筋と汗が伝っていく。アウリスは首を傾げた。
「アルヴィーン、体調悪いの?」
聞いた後で頭の中に閃光が走った。そうだ。さっきアルヴィーンが言った言葉を思い返す。
「……毒?」
「ええっ?」
矢に毒が、とアルヴィーンは言ったのだ。アウリスはさあっと蒼褪め、アルヴィーンを見た。肉だんごも声を上げてアルヴィーンを見た。アルヴィーンは注目されて微かに眉をひそめた。そうして首を横に振る。まるで説得力ない。
アウリスは茫然とした。裏師団は嘘。合流は嘘だったのだ。負傷しているから一緒に来ないつもりだった。
「あ、アルヴィーン……」
アウリスは手を伸べようとするが、先にアルヴィーンがその手首を掴む。アウリスはギョッとする。凄い熱い。と同時に、物凄く酷い力だった。一瞬骨が軋むのが聞こえたと思ったくらい強く、思わず動きが止まったほどだ。や、やっぱり怪我なんかしてないのではないか?
唖然と彼の顔を見ると、アルヴィーンが静かに息を吐いた。
「アウリス、行け」
「い、行けって」
嫌だ。アウリスはぶんぶん首を振る。何か言い返したかったが少しばかりアルヴィーンの剣幕に怖気づいていたのである。だが、退く気はさらさらない。負けじと睨むと、アルヴィーンが早々に痺れを切らした息をつく。
と、前触れもなくアルヴィーンは長剣を握り、その切っ先を自身の腹に添えた。アウリスはびっくりして動きを止めた。表情筋が退化したような氷の顔つきで、アルヴィーンがアウリスを見る。
「行け。ぐずぐずしていると傷口を開く」
な、何を言っているのだ。アウリスはゾッとする。息を呑む間もなくアルヴィーンが前かがみの体を壁にもたれ、見せつけるように剣を握る腕を開く。
「やらないと思うか」
「こ、こここの頑固者!」
思わず感じたままを言ったがアルヴィーンは怯まない。ひたりと見据えられ、アウリスは拳で口元を覆う。
「あ、アルヴィーン……」
「おまえたちは手ぬるい。よく考えろ。国家騎士団は負傷者を背負いながら勝てる相手か。どう見積もっても、二手に別れる方が互いに生存率が上がる」
言いながら、切っ先が服を巻き込むように動く。アウリスはどうすればいいのか解らなくなって固まる。そうして膠着状態になりかけたところで、逆側に来た肉だんごがべろりとアルヴィーンの服を剥いだ。衣擦れの音をさせて、ズボンを履く腹から襟にかけてである。
「どれどれ」
「――っ」
アルヴィーンの目が僅かに見開く。あまりのことにアウリスは呼吸まで止まってしまった。普段ならば妙な恥ずかしさに目線の一つも逸らすものだが、今そこには布が巻かれている。黒い、分厚い布。多分誰かのシャツだ。色が濃いのに傍目に見てもわかるくらい血塗れになっている。
アウリスは大きく悲鳴を上げた。肉だんごも悲鳴を上げた。アルヴィーンが服をきちんと直しつつ、不機嫌そうにうるさい、と言い、その彼をアウリスたちは散々罵倒しながら手当した。
そういった経過を経て、三人は出発した。主に路地を選び、人気のないのを確認しつつ、昨日見たススキ野原に辿り着く。
道中はみんな機嫌が悪かった。アルヴィーンの怪我は彼が「かすり傷だ」と言ったとおりで深くはないが、出血が多かった。今はもう血は止まっている。だが、やはり心配なのは毒だ。今のところ、意識ははっきりしているし、体の痛みも感じられているらしい。調子も寧ろ良いと言ってよく、途中で騎士の二人組に出会ったときは誰より早く動いていた。
一発で相手を失神させた的確な剣を腰にしまいながら、時々痺れる、とアルヴィーンは文句を言っていた。肉だんごはそんなアルヴィーンを無視した。彼はアルヴィーンが嘘をついてじぶんたちを先に行かせようとしたことを責めているのだ。一方のアルヴィーンは、二人が彼の言う事を聞かなかったことを路地で責めたのを最後にそれ以降黙り込んでいる。アウリスもずっとだんまりしていた。そうして重苦しい沈黙を漂わせつつ、なんとか集合地点の林に着いた。
アルヴィーンはセツが馬でくるだろうと予見していた。頭の上が朱色から紺色に変わり、夕日の残滓を残しながら肌寒い風が吹き始めた頃になり、蹄の音が聞こえた。ゆっくり歩かせている。一頭ではない。アウリスは木々の枝間に身を乗り出した。七年以上一緒にいるが、これほどセツの姿が見えて嬉しかったことはなかった。
「セツ先輩!」
「セツうううう!」
地上からも見えたらしく、肉だんごが跳ねていく。アウリスも木枝を揺すって一跳びで飛び降りた。若葉が頬を撫でていく。セツは肉だんごに抱きつかれてもがいていたが、ふと遠くを見た。その両手には一つずつ手綱が握られている。二頭とも見事な青毛だ。
「あ、あの木の根元にいるのはアルヴィーン様では?」
「そうそう、あいつも来てたんだ」
「し、しかしあれ、負傷されているのではないか? 脇腹に矢が掠り毒が回っているのでは?」
アウリスは感心するよりギョッとした。なぜそこまでわかるのだ。肉だんごが未知のものを見る目でセツを見る。
「す、すげえな、相変わらず」
セツがそれを聞いてふんと鼻で笑った。
「愛の成す技だ」
アウリスは真っ青になった。セツがその様子を見てもう一度唇を歪め、ふんと笑う。
アウリスは大きく落ち込んで肩を落とした。な、なんという敗北感。じぶんだってじぶんが嫌だ。なぜすぐ気づかなかったんだろうと道中ずっとじぶんを責めていた。だいたい、アルヴィーンはずっと座っていた。あれだって体調が悪かったからだ。なぜ気づかない。なぜセツみたいなアルヴィーン限定の千里眼がじぶんにはないのだ……。
アウリスは答えが知りたくて今一番見たくないはずのセツの顔を見る。するとセツが腕組みをした。
「愛が足りんのだ」
一瞬冗談でなく目の前が真っ白くなった。打撃が足に来る。そのまま復帰不可能になりかけたところで肉だんごが慌てて間に入った。
「うわはあ! ま、まあまあ二人とも! みんな無事でよかったじゃないか!」
「のけ。アルヴィーン様に挨拶に行くのだ」
セツが肉だんごを押しのける手前に影が落ちる。アルヴィーンである。足音もなく忍び寄られて、セツだけでなくアウリスもど肝を抜かれた。裏師団絶好調である。とても体調が悪いとは思えない。
「あ、アルヴィーン様」
「セツ、来てたんだな」
その言葉のどこに感動する要素があったのか、じわりとセツの目が潤む。
「はい、一人になって心細くて死にそうでしたが、なんとか、なんとか持ちこたえました……っ」
アルヴィーンがそれを聞いて馬の方へ手を伸べる。馬がくしゃみする。
「二頭も連れているのか」
「はい!」
「流石だな」
心なし穏やかにした口調で言われて、セツが虚を突かれたように目を丸くし、次いで嬉しそうに笑む。
アウリスは何も言えずに立っていた。一人で、心細かった。そのセツの言葉が胸に響き、おかしな事にこちらの目頭まで熱くなる。思わずセツの肩をがっちり掴むと、セツが胡乱とした目つきでアウリスを見る。もう一つの肩を肉だんごががっちり掴む。
「セツ先輩」
「セツ、俺はおまえの顔が見れて嬉しかったのはこれが初めてだよ」
「な、なんなのだ気持ち悪い、邪魔だ退け、俺はアルヴィーン様にもっと褒めてもらうのだ!」
「おまえが言ってる事の方がすげえ気持ち悪いよ」
二人でしみじみとセツに抱きつくと、セツが暑い、と文句を言った。三人の様子を眺めていたアルヴィーンがふと視線を外す。
「それで、アウリス。今後の計画を話し合ったろう」
アウリスはその言葉に我に返った。じぶんの二腕を絡めるセツの腕を見る。それからセツの顔を見ると、怪訝と首を傾げられる。
「セツ先輩。あのう、アルヴィーンとは別行動をとってもらいたいんです」
「な、なんだと!」
アウリスはセツが大胆な幅で仰け反っても動かなかった。話の矛先が変わり、空気が張りつめる。それが感じられたのか、セツが考えるように黙り込み、人差し指で頬を掻いた。
「……まあ。そう言われるとは思っていたがな」
「セツ先輩」
「走るんだろう、グレウ師団長のところまで」
セツの少し長すぎる前髪の奥で目が冷静に光っていた。それを見て、アウリスも気を取り直す。
アウリスはラーナと話したことを含め、現状について解っていることを手短にセツに伝えた。セツは特に驚く素振りもせず、ひたすら真剣に聞いていた。アルヴィーンが地図を取り出してセツに渡すと、それを一緒に見ながら次の集合場所について語る。
「ジークリンデ領? ジークリンデまで行って落ち合うのか?」
「それが最善かと思う」
うなずくアウリスの後ろからアルヴィーンが説明した。
王都での決着がついた後も終わりではない。七課は罪人になったのだ。これからも追われ続ける。王都での決着のつき方にもよるが、ひとまずそれを覚悟しなければならない。そのうえで、今ばらばらになっている、これからばらばらになるみんなが合流する為の落ち合い場所が必要である。
「ジークリンデは国内二番目に広い領地で、山や谷と言った自然のままの地表が多い。人の目を忍ぶのには最適かと」
いわば、今派遣されているデルゼニア領を更に広くしたような場所だ。デルゼニア領内で犯罪が起きやすいのは罪人を抱え込みやすい起伏の多い地形のせいが大きい。
懸念はある。アウリスはアルヴィーンと肉だんごに己の出自を打ち明けた。今回の王都での事件と関係がありそうなところも解る範囲で話している。ジークリンデ領はレオナート=ジークリンデ公爵が生前治めていた地だ。だからこそ、国王の目もそこへ向くかもしれない。
だが、それを承知のうえでジークリンデなのだ。数ある領地の中でも広大、アルヴィーンが言った通りの大田舎で、未開拓のままの地表が多く、人口が面積と比例して極端に少ない。そのうえ、七課の半数はジークリンデ内の施設で育っている。仕事でも派遣で訪れることが多かった領土だ。ジークリンデでは、七課に土地の利がある。
そんなことをアウリスとアルヴィーンが代わりばんこに言うと、セツがふと遠い目をした。
「なるほど。童心に還るようだな」
「セツ先輩……」
「さすがに施設には寄れんが。北東十五度に岩肌の渓谷があったし隠れ家には良さそうではあるがな」
セツが言いながら丁寧に地図をしまう。アウリスは少しばかり表情を和らげた。
「猫じゃらしがセツ先輩と肉だんごを選んだ理由が、わかったような気がします」
「何?」
「セツ先輩は誰より馬を駆けるのが速い。それに、地理に長けている」
セツは目を丸くし、一拍おいてにやりと笑んだ。至極当然と言わんばかりの笑みだ。こんなときなのにいっそ清々しい自己陶酔である。
猫じゃらしが仮に最悪のシナリオとして考えて王都行きの面子を決めていたのならばどんぴしゃだ。これ以上に心強い選抜はなかったと、アウリスは心の底から思う。
ラーナの裏師団は猫じゃらしの為に動く。じぶんたち七課のことはじぶんたち自身で守るのだ。
「セラザーレでのお披露目があってから半日が経っています。もう夕方だけど、行けますか?」
セツがそれを聞いて笑みを深めた。敵ならばこれ以上腹の立つ笑顔はないだろう。
「誰に向かって口を利いている。半日の遅れなど最初の晩で挽回してやるわ」
「おっ、言ったな!」
「ふん、貴様ら駄馬と同じに考えるな」
「だ、だば……?」
肉だんごが目を点にしている間に、しかし、とセツが馬の方を見やる。
「そうなると、二頭とも連れて出た方がいいかもしれん。走り潰すつもりは毛頭ないが、念には念を入れてな」
「同感だ」
セツはアルヴィーンの賛同を受け、馬の方へ手を伸ばした。硬くしなやかな筋肉に覆われる首筋を、手のひらでそっと撫でる。そうしてセツはアルヴィーンを見た。
「では、セツは行って参ります。馬を残していけないのが残念ですが。お体の方、気をつけて」
「こちらもひと段落つけば行く」
「はい!」
アルヴィーンがセツに近寄り、二人は軽く拳を合わせた。
「では、ジークリンデ領で!」
セツはそう言うと、アルヴィーンがうなずくのを待たず唐突に振り返る。
「貴様ら、一度ならず二度までもアルヴィーン様のお体に傷を許してみろ。俺が成敗してくれるぞ!」
「わ、解ってるよ!」
肉だんごが意気込んで返す。アウリスはさすがに返す言葉もなかった。でも、セツに言われるまでもない。アウリスだって、ほんとうはもう二度と怪我なんてしてほしくなかった。アルヴィーンの体の事は今後行動するにおいて一番に考える。
決意を新たにし、拳を握る。そうしながら、アウリスはセツを見た。
「セツ先輩、気をつけて」
「俺は俺なので金輪際だいじょうぶだ。貴様らこそ俺と違って脆弱なのだから気をつけろ」
アウリスは前から思っていたのだが、セツは少しばかり自己評価が過多なのではないか? もう少し用心した方がいいと思うのだが。
しかし、その一方で何の根拠もなく妙な自信が湧いてくるから不思議だ。セツは最後に馬の鼻柱を撫でて「一緒に行ってくれるか?」と囁いた。馬は大きくあくびして、もう一頭はそっぽを向いた。
セツは馬に跨って山を下りた。もう一頭の馬が隣を走る。ラーナがくれた地図の撤退路を行くと夜中までには王都を抜けるはずだ。
葉が擦りあう音と、蹄の高鳴りが遠ざかっていくのを聞きながら、肉だんごが唸る。
「グレウさん、どうするだろう。知らせを聞いたらきっとびっくりするよな。王都に援護しに来ちゃうかもしれない」
セツが爪の先までアルヴィーン派ならば、肉だんごは髪の先までグレウ派である。考え込む肉だんごにアルヴィーンがそっけなく言った。
「それはない。セツはジークリンデに向かえと伝える」
「そうだけど、グレウさんがセツの言う事なんか聞くはずねえしさ」
「集合場所を定めているのを無視して王都に玉砕覚悟で突っ込むことはない。それではただの阿呆だ」
つ、つまりじぶんたちはアルヴィーンから見ると阿呆なのか? 一瞬静まり返った場で肉だんごが仰々しく腕を組む。
「そうだな。ジークリンデ領はちょっと遠いけど、グレウさんたちならきっと辿り着く」
肉だんごがそう言って拳を握る。
「よし。俺たちも頑張ろう。それで、猫じゃらしを連れてジークリンデに帰るんだ!」
拳を開いたもので背中をばん、と叩かれ、アウリスはよろけて肉だんごを見た。続いて髪の毛をくしゃくしゃに撫でられる。その掌を感じながらアウリスは唖然とする。
どんなにしゃんとしたって、本当はざわつく。これからのことを考えなければならないのにじぶんの足らない頭はまだ、現状に追いつくことで精いっぱいで、気ばかりが逸っている。だから、ひとまず出来ることと言ったら、じぶんの不安を周囲に伝染させないことだと思っていた。
アウリスは肉だんごの手を大きく払い、小さく口の中で呟く。それに、なに、と肉だんごが前かがみになったところで、手刀を一発。
「痛! なにすんだよ、アウリス!」
「痛いのはこっちです。墓場からドスッ」
アウリスが肉だんごの腹を指でつつくと、肉だんごがぎゃあ、と言った。体をくの字にして膝をつき、そのまま前にのめりこむ。お、大げさな。
「や、やられたあ! でも土葬だから大丈夫! グサッ」
ふりむいた肉だんごがいつの間にか拾っていた小枝でアウリスの足を突く。ふ、不意打ちだ。アウリスはぎゃあと言って倒れた。肉だんごも何故かぎゃあと言った。柔らかい土の上で若葉が踊る。林の澄んだ香りを吸い、なんとなく揉み合う二人で笑った。
猫じゃらしは悪党だが目だけはいい。セツを選んだのはきっと、彼が誰より馬を駆けるのが速いからだ。肉だんごを選んだ理由はよくわからない。だけど今のアウリスには何者より有難かった。肉だんごがいるとアウリスは強いからだ。
アウリスは肉だんごの上に跨ったままに、彼の顔を見た。肉だんごは既に亀の構えで両腕で頭を隠している。
「肉だんご」
「な、なんだ火葬死体」
「誰が火葬死体ですか。骨しか残らないじゃない」
アウリスはため息をついてから続けた。
「わたしは猫じゃらしが死刑になるのは嫌です。でも、ラファエさまが猫じゃらしを死刑にするのも嫌です。だから、死刑を止めよう」
肉だんごが亀の構えのあいまに少しばかり顔を覗かせた。暗闇にひとつだけ光る青い瞳をアウリスは見つめる。
「そう思っています。……それで」
「それでいいんじゃないか」
肉だんごが両腕の向こうで言った。
「だって、やる事は同じだろ」
アウリスは目を瞬き、それから笑った。肉だんごが両手を伸ばしてアウリスの顔を挟んだ。そうして揉み合っていたら傍に立つアルヴィーンがふらつく。アウリスは遅れて頭上に落ちた影に気づく。咄嗟に立とうとすると、絹のようにすべらかな髪の感触が指のあいまをすり抜けていく。そのまま頭が肩の方まで来るほどに上体を崩され、アウリスは慌ててアルヴィーンの体に腕を回した。
「アルヴィーン……」
「何だアルヴィーン。おまえも混ざりたいのか」
「い、いえ、今の倒れ方は明らかに変でしょう」
「えっ、ほんと? 大丈夫!?」
肉だんごがアルヴィーンの顔を覗く。前髪を掴むようにしながらアルヴィーンは頭を起こし、軽く振った。アウリスは腕の中に感じた体の異常な熱さに咄嗟に反応できないでいた。そんなアウリスの肩に手を乗せ、アルヴィーンが身を離す。
「悪い」
アウリスはふるふる首を振る。肉だんごが立ち上がってアルヴィーンの腕の下へじぶんの腕を回した。
「おまえなあ、セツの前だからってかっこつけるからだよ。ほら、よっかかれ」
「問題ない。少し眩んだ」
「いいから、いいから」
こういうときの肉だんごの体捌きは素晴らしく、巧みに力で押して相手が一人で立てない恰好を作ってしまった。風船型体系の幻が目に浮かぶようである。アウリスは反対側へ急ぎ、アルヴィーンの腕を持ち上げる。アルヴィーンが黙って彼女を見る。
「沢の方へ出ましょう。そこでもう一回傷口を洗う。その後で今夜野宿が出来そうな場所を見つけよう」
「おう」
アウリスはアルヴィーンの腕の重さを肩の方へ回した。そうして見上げると、琥珀色の瞳はまだアウリスの顔を映している。近くで見るほどに透明で、感情が読み取れない。にも関わらず何だか責められているようで、アウリスはそわそわして下を向く。
「……アルヴィーン、あんまり心配しないで」
セツ先輩ほど土地勘が鋭くないけど、ここ一帯の山の地形は頭に叩き込んでますから。アウリスはそうぼそぼそ言うが、アルヴィーンは無視するみたいに返事をしない。アウリスは途方に暮れ、下向けていた目線をおずおずと彼の方へやった。
「アルヴィーン、あの、無理やり連れてきたことまだ怒ってる?」
アルヴィーンが目を細め、いや、と顔を伏せる。
「こうなったからには、三人で行動する上で最善の立ち回り方を考えている」
「そ、そっか。そうだね。た、頼もしいな」
と言いつつ、アウリスも彼に頼ってばかりになるつもりはない。アルヴィーンがここまで不機嫌になるとは思わなかったから少しばかり落ち込んでいるだけだ。
アウリスは気を取り直してアルヴィーンの腕を担いだ。布越しにも酷い体温が伝わる。きっと毒のせいだ。一人でも立ったり歩いたりは出来るかもしれないが、負担は小さければ小さい方がいいと思う。アルヴィーンは頑丈だけど当然ながら機械ではない。体調が今後変化するかもしれないし、様子に気をつけておかなければ。アルヴィーンはアウリスが守るのだ。
アウリスが前を見て決意を燃やしていると、ふと重たい腕が肩を抱いた。自然とアウリスはアルヴィーンの顔を見る。
「気を詰めるな。俺が志願した」
唐突な言葉の意味が解らずに聞き返すと、アルヴィーンが眠たげに睫毛を上下させた。
「俺はもともと王都行きの仕事から外されていた。志願したが、猫じゃらしは取り合わなかった」
「そうだったんだ。じゃあ、なんで心変わりを?」
どうやら猫じゃらしは鼻からアウリスの願いを無視したわけではなかったようである。アルヴィーンは少し考える間のあとに答えた。
「王都の市営娼館にシンフェという高級娼婦がいる。人気なので順番待ちがある。俺は幸い順番が近かった。そこで、その番を猫じゃらしに譲った」
ね、猫じゃらし……! アウリスは一瞬言葉もなく脱力した。次いで腹が煮えるような怒りが湧く。あ、あの男。次に会ったら一発殴らないと気が済まない。アウリスとの約束事より娼婦との一夜の方が大事とは何事か。
憤慨しながら、しかしアウリスは重大なことに気づいた。思わずアルヴィーンの目を見つめると、アルヴィーンが軽く首を傾げてなんだ、という。なんだも何もない。
そもそも何故アルヴィーンには順番があったのだ? それは他でもなく順番待ちに志願したからである。でないと番なんかない。アウリスは一瞬で忘れたがその女性の名前なんかも知らない。番があったのだ。あ、アルヴィーンには番が……!
「なんだ?」
「いえ。いいえ。なんでもない」
アウリスは悲しくなった。すると連動的にアルヴィーンの腕まで肩からずり落ちかけ、慌てて両手で持ち上げ、担ぎなおす。アウリスの様子を眺めていたアルヴィーンが何も言わずにその腕に力をこめた。体を引き寄せられる。アウリスはむくれた。彼女の沈んだ様子に逆側の肉だんごが「あ! そういえば町で新しいジョークを聞いたんだ! 聞きたい?」と言いだし、からきし明るいその声が木立に渡った。




