9.
翌日は清々しい快晴だった。
新しい王のお披露目はセラザーレという広場で行われることになっている。王都内でも王の居城に近い界隈で、上等なショコラの真四角なのを積み上げた形の城の石積みが見えるくらい近い。国王はあまり王都を歩き回ったりしないのかもしれないとアウリスは思った。だから近場でお披露目が行われるのだろうか。だとすると、地元人が王の顔の見たさに参列するのもうなずける。肉だんごではないが、王がちょろっと顔を見せるだけで大陸全土から人々が押し寄せるという事実がアウリスは今一納得できていなかった。
お披露目そのものは祭りのような娯楽行事ではなく、お料理が出たり屋台が並んだり、舞姫が歌い踊ったりという楽しい催しもないらしい。あの税金で積み上げた贅沢な石城と相反して随分けち臭いことではないか。
しかし、そんな疑念は広場に到着して早くもうち消えた。この日に向けて驚異的な人材と機具が投資されて、広場はすっかり見違えていた。アウリス個人は広場の前の状態を知らないが、既に広場とは呼べない空間になっている。
足元は平たく舗装されて、どこからともなく黒曜石の壇が運び入れられ、その裏手にはどこからともなく運び入れられた国旗が一列に立てられ、空高くはためいている。この国旗群が物凄かった。黒地に金色の獅子を刺繍した国旗は真夏の澄んだ青空によく栄えていた。あんな背丈の高い旗柱を普段どこにしまっているのだろうか。洗濯紐の代わりにしたら七課から十二課までの全員分の洗濯物を一括干し出来そうな長さである。
付近の建物は全て石造りで、その灰色を色紙に複雑な模様が彫られ、見るからに落ちにくそうな塗料で塗りたくられ、美しいのか子供が描いた迷路なのかよくわからない巨大な美術オブジェとなっている。
アウリスたちは日の出る前から広場に居た。チエルとの一件で眠れなかったのが大きいが、結果的にはそれが功を成し、上手な場所取りが出来ていた。二手に別れて、壇から向かって九十度左と、九十度右の建物の三階である。桜見が大好きな猫じゃらしだってここまで上手に場所取りは出来ないだろう。
セツと肉だんごには既に計画を話してあるから、一人行動のセツもどうするか解っている。ギリギリまで工事していたらしく機具や木材が押し込まれて放置されたままの一角にアウリスと肉だんごは留まっていた。はじめは騎士団の時折の巡回から身を隠す為だったが、人が増えてくるとそんなことをする必要もなくなり、手近な窓に移動した。あまり奥にいては式が始まったときに壇の上が見られない。セツは向かい側の建物に籠もっていて、時折窓辺で手を振ったり、落ちるフリをして付近の子供たちを笑わせたりと忙しそうにしていた。
アウリスは人々に押されるようにして窓辺に立ちながら、なぜ急に人が増えたのか考えていた。朝ごはんが終わったからだと思いあたる。思いあたると急におなかがすいて、窓枠に縄を結びつける肉だんごを呼んだ。肉だんごはふりかえり、仕方なさそうに「待て待て」と言う。アウリスは大人しく待つことにしたが、肉だんごは少々手先が不器用なので縄を結びおえるのにたっぷり時間をかけた。
肉だんごが背負っていたふろしきを広げると、朝ごはんの干し肉そぼろのおにぎりと、昼ごはんの柑橘類の焼き菓子が入っていた。長時間暑い外にいて保管が利く料理である。周りの人間が何人か気づいて、肉だんごは温厚な見た目に付け入られ早速握り飯をたかられた。
少し強い風が吹く。それに混じって香水や、人々の雑談の声がしている。アウリスは窓辺に腰下ろして国旗が揺れるのを眺めた。
宿で包んでもらったおにぎりは茶葉に包んでもらったせいか少しばかり苦かった。結局、肉だんごの膝元にはおにぎりと焼き菓子が二つずつ残った。肉だんごはそれにひどく落ち込んだ。一体どんな量で持ってきていたのかと、先程の人ごみを思って不思議になる。
アウリスは仕方なく自分用に三つ取っていたおにぎりの一つを肉だんごにあげた。肉だんごがあまりに悲しそうにしているからもあるが、アウリスは珍しくあまり食欲がなかった。
そうしている間にも人だかりは増え、アウリスたちのいる建物はどんどん窮屈になってきた。アウリスはふろしきを背負いなおした肉だんごに手を引かれて彼の背後に回され、壁のような背中と窓に挟まれて窓の方を向いた。顔だけを逸らすようにしながら下の広場を見下ろす。人だかりは見境なく大きくなっていて、その様子にアウリスはジークリンデの牧場で子供の頃に見たギチギチの豚小屋を思い出した。あまりに無粋な発想だったと反省している。向かいの建物に目を向けると、何人かが窓枠によじ登ったり、腰かけたりしている。セツは一番右端で壁にもたれ、黄昏ている。夏日和なので、彼の黒くて分厚い外套はとてもよく目立つ。
幸いだったのは、途中で見かねた国家騎士団がこれ以上の人間が建物に入ることを禁じたことである。お蔭で息を吸う空間は悠々あり、アウリスは人ごみに酔って吐くという真面目に怖れていた惨事を免れた。向かいの建物と比較して腕を振り回せるくらいスカスカな階を見回し、しんどいね、と文句を言うと肉だんごは「俺の子供のときにいた市場ほどじゃないよ」とアウリスを励ました。アウリスは一層不機嫌になった。どうせアウリスは田舎出だ。田舎出なので人口密度が樹の数より多くなると、アウリスはとてもソワソワする。
少しでも空気に当たりたくて外を向き、定位置の窓辺に引いた縄を何気なく撫でていると、誰かがドラムを叩きだした。つられて再び外を見る。壇の左右に木組みで固定された二つのドラムを、軍楽隊が叩いていた。軍楽隊は四人組だった。黒いベストから伸びた二腕の鎖帷子が、水の中を泳ぐ魚のウロコみたいにきらきらと光っている。人々がざわめく方を見れば、まず二つの国旗が黒曜石の壇の角に現れた。それらを翳した二人組の騎士が人ごみを別けていく。双方、黒い鎧と白い布を纏い、頭に黒い兜を被っている。彼らは壇の片側で止まり、後ろに続いていた四列の騎士団は陣形を崩すことなく壇の陰に入っていく。ドラムが止まり、一瞬だけ妙な静けさが落ちた。炎天下で国旗の元に集まった人々を描く、一枚の静画。次いで広場はどっと沸いた。
尋常でない活気に晒されてアウリスもドキドキした。目の前で肉だんごが身を乗り出している背中に手のひらをつき、窓枠に膝を置く。そうして大きく背伸びをするのと、壇上に人が湧くのが同時だった。壇の裏側には階段があったようだ。壇は建物の二階の高さがある。
まず、宮廷人が一人ずつ現れて黒く輝く床の隅から順々に埋めていく。その中に猫じゃらしを見つけてアウリスはあっと声を上げた。興奮の余りに思わず肉だんごの背中の服を掴み、ぶるぶる揺すると、肉だんごが少しだけ振り返る。陽射しで表情は見えず、口が動いたのかもわからなかった。彼がすぐ前へ向き、アウリスも目線を元のところへ戻す。
猫じゃらしは体にゆったりとした幅の濃翠色のローブを羽織っていた。ローブには大きくスリットが入っており袖が揺れると奥の戦闘服が見える。特に意匠もこなしていない、黒地に灰色を裏打ちしたシンプルな半袖のベストとズボンだ。アウリスたちが着るのとまったく同じ師団服である。あまりにいつもと変わりない恰好でアウリスは拍子抜けした。猫じゃらしの銀髪は後ろできつく結ばれ、女人のように美しく結い上げられている。その頭だけが異様に目立っていた。
拍手が急に苛烈さを増す。
アウリスは目を凝らした。
今まさに階段を登りきった、とんでもなく派手な衣装の男の旋毛がアウリスの位置からは見えた。髪の毛はうなじを覆う長さでさっぱり切られていた。それは、芯から滲み出るような漆黒だった。ヴァルトール王国の民にとって異質な色だ。
アウリスは口元を両手で覆い、小さな悲鳴を漏らした。
視野が光を帯び、目頭が激しく痙攣する。熱いものがぼろぼろ頬を伝った。
その異彩を纏う男は、急ぐでもなく、ゆっくりでもない悠々とした歩きで壇上を右に回った。そうしながら、宮廷人一人一人と手を握り、挨拶をしている。彼が纏うウープランドゥは国旗と同じ色で、随所に金糸の模様がほどこされている。背中には精微をこなした金の獅子の刺繍が浮かんでいた。頭には黄金の王冠が乗っていた。陽射しに溶けることがない硬質な輝きを放っている。
男は壇の右端まで行くとゆっくり振り返った。
その姿は誰より凛々しかった。とんでもなく恰好よかった。濃紺色の瞳は煌めき、強い意志を湛えまっすぐの眼差しで前を見ている。暗くて澄んだ、青より青い瞳。目元の印象を引き締める、くっきりした鋭い眉根。
顔のパーツのぜんぶに幼い頃の面影を見つけることができた。
アウリスはラファエさま、ともう一度呼んだ。
すると、ラファエアート王は急に足を止めた。まるでアウリスの呼び声が聞こえたみたいだ。アウリスのいる建物と合わせて壇上とは建物三つ分離れているので冷静に考えればそんなはずもないのだが、アウリスは冷静ではなかった。
上衣が重力のままに落ち着く。ラファエアート王が床に達する程の長さの袖を揺らして両手を翳した。人々のこれ以上大きくならないと思っていた喝采に火がついた。音の豪雨。耳が聞こえない。頃合いを見て同じ袖の片方が水平に滑るように振られ、潮が引くように静けさが沁みていく。壇上の宮廷人たちが恭しく頭を垂れた。
王は訪れた静寂を緩慢に見渡しながら壇の前に進んだ。迷いのない動作で顎を逸らし、遠くまで見渡すようにする。
「我が王都、我が民よ」
この良き日に私の為に集まってくれてありがとう。そう聞こえてアウリスはうなずいた。新しい国王の宣句が続く。ラファエの声は覚えていたのと少し違っていた。でも同じ人間の声だった。成長過程が違うだけだ。
どうしたらいいのか解らない。
アウリスは体の芯に響く声にうっとりした。ラファエさまのお傍に行きたい。駆け寄って声をかけたい。だって、アウリスはここにいる。アウリスはラファエさまの為にここにいるのだ。
大きくなったね。すごいね。かっこいいね、よかったね。
空想の中でも上手な褒め言葉が見つからない。
アウリスはそうして感動に打ち震えていて、王の言葉を聞き逃した。
民衆の心が湧いている。遠目にも静まり返ったところに不穏な空気が感じられる。アウリスはふと拳を緩める。よく見てみると、壇上で忙しく人の立ち位置が入れ替わっていた。何か起こっているのだ。
「控えよ」
凛と王の声が響いた。
アウリスは目を細めた。騒然としていた壇の上では宮廷人達が王の声に不安げに立ち尽くしていた。一番手前には濃緑色の衣を纏う男がいる。猫じゃらしが何故か跪いている。しかも王の隣というあり得ない位置だ。アウリスは不審に思った。身に唐突な緊張が走る。猫じゃらしは跪いているわけではない。背後の見るからに屈強な騎士二人により後ろ手を取られ、膝を折らせられているのだ。これではまるで取り押さえられた後のようではないか。
王は壇上での出来事を尻目に人衆に向けて大手を振った。
「決断は変わらぬ。私が玉座に座る限り反逆は決して許さない。これは国民の平安を守る為である。ここのところ、この平安を妨げる噂がはびこっていた。私が王家の正当な後継者ではないと言う、まったく根も葉もない噂だ」
王が袖の一振りで隣を示した。黒い服の袖が風を含み、金糸の模様が宙に弧を描く。
「この者はその噂をねつ造し、我が王都の平安を脅かした張本人である。よって、私はこの者を裁く。今日より八日後、同じこの広場にて、この者を断頭台の上で死刑に処す」
その言葉に人衆が湧いた。「ヴァルトール国王」。誰かが投げたその一言に、一人、一人と声が重なり、やがて巨大な渦が巻くような熱気と歓声が起こった。
アウリスは壇上に佇む者を見つめた。この世の何よりも高貴な人間。漆黒の上衣に身を包み、黄金の絹糸で刺繍された獅子を背負い、まるで絵本から抜け出てきた本物の獅子のように威風堂々とした空気を纏う。
その王の足元から民衆の中へ浸透していく。
それは、人々の忠誠心か、敬愛か。
それとも……。
王は満足げに腕を下ろした。
「今日の日をしかと胸に刻め。言葉は刃である。我が王室に反逆の刃を向ける者は余すことなく、我が法により裁かれる」
ふと表情を和らげる。美しい笑みだった。耳元にかかる髪の毛先ひとつまで計算し尽くされた、ゾッとする程美しい笑みだった。
「我、ヴァルトール国王ラファエアートは、おまえたちの新しき指導者として、ここに集まるすべての人間に心の安静と充実した日々を約束しよう。今日この日、王室に牙を剥く首謀者の断罪を決定し、今日この日より、この愚かな男を盲信する「黒炭」第七課を罪人として指名手配とす。我らが都の安息を妨げる者を、一人残らず、王の断罪の間へ引き立てよ」
「伏せろ、アウリス!」
怒鳴られるまま、アウリスは床に転がった。混乱していたのだ。ラファエさまが七年を経て王様になった姿を見た時点で、アウリスの感受性の羅針盤の針は吹き飛んでいた。息をつく間もなく次々と身に降りかかるその他様々な事に普段からあまり考え事が好きではないアウリスの頭は鈍くなっていた。もしかしたら全部夢なんじゃないかとも思っていた。
隣に転がった肉だんごが素早く身を起こしてアウリスの腕を引く。腕がすぽんと抜けてしまいそうな物凄い力だ。思わず痛くて小さく息を呑む。
アウリスは肉だんごに頭を抱かれ、夏限定で硬い筋肉に覆われた胸板にぐっと顔を押しつけられた。
次いでガッ、と鈍い音が三つ、綺麗にずれて立て続けに上がる。アウリスは目だけでその音がした方を見た。白い陽射しが集まる窓辺で、窓枠に外側から矢羽が三つ刺さっていた。
「窓は駄目だ。外に弓隊がいる」
肉だんごの声は緊張して低かった。何度も派遣先の戦場で聞いたアウリスを心配する声だった。肉だんごはもたつくアウリスの腕を途中まで引いて立ち上がらせた。その足で走りだされ、アウリスはすぐ後を追う。どこかでけたたましい悲鳴が上がった。極度の緊張に晒されてアウリスは腰に差す剣を探った。そうしながら、逆の手をいっぱいに伸ばして前を走る肉だんごの腕を掴む。肉だんごは振り返り眉をひそめた。アウリスはその彼に目線で進行方向だった階段の方を示した。人ごみの中に白い衣と黒い甲冑がちらついていた。国家騎士団だ。その姿に気づいた人々がクモの子を散らすように逃げていく。
間もなく嘘のように人気がなくなり、試合が終わった直後の闘技場のような不気味な静けさが三階に降りた。その頃にはアウリスと肉だんごは二十人ほどの騎士団によりすっかり囲まれていた。
吹き抜けの窓から風が入り、白い衣の襟と騎士たちの短い髪が揺れる。それを目に、アウリスは徐々に事の次第を理解した。アウリスは腰の剣柄をしっかり握ったまま後ずさりをする。前を向く視野の端に肉だんごが入ったところで足を止めた。騎士団が一斉に剣を抜いた。
「黒炭七課だな。武器を捨てて投降しろ」
アウリスたちを囲う輪の一番右端にいる男がそう言った。非常に見目の良い男だが、何故か頭にぐるぐる布を巻いている。髪を隠すのは師団長の装備なのか?
唐突に師団長らしき男が喉を鳴らした。乾いた笑い声が石畳みの四方に響く。アウリスが思わず眉を動かすと、男は不気味な程優しい目で彼女を見た。
「大人しくいう事を聞け。そうすればこちらもあまり乱暴なことはしない。あまり、な」
ここで武器を捨てるのは馬鹿のすることである。アウリスは山猫のように残忍そうな男の笑みから目を逸らすと八方塞がりの景色を見回した。肉だんごは既に抜き晒していた刃で構えている。
心臓が熱い程に早鐘を打つ。どうしてじぶんたちが七課の人間だと解ったんだろうと考えるが、そんな疑問は状況に比例してごく些細なものである。アウリスは罪人になったのだ。国家規模の反逆罪を着せられ指名手配となっているのだ。
反逆罪で捕まると、罰則規定により死刑懲罰が適応される場合がある。猫じゃらしと同じだ。猫じゃらしは死刑囚になった。
冷たい唾液が喉を越していく。アウリスは気を抜くと震えそうな声を出した。右端の師団長らしき男に視線を留め、それを左へ動かしていく。
「ここに、メーテル様はいますか?」
師団長らしき男は眉をひそめ、前に居た数人の騎士たちは目だけでお互いを見た。アウリスはさっきより強い声でもう一度呼んだ。
「メーテル様、十二師団のメーテル=レイ=ラキス様はいませんか!」
騎士たちは能面を被っているように表情がひとつも崩れず、それを見てアウリスは不安になった。騎士たちの右肩の肩当ては薔薇の刺繍だった。王都内の治安部隊のものである。アウリスは交渉人としては目の前の見るからに嗜虐主義らしい感じの師団長らしき男よりも、昨日街で出会った女騎士の方が適切ではないかと考えていた。
とはいえ、アウリスはその折に女騎士がテーブルを叩き割った過程の噂の、まさしく根源という罪状を被っている。賭けは五分五分である。五分五分より低いかもしれないが、何となくまだましである。肉だんごが問うように眉をしかめてアウリスを見た。アウリスはもう一度大きく息を吸い、そのタイミングで騎士団の陣形が動く。
軍靴が床を叩くのが嫌に静まり返った場に響いた。前列が見るからにぎこちない動きで一人分すり抜ける程の隙間をあけ、そこに女騎士は踏みだした。アウリスは思わず大きく目を開き、メーテルをじっと見た。




