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序.


 苦い匂いがはじめは何なのか解らなかった。

 傷みに霞む目を開く。煙に巻かれた景色には炎が眩しく輝いていて、夏の青草が燃え盛り、蛍の光みたいに小さな火の粉を薄暗がりにたくさん飛ばしている。

 何が起こったんだ。

 煙の匂いが鼻につく。

 炎が眩しい。暑い。熱い。身動きが取れない。

 後ろ手に二腕を縛られたままに、何も解らず身を丸めていると、ふと正面に人影が差した。少年は瞼の腫れと痛みを堪え、もうそろそろ見えなくなりそうな眼球を向けた。

 ――ああ、お迎えがきたのかもしれない。

 薄暗がりには一等濃い影が立っていた。黒い甲冑を纏う、体格の良さそうな男だ。そこに一人で佇み、まるで何か珍しい物を見るかのような眼差しで、ただ静かに少年を眺めていた。

 ……黒い死神。

 少年は目線を動かした。男の傍らに抜き晒されたままの刃を見ると、明らかに血塗れていた。甲冑を嵌めた手まで赤い。

 ふいに男は腕を振り上げ、長い刃を突き立てて少年を拘束する縄を斬った。

 黒い甲冑の手はそのまま少年の方に向かってきたが、少年はそれに怯えることはなかった。お迎えなら早く連れてってくれればいい。どんなところだってここよりましだ。そう思っていたのだ。

 黒い死神の空いた腕に抱えられて、少年は運ばれていく。

 煙の匂いに誘われるように見回してみたら、炎のあいまにたくさんの人間達が転がっている。血まみれの残骸。ただの肉の塊。

 少年はやっと気づいた。それらは身に馴染んだ形だった。ついさっきまで自分を楽しげに苛めていた貴族たちだ。みんな、いつの間にか死んだのだ。それで、無残な抜け殻ばかりが転がっているのだ。

 そのときに、少年はやっと気づいた。この景色に何一つ心が動かない自分に。

 己を運ぶ体温の方を向く。何か音がしたと思ったのだが、それが何なのか気づくのに時間がかかった。酷く似合わなかったせいだ。その首飾りは、緑色の石を一つだけ嵌めていた。死神がそんなものを付けているのが、なんだか意外だった。

 持ち主が動くのに合わせて、重々しい鎖帷子の襟首にそれは軽やかに揺れていた。優しい色だとボンヤリ思った。陽だまりの中に芽吹いたばかりの草のような色だ。同じ緑色だが、自分の目の色とはぜんぜん違う。くり抜いて一生飾っておきたいと言われた、この目みたいではなくて、ひたすら暖かい。

 花緑青の色。

 その宝石の形はまるで、誰かの涙みたいだった。少年は吸い込まれるようにそれを見ていたが、急に振動が止んだ。死神が立ち止まったのだ。

「レオナートくん、レオナートくん」

 大柄な男が突如前方にいた。こんな熊みたいな奴が一体どこに隠れていたんだろう。少年は思わず辺りの茂みを見回した。

「……陛下。このような場所へ自ら踏み入るものではありません。馬車の中で待っていてくださいと言ったはずですが」

 死神は相手の方へ歩きながら不平を言った。聞こえないくらいに小さな声だった。物静かな、思ったより若い声だ。

「レオナートくん、他の者は……?」

 熊男の言葉に、死神は黙って首を横に振る。少年は死神の横顔をボンヤリ見ていたが、その大きな手が脇に入ったので俯いた。この場に降ろそうというのだろう。 

 案の定、少年は高い高いを片手でするようにして地面に立たされた。その頃には熊男の方は跪いていて、目線の近さに思わず少年は後ずさろうとしたが、後ろには死神がいるのだ。逃げ場はない。

 そのことに気づき自然と身を硬くした少年の方に、大柄な男は手を伸ばした。

「すまない」 

 驚く少年の手を男は握りしめた。

「すまない。すまなかった、君の家族を救えず、仲間を救えなかった。私たちは、私はあまりに遅かったんだ」 

 繋ぐ手に男の体の震えが伝わってくる。頭を下げられることに慣れていないからかもしれないが、少年は思いきり置いてけぼりにされたような気分でその言葉を聞いていた。

 なぜ謝られたんだ。

 というか誰だ。なぜ泣くんだ。

 何かに呼ばれたかに、炎の照らす暗がりの方へ視線を飛ばした。たくさんの躯が転がっていた。それを遠くに眺めながら、少年は何か言葉にならない気持ちを覚えていた。

 ――殺された。

 ああ、そうだ。少年は唐突に思い出した。

 そうだった、みんな死んだんだ。一座の大人達は死んだ。子供達は後で死んだ。たった一つの家族だった彼らは死んだ。それで、百回殺しても殺したりない貴族女は、どうやらもういないらしい。

 もう、何も残っていないのだ。

 少年は少し考えてから、熊男の方へ手を伸ばした。

「大の男が泣くなよ。気持ち悪ぃ」

 熊男は驚いた風だった。彼の顔に触れる少年の手を握って、男はまた涙を流した。

 だから泣くなよ。

 あんた達が見下したんじゃないか。殺したんじゃないか、虫のように殺したじゃないか。

 住む家がなかったからだ。今日は食べれても、明日食べるものを心配して、土地から土地へさもしい芸なんかしながら移っていく。

 歌と踊りだけの、そんな日々だった。だけど、それでも笑っていられたということが、どんなに愛しいことだったか。

 あんたらがぜんぶ取り上げたんだ。

 何もない。そのへんの雑草と変わりやしない。名前すらない。

「泣かないで、君」

「泣いてねぇよ」

「泣かないで」

「泣いてねえ。うるせえよ黙れ熊」

 少年はうっとうしいとか思いながら相手のぐちゃぐちゃの顔を拭った。ふと何かに呼ばれた気がして振り向くと、少し離れた場所に、あの死神が跪いていた。

 ああ、そうか。

 少年はまた一つ学習した。大地に跪く姿を見て、死神が存在する理由が解った。

 こいつのせいだ。この、熊男。死神はこいつの為に、いつも傍にいて守っているのだ。

 馬鹿でお人好しの、主の為に。

「君」

 熊男は子供のように嗚咽を漏らしていた。

「名前はなんていうんだい」

「あぁ?」

 少年は改めて熊男を見た。熊男も少年を見た。青より青い瞳は不思議な深さがあって、奥から何かが滲み出ているような感じがした。その一対を見返していると、少年の中にも何か満ちていく感じがした。

 失われた物が満たされていく。十七の火傷と鞭の跡と、もう死んだ肉だか生きた肉だかよく解らないぐちゃぐちゃになった体の中で、何かが満ちていく。そんな気がした。

 それはどうせ、錯覚だった。

 解っていた。心臓が痛いくらいに締め付けられたのも。泣きたくなったのも。きっとぜんぶ錯覚だった。じぶんにはもう心臓はないのだから。失った者はもう二度と戻らないのだから。

 だけど、それならばそれでいいかと思ったのだ。

 少年は少し考えてから名乗った。熊男は彼の名前を聞くと涙を流し、すまない、と言った。  


 どうせ何もなくなったんだ。

 その上で生きろってんなら、俺の命はあんたのもの。

 俺は、あんたの足元に生える雑草でいい。


「ああ、流れ星だね」

「だからなんだ熊」

「寒い? 私の上着いる?」

「いらねえよ」

「そうだ君、おなかがすいたかい? ねえ、猫じゃらし」

「……うるせえ、気安く呼ぶな熊」 

 死神の上衣を頭から被せられ、熊男に手を引かれながら行く。道のりでずっと感じていたその手はけれど、錯覚にしては嫌に暖かかった。



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