愛するには何かが足りない
窓際に置いたベントウッドチェアに座る男の横顔は、差し込む西日を受けて、陰影の内に沈んでいた。それでも、形良い額に深く窪んだ目元、すっきりとしていて程よく丸みを帯びた顎――…それら男の美しさは陰があることで、より際立つようだった。
男は窓の桟に腕を置いて、気怠げに頬杖をついている。時折、ふ、と沈み込むような吐息を吐いたりして。長い脚を大儀そうに組み直したりして。微かに愁いを帯びた眼差しを、窓の外へと向けたまま。
井田は、まるで自分が画家にでもなったかのように思った。今ここで、クロッキーに鉛筆を滑らせて、男が醸すこの瞬間を、男ごと閉じ込めてしまわなくては。
そうしなくては、そうしなくては、間に合わなくなる――……急に全身から汗が噴き出したように感じて、井田は手を握り締めた。手の平はやはり汗ばんでいた。そしてまた、もう何も変わりはしないのだと、井田は頭の片隅で考えていた。
「自分でも、変わってしまった自分に慣れないんだ、……あなたが悪いんじゃない、あなたは、……」
男は、まるでデッサンモデルのように動じない。姿勢を崩すことなく、佇んでいる。
井田は自分の声が思いの外、震えていることに気付いた。
「あなたといても、僕は孤独だった。……あなたは変わらず優しかった。あなたはここにいるのに、僕は、孤独だった。…」
出来ることならば、この部屋ごと、クロッキーに描き込んでしまおうか。
男の気に入ったイギリス製のベントウッドチェアも、フランスで見付けたオーク材のキャビネットも、それと一緒に購入したウォールブラケットも、真鍮製ソケットが味を出しているペンダントライトも、壁に埋め込んだいくつものステンドグラスも、金縁の大きな鏡も全て全て、丸ごと描き込んでしまおうか――…井田は、男と同じくらい親しみのあるそれらを一つひとつ見詰めながら、思う。男は、アトリエの片隅に置かれた彫刻のようだった。
「あなたを愛するには、……僕の方が、足りなかったようだよ。」
そう告げて、井田はほうっと吐息をついて、微笑んだ。正面の窓から見えていた太陽は、疾うに沈んでいた。