−かくれ鬼の章−
「くしっ!」
アイリス・セレンの間抜けなくしゃみに呆れたようにしながら、アスター・ヘルデライトは上着を脱いだ。
今は雨上がりで、風もあるから肌寒いけれど、季節は夏だ。アスターも黒いタンクトップにシャツを羽織っただけの薄着だった。そのシャツを脱いだから今はタンクトップだけという、今日には寒いに違いない格好で、彼はアイリスにシャツを差し出した。
「いいです」アイリスは短く断る。
アスターが風邪をひいてしまう、と思ったのもあるけれど、それ以上にまだアイリスはアスターを信じきっていないから。
「誰が貸してやるって言ったよ?暑いから脱いだの。で、邪魔だから預かっとけ」
「その格好は見てるだけで寒々しいので我慢して着といてください」
「…こっち見なけりゃいいだろ?それとも、俺から目が放せない?そんなに気になる?アイリス先生?」
彼女の後ろには公園のフェンスがある。フェンスのそばの地面に、直に腰を下ろして背中をフェンスに預けた状態で、隣り合わせにアイリスとアスターは話していた。
アスターはずっと立っているけれど。
「悪い子だね、先生?生徒の保護者に恋しちゃった?」
「違います。大体、貴方はネオンたちの製造者で、保護者じゃないでしょう?」
「保護者だよ。ネオンたちには俺以外に身寄りがいない」
「…身寄り…ね」
「ネオンたちだって人間だもん、甘えられる家族は必要でしょ?それが俺みたいな若くてかっこいいオトーサンだなんて、あいつら幸せ者だなぁ」
アスターは惚けた口調でそう言い、アイリスの頭の上に汗の匂いのするシャツを落とした。
「…」
「何?」
「…汗臭い」
「嗅ぐなよ変態」
「ホントに暑かったの?」
「シャツが汗臭くなるくらいには…」
「信じられない」
「あんたは俺の何なら信じる?」
「何も信じない」
「…なるほど」
不意に、アスターは小さく笑った。その横顔を見上げているとアスターは急にアイリスの方を見て笑みを深くし、そして彼女に覆い被さるようにフェンスに手を突いて彼女の前に屈んだ。
「かわいい顔。そんな上目遣いで見んなよ」
背中の後ろには高いフェンス。フェンスの向こうは闇に占拠され、人どころか街灯の明りも絶えた夜の道。ただ月だけが夜の一部でありながら、日の光で以て闇を浸蝕する。
「貴方、私の顔なんて見てたんですね」
アイリスが言うと、アスターは首を傾げる。
「目を合わせないから見てないのかと思った」
「目、合わせてほしい?こうやって?それでなんて囁いてほしい?何を言えば信じる?」
アイリスは少し考え、それからクスリと笑った。
「ただ、信じて、と」
アスターは少し面食らったような顔をしたが、すぐに溜め息を吐き、触れ合いそうな距離にあった顔を退けた。
「なかなかロマンチックだね、先生?」
「冗談よ」
顔が離れてアイリスは少しホッとしてそう言った。そして余裕のできたアイリスの目はアスターの肩を見る。
シャツを脱いで顕になった肩。そこに走る傷跡。
「テルルにやられたんだ。生まれたてのとき、ナイフで。喧嘩しててさ…」
アイリスの視線に気付いてアスターは言う。
「おやこ喧嘩でナイフって…」
テルルはアイリスの知る限り『アスターの子供たち』の中では一番おとなしい子だ。
「置きっ放しにしてたんだよ。それを幼いテルルが珍しがってさ。遊んでたんだ」
私は黙って聞く。
「で、俺がそれナイフだぞって教えて、取り上げてやったら、テルルのやつ泣きわめいてそれを取り返すんだ。だから殴った」
「殴った!?何をするかも分からないヒューマノイドを?」
アイリスの睨み付ける視線に、アスターは仕方ないだろ?と言葉を付け足した。
「俺は親なんだからさ。しつけも仕事の内。まぁそれで、テルルがキレて、そのナイフで切り付けてきた。俺の子ながらすごいよなぁ」
言って、アイリスの横に移動し、アスターはフェンスに背を預けて座り直す。
「あんな幼いときだったのに、きっとめちゃくちゃ俺のことが憎かったんだ…」
そしてアイリスを見る。
「言うだろ?恨みを持って切られた傷は残るって」
アスターは勝手にそう言って笑った。隣りに移動しても、目を細めて笑っても、決してアイリスから目を逸らさず、そしてアイリスの視線を不思議な引力でその目に引きつけたまま。アイリスは彼と目を合わせたまま話を聞いた。
「…ナイフなんて、キレイに切れそうな武器でさ、そんなに深くもない傷だったのにこんなにくっきり痕がのこるんだもんな…。彫刻刀とかならさ、キレイに切れないから浅い傷でも痛いし治りも遅いし傷も残ったりするけどさ…」
「なんで知ってるんですか?彫刻刀で切ったら傷が残るって…」
「いや、絶対残るんじゃなくて、残る時もある、だな」
アイリスの問いを間違って受け止めたのか、それともわざとか、アスターはどうでもいいことを言い直した。
「だから、どうして知ってるんですか?」
アイリスは再度問う。
「…やるだろ?初等学校の基礎感性・図画工作で、初めて彫刻刀持って。オトコのコならさ。…切り合いとか…」
「やりません」
アイリスは溜め息を吐く。
少し風がきつくなって、彼女はアスターのシャツを体に巻き付けるように前を掻き合わせる。その時、アスターが急に立ち上がった。
「まだネオンたちの話を聞いてません」
「帰らねえよ。立っただけ。足だるくてさ。…帰ってほしくないなら、側にいてって素直に言えよ」
「…寒いんでしょ?」
シャツを返そうと脱ぎかけたアイリスを、アスターは止める。
「寒くねえ」「…別に、談話室で話せばいいものを夏とは言え結構寒い日にわざわざこんな所での面談を希望したアスターには文句もありますが、これも仕事の内なので風邪をひいても貴方のせいにしたりしません。シャツを着てください」
「…」
アスターは黙ってアイリスの目を見る。
「なんです?言いたいことがあるなら…」
「…もう一回」
「は?」
アイリスの言葉を遮ったアスターの意味不明な言葉に、彼女は眉を顰める。「もう一回呼んで?アスターって。名前…」
「…呼んでません」
「嘘、呼んだよ?」
「信じられない」
「信じて?」
揚げ足をとられてアイリスは黙った。
「…」
「信じてくれる?」
「…馬鹿にしてるの?」
「なんでさ?アイリスがそう言ったんだろ?信じてって言ったら信じてくれるって」
「呼び捨てにしないでください!ヘルデライト氏」
「…アイリス先生」
アイリスがきつく言うと、アスターはしぶしぶ言い直した。
「…っそろそろネオンたちの話を…」
アイリスは目を逸らしてできるだけ強くそう言う。アスターはどこか遠くを見た。
「あぁーネオン、テルル、アゲート。どこにいるのかなぁ」
アスターは彼の錬金術技術を駆使して作った人型兵器たちの名を愛しげに唱える。
「…心当たりはないんですか?」
「ないね」
きっぱり言われて、アイリスは肩を落とした。
「…そう」「がっかりした?」
「しまし…」
アイリスが言葉を途切れさせたのは、アスターが不安げに彼女を見たから。
「呆れた?」
「…」
「ねぇ?」
焦れたような声にアイリスは溜め息を吐く。
「…貴方にがっかりしたり呆れたりはしません。そんなの今更…。もう呆れきって、そして諦めた上で話を聞いているので」
言うと、アスターは大きく笑った。
「そりゃねぇだろ?あんたん中の俺はどんだけダメな男なんだよ」「…果てしなく、ですよ」
アスターは笑うのを止め、少し俯いてまた口角を上げた。
「たった一人の身寄りとか言っておいて、あいつらのこと何もわかってねぇ」
「…」
「こんなときに、探す当てもねぇ。…さすがに呆れるだろ?これは…」
アイリスはアスターの顔から視線を外して空を見た。
「…そんなことを気にする必要はありません。あの子たちは人間とは違うんだから、理解できなくて当たり前だわ」
夜の空にはぽつぽつと星が。流れ星が流れて消えた後に、流れ星だ、と気付いて、あまりの愚鈍さにアスターは笑う。
「アンタさ、ネオンたちのこと、キライ?」
「は?」
「ネオン・ガレナ、テルル・マルメロ、アゲート・ジェード。三人とも、アンタの生徒だ。そうだろ、アイリス・セレン先生?」
アイリスは黙ってアスターを見る。
「なのにアンタはあの子たちがキライなのか?あの子たちが、アンタに嫌われるようなことして、迷惑かけたのかな?」
アスターは問い詰める口調で楽しげに言葉を紡ぐ。だがその目は笑っていない。
「…それは…」
「俺の知る限りじゃ、あいつらは他の子たちと変わらない。なかなか優秀な子供たちだと思うがね?」
「優秀すぎます。今、私の、人間の生徒で一番優秀なのが男子のバジル・エレスチャル。でもネオン・ガレナは女子でありながら、戦闘能力においてバジルを軽く凌ぐ。テルルも、小柄なアゲートも…バジルより、いいえ、私よりずっと強い」
「それで?」
「怖いのよ。あの力が。普通の人間には…」
アイリスが泣きそうな声で叫ぶ。闇はその声をすぐに吸収する。
「あの子たちが普通じゃない?あの力でアンタを襲った?」
「いいえ。でもあなたも言ってたじゃない?生まれたばかりのテルルがその傷を付けたって。それに彼らが普通だって言うなら、どうして親であるあなたが何にも理解できてないの?」
「…」二人はしばらく黙り込む。やがてアイリスが口を開いた。
「…寒くないですか?」
「寒くねぇ」
アスターが憮然として返す。
「嘘…」
「信じて?」
次にはアスターはもういつもの飄々とした様子に戻っていた。
「そう何度も信じません」
アイリスは少し安心しながら言う。
「ちぇっ」
「今は貴方の子供たちを心配してあげたらどうです?」
「…心配だよ。アイリス先生の胸借りて泣きたいくらい」
「…信じられませんし、貸しません。あなた今、ネオンたちの心配より、ふがいない自分を責める心の方が上になってるもの」
「その心を抉ったのはどこの誰かな?」
「…」
一瞬過ぎる沈黙。今度はアスターが破る。
「…腹減ったなぁ」
彼がそう言った途端、ラーメンの屋台のチャルメラが聞こえた。
「…ラーメンくらいならおごりますよ?」
「アイリス先生のラーメン食う姿なんて想像も付かない」「私だって食べますよ。ラーメンくらい…。でも今は食べません。お腹空いてないし」
「もしかしてダイエット?6時以降は食わないってやつ?」
「違います」
「…そう」
「いらないんですか?屋台、行ってしまいますよ?」
この場所を動きたがらない様子のアスターにアイリスがそう尋ねると、彼は少し笑った。
「店のラーメンじゃ、毒が足りないんだよね」
「毒?」
「体に悪そうレベル低めってこと。保存麺がいいなぁ。科学調味料の味の…」
「…」
「店あったよね?」
「通りの向こうに」
「買って来て?おごってくれるんだろ?」
アイリスは諦めたように溜め息を吐いて立ち上がる。
「…食べながらでいいんで、ちゃんと話してくださいね?」
「熱心だね、先生は」
アイリスは何も答えず歩き出す。
軍事学校付属の野外戦演習用の公園は以外に広く、そして夜のそこはもっと広く感じる。早足でもなかなか出口に辿り着かない。その時不意に後ろから足音が聞こえて、アイリスは振り向く。
振り向くとアスターがそこにいて、元の場所からそれほど離れていないと思って彼女は愕然とした。早足で歩いていたのに。
だけどそれは間違いでただ景色が、いや、ただアスターだけが、アイリスについて来ていたのだと知れた。
「あんた、俺の好きなお湯の量わかんねーだろ?少なめがいいんだ」
アスターはそう言った。
「わかりました」
再び歩き出そうとするアイリスの横に、アスターが並ぶ。「っていっても俺の言う少なめがどの程度かわかんねーだろ?あんたじゃ」
「店員さんに聞きます」
「店員にだってわかんねーよ」
「…ついてきたいならそう言えばいいのに」
「かわいくねー女。ちょっとは怖がれよ。夜の公園とか夜道とか」
「一人で待つのが怖かったんですか?」
「…ホントにかわいくね」
アスターは溜め息を吐いた。
心配してついてきてくれたことが分かって、アイリスはこっそり微笑む。
「…昨日は雨で、日が落ちるのが早かったなぁ」
「え?」
いきなり喋り始めたアスターに向けた疑問の声はラーメンを啜る音にかき消される。
「あいつらは、いつもの時間に、だけどいつもよりやけに暗くなりかけた頃に、犬を散歩させに行ったんだ」
「…ネオンたちのこと?」
「ああ、雨降ってるし、危いって言ったのに…」
「どうしても行く、と?」
「ああ、大丈夫だからって…。でも帰って来たのは、犬のリードだけだった。この公園に落ちてた」
「リードだけ?切れてたんですか?」
私の問いに、アスターは首を振った。
「あいつらはリードを持って散歩に行くけど、いつも犬を繋がないんだ。かわいそうだとか言って…」
「落としても不思議はないってことですね」
南さんは頷く。
「ああ…」
「その犬というのは?」
「あいつらの前に造ってた軍用犬アニマノイドのプロトタイプでペット用のカルサイトだよ」
「どうでもいいこと言ってもいいですか?」
「どーぞ」
「普通の人間は死を、怖がります。貴方は、彼らを人間だと言い、かわいがるのに、戦闘用として造ったんですね…」
「…まぁ俺も所詮は軍の人間ってことさ。それに、あの子たちを造る金も養う金も、軍じゃないと出せないんだよ。研究を続けるには、それに頼るしかないんだ」
アイリスは溜め息を吐く。
「やっぱり貴方はマッドサイエンティストですね。子供たちを造るのも、研究の一環ですものね」
「…イヤミ?」
「いえ、別に。それよりそろそろ帰りませんか?明日も学校ですし」
「あらら?もうこんな時間かよ…。たいしたこと言えなくて悪かったな」
「期待はしてません」
「あっそ」「ただし、彼らには脱走の疑いもあることだけ知っておいてください。その場合、彼らは銃殺。貴方にも管理責任が問われます」
「ただの軍事学校の生徒を銃殺かよ…」
「残念ながら『ただの』ではないんです。私たちには。それに、上級生は配属待ちの軍人の扱いをうけますから」
「…まあね」
「ある程度の機密も、情報処理演習の一環として見せてあります。データを盗まれた形跡はありませんが、彼らの記憶力は貴方もご存じでしょ?」
「わかりましたっ。あの子らは帰って来るよ」
「そう願います」
言って立ち去るアイリスの背中にアスターは声をかける。
「おやすみ、アイリス」
答えずに遠ざかる背中に肩を竦め、アスターは呟いた。
「さて、迎えに行くか…」
言ってアスターが装着したゴーグルには、略地図と三つの点が映る。ヒューマノイドたちの発信装着から送られてくる情報で、それは三人が別々の位置にいるということを示している。




