鈍色の憂鬱
『高校二年生のある梅雨の日。放課後、図書室の日本文学の棚前に呼び出された僕は、名前も知らない女の子から告白された』というシチュエーションの短編作品を投稿し、他の参加者との描写や発想の違いを楽しむ企画。
そうじたかひろ様主催の短編企画【しずくとつむぐ】参加作品
鈍色の曇天。
雨が振るのか振らないのか、曖昧極まりない天気と、じとりと湿った空気に否応なく気分は鬱々と沈んで、不愉快な気持ちが募ってくる。
不愉快な憂鬱感を打ち砕いたのは、四隅に鮮やかな紫陽花の描かれた、可愛らしい一枚の便箋だった。便箋に引かれた罫線の上には、筆者が男なのか女なのかわからない、パソコンで印字したような、神経質なまでにきちりとした文字が連ねられている。
そこには、
『急なお手紙でごめんなさい。放課後、図書室の隅にある、あなたの好きな日本文学の棚で待っていますので、どうかお一人で来て下さい。きっと、来てくれますよね。お願いします』
と書かれていた。差出人の名前は、当然の如く記されていない。
手紙を読み終えた時、まず疑問が頭を駆け巡った。どうして差出人は、僕が日本文学を好んでいることを知っているのだろうか。親しい友人くらいしか知らないはずだが――
そんな瑣末な疑問は、次に脳裡を過ぎった憶測で掻き消された。
放課後、図書室、一人で――
たったこれだけの単語で、この手紙の差出人の思惑は容易に予想できる。花の蜜のように甘く、未成熟な青い梅のように酸い、告白。そんな未経験の領域が脳裡に浮かんでは消えた。先の疑問など、どうでも良かった。
暫しの間愉悦に浸っていたが、ふと、蜜を吸う口を止めた。
甘い蜜を吸い続けようと思わなかったのは、これが悪戯である可能性が浮上してきたからだ。しかし、心の底に溜まる鬱々とした不安とは対照的に、浮き足立つような幸福感もあった。相反する二つの要素が交錯していたが、結局、二度と味わえないかもしれない蜜を吸い続けることにした。愉悦に酔い、授業中に何度も名指しで注意されたが、熱に浮かされて忠告など耳に入ってこない。脳は恋と希望の麻薬に侵され、終始浮ついた気分であった。
そして放課後。かつかつと小粒の雨が窓を打ち始めたかと思うと、瞬く間に雨は銃弾の如く激しさを増し始めた。部活動等の禁止令が出され、生徒は即座に帰宅するようにと伝えられた。梅雨とは思えない、まるで台風のような雨嵐に、クラスメイトからも「早く帰った方が良い」と言われたが、僕は「用事があるから」と言い、帰宅しなかった。内心で、恋愛になど縁のない友人を嗤い、見下していた。
教室に誰もいなくなった頃、誘蛾灯に誘われる蟲のように、図書室を目指してふらふらと灰色の廊下を歩いていった。廊下の中央に引かれた赤い線が興奮を高めると同時に、薄暗い空間を裂く雨音が火照った体を冷やした。
図書室を目の前にすると、心臓が生物のように跳ね回り、体中を巡る血管が蠢動した。十七年生きてきて、これ程までに胸が高鳴ったことはない。
鈍く銀色に光る取手を握ると、掌に湧き出た汗が滲み込むようだ。取手を回すと、ゆっくりと木目の浮いた扉が前へ動き出す。期待に満ちた瞳で見た目の前に広がる光景は――
白熱灯に照らされた、寂寞とした光景であった。日本文学の棚を見ても、誰も――いない。ただ、時計が時を刻む音だけが空間を支配している。
僕は落胆すると同時に、むらむらと、怒りと憎悪の感情が心の深淵から湧き出てくるのを感じた。あの手紙は、悪戯だった。今頃、クラス中の人間が笑い転げているのかと思うと、窓硝子を打ち破りたい衝動に駆られる。何が「用事がある」だ。己の愚かさに嗤いが漏れる。
心を落ち着けるにはどうすれば良いか――
本だ。僕の大好きな幻想の世界へ逃げ込めば良い。
整然と棚に並べられた古びた本を一冊抜き取り、僕はゆっくりと、純粋な文学の世界へ溶けていった。今日旅をするのは『雪国』だ。
――好きなの。
僕の耳は、窓から見える暗雲と激しい雨音に消え入りそうなほど細い声を聞いた。今まで、一度も聞いたことのない声だった。
初め、何に、誰に向けて放たれた言葉なのか、理解できなかった。暫く逡巡した後に、今僕のいるこの場所に並べられている、日本文学のことを言っているのだという結論に辿り着いた。
「うん、好きだよ。とってもね」
声のする方を振り向きもせず、僕はただ事務的に答え、手にしている本の頁を一枚捲る。
雨音が耳朶を打つ。そんな耳障りになりつつある音楽は気にならなかったが、先程の声の主の気配が気になって仕方がない。僕が返答してから、衣擦れの音一つさせていない。僕に何か用があるというのか。
「何か用?」
耐え切れなくなり、僕は刺々しい苛立ちを隠さずに言った。すると女は「好きなの」と、また同じ問いを繰り返した。鎮まりかけていた憤怒が再度ふつふつと湧き上がり、とうとう口を突いて悪罵が飛び出した。
「あんた、僕の邪魔をして楽しいのか! さっきから欝陶しい――」
分厚い本を図書室中に響き渡るような音をもって乱暴に閉じ、声の主の方へ振り返った。まだまだ言いたいことは山ほどある。そう意気込んでいたのだが――。
――なんて、綺麗なんだ。
僕は一瞬にして言葉をなくした。本を閉じた際の破裂音が山彦のように反響する。
あれだけ脳髄を駆け巡っていた罵詈雑言が、瞬く間に消え失せ、声の主である女を賛美する言葉で一杯になった。
その女は正しく佳人というに相応しい容姿をしていた。長く、そして綺麗に切りそろえた、程良く油の照りがある黒髪、丸く、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな双眸、白桃色をした頬、蝋のように白い肌、きゅっと閉じられた、淡い桜色の口唇――。どれを取っても、文句のつけようもない、まるで人工的に作られたかのような美貌。しかし問題が一つある。
この女が誰か、全くわからないのだ。
僕と同じ腕章のある制服を着ているのだから、まず同じ学校であることは間違いない。だが全く見覚えがない。この女は、一体どこのクラスの、誰なのだ。
僕が考え倦ねていると、女の方から口を開き、重苦しい沈黙を破った。
「好きなの」
またか。また同じ問いだ。
「いい加減にしてくれよ。だから、僕は好きだって――」
「そうじゃないの! 日本文学じゃない!」
彼女は激しく頭を振り、眸を潤ませる。
「だったら一体、何のことなんだよ!」
「あなたよ! あなたのことが好きなの!」
女の口から唐突に発せられた言葉に、思わず後ずさりをしてしまう。女の目は涙ぐんでいるものの怒りにも似た気迫に満ち、告白する女のそれとは到底思えない。そんな彼女とは対照的に、僕の足は竦み、狼狽えることしかできない。
「そ、そんなこと急に言われたって、僕は君が誰なのかすら知らないんだ。急に好きだなんて言われても、了解なんてできないよ。だから、ごめん」
彼女の吸い込まれそうなほど黒い双眸から、自然と目が逸れる。
雨脚はいよいよ激しくなり、大地を揺るがす雷鳴が轟いた。愛の告白という甘いものとは対照的な、陰鬱極まりない空気。この現状をどうすれば打開できるのだろう。
「あなたは――」
風雨が窓を鳴らすと同時に、消え入りそうな声で彼女が呟き、そして次に、泣きじゃくった後の子供のような声で言う。
「あなたは知らなくてもッ――」
その感情を込めた声に誘われるように、彼女の顔を見る。すると、白桃色の頬には似つかわしくない、灰色の一筋の線が頬に引かれていた。それが涙だと気づくまで、時間はかからなかった。彼女もまた、この空のように表情を曇らせ、泣いている。
「私は、あなたが大好きなのよ。どうして、わかってくれないの。ずっと、ずっと見ていたのに」
ずっと――見ていた。
だから、僕が日本文学を好んでいることを知っていたのか。何と、何と狂おしい愛情だろうか。しかし、僕はそれに応えられない。何故だろう。口は縫いつけられたかのように、ぴたりと真一文字。
彼女は自らの力で拳を砕かんばかりに握り締めているのか、指先は真っ赤に染まり、そして微かに震えていた。震えの原因は燃え滾る怒りか、それとも気持ちが伝わらないことへの悲哀や狼狽なのか、判断はでき兼ねる。しかし、止めどなく溢れる涙を見れば、伝えたい思いが伝わらないもどかしさを感じているのは確かなようだ。
黙って彼女を見つめていると、彼女は静かに瞑目した。そして小さく息を吐き、諦めたように肩を落とし、踵を返して図書室の出口に向かって歩き始めた。帰宅するつもりなのだろうが、手に傘は持っていない。それどころか、鞄すらも持っていない。
「ねえ」
僕が呼び止めると、彼女はその顔に似合わない、憮然とした表情をして振り向いた。未だに眸は涙で潤んでいて、見ているだけで痛ましい。このまま帰らせるなんてできない。だが、呼び止めたは良いものの、何をすべきか判断がつかない。ならばせめて、せめて哀愁を帯びた彼女を慰める為に、何か僕にできることはないだろうか――
永遠に近しい一瞬の後、口を開いた。――いや、自然に、開いた。
「これ、使いなよ」
僕は鞄に入っていた濃紺色の折り畳み傘を取り出して、彼女に差し出した。一瞬、彼女はひどく戸惑っている様子だったが、こくりと一度頷き、蝋人形のように白い指を傘に絡みつかせて受け取った。図書室を出て行く間際、彼女は麗しい笑顔を浮かべて去っていった。きっと、告白が有耶無耶に終わった複雑な心境の中で取り繕うことのできた、最高の笑顔だったのだろう。
傘を差し出した時の僕が何を思ったのかわからない。ただ、少しでも彼女に償いができないだろうかと思い惑うた結果だった。たったそれだけのことで、彼女の中に濃霧のように立ち込め、汚泥のように溜まった感情を晴れ渡らせることができたとは思えない。しかし、そうすることしかできなかったのだ。これは、僕の自己満足だ。
一体、彼女は誰だったのだろうか。もしかすれば、さっきの出来事は全て小説中の出来事だったのではなかろうか。そう思うほどに、何もかも現実感がない。まるで自分だけが現実から抜け落ちて、本当に本の中へ溶けこんでしまったかのような、不思議な感覚。そんな瑣末な妄想だけが、小さな脳を圧迫する。考えていても仕方がないのだが、心の中では濃霧が立ち込めていて、一向に晴れる気配を見せない。
――まるで、この天気のよう。
僕は手に持っていた古めかしい本を棚に戻すと、静かに窓の外を見やる。
窓外では、色鮮やかな紫陽花が激しい雨粒に打ちつけられ、悲しそうに頭を垂れていた。
憂鬱そうな紫陽花は、徐々に色を失っていくように見えた。
(了)