72.空中庭園
ひとまずエルフたちを迷宮城の補助作業に回す。それはヴィンセントが光の高原へ向かった時点から、エリカが考えていたことだった。
以前、感知領域を通して知性種族らしき生活の痕跡を察知してはいたものの、それがエルフと亜人だとは思ってもみなかった。
亜人ならまだ分かる。冒険者だった頃にも何度となく接したことがある。だがエルフについては、ボーウェンの教えの中で聞いたことがある程度で、エリカにとって数少ない知識の盲点の一つだった。
そして現在いる五十名のエルフでは、死亡峡谷にとってせいぜい一階層の守衛に相当する戦力にしかならない。第十層以降にいる石炎魔などの強力な守衛と比べれば、特筆するほどのものではなかった。
だが、迷宮城を十全に稼働させるための補助に回すとなれば話は別だ。
それこそが、最も有効な使い方だった。
エリカは、後ろをついてくるアリソンが途切れることなく語るエルフと母樹の歴史や能力に耳を傾けながら、蜘蛛の巣のように入り組んだ通路を大股で進んでいた。
皇家冒険団との殲滅戦を経て、守衛や数千人分の死体によって世界の心には大量のエネルギーが補われていた。ヴィンセントがエルフたちを連れて戻ってきたのを感じ取るまで、エリカはずっと地潜り虫を操り、迷宮城を作り変えていた。
地下を流れる薄暗い水路も、中がくり抜かれた巨大な岩柱も、死体を積み上げる血肉の倉庫も、蜘蛛の巣のように錯綜する通路も、それどころか各階層の石窟へ素早く近づくための隠し通路まで、すべてエリカが新たに設計したものだった。
目覚めて以来、エリカはほとんど休んでいない。
幸い、転化後の強靭な身体は睡眠時間を大幅に減らすことができた。飛行能力がないことを除けば、ほとんど欠点らしい欠点がないと言ってもいい。
だが、それほど強力な悪魔種族を、エリカは一度も聞いたことがなかった。
ボーウェンが神官として蓄えていた膨大な知識の中にさえ、そんな種族の話は出てこなかった。
幼い頃には血染めの薔薇で短い間学び、その後はボーウェンから惜しみなく教えを受けた。エリカは冒険者の中でもかなり博識な部類であり、悪魔種族についても相応の知識を持っていた。
だからこそ、ヴィンセントが血族へ転化したと知った時も、エリカはそれほど心配しなかった。
悪魔種族は、自ら理性を制御できない邪悪体とは違う。
そして何より、彼女は夫の意志の強さを信じていた。
だが、吸血欲求によって衝動に駆られることのある血族は、少なくとも長所も短所もはっきりしている。それに比べ、今の自分が転化した未知の種族には、もっと大きな危険が隠されている可能性があった。
それこそが、エリカが今もっとも知りたいことだった。
自分の把握できない危険要素を、一つたりとも残したくない。
ほとんど欠点がないほど強力な悪魔種族でありながら、知性時代には何の情報も伝わっていない。
そうである以上、可能性が高い答えは一つしかなかった。
この種族の悪魔は、とっくの昔にすべて滅びている。
しかも、その絶滅から相当な年月が経っている。
エリカは、自分の把握できない状況を好まない。だから今回の魔王の庭での集まりで、あらゆる懸念を解消するつもりだった。
少なくとも、物事の成り行きだけは自分の掌中に置かなければならない。
「……母樹の系譜はとても古く、今が何代目なのかも分かっていません。神霊時代から存在していたとも聞いています。エルフ族も母樹の庇護のもとで生まれたため、私たちは生まれつき植物と意思を通わせることができて……」
「要点を」
このところ世界の心とのつながりを緊密にする訓練を重ねたことで、エリカはすでに遠隔操作にもかなり習熟していた。
今もヴィンセントの居場所を感知し、そこへ向かっている。
道中、母樹やエルフの歴史についてかなりの話を聞いた。各種族の秘められた過去にも興味はあったが、今知りたいのはそこではない。
目の前を歩く金髪の悪魔の口調は淡々としていた。だが、その命令を聞いたアリソンは、なぜか逆らわないほうがいいという感覚に襲われた。
彼女はすぐに、長老たちから教わってきた順序を飛ばし、結論から話し始める。
「母樹は普通、数名のエルフを認め、その者たちと意思を通わせます。村ではたいてい長老がその役目を担っています」
「母樹と意思を通わせることができれば、特殊な領域にいるか、何らかの力で隔絶されていない限り、シロ大陸各地の母樹と交信し、情報をやり取りできるようになります。私たちもそれを通して原始樹海と交信し、外の変化を知っていました」
そこまで説明したところで、アリソンは不思議そうな顔をして付け加えた。
「ただ、特殊な領域にいるせいなのか、それとも闇の深淵に隔てられているせいなのかは分かりませんが、ここ数百年、光の高原から交信できるのは原始樹海だけです。ほかの地域のエルフ部族とは、まったく連絡が取れません」
「それから母樹は、世界の心と同じように領域内の動きを感知することもできます。さらに自我も持っていて、自ら判断し、反応を……」
そこまで言った瞬間、金髪の悪魔の周囲に漂う空気がわずかに重くなったことを、機転の利くアリソンは敏感に察した。
すぐに言葉を変える。
「もちろん、すべてはエリカ様のお許しがあってこそです。世界の心を使えば、母樹の能力や作用する範囲を制限することもできますし……」
金髪の悪魔が聞き、元気なエルフが説明する。
そんなやり取りを続けながら歩いているうちに、二人は一つの洞窟の出口へたどり着いた。
一歩外へ踏み出した途端、まばゆい光が正面から降り注いだ。
闇の深淵へ入って以来、アリソンはもう何日も光神の姿を見ていなかった。 全身を包み込むような温もりが一気に降り注ぎ、身体の奥まで染み渡っていく。
思わず背筋を伸ばし、アリソンは気持ちよさそうに小さく長い息を吐いた。
目が光に慣れてくると、自分が広々とした岩の台地に立っていることに気づいた。ここは巨大な山壁から突き出した一角だった。
上を見れば、広大な空と、まばらに流れ形を変えていく雲。その隙間から時折、黄金の光が差し込んでくる。
下を覗けば、底など到底見通せないほど暗い恐ろしい深淵。
周囲には、視界の果てまで見渡しても尽きない、奇妙な形をした雄大な峡谷が連なっていた。
風は時に穏やかに、時に激しく吹き抜ける。
景色は壮大で雄々しく、宙へせり出した岩台は、まるで世俗から隔絶された桃源郷のようにそびえていた。
そこに立っているだけで、圧倒されるような光景だった。
説明を聞きながら歩いているうちに、いつの間にかかなり上まで登ってきていたらしい。
岩台のあちこちでは、鎌蜘蛛たちが花や草、珍しい樹木をせっせと運び、この場所を風変わりな崖上の庭園へと飾りつけていた。
さらに地潜り虫たちも絶え間なく出入りしながら地形を造り変えている。
まだ建設途中なのは明らかだったが、すでに主の趣味の良さは十分に感じ取れた。
それまでとはまったく違う景色を堪能したアリソンは、金髪の悪魔の視線を追った。
その先には、寡黙な悪魔と、先ほど彼をお義兄さんと呼んでいた桃色の髪の女性がいた。二人は空中庭園の中央に立っていた。
桃色の髪の女性は、とても楽しそうに何かを延々と話しているようだったが、寡黙な悪魔は相変わらずほとんど口を開かない。
「アリソン。母樹のことはもう少し考える。お前は先に戻って休め。世界の心でお前に目印をつけてある。今後、必要があればいつでも連絡する」
どうやら、この先は金髪の悪魔の身内の話らしい。
こういった光景なら、アリソンも以前、村で何度か見たことがある。本音を言えば、このまま残ってじっくり見物したかった。
だが、直感が「やめたほうがいい」と告げている。
アリソンは素直に返事をすると、その場を離れた。これから空いた時間を使って、この面白そうな迷宮城をじっくり見て回るつもりだった。
元気なエルフが去った後も、エリカはすぐには岩台の庭園にいる二人へ声をかけなかった。
一人、高い場所に立つ。
空を見上げれば、山間を吹き抜ける風が金色の長髪を大きくなびかせ、肩に掛けた風衣も絶えず音を立ててはためいていた。
ドロシーがわざわざ造った美しい場所に立ち、暖かな光を浴びる。
その瞬間、エリカはヴィンセントが自分のために手に入れた最初の領地――カンダベスを思い出した。
小さな村は静かで、平和で、穏やかだった。
もともとエリカもヴィンセントも、あそこでずっと暮らし、何事もなく一生を終えるのだと思っていた。
すべては、この迷宮城へ来てから変わった。
一生付きまとうはずだった古傷が消えた。
一生を過ごすはずだった故郷も失った。
ならば、今あるものを大切にし、決して手放さない。
エリカがやるべきことは、それだけだった。
置かれた環境が変わったところで、エリカ自身が変わることはない。
いつだってそうだった。
自分の領地を侵そうとする者に待つのは――死だけだ。
「お義兄さん! お義兄さん! まだ全部紹介してないよ! 鎌ちゃんに雲の上の山頂まで行ってもらったら、面白いものがたくさん見つかったの! お義兄さん……」
記憶と激しく巡る思考に沈んでいたエリカは、次第に近づいてくる呼び声で我に返った。
見ると、ヴィンセントが無表情のままこちらへ歩いてくる。
その後ろでは、ドロシーが必死に彼を振り向かせようと追いすがっていた。
この見慣れた光景は、七年前に三人が出会ってから、何度となく繰り返されてきたものだった。
どこにいようと。
どんな状況であろうと。
互いの関係がどう変わろうと。
エリカも、ヴィンセントも、ドロシーも、自分を曲げることだけはなかった。
利益だの、未来だの、大局だの。
そんなものを理由に簡単に自分の原則を曲げるような者は、エリカにとって根本から相容れない。
それがヴィンセントを受け入れた大きな理由であり、今なおドロシーを許容できている理由の一つでもあった。
エリカの思考には、もとから正義と悪という区別など存在しない。
このまま進めば、いつか本当に「必ず倒さなければならない恐るべき存在」と見なされ、知性種族の間で語り継がれる悪の魔王になる日が来るのかもしれない。
だが、そんな未来を思い描いて。
エリカは笑った。
「それも、悪くないかもしれない」
近づいてきたヴィンセントは、そのほとんど聞き取れない独り言を耳にして、少し不思議そうに尋ねた。
「何か言ったか?」
エリカは首を横に振って答えず、状況を尋ねる。
「何でもない。状況はどこまで分かった?」
「ドロシーが新しく飾った庭園を案内してくれた。悪くない」
嫌そうな様子も、不満そうな様子もない。ヴィンセントはただ率直に評価しただけだった。
同時にそれは、迷宮城については何一つ把握できていないという答えでもあった。
後から追いついたドロシーは、お義兄さんに褒められたと知ると、たちまち嬉しそうに甘い笑顔を浮かべた。
「お義兄さん! やっぱり気に入ってくれると思ってた! 死亡峡谷って荒れ果てて、どこもかしこも何もないでしょ? 私、すっごく頑張ってこの空中庭園を造ったんだから! これから私はここに住むの。お義兄さんはいつでも来ていいよ! 一緒に住んでも全然かまわないから!」
それを聞いたエリカは冷たく笑った。
「そう。庭園を造っただけなのか?」
「そうだよ? お姉ちゃん、どうしたの?」
何を言われているのか分からないとでもいうように、ドロシーは可愛らしく小首を傾げ、疑問に満ちた顔で尋ねた。
エリカはそれ以上何も言わなかった。
ヴィンセントも自分と同じくらいドロシーという人間を理解している。
視線だけで合図を送り、再び暗い洞窟の中へ戻っていった。
この後はまだ、魔王の庭、蒼藍帝国の動向、迷宮城の未来、そしてすでに元の場所から移された世界の心についてなど、話し合わなければならない重要なことが数多く残っている。
ヴィンセントはすぐにエリカの後を追った。
後ろから苛立ったドロシーの呼び声が何度も飛んできたが、まったく取り合わなかった。
二人が去った後。
怒りで少し拗ねたようだったドロシーの可愛らしい表情が、次第に引きつり、興奮した狂気へと変わっていった。
庭園の一角、いくつもの巨岩に囲まれた人目につかない場所へ向かう。隠された通路を開き、岩台の地下に造られた密室へと入っていった。
上にある美しく快適な庭園とはまるで違う。そこは、ただ広いだけの簡素で暗い空間だった。
両側には硬い岩を削って造られた頑丈な牢がいくつも並んでいる。
どの牢もほとんど完全に閉ざされ、外を覗けるのは目を寄せられる程度の細い隙間だけだった。出入りや餌を与える際には、別の通路から鎌蜘蛛を使うようになっている。
そして広い暗闇の中央には、ドロシーが冒険者たちの遺品を利用して作った血なまぐさい拷問道具がいくつも並び、その傍らには鎖で繋がれた銀髪の女性がいた。
衣服は何一つ身につけていない。
両手は頭上から高く吊り上げられ、足も十分に地面へ着かないため、身体を休めることすらできない。苦痛に耐えながら、半ば宙吊りの姿勢を保つしかなかった。
身体には恐ろしい拷問の傷跡と、大量の乾いた血が残っている。
刺や太い針、刃の欠片まで、あちこちに刺さったままだった。
とりわけ、かつて清らかで美しかった顔は見る影もない。
縦横に刻まれた傷によって肉がめくれ、血肉の塊のような酷い有様になっている。
かつて名を馳せ、多くの者から敬意を集めた光騎士が、これほど凄惨な姿になっているなど、誰が見ても信じられないだろう。
それでも。
来訪者に気づいたその黄金の瞳だけは、今なお強い意志を失わず、まっすぐ相手を見据えていた。
「ふふ、知ってる? お義兄さんが帰ってきたんだよ。でも、嫌いなお姉ちゃんがまた奪っていったの!」
「どうして……どうしてなの!?」
独り言のように話していたドロシーの声が、突然激しくなる。
表情が一変した。
次の瞬間、拳を振り抜いてディアドラの腹部を強打した。もともと吊り上げられていた身体が衝撃で大きく跳ね、後ろへ仰け反る。
ディアドラは血の混じった泡を吐き出した。
「でも、喜ばなくていいよ。私がお義兄さんを手に入れられないなら、あなたも手に入れられない!」
「お姉ちゃんを殺せないし、お義兄さんも手に入らないなら、毎日あの二人のことを考えて、あの二人の声を聞き続ければいいの! 自分は私のおもちゃとしてここで惨めに生き永らえて、大好きな光神に泣きながら懺悔してなさい!」
毒々しい言葉を吐きながら、ドロシーはさらに顔を近づけていった。ほとんど頬が触れ合うほどまで近づき、歪んだ凶悪な笑みを浮かべながら、太く長い針を取り上げる。
そして、それをディアドラの肩へ力任せに突き刺した。
骨まで貫くような激痛に、ディアドラが苦悶の声を漏らした。痛みに耐えきれず、吊られた身体が大きく弓なりに反る。
だが、すぐに力を失って垂れ下がり、もう一度顔を上げる力さえ残っていなかった。
「あら、大変。怪我しちゃったの? どうしてそんなに不注意なのかな?」
「でも心配しなくていいよ。優しいドロシー様がいるから!」
相手が限界に近いと見るや、ドロシーは驚いたような顔をして大げさな声を上げた。
ひどく慌てているような様子で、光騎士へ治癒の神術を施す。
だが、もう片方の手では銀色の長髪を掴み、力任せに後ろへ引いていた。 無理やり顔を上げさせ、その耳元へ囁く。
「名もなき神霊の神術って、本当に便利。ゆっくり少しずつ治してあげられるから、完全には治らないし、死ぬこともできない。強がってる光騎士様が、いつになったら私にお願いするのか、見せてもらおうかな……」
「……死なせてって!」
なおも揺るがない黄金の瞳をまっすぐ覗き込みながら、ドロシーは楽しそうに笑った。




