60.希望町
蒼藍帝国辺境、壊死の大地。
ここは近頃、五大国や冒険者たちの間で一躍有名になっていた。新たな迷宮城、荒野の資源、大量の魔獣や邪悪体、いまだ手つかずの開拓地。さらには、貴重な近古の秘宝を発見した者が逃亡し、指名手配された事件まで起きている。
富、名声、地位を求める者たちは、次々とこの地へ押し寄せていた。
現在、迷宮城そのものはまだ一般の冒険者に攻略が開放されていない。だが壊死の大地や死亡峡谷周辺の依頼だけでも、十分な稼ぎになる。
輪と足跡商会、遊騎兵ギルド、四正教をはじめ、各勢力もすでに人員を送り込み、次々と拠点を構えていた。
わずか数か月前までは誰にも見向きされない荒野だった場所が、今では数万人が暮らし、冒険に挑めるほどの大きな町へと姿を変えている。
外縁には蒼藍帝国でも名高い殲滅騎士団が駐留し、青地に剣と盾を描いた旗が一面にはためき、押し寄せてきた人々にさらなる安心と自信を与えていた。
大量の人口が流れ込めば、当然そこには莫大な商機が生まれる。新興の町は日に日に賑わいを増し、成長を続けた。そして女帝の命により、辺境の野営地は正式に帝国領として認められ、町へと昇格したのを機に希望町と名を改めた。
希望を求める者であれば、種族を問わず歓迎する――そんな町として。
かつてとは比べものにならないほど人で溢れる希望町。
その一角にある、双子教会の小さな独立礼拝堂の中。
清麗な光騎士は今日、象徴ともいえる重鎧を身につけてはいなかった。身体にぴたりと沿う行動着が、細身でありながら引き締まり、美しい曲線を描く身体を際立たせている。
ディアドラは、輪郭をあえて朧げに彫られた二柱一体の双神像の前に片膝をつき、組み合わせた両手へ額を押し当て、声もなく祈りを捧げていた。
「こうして早く元気になった姿を見られて嬉しいですよ、我が子よ。きっと光神も、あなたを慈しんでおられるのでしょう」
背後に立つギルバート司教が、安堵を滲ませて声をかけた。
その声を聞き、ディアドラは祈りを終えて立ち上がる。そして硬く冷ややかな表情のまま答えた。
「光神は無私であり、すべての生命を等しく扱われます。私はただ両手を伸ばし、神霊の救いを得る機会を自ら掴もうとしただけです」
そんな冷たい返答にも、ギルバートは気を悪くしなかった。
神官と光騎士は、もともと同じ光神信仰の中でも異なる一派だ。教義や認識に違いがあるのも珍しくない。闇神を奉じる一派と比べれば、むしろずっと話は通じやすかった。
「ギルバート司教。もう、ここを離れても構いませんか」
ディアドラが尋ねる。
数日前には地下室から出されていたものの、今もまだ教区の中でしか行動を許されていなかった。
老人はその願いを聞いてゆっくりと頷いた。ただし、その目は依然として光騎士をまっすぐ見つめている。
「もちろんです。教会は生命を縛るためにあるのではありません。ただ、できることなら少しだけ我慢して、蒼藍帝国の迷宮城攻略にはもう関わらないでいただきたい」
「分かりました。この間のご苦労とお世話に感謝します。私のために迷惑をかけた兄弟姉妹にも、よろしくお伝えください」
それだけ言うと、ディアドラは身を翻して立ち去った。相手に二言目を告げる機会すら与えない。
迷いのない、まっすぐ伸びた背中を見送りながら、司教はただ困ったように小さく息を吐いた。あまりにも多くの事情が秘められ、シロ大陸の勢力関係にまで関わっている。
語ることのできないこともあれば、語るべきではないこともある。
今はただ、光神がこの若き光騎士を守ってくださることを願うしかなかった。
教区を出る。
久しく浴びていなかった明るく温かな光に包まれた瞬間、ディアドラは身体も、心も、魂までもが洗い清められていくように感じた。
これまで胸の内に渦巻いていた苛立ち、怒りやすさ、血を求める衝動が、静かに遠ざかっていく。
まるで生まれ変わったかのようだった。
歩き続けたディアドラは、やがて大きな交差路で足を止めた。
その場から周囲を見渡し、自分が負傷し、そして拘束されていたわずかな期間に、驚くほど変貌した町を静かに観察する。
青空と白い雲の下。
土石と堅木を組み合わせて建てられた家々が、視界の果てまで並んでいる。道にはさまざまな種族が行き交い、あちこちから談笑の声が聞こえてきた。
収穫を得て、願いを叶えた者たちの顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいる。
生命の美しさと賑わいが、すぐ目の前にあった。
この平和で楽しげな光景を目にしたことで、ディアドラは自分の考えをさらに強く信じるようになった。
教会を尊重している。
司教も尊重している。
大司教も尊重している。
だが、それとは別に、彼女には分かっていることがあった。
神霊は万能ではない。だからこそ生命は、自らできる限りの力を尽くし、一つ一つの欠けたものを補っていかなければならない。
再び歩き出す。
ディアドラは考えながら、ゆっくりと町を歩いていった。
これからどう動くべきか。まだ十分に考える必要がある。
大司教から攻略作戦を離脱するよう求められている以上、皇家冒険団も双子教会の機嫌を損ねる危険を冒してまで、彼女を再び受け入れようとはしないだろう。
そのうえ迷宮城は蒼藍帝国によって封鎖され、独占されている。中へ入ること自体が、厄介な問題だった。
「あなたは……双子教会の光騎士、ディアドラさんですよね?」
考えている最中、背後から声がかかった。
ディアドラが振り返る。
そこにいたのは、三十歳前後に見える一人の女性だった。
身なりは小綺麗にまとまった、ごく標準的な冒険者の装い。そこそこ整った顔には、控えめで礼儀正しい笑みが浮かび、友好的な眼差しをこちらへ向けている。
「私はミユナ。老バダの弟子です。以前、あなたも先生には会ったことがありますよね。覚えていますか?」
女冒険者は親しげに言った。
「覚えている。だが、弟子がいるとは聞いていない」
ディアドラの冷たい目には、露骨なほどの警戒が浮かんでいた。突然話しかけてきた、この女冒険者をじっと観察する。
双子教会には嘘を見抜く神術がある。
だが、それは気軽に使ってよい力ではない。
濫用すれば、生命は光神から遠ざかっていく。それどころか、悪意ある者に利用されれば、より大きな災厄を引き起こしかねない。
それはすべて、過去の血塗られた歴史から得た教訓だった。
だからこそ、嘘を見抜く神術を修めることを許された信徒は、その使用規定を熟知し、厳格に守らなければならない。
必要がなければ使わない。
使用した場合も、各地の司教や責任者へ報告し、記録を残す。事故や争いを防ぐためだ。
たとえば、かつてあの丸顔の青年による正義告発が行われた際も、大勢が見守る中だったからこそ嘘を見抜く神術が使われた。
以前ヴィンセントに密かに神術を使った時も同様だ。皇家冒険団の責任者から、十分な理由を伴う正式な依頼を受けたからこそ実行した。
ディアドラ自身、それがグリフィスが自分を利用するための口実であることには気づいていたが、それでも正式な要請を受けた光騎士として真剣に向き合った。
そして、その結果として異常を見つけることができたのだ。
だからこそ、目的も分からない女冒険者の呼びかけに対して、ディアドラは慎重に様子を見るしかなかった。
どうやら歓迎されていないらしい。そう悟ったミユナは、老バダから言われたことを思い出し、やり方を変えた。
遠回しにせず、単刀直入に用件を告げる。
「実は先生はずっと、迷宮城と……ヴィンセントのことを気にしています。私も以前、第三陣の探索隊にいた一人です。あなたが迷宮城で襲撃された時の詳しい状況を知りたいんです。お話を聞かせてもらえませんか?」
ディアドラは眉をわずかに寄せた。聞き終えた瞬間には断ろうとしたが、言葉が喉元で止まる。
老バダという、名の知れた冒険者のことを思い出したからだ。
監視下に置かれていたヴィンセントが逃亡を企てた際、ただ一人、間に合う段階でそれに気づいた人物。
「老バダさんはどこに?」
会議で数度顔を合わせただけではある。それでも、ディアドラがこの老冒険者を敬うには十分だった。
相手の声が少し和らいだのを聞き、ミユナは内心で自分の判断が正しかったと快哉を叫んだ。任務を果たせたと知り、思わず笑みを浮かべる。
「先生なら遊騎兵ギルドの拠点にいます。今から行きますか?」
「構わない」
遊騎兵ギルドはシロ大陸全土に広がる中立組織だ。
冒険者や傭兵団の本拠ともいえる存在であり、高い信用を持っている。そこであれば、ディアドラも何か問題が起きることを心配する必要はなかった。
双子教会の前で何日も張り込み、ようやく待ち望んでいた光騎士を連れ出すことに成功したミユナは、ディアドラとともに遊騎兵ギルドの拠点へ向かった。
ほどなく、二人は目的地へ到着する。
前区画と奥区画に分かれた、二階建ての大きな建物だった。
一階の前区画へ足を踏み入れた途端、酒を飲み、騒ぎ、楽しむ声が耳へ飛び込んでくる。まだ昼間だというのに、人の出入りも絶えない。
ここは遊騎兵ギルドが冒険者や傭兵団に関する業務を扱う区域であるため、条件が許す拠点には酒場や食堂も併設され、彼らが休めるようになっていた。同時に、ギルドにとっても悪くない副収入となっている。
そのため四方から冒険者が集まり、身元の怪しい者まで混じっていることも珍しくない。
だが遊騎兵ギルドそのものが、長年協力関係にある大規模傭兵団によって守られている。
さらに、五大国から指名手配されたところで、せいぜい各国の領内で身動きが取れなくなる程度だ。だが遊騎兵ギルドや輪と足跡商会のような巨大中立組織まで敵に回せば、野外で生きていくことすら難しくなる。
それだけではない。
トラブルを未然に防ぐため、遊騎兵ギルドは冒険者や傭兵団を対象とした信用評価制度まで作り上げていた。依頼における評判を順位づけし、各地で発行する月報へ掲載する。
さらに特別な任務を成し遂げた者や、際立った活躍を見せた者は、半年に一度、シロ大陸全土に向けて発行される『大事件』に取り上げられることさえあった。
老バダもかつて、生体迷宮の関門攻略に協力したことで『大事件』に掲載されたことがあり、それによって各地の冒険者たちの間で名を知られるようになった。
信用評価やこうした報道は、冒険者や傭兵団が依頼を受け、報酬を交渉する際にも大きな助けとなる。大規模な傭兵団や勢力の中には、それを人材募集の参考にするところさえ少なくない。
だから、まともな冒険者であれば、ここで問題を起こして自分から厄介事を背負おうとはまず考えない。
危険人物と評価されれば、指名手配名簿に載せられたり、取引拒否対象者に指定されたりする可能性すらある。
そうなれば、本当に野盗や邪教のような組織以外には居場所がなくなってしまう。
二人の女性が中へ入ると、何人かの酒客が視線を向けてきた。
だが何事も起こらず、そのまま前区画の一階を抜け、階段を上る。
二階こそが、遊騎兵ギルドの正式な事務区域だった。
受付と応対担当だけで半分以上の場所を占め、その前を多くの人々が行き交っている。この新興地域で、依頼や仕事が非常に活発であることが一目で分かった。
ディアドラも希望町の遊騎兵ギルドを訪れるのは初めてだった。
迷宮城攻略に加わった後、負傷して戻り、その後は暴走したことで拘束された。その頃には、まだ遊騎兵ギルドは正式に進出していなかったのだ。
依頼掲示板の前を通りかかった時、光騎士は足を止め、かなり真剣に内容を確認し始めた。
並んでいるのは、輸送護衛、魔獣や邪悪体の討伐、そして黒泥の採集を長期的に補助する依頼が大半だった。
こうした情報は、現在の状況を把握したい彼女にとって非常に役に立つ。
黒泥は、壊死の大地にある沼地でのみ採れる特有の産物だ。
そうした泥濘地帯は、枯れ果てた土地と潤った平原が接する境界の各所に存在している。当初は注目されることもなく、むしろ輸送や移動を妨げる厄介な存在と見なされていた。
ところが輪と足跡商会がやって来て、この物質が強い粘着性と高い密度を持ち、建築、鍛冶、魔導製品など幅広い用途に利用できると発見したことで、状況は一変した。
一躍人気の資源となり、ついには蒼藍帝国まで動かして、兵を派遣して徴税と管理を始めるほどになった。
しかし黒泥の採集は簡単ではない。
沼地には原生の魔獣が棲息しているうえ、壊死の大地の上空には屍喰い鳥の群れが数多く飛び回り、地上の生命をいつ襲ってきてもおかしくない。
荒野の状況も刻一刻と変化し、いたるところで邪悪体が獲物を狙っている。
そのため、採集にも護衛にも常に大量の人手が必要だった。
迷宮城という冒険への扉を蒼藍帝国が固く閉ざしている今、黒泥関連の仕事はすでに最も人気の高い依頼となっていた。
毎日出入りする獣車の半数以上が何らかの形で黒泥に関わっており、商人、冒険者、傭兵団の中には、それだけを目当てに希望鎮へ来る者も少なくない。
希望町が正式な町へ昇格できたことにも、黒泥の発見は大きく貢献していた。
遊騎兵ギルドと輪と足跡商会は、またしても証明したのだ。
新興の町であれ未知の荒野であれ、最も早くその土地を理解するのは、いつだって自分たちなのだと。
掲示された依頼から必要な情報を拾い上げ、わずかな時間で自分が姿を消していた間の変化をおおよそ把握すると、ディアドラはようやく掲示板を離れ、ミユナの後を追った。
二階のもう半分は、一階とはまるで違う静かな休憩区域になっている。
ミユナはすぐに、隅の席に座っている老バダを見つけた。
老人は一人で、希望町で最近採れるようになった土地の風味茶を飲みながら、発行されたばかりの地域月報をのんびり読んでいる。
「先生、ディアドラさんを連れてきました」
ミユナは嬉しそうに彼の前へ行き、成果を誇るように告げた。何日もかけて、ようやく果たした任務なのだ。
老バダは地域月報を下ろした。
白くなり始めた眉を寄せ、まず光騎士へ軽く頷いて挨拶すると、次にミユナへ向き直る。
「お前を弟子にすると言った覚えはないぞ」
「先生、頼まれた仕事をちゃんと終わらせたじゃないですか! 今さらなかったことにするつもりじゃないでしょうね!」
ミユナが少し声を張り上げる。
そのせいで、受付前で用事を済ませていた何人かの冒険者がこちらへ視線を向けた。
実のところ、老バダは以前、彼女にまとわりつかれて少々うんざりし、自分が気にしていた悪魔襲撃事件について何気なく話しただけだった。
そして、そもそも達成できるかどうかも分からない仕事を一つ与え、彼女を追い払ったにすぎない。
迷宮城内で起きたその事件について、蒼藍帝国は認めず、ただ未知の怪物による襲撃だったと説明している。だが冒険者の間では、すでにかなりの噂になっていた。
一方のミユナは、この名の知れた老冒険者が惜しまず人に教える人物だと知ってからというもの、体裁など気にせず、積極的に彼から何かを学ぼうとしていた。
彼女自身、自分が特別優れた人間ではないことを理解している。かつてのヴィンセントにすら及ばない。
だが老バダにも、生まれ持った天賦はない。それでも『大事件』に載るほど名の知れた冒険者になった。ならば、必ず学ぶべきものがあるはずだと考えていた。
ミユナはもう三十歳近い。
それでも、いまだ誰にも知られていない一介の冒険者にすぎなかった。依頼をこなすことにも、少しずつ力の限界を感じ始めている。
いつの日か、自分が失敗報告の一文に名を残すだけで、誰にも知られず死んでいく。
そんな終わり方だけはしたくなかった。
周囲からちらちらと向けられる視線に、老バダは少し困った顔をした。仕方なく手を振り、自称弟子にしばらく向こうへ行くよう示す。
先生がそれ以上否定しなかったのを見て、ミユナも空気を読み、素直に口を閉じた。近くの別の卓へ移り、自分にも同じ風味茶を一杯注文する。
長い張り込みの苦労を、自分で労うために。
「ディアドラさん、どうぞ座ってくれ。見苦しいところを見せてすまなかったな」
老バダの態度は非常に丁寧だった。その声には気怠ささえあり、力が抜けている。
迷宮城や会議の場で見せていた、強気で抜け目のない姿などまるで感じさせない。どこにでもいる老人のようだった。
だが、ディアドラはそんなことには興味がない。
冷たい顔のまま、そのまま席につく。
「あなたは迷宮城とヴィンセントを調べているの?」




