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私の夫

作者: 小雨川蛙
掲載日:2026/04/12

 

 私の今わの際。

 夫が笑った。

 今、一番泣いていてほしかったのに。


「愛していたよ。今までずっと」


 そう言って。



 *


 私は。

 記憶を辿れば実に不幸な生い立ちだった。

 何せ、生まれた日に私の母国が堕ちたのだから。


 父の記憶はない。

 だけど、唯一残った従者から一言だけ聞いた。


「偉大な方でした」


 事実、そうだったのだろう。

 私と母が逃げる時間を命がけで作ったのだから。


 母の記憶もない。

 だけど、それで良いのだと思う。


「とても美しい方でした」


 語る度に従者の目から涙が落ちていたから。

 逃げる時。

 母が囮になったと聞いた。

 その先は考えたくない。


 そして、唯一の従者は私が四歳の時に追手に見つかり目の前で殺された。


「お逃げください。ここではないどこかへ」


 その言葉を果たすため、私はどこかへ向かい走り続けた。

 逃げる先を森にしたのは単純に最も人の目が届かないと思ったからだ。

 ――けれど。


「おや。こんなところに人とは珍しい」


 後に夫となる青年と私は出会った。


「その紋章。貴族の方ですか。どうやら訳ありのようですね」


 青年はそう言って私の体を抱き上げると最早意味さえ通じないほどに古い魔法の言葉を唱えて追手から私を守った。


「この森だ。逃げたとて生きてはいられない」

「狼に襲われて野垂れ死にをするだろう」

「いや。耳長の一族に食われてしまうに決まっている」


 追手の言葉を聞きながら、私は青年の耳がひどく長いのに気づいた。

 胸の中で怯えていると青年はくすりと笑った。


「迷信ですよ」


 青年の家はこの森のさらに奥深くだった。

 従者の言っていた、ここではないどこかという言葉が相応しいと思うほどに青年の住まう家は人の住む場所とは違っていた。


「今しばらくの辛抱です。人は十年も経てば記憶のほとんどを忘れます。そして十年も経てば姿形が大きく変わります。特にあなたのようなお嬢さんなら」

「なら、十年はここに居てもいいの?」


 私の問に青年は答えた。


「もちろんです。見捨てる理由はありませんから」



 *



 私は。

 振り返れば実に幸福な一生を生きたと思う。


 平和な世界で十年を生きた。

 体は大きくなり心もまた成長をしていた。

 自分を守り、慈しみ、育ててくれた青年への恋心を自覚することが出来るほどに。


「もう十年です。この場所を出るのが良いでしょう」

「ここに残ってはいけないのですか」

「いけないと言うわけではありませんが……」


 青年は口を濁す。

 はっきりとしない彼に対し、私は直截に伝える。


「あなたを愛してはいけませんか」


 青年は俯き、しばらく沈黙する。

 幾度か、口を開きかけ、再び口を閉じる。

 私は辛抱強く待った。

 この場所には時間だけはあるから。

 やがて、彼は言った。


「こちらへ来てください」


 ついて歩いた先にはお墓が五つ。

 彼の家の隣にあるから私もこの場所をよく知っていたし手入れも毎日のようにしていた。

 だけど、誰が眠っているかまでは知らない。


「妻です。千年以上を生きる間、僕には五人の妻がいました」

「五人の奥さんが?」

「はい。皆、僕を愛してくれました。僕もまた皆を愛しました――皆、人間だったからもう死んでしまいましたが」


 そう言って彼は寂しそうに笑う。


「皆、僕を置いていきました。僕にはそれが耐えられませんでした。何度も死のうと考えてしまうほどに。まぁ、結局死ぬことは出来ませんでしたが」


 風が木の葉を揺らした。

 いつもと同じ音だ。

 普段なら気にも留めないのに。


「あなたは僕の六人目の妻になる覚悟はありますか」


 言葉の意味を私は上手く理解出来なかった。

 若い私には仕方ないことだったかもしれない。



 *



 振り返れば静謐な一生だった。

 朝、起きれば夫が居て、昼を共に過ごすのも夫と二人で、夜に共に寝るのも夫と二人だ。

 その繰り返しだった。


 その変わらないものが幸せだった。

 ただ、唯一の不満点は。


「また泣いている」


 私はこの言葉を生涯で何度言っただろうか?


「ごめん。本当にごめん」


 夫は何度謝っていただろうか。


「結婚するまで知らなかったけど、あなた本当に泣き虫ね」


 彼の涙を吹くためのハンカチは一体何枚あっただろう。

 どれだけボロボロとなっても私が捨てようとすると夫はいつだってそれを大切にしまう。


「そんなぼろきれ、もう捨てましょうよ」

「いや。これもまた思い出だから」

「思い出なんて。呆れちゃうわ」


 こんなやり取りを何度続けただろうか。


「前の五人の奥さんはあなたに呆れなかったの?」

「人間は皆、同じこと言うよね」


 そう言って彼は笑い、少し沈黙をした後に答えた。


「皆、呆れていたよ。君と同じように」


 その言葉と共に、ほら、また涙が落ちた。

 私はため息をつきながらその雫を拭う。


「あなたって本当に泣き虫なのね」

「ごめんね。どうしても涙が止まらなくって」

「こんな人なんて思いもしなかったわ」

「あはは。その言葉も皆がよく言っていたよ――」

「あー! もう! また涙をこぼして!」


 繰り返しだった。

 本当にこれの繰り返し。

 静かで、穏やかで、何もない日々の繰り返し。


「いつの間にか、あなたの顔。泣き顔の印象ばかりついちゃったわよ」


 何度ぼやいたかも分からない言葉。

 その言葉を聞いて夫はまた言う。


「その言葉も――」



 *



 私は六十年を生きた。

 その内の五十六年を夫と過ごした。


 幸せな一生だったと心から宣言できる。

 胸を張って、何度だって。


 だけど。


 私の今わの際。

 夫が笑った。

 今、一番泣いていてほしかったのに。

 あんなにいつも泣いていたのに。


「愛していたよ。今までずっと」


 そう言って。

 すっかりお婆さんになった私の唇に自らのものを重ねる。


 そのくせに泣かないんだ。


 皮肉の一つも言ってあげたいけれど、そんな元気ももうないや。

 だから、じっと見つめている。

 すると、夫は唇を離してしわくちゃになった私の手を優しく包みながら告げる。


「愛しているよ。これからも永遠に」


 夫が笑った。

 目に涙を必死に堪えながら。

 それでも、いつもみたいに泣いたりをせず。

 精いっぱいの笑顔を作って。


 そして、今になり。

 私はようやく悟った。


 夫がずっと泣いていた理由を。

 そして、今、この瞬間に笑っている理由を。


 だって。

 夫の笑顔を見ている私の心はこんなにも穏やかだもの。


「長命種も大変ね」


 夫は笑う。

 泣き笑いだ。


「皆、同じことを言うよ」


 その言葉を受け取り、私は目を閉じる。

 自然と閉まったのかもしれない。


 長い長い命を生きる。

 だからこそ、必ず訪れる別れに苦しむ。

 ――それでも、最後には最愛の人に幸せで逝ってほしい。

 そんなことを考えて、どうにか。

 本当にどうにか、この瞬間だけ笑顔を作ろうとしていたのだろう。

 きっと、今までの奥さん全員にも。


 最期の息を吸い。

 最期の言葉を吐き出す。


「次の奥さんには。笑顔をずっと見せてあげてね」

「……善処するよ」


 きっと、歴代の奥さん全員が聞いたであろう言葉を聞きながら。

 私は静かに生涯を終えた。

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