45話:本物の笑顔
——前世で、似た笑顔を見たことがある。
研究室に入ってきた後輩の高橋。
真面目で、要領が悪くて、でも誰より努力する奴だった。
最初は目が輝いていた。
新しいことを学ぶのが楽しい、と言っていた。
半年で、その目から光が消えた。
残業が常態化した。休日出勤が当たり前になった。
上司からの要求は増え続け、締め切りは短くなり続けた。
「大丈夫です」
高橋は笑っていた。
疲れ切った顔で、目の下に隈を作りながら、それでも笑っていた。
——王女と同じ笑顔だった。
俺は気づいていた。
あいつが限界だってことくらい、見れば分かった。
でも、声をかけなかった。
自分の仕事で手一杯だった。
余計なことに首を突っ込む余裕がなかった。
何より——俺が関わったところで、何が変わる?
そう思った。
高橋は潰れた。
ある朝、来なくなった。
自宅で倒れているところを発見された、と聞いた。
過労だった。
俺は何も言えなかった。
「仕方なかった」と自分に言い聞かせた。
——仕方ない。
この街で何度も聞いた言葉だ。
***
王女の背中が、路地の向こうに消えていく。
俺はまだ広場に立っていた。
あの笑顔。
完璧で、明るくて、誰も傷つけない笑顔。
でも目だけが死んでいる。
限界なのに、笑うしかない人間の顔だ。
前世で見た。
後輩で見た。
——俺自身の顔でもあった。
「仕方ない」で済ませて、見て見ぬふりをした。
結果、後輩は潰れた。俺は死んだ。
今度は——
「……今度は、見て見ぬふりはしない」
声に出していた。
誰に言うでもない。
自分に言い聞かせるように。
この国がおかしいのは分かった。
王女が無理をしているのも分かった。
民が「仕方ない」で諦めているのも。
全部、知っている空気だ。
だから——助けたい。
理由なんて、それだけでいい。
***
宿屋に戻った。
部屋で一人、考えを整理する。
王女に渡した液。
あれを使えば、透明インクで書いた手紙を読める。
つまり——密書を送れる。
問題は、どうやって王女に手紙を届けるか。
護衛の目をかいくぐって、王女だけに渡す方法。
「……芸の最中に紛れ込ませるか」
次に王女が来た時、透明インクで書いた紙を渡す。
表向きは「魔法の紙」として。
王女が一人になった時に液をかければ、本当のメッセージが現れる。
内容は——
『あなたを助けたい。話がしたい』
いや、これだと怪しまれるか。
もっと慎重に行くべきか。
「……サリに相談するか」
諜報のプロの意見を聞いた方がいい。
俺は宿を出て、サリとの合流地点に向かった。
***
宿屋の裏手。サリはすでに待っていた。
「王女と接触したい」
単刀直入に切り出した。
サリは少し目を見開いたが、すぐに頷いた。
「王女は定期的に孤児院を訪問しています。三日に一度、昼過ぎに」
「孤児院か」
「子供たちに本を読んだり、食事を配ったり。民の間では『慈悲深い王女様』と評判です」
——やっぱりそういうタイプか。
自分が辛くても、誰かのために動かずにいられない。
「次はいつだ?」
「明後日です」
「そこで接触する。芸人として孤児院を訪問したいと申し出れば、自然に入れるな」
「はい。孤児院の院長は王女の訪問を歓迎しています。芸人が子供たちを楽しませたいと言えば、断る理由はないかと」
よし。場所は決まった。
問題は——どうやって王女の心に入り込むか。
「サリ。もう一つ頼みがある」
「何でしょう」
「王女の部屋のバルコニーに忍び込むルートを調べてくれ」
サリの目が鋭くなった。
「……密会ですか」
「ああ。王女と二人で話す時間がいる。孤児院じゃ人目がある」
「分かりました。城の警備パターンを調べます」
サリは淡々と頷いた。
「ただ、殿下一人で侵入するのは危険です。私が案内します」
「頼む」
***
二日後。孤児院。
子供たちの前で芸を披露した。
火蜥蜴の息吹に歓声が上がり、銀鏡の術に目を輝かせる。
王女も来ていた。
子供たちと一緒に座って、笑顔で拍手を送っている。
——あの笑顔だ。
完璧で、明るくて、目だけが笑っていない。
芸が一通り終わった後、俺は王女に近づいた。
「王女様。先日はありがとうございました」
「魔法使いさん。孤児院にも来てくれたのね」
「子供たちに喜んでもらえるなら」
俺は懐から白い紙を取り出した。
「王女様に、特別なものをお渡ししたくて」
「特別なもの?」
「はい。この紙に——」
俺は声を落とした。
「一人になった時、先日お渡しした液をかけてみてください」
王女の目が少し揺れた。
「……何が書いてあるの?」
俺は王女の目を見た。
「——笑わなくていい時間の、作り方です」
王女の表情が固まった。
ほんの一瞬。
すぐに笑顔に戻ったが、その一瞬で十分だった。
「……ありがとう、魔法使いさん」
王女は紙を受け取った。
その手が、微かに震えていた。
***
夜。
サリの案内で、城の裏手に回った。
「こちらです。見回りが通り過ぎた後、三分の隙間があります」
「分かった」
「あの蔦を伝えばバルコニーに届きます。私はここで待機します」
サリが指差す先に、壁を覆う蔦があった。
俺は頷いて、壁に取りついた。
——運動は苦手なんだけどな。
必死で蔦を掴み、足をかけ、少しずつ登る。
息が切れる。腕が痛い。
なんとかバルコニーの縁に手をかけた時、声が聞こえた。
「……本当に来た」
見上げると、王女が欄干から俺を見下ろしていた。
月明かりの下、白い寝間着姿。
金色の髪が風に揺れている。
——綺麗だ、とか思ってる場合じゃない。
「手、貸してもらえると……助かる」
情けない声が出た。
王女は少し驚いた顔をして、それから——笑った。
今度は、ほんの少しだけ本物の笑顔に見えた。
***
バルコニーに上がり、息を整える。
王女は少し離れた場所に立っていた。
警戒している。当然だ。
得体の知れない旅芸人が、夜中にバルコニーに忍び込んできたんだから。
「……あなた、何者なの」
「旅の魔法使い、ということにしておいてくれ」
「そんなわけないでしょう」
王女の声は低かった。
「本当にただの芸人なら、あんなことは書かない」
——あんなこと。
密書の内容を読んだのだ。
『今夜、バルコニーへ。
笑うのを止めても、誰も怒らない場所を作る』
「何が目的? 私を利用したいの?」
「……利用、か」
否定はしない。
実際、俺の目的はエンヴァの情報を得ることだ。
王女を味方につけたい。それは本当だ。
でも——それだけじゃない。
「目的はある。嘘はつかない」
俺は王女を見た。
「でも、今日ここに来た理由は別だ」
「別?」
「あんたの笑顔を見て、昔を思い出した」
王女の目が揺れた。
「……何を」
「同じ笑顔をしてた奴がいた。限界なのに『大丈夫です』って笑って、一人で全部抱え込んで——」
俺は息を吸った。
「俺は気づいてたのに、何もしなかった。そいつは死んだ」
王女が息を呑んだ。
「あんたを見てると、昔のそいつを見てるみたいだ。だから——」
言葉を選ぶ。
「助けたいと思った。それだけだ」
沈黙が落ちた。
月明かりの中、王女は動かなかった。
「……嘘よ」
「嘘じゃない」
「だって、そんな——」
王女の声が震えた。
「そんなこと、言われたこと、ない……」
「だろうな」
俺は一歩、近づいた。
「あんたの周りは、あんたの笑顔が必要な奴らばっかりだ。だから誰も言わない。『辛いなら泣いていい』って」
王女が目を伏せた。
「あんたが泣いたら、この国の民が絶望するから。あんただけが希望だから。だから笑ってなきゃいけない。——そうだろ?」
返事はなかった。
でも、王女の肩が震えていた。
「……誰にも、言えなかった」
小さな声だった。
「お父様は私の話を聞いてくれない。側近は皆、お父様の味方。民の前では笑っていなきゃいけない。だって私が泣いたら——」
「民が絶望する」
「……うん」
王女の声は、もう笑っていなかった。
「ずっと一人だった。誰にも本当のことを言えなかった。辛いって言ったら、皆困るから。私がしっかりしなきゃって——」
「しっかりしすぎだ」
俺は王女の前に立った。
「一人で抱え込むな。潰れるぞ」
「でも——」
「俺がいる」
王女が顔を上げた。
涙が頬を伝っていた。
——泣いてる。
この子、ずっと泣きたかったんだ。
でも泣ける場所がなかった。
「……あなたは、何者なの」
「さっき言った。旅の魔法使いだ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないところもある」
俺は——少し迷って、それから言った。
「この国を変えたいと思ってる。あんたの父親がやってることを止めたい。そのために——あんたの力が必要だ」
王女の涙が止まった。
「……お父様を、止める?」
「ああ」
「あなた、何を知ってるの」
「この国がおかしいってことは分かってる。民が『仕方ない』で諦めてること。誰も逃げようとしないこと。そして——あんたの父親が、何かとんでもないことに手を出してること」
王女の顔が強張った。
「……知ってるのね」
「全部は知らない。だから教えてくれ」
俺は王女の目を見た。
「一人で抱え込むな。俺は——あんたの味方だ」
長い沈黙があった。
風が吹いた。王女の髪が揺れる。
やがて、王女は口を開いた。
「……お父様は、魔王軍と手を組んでいるの」
——やっぱりか。
「見返りは何だ」
「この国の安全。魔物に襲われない保証。その代わりに——」
王女の声が震えた。
「民を、差し出してる」
背筋が冷えた。
「差し出す?」
「毎月、何人かが消える。『魔物に襲われた』ことになって。でも本当は——」
王女は目を閉じた。
「魔王軍に、渡してるの」
俺は言葉を失った。
「私、ずっと知ってた。でも何もできなかった。お父様に逆らったら、もっと酷いことになるって分かってたから——」
「あんたのせいじゃない」
「でも——」
「あんたは一人で戦ってた。笑顔で民を支えて、父親の暴走を少しでも止めようとしてた。違うか?」
王女は答えなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
「これからは一人じゃない」
俺は手を差し出した。
「俺と一緒に、この国を変えよう」
王女は俺の手を見つめていた。
長い時間、そうしていた。
そして——
「……あなたの名前、教えて」
「アレン」
「アレン……」
王女は俺の手を取った。
その手は、まだ少し震えていた。でも、握り返す力は強かった。
「私はセレナ。セレナ・フォン・エンヴァ」
月明かりの下、王女——セレナは、初めて本物の笑顔を見せた。
涙の跡が残る、不格好な笑顔。
でも——さっきまでの完璧な笑顔より、ずっと綺麗だった。
「……よろしく、アレン」
「ああ。よろしく、セレナ」
——今度こそ、見て見ぬふりはしない。
俺は心の中で、そう誓った。
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