43話:幕間 仮面の下
エンヴァ王城、東塔。
王は階段を上っていた。
息が切れる。最近、体が重い。美食と酒のせいだろう。だが、それがどうした。王たる者、贅沢は当然の権利だ。
最上階に辿り着いた。
扉を開けると、月明かりが差し込む部屋があった。
窓際に、影が立っている。
「——来たか」
低い声。人間のものとは思えない響き。
「は、はい。定例の報告に参りました」
王は頭を下げた。
影が振り返る。
月光に照らされた輪郭。人間に似ているが、額から二本の角が生えている。
魔王軍幹部——探究。
王は背筋に冷たいものが走るのを感じた。何度会っても、この存在には慣れない。
「報告を」
「は、はい。この50日間では——十五人、お渡しいたしました」
探究は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
「全て健康な者を選んでおります。逃亡を図った者を優先的に——」
「ああ」
探究は頷いた。それだけだった。
王は続けた。
「それから、ご指示いただいた件ですが——税率を上げ、労役も増やしました。民は疲弊しておりますが、暴動の気配はありません」
「そうか」
「娘のセレナも、街に出て笑顔を振りまいております。おかげで民の不満は——」
「私が興味を持っているのは、そこではない」
探究が振り返った。
「追い詰められた人間が、それでも逃げないのはなぜか。希望を与えられると、なぜ現状を受け入れるのか」
王は意味が分からなかった。だが、分かる必要もなかった。
「引き続き、ご期待に沿えるよう——」
「シンラから使者が来ているな」
「は、はい。同盟を持ちかけてきております。当然、断りましたが——」
「好きにしろ」
探究は興味なさそうに言った。
「お前たちの政治には興味がない」
「は、はあ……」
「経過は順調だ。続けろ」
「はい。ありがとうございます」
王は深々と頭を下げた。
探究が窓の外に視線を戻す。それが「下がれ」の合図だと、王は学んでいた。
部屋を出て、扉を閉める。
深く息を吐いた。
心臓がまだ早鐘を打っている。あの存在の前にいると、自分がどうしようもなく小さく感じる。
だが——悪い取引ではない。
階段を下りながら、王は考えた。
あの魔人が現れたのは、数年ほど前のことだ。
最初は恐怖した。魔王軍の幹部が、なぜエンヴァに。攻め込まれるのかと思った。
だが、違った。
『取引をしよう』
そう言われた。
毎月、民を差し出せ。逃亡者は処分しろ。税を上げ、労役を増やせ。民を追い詰めろ。ただし、希望は残せ。娘を使って、希望を与え続けろ。
——それだけでいい。
その代わり、この国には手を出さない。王家の安全は保証する。
王は二つ返事で頷いた。
民を差し出すことに、躊躇いはなかった。所詮、平民だ。減ったら増やせばいい。子を産ませればいくらでも補充できる。
税を上げることにも、抵抗はなかった。贅沢をするには金がいる。民から搾り取るのは当然だ。
逃亡者の処分も、簡単だった。「魔物に襲われた」と言えばいい。見せしめにもなる。最近では、逃げようとする者も減った。
そして——希望を残す。
これが、最も上手くいっている部分だった。
セレナの笑顔。あれを見せておけば、民は従順になる。
「王女様がいらっしゃる」「王女様が気にかけてくださる」——そう思わせておけば、誰も反乱など起こさない。
疲弊しても、搾取されても、「仕方ない」と思わせることができる。
絶望させすぎると暴動が起きる。だが、わずかな希望を与えておけば、人間は現状を受け入れる。
あの魔人は、それを知っていた。だから娘を使えと言った。
道具は、使い方次第だ。
王は満足げに頷いた。
民が何人死のうが、知ったことではない。王家が続けばいい。自分が贅沢できればいい。
それだけだ。
王は鼻を鳴らして、自室へと向かった。
今夜届いた上等な酒を開けよう。民の税で買った、極上の一本を。
***
セレナは部屋に戻ると、扉を閉めた。
鍵をかける。
そして——
「……っ」
壁に手をついた。
膝が震えている。今日も、笑った。ずっと笑い続けた。
窓の外では、まだ民の声が聞こえる。「王女様」「セレナ様」と呼ぶ声。
今日は街に出た。いつものように。
笑顔を振りまいて、手を振って、「皆さん、元気?」と声をかけて。
民は喜んでくれた。疲れた顔に、少しだけ光が戻った。
——それが、余計に辛い。
セレナは鏡の前に立った。
笑顔を作る。いつもの、完璧な笑顔。
口角を上げて、目を細めて、優しそうに。
「……っ」
顔が、崩れた。
作れない。一人になると、もう作れない。
セレナは床に座り込んだ。
——思い出すのは、あの夜のことだ。
一年ほど前。父に呼び出されて、東塔に連れて行かれた。
最上階の部屋に、それはいた。
角を持つ影。人の形をしているのに、人ではないもの。
『お前が娘か』
声を聞いた瞬間、体が凍った。逃げたかった。叫びたかった。でも、声が出なかった。
『いい顔だ。使える』
影が近づいてきた。
『お前は希望だ。民の前で笑え。絶望させるな。希望を与え続けろ』
意味が分からなかった。
『さあ、笑ってみろ』
足が震えた。涙が出そうだった。
でも——笑った。
口角を上げて、目を細めて。震える体を押さえつけて、笑顔を作った。
『ああ、それでいい』
影は満足そうに頷いた。
『続けろ。私が飽きるまで』
それから、セレナは毎日笑っている。
民の前で、侍女の前で、父の前で。
逃げられないと分かっていた。
この国から出ようとした者がどうなるか、知っていた。「魔物に襲われた」——そう言われて消えていった人たちのことを。
だから、笑った。
笑い続けた。
笑う以外に、何もできなかった。
「……ごめんなさい」
誰にともなく、呟いた。
私の笑顔は、あなたたちを縛る鎖だ。
私が笑うから、あなたたちは「まだ大丈夫」だと思ってしまう。
私が希望を見せるから、あなたたちは逃げる気力をなくしてしまう。
私は——あなたたちの敵だ。
分かっている。分かっているのに、やめられない。
やめたら、どうなるか分からない。
あの影が、何をするか分からない。
涙が、頬を伝った。
声は出さない。泣き声を聞かれたら、侍女が心配する。心配されたら、また笑わなければならない。
だから、声を殺して泣いた。
最後に本当に笑ったのは、いつだったろう。
思い出せない。
きっと、もう何年も前だ。
幼い頃は、笑えていた気がする。母が生きていた頃は。
でも今は、笑い方を忘れてしまった。
顔の筋肉を動かすことはできる。笑顔の形を作ることはできる。
でも、それは笑顔じゃない。
ただの——仮面だ。
セレナは涙を拭いて、立ち上がった。
鏡の前に戻る。
笑顔を作る。今度は、ちゃんと作れた。
完璧な、偽りの笑顔。
明日も、街に出よう。
笑顔を振りまこう。
それが、私の役目だから。
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