偽りのない月夜
屋敷の周囲に、地上のものとは思えぬ清浄な調べが響き渡りました。
それは美しくも残酷な、記憶を奪う忘却の旋律。空を覆う雲が割れ、満月の中から光り輝く飛車(空飛ぶ車)が、天女たちを伴って降りてきます。
阿倍は、炎で焦げ付いた太刀を杖代わりに立ち尽くし、その光景を仰ぎ見ました。
「来たか……月の迎えが」
姫の傍らにいた阿倍が呟くと、天女の一人が一着の羽衣を掲げ、冷徹な声で告げました。
「かぐや姫よ。穢れた地上の縁を捨て、この羽衣を着て帰りなさい。そうすれば、この地での浅ましい記憶も、悲しみも、すべて消え失せます」
記憶との決別
輝夜姫は、震える手で羽衣を見つめました。
これを着れば、自分を逃がすために首を撥ねられた小萩のことも、自分を騙し、最後には命懸けで守ってくれたこの不器用な男・阿倍御主人のことも、すべて忘れてしまう。
「……阿倍様。一つだけ、謝らせてください」
姫は阿倍の方を向き、静かに微笑みました。その瞳には、かつて彼を翻弄した冷たい輝きではなく、一人の人間としての温かな涙が溜まっていました。
「貴方に求めた『火鼠の皮衣』。あれは……貴方の情熱が、何よりも熱いと知っていたから。その熱で、私を連れ去りに来る月の冷気を、焼き払ってほしかったのかもしれません」
「……今更、遅すぎる。私は結局、偽物しか掴めなかった男だ」
阿倍は自嘲気味に笑い、鼻を鳴らしました。
だが、その目は真っ直ぐに姫を見つめています。
「だがな、姫。お前がこの男に『本物』を見せてくれた。……感謝する」
永遠の孤独へ
姫は頷き、天女が差し出した羽衣を肩にかけました。
その瞬間、姫の瞳から感情が消えていきます。小萩の死体を見ても、阿倍の傷ついた姿を見ても、何も感じない「月の住人」へと戻っていくのです。
光に包まれ、宙に浮き上がる姫。
その手から、小さな小瓶がこぼれ落ちました。それは「不死の薬」。
「阿倍様、それはお持ちください。私はもう……何も覚えてはいられませんが……」
昇っていく飛車の中で、姫の意識が遠のいていきます。
地上を見下ろすと、燃える屋敷の中で一人、こちらを見上げている男の姿がありました。
「さらばだ、かぐや姫」
阿倍の声は、もう届きません。
ただ、夜空へ消えていく光の筋だけが、かつてそこに一人の愛された女性がいたことを証明していました。




